【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ 作:風海草一郎
時間の流れというものは均一なようでいて、その間隔はひどく曖昧である。
特に、目の前に苦しむクラスメイトがいようと、自分に手助け出来る事など何一つ無いこの状況では。
時計を見ても、先程確認した時から五分も進んでいなかった。こんな事をかれこれ述懐近く繰り返している。
遠野邸に帰って来た三人の惨状を見た秋葉は、目を離した隙に深手を負ってきた兄と尋常ではない高熱に苦しむさつきをみて吃驚した。翡翠は口元に手を当て、琥珀は真剣な表情でさつきの具合を診ていた。
現在、琥珀とシオンはさつき治療にかかりきり。役に立たない志貴と秋葉、翡翠の三人はロビーで待機していた。
志貴は意味も無く、テーブルの周りをうろついては、思い出したように立ち止まると沈痛な面持ちで、さつきが寝かされている一室の方向へ視線を向ける。
その姿は親鳥とはぐれた雛のようでひどく忙しなくて頼りない。
「兄さん、少し落ち着いたらいかがです?」
普段なら琥珀さんが淹れる紅茶を、自分で用意した秋葉はこんな状況でも優雅に紅茶を飲んでいた。ハーブティーの清涼な香りを堪能し、すっきりと優しく目が冴える。
あまりにも平常な秋葉に、さすがの志貴も抗議する。
「落ち着くって秋葉、お前な。弓塚さんがこんな状況だっていうのに、落ち着いてなんかいられるわけないだろう。お前も少しは心配してやったらどうだ」
「あら、兄さんのようにテーブルの周りをうろついて、渋い顔をしていたら弓塚さんは元気になるのかしら」
「むっ……」
悔しいが反論出来ない。所詮、医学知識の無い今の自分に何も出来ないのは事実だった。この無意味な徘徊も、彼女を心配しているというパフォーマンスなのではないか、と志貴はやや自己嫌悪に陥った。
「秋葉様、志貴様は……」
「お黙りなさい翡翠。兄さんのしている事は全くの無駄よ。こういう時こそしっかりと休息を取って、いざという時に備えておくのが当主というものよ」
遠慮がちな翡翠の言も、秋葉はピシャリとねじ伏せた。
「それに兄さん。琥珀は薬学だけでなく医学の心得もありますし、魔についても多少の知識はあります。そこにシオンが加われば、今できる中では最高の治療が施せるはずです」
「分かったよ……。ここは二人に任せた方がよさそうだな」
志貴は不承不承と言った具合に椅子に座った。たまには自分で紅茶を淹れようと、茶葉に手を伸ばしかけた瞬間、部屋の扉がギイと音を立てた。全員の視線が入口に集中する。
出てきたのは全身汗だくになったシオンと琥珀だった。その疲弊ぶりから、二人がどれだけ奮闘してくれたのが伝わって来るようだった。腕まくりをした琥珀は努めて明るい調子で告げた。
「志貴さん、どうにか峠は超えましたのでご安心を。今は鎮静剤で眠っていますが、明日になれば目を覚ますでしょう」
「本当かい琥珀さん!? ありがとう、本当にありがとう!!」
志貴は勢いよく席を立つと、琥珀の朗報に歓喜した。
「お礼ならシオンさんに言ってくださいな。彼女のえーてらいと? には私も驚かされっぱなしです。あそこまで重篤な方を、死の淵から蘇生させるなんて」
「吸血鬼は吸血鬼を知るという事です。私も人間の医学はもちろん、自分と同族の身体の事ですから、ある程度は」
シオンはそれだけ言うと、どっかりと適当な椅子に腰かけ、天井を仰ぎながら重い息を吐いた。今にも倒れそうなほど疲労困憊しているようだった。琥珀も同様に疲れているはずなのに「ただいま紅茶をお持ちしますねー」と厨房へ姿を消した。
肩で息をするシオンに志貴は労いの言葉をかける。
「お疲れ様シオン。弓塚さんはもう大丈夫なのか?」
「未だに予断は許さない状況ではありますが、ひとまずは大丈夫です。後はしばらく安静にしていれば体調も回復するでしょう」
それを聞いて安心したのか、志貴は肩の力を抜くとシオンに笑いかける。シオンもそんな志貴にぎこちない笑みを返し、しばらく和やかな空気が流れた。
その後、シオンも琥珀に入れてもらった紅茶を口にし、しばしの休息をとる。シオンの体力がいくらか回復したのを見計らって、志貴は疑問を口にする。
「お疲れのところ悪いんだがシオン……。これから俺達はどう動けばいいんだ?」
「どう動く、とは?」
シオンは片眉を上げて、逆に聞き返した。
「どうも何も、ワラキアの夜ってやつがこの三咲町に出てくるんだろう? だったらその対抗手段を考えなければならないだろう。シオンはその正体を知っているんだから、何か作戦でも立てられるんじゃないかって思ってさ」
「ああ、その事ですか」
質問の意図を察したシオンは、志貴を見つめ、一瞬口を開きかけるが閉じて――。躊躇いがちに再び口を開いた。
「その件ですが――。私たちはここで降ろさせていただきます」
「はあ!?」
予想だにしなかった突然のリタイア宣言に志貴は驚愕し、見れば秋葉も同様に目を丸くしている。
ここで降りる?
むしろこれからが本番だというこの時に?
一体、何のために?
隠している何かが関係しているのか?
志貴の脳内を様々な疑問と憶測が混線し、絡み合って情報の処理を放棄する。あわてふためく志貴に、シオンは心苦しそうに言葉を発した。
「志貴、私は確かにワラキアの夜についての知識は有していますが、ヤツの事は私はどうでもいいのです。私たちの目的はあくまで吸血鬼化の治療のため。わざわざ強力な死徒と戦うメリットなどどこにもありません」
「そりゃそうだけど……! 弓塚さんはあんな状態だし、シオンの言い方じゃワラキアの夜はもうすぐ出現するんだろう!? それなら君たちだって巻き込まれる。それなら全員で協力してワラキアをどうにかした方がいいだろう!?」
もっともな志貴の意見だったが、シオンは無言で首を横に振って却下する。
志貴は三咲町の住人であるがゆえに見落としている。
ワラキアの固有結界は確かに最低最悪の固有結界ではあるが、その範囲はせいぜいが地方都市である三咲町一体をすっぽり包み込む程度。ならば、ワラキアの夜が完全に出現する前に三咲町を脱出すれば、ワラキアの夜の影響を受ける事は無い。
極めつけに、ワラキアはあくまで一夜限りの悪夢である。
ねずみ算式に配下を増やし、徐々に版図を広げる通常の死徒と違い、一晩しのぎさえすれば、次に現れるまでは安全である。と、シオンは言った。
「真祖との交渉が決裂した今、正直に言うと、私がこの街に留まる理由は無いのです。私たちには時間が無い。ハタ迷惑な死徒と交戦している暇があるなら、他の吸血鬼化の治療方法を捜すべきでしょう」
「――待ちなさいシオン」
シオンは一通り思うところを述べると、氷のような秋葉声が刃のように入って来た。
秋葉は腕を組んだ状態で、正面からシオンを睨む。
「あなたの考えは分かったわ。もともと、あなたたちには関係の無い話で、巻き込まれたくないという気持ちも理解できる」
けどね、と秋葉は立ち上がり、シオンの側に歩み寄る。
「私たちは体調の悪いあなたの友人を看病して、食事も寝床も提供したのよ? それなのにここに脅威がやってくれば、手の平を返して逃げ出すというの? 私、これでもあなたの事は高く買っていたのよ?」
「……秋葉たちに感謝はしています」
「なら――」
「ですがそれでも無理なのです」
シオンは深々と秋葉に頭を下げると、恥じ入るように肩を震わせた。己の最も醜い部位をさらけ出すように、シオンは恥も外聞もなくただ吐露する。
「私もさつきも、いつまで持つか分からないのです。本音を言うと、さつきがあんな状態でなければ、すぐにでもこの街を出ていって、一刻も早く研究に取り掛かりたい。私はもう失敗するわけにはいかないのです」
絞り出すような声のシオンを、秋葉は薄く睨む。志貴も秋葉も恩着せがましい部類ではないが、それでもシオンの撤退宣言はあまりに薄情と言えた。
しかし、シオンの言う通り、彼女は彼女で切迫した状況に立たされているのもまた事実。こうしている間にも吸血鬼化は進み、抗い難い吸血衝動が彼女を苛んでいるのだろう。
内に潜み、徐々に自分の人間である部分を蝕ばまれていく気持ちはどれほどのか。
吸血衝動の苦しみを理解出来る秋葉と志貴は、彼女を責め立てる気にはなれなかった。
「……分かりました。そのワラキアの夜とやらは我々が対処します」
「秋葉!?」
死徒の処理を自ら買って出る秋葉に、志貴は驚く。
「何を意外そうな顔をしているの兄さん。そもそもこの地での魔の管理は遠野家当主の役目。仕事が正しい部署に回って来ただけの事です」
「そんな。ならお前が」
「お前がでる必要は無い、俺が行く。なんて言ったら怒りますよ兄さん! 私がくだらない正義感や義務でそんな事をしようと思っているのですか!?」
志貴はなおも食い下がろうとしたが、秋葉の剣幕に引き下がる。志貴は何か言いたそうにしながらも、取りあえずは沈黙を選んだ。
「……申し訳ない。こんな事を言っても言い訳にすらならないでしょうが、もし私が万全の体調だったら、あなた方と肩を並べて戦いたかった。短い間でしたが、あなたたちと過ごした二日間は本当に楽しかった。同世代の友人などさつき以外にいなかった秋葉は、私を忌避する事なく接してくれた。それは本当に嬉しかった」
「あなたが気にする必要は無いわシオン。あなたにはあなたのやる事がある。あなたの気持ちは理解出来るから」
「ありがとう、秋葉」
シオンは顔を上げると、秋葉を上目遣いに見る。既に秋葉の顔に怒りの色は無い。むしろ、これから痛む身体を引きずりながら茨の道を歩く友人に対して、心配している風にも見えた。
シオンはすっと姿勢を正し、今度は謝罪としてではなく感謝の念を示すため、頭を下げた。
「ありがとう秋葉。この恩は一生忘れません。さつきの体調が戻り次第、屋敷は出ていくのでどうか彼女の事だけは……」
「いくらでも居てくださって結構よ。協力を拒まれたからといって、追い出すのでは遠野家の名が廃ります。言ったでしょう、あなたとは仲良くなれそうだって」
秋葉は片手を差し出すと、シオンは苦笑した。やはり、血は繋がっていないとはいえ、兄弟なのだろう。親交を深めようとすると、握手をするのは二人の流儀らしい。
シオンは迷わず秋葉の手を握り返す。
「健闘を祈ります秋葉。いつか必ず、この御恩は吸血鬼化を治療してから必ず。次は人間としてあなたの屋敷に遊びに来ます」
「あなたでしたらいつでも大歓迎です。いつかまた、紅茶を一緒にいただきましょう」
「あ、それ俺も参加していい?」
ぜひ、とシオンは微笑んだ。