【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ 作:風海草一郎
遠野志貴くん、ずっとずっとあなたが好きでした。
あなたはきっと覚えていないだろうけれど、中学二年生の冬の頃よりずっと前から、わたしはあなたを見てきました。
いつか何でもないような、他愛の無いお喋りをして「弓塚さん」って呼んでもらえるようになれたらいいな。そんな小さな望みがわたしに力をくれた。
乾くんと志貴くんが楽しそうにはしゃぐ姿を見て、わたしも入れてと何度も言いかけてはやめるのを繰り返してきた。二人にはわたしが決して入る事の出来ない絆みたいなものがあるっていうのが分かっていたから。
それでも私は精一杯の勇気を出して、志貴くんを帰り道に誘ってみた。
目に染みるような夕あかねの空が坂道を染める中、二人きりで下校できた。
オレンジ色に染められる志貴くんの横顔は、相変わらず自然体で、その飾らない姿がわたしを安心させてくれる。
志貴くんはやっぱり私の事を覚えていなかったけれど、志貴くんが私の事を知ってくれただけで嬉しかった。
やっと、私の事を「弓塚さん」って呼んでくれた。
ほとんど初対面のような会話で、苗字で呼ばれただけだったけれど、私は飛び上がりそうなくらい嬉しかったんだ。
――これから話なんていつでも出来るよ。
そうだよね、これからいっぱいお話して、私の事をもっともっと知ってもらうんだ。
いつか、ただのクラスメイトから友達になって、そして「さつき」なんて名前で呼んでもらえるようになって、それからそれから――
そこから先を想像したら、私は照れくさくなって、思わず頬に手を当てた。
なんだかぽかぽかして、あったかい。
ここに鏡が無くて良かった。そこに映るわたしはきっと、ものすごく緩み切った恥ずかしい顔をしている事だろう。
弓塚さつき十七歳。華の女学生。
わたしの恋はきっと、ここからがスタートなんだ。
わたしは拳をぐっと握りしめ、緩んでいた頬を少しだけ引き締めた。
志貴くんはすごい朴念仁だ。きっと並大抵のアプローチじゃ気付かないだろう。
とてもとても恥ずかしいけれど、やっと足掛かりを得られたんだ。このチャンスを無駄にする事なんて、もったいないオバケが出るだろう。
楽しかった記憶はここまでだった。
志貴くんが夜中に繁華街を歩いているという噂を確かめるために、わたしは夜の街へ足を踏み入れた。
それがいけなかったのだろう。
わたしは突然、耳に入って来た怪しい物音に、どこか惹かれるように路地裏へ行き――そして意識を失った。
目を覚ましたわたしを襲ってきたのはとんでもない激痛。体中がバラバラになって、内臓ごと飛び出しそうな吐き気がして、そして、
――どうしようもなく喉が渇いた。
わたしは公園に行って、浴びる様に水を飲んだ。胃が膨れて、喉元までせり上がってきそうになっても、わたしの渇きが癒える事は無かった。
――だめだ、こんなものじゃ満たされない。
不思議と、わたしには渇きの原因と解決方法が分かっていた。
何でかは分からない。しいて言うなら、わたしの中に入って来た、わたし以外の何かが教えてくれるのだ。
飲め、お前の身体はそうしないと持たないぞ、って。
わたしはその言葉を無視し続けて、おぞましい衝動から目を背け続けた。
真夏だっていうのに、とても寒い。体は死人のように冷たく、指先は蝋のように白かった。あまりにも寒くて、試しに拾ったライターの火を指先に近づけた。
ちっとも熱くなかった。
これは寒いんじゃなくて、暖かさを感じなくなったんだ。
そこでわたしはようやく現実を受け入れた。
もうこの身体は既に、ヒトとしてとっくに終わっているっていう事を。
〇
ぴちゃり、ぴちゃりと血が滴り、わたしはその雫を舌で受け止める。
喉を流れて行く血が渇き切ったわたしの心と身体に染み入ってくる。
分かっていた。
これがいけない事だって事くらい、わたしにだって分かっていた。
けれど痛くて寒くて寂しくて、こうする事しか出来なかった。
血を飲んでいる時だけが、わたしにとって唯一安らぐ瞬間だった。
けれどそれも一瞬、すぐにわたしの内から湧き上がる衝動は暴れ出し、わたしを突き動かした。
わたしはもうヒトではない。
ヒトだって生きるために他の動物を殺して生きている。わたしの場合は、その他の動物が人間だっていうだけの事。何もおかしくはない。
そう納得しかけては、わたしの何かが懸命に叫んだ。
――違う! そんな事は間違っている!
ヒトではないのだからヒトを殺しても良い?
そんなものは間違っている。
けれどそれはきっと正しい。
渇きを癒すたびに、わたしは激しい痛みに襲われた。
体の痛みは止まるのに、胸を締め付けるような痛みはいつまで経っても消える事は無かった。
それが心の痛みなのだと気付けても、わたしは首筋に牙を突き立てるのをやめる事が出来なかった。
どれだけ新鮮な血を飲もうと、どれだけ高揚しようと、すぐさま自己嫌悪の波が押し寄せ私は頭の中がぐちゃぐちゃになる。
渇くのは喉だけじゃなかった。最初はすごく心が痛んだのに、もう今ではチクリとしか痛まない。
徐々にわたしがわたしじゃなくなっていく感覚に飲み込まれる。
――怖い。怖いよ志貴くん。
わたしは体を抱いて、寒さと恐怖に震える。ガチガチと歯を鳴らし、わたしを飲み込もうとする葛藤に懸命に抗う。こんな時に思い出すのは決まって彼だった。
だって彼は、わたしに『 』をくれる人だから。
〇
薄暗い路地裏の中、わたしは志貴くんに抱き着くようにして首筋へ食らいついていた。
わたしの牙から流し込まれるのは、わたしの血液。
わたしの一部が志貴くんの中に注ぎ込まれるたびに、志貴くんがわたしと溶け合って一つになるような気がした。
わたしの血が、志貴くんの意識を破壊し、従順な下僕に変える。志貴くんの瞳から徐々に光が消えていき、ぼうっとした虚ろな表情になった。
これで志貴くんは私の物。
そう思ったのに、
「弓塚――――――!」
わたしは大きな叫び声と共に、思いっきり突き飛ばされた。尻もちをつく形で私は倒れ、志貴くんに見下ろされる形となる。
志貴くんはハアハアと荒い息をつき、真っ青になった顔で私に怯えた表情を向けた。その首筋にはわたしの歯型がくっきりとつき、どくどくと血が流れている。
「弓塚さん、なに、を……」
けどそれが限界だったみたい。もう意識はどろどろに溶けて、腕一本満足に動かせないのだろう。わたしの流し込んだ黒い血が、志貴くんの自我を破壊するために、身体中を駆け巡って浸食していくのが感じ取れた。
「あ――ぐ、ぐうううううううっ!!」
とても痛いのだろう。志貴くんは地面にがりがりと爪を立て、自分の体内を犯す私の血に懸命に抗おうとする。
なんて可愛らしい抵抗。
わたしは安心させるように囁いた。
「大丈夫、痛いのは最初だけだから我慢して。わたしの血が混ざればすぐに落ち着くよ」
「だから、お前は何を……」
「何をって、志貴くんもわたしと同じになるって事だよ。普通の食べ物のかわりに人間の血を吸って、太陽の下を歩けなくなって、夜に出歩くヒト以外の生き物になるの」
にこり、と私は笑顔を作る。私の渇きや寒さは癒えないけれど、この人がいればきっと心にぽっかりと開いた寂しさを埋められるだろう。
二人で夜の街をかけて、お日様の下で歩けない同士、手を取り合って生きていこう。
志貴くんは懸命に吐き気を堪えるようにしていたけれど、それもそろそろ限界。わたしは畳み掛けるように手を伸ばす。
「――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」
伸ばした手がひどく重い。震えを悟られないようにするので必死だった。
「さあ、こっちに来て。わたしの傍にきて、わたしの手を握って、わたしを安心させて」
それは間違いなくわたしの望み。
志貴くんと一緒にいられるのならば、どんな痛みにだって耐えらる気がしたから。
こうしている間だって、ずっと苦しい。ヒトである部分を多く残したわたしの身体は、血管などはまだ人間のままだ。血が流れるだけで破裂し、その端から修復していくため、血管が沸騰し続けるような痛みに襲われる。
わたしは志貴くんを受け入れるように両手を広げた。
「これでわたしと志貴くんは同じ側の存在だよ。わたしの物になるって約束して、決してわたしの元を離れない、他の人に目もくれないって」
口から空虚な言葉が漏れ出るたびに、わたしは心がじくじくと痛んだ。
これはわたしの望みだったのだろうか?
それは半分嘘で、半分本当だ。
だから、彼が足を一歩後ろに引いた時、わたしは少しだけほっとしてしまった。
「なんで……? 私の血が効いていないの!?」
私は熱くなる頭や言葉とは裏腹に、じんわりと心に小さな火が灯った。
「もうやめよう。こんな事をしちゃいけない。……君は病気でおかしくなっているだけなんだ弓塚さん。だから、俺と一緒に病院に行こう。きっと何とかなるから」
こんな状態になっても、まだそんな甘い事を言ってくる。
ああ、そうだ。わたしだって本当は分かっていた。あなたが一緒に来てくれないって事くらい。
だってわたしは、そんなあなただから。
わたしの言う事もわたしを支配する欲求も、全ては上書きされたものだ。本心だけれど本心ではない。まだわたしが人間の弓塚さつきだった頃の想いに混ぜられた不純物だ。
それでも私は苦しくて心にも無い事を口走る。
「どうして!? どうしてわたしの物にならないの!? わたしに逆らえないはずなのに! そんなにわたしが嫌だっていうの!?」
「――逆だよ、きっと君が好きだったから追いかけたんだ」
「――――――――――――」
志貴くんは息も絶え絶えに、困ったような表情で呟いた。
わたしは血が昇っていた頭に、冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
身体に熱が籠っては、不気味なほどに冷静な理性が燃え上がった心を鎮火する。
喉が震えて上手く声が出ない。何度も開閉しては失敗し、カラカラになった口でようやく言葉を紡ぐ。
「どうして……。どうしていま、そんな事を言うの……?」
「俺も分からない。でも今の弓塚さんはとても苦しそうだ。そんなに辛そうな女の子を放っておく事なんて俺には出来ない。本当にどうでもいいやつなら、こんな真夜中に探しになんてこないだろ」
――なんて皮肉。
ひゅう、と私の口から息が漏れた。
彼の言葉は変わらず暖かい。だからこそわたしのささくれ立った心を締め付ける。
ごきり、と私の口内で奥歯が砕けた。この感情は悔悟。
「そんなのってないよ……」
頬に伝うものが涙なのだと気付くのに随分、時間がかかった。涙なんて、とうに枯れ果てたと思っていたのに。
わたしはとうに行き止まりだ。崩壊して先の無くなった道で、すんでのところで足掻いているだけに過ぎない。
それでも、志貴くんなら何とかしてくれるかもしれなくて、弱いわたしは縋るように声を絞り出す。
「――助けて志貴くん」
「――ああ。俺に出来る事なら何でもするよ」
変わらぬ彼の優しい声。
それがひどく――癇に障る。
「うそつき――――――!!」
わたしは目の前が真っ赤になって、志貴くんの胸倉を掴んで力任せに放り投げた。志貴くんはボールのように転がって壁に激突した。
ぎり、と私は砕けた奥歯を再び噛みしめる。
げほげほと咳き込む志貴くんに近寄り、古ぼけたコンクリートの壁を殴りつけた。
「助けてくれるって言ったのに! わたしがピンチの時は助けてくれるっていったのに!!」
わたしは自分で自分のセリフに笑ってしまいそうだった。
夕暮れの中で帰宅する途中、取り留めも無い会話の中でした、他愛の無い口約束。わたしの中で輝き続ける、志貴くんとの思い出。
そんなものは彼を糾弾する理由になんてなりはしないのに。
「約束したのに! したのに! したのにしたのにしたのに!! 志貴くんがわたしの傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに。どうしてあなたまでわたしを受け入れてくれないの……!」
子供の癇癪のようにわたしは何度も何度も壁を殴り続ける。パラパラと落ちるコンクリートの破片が志貴くんの顔に降りかかる。
投げられた衝撃で擦り傷だらけなのに、彼は穏やかに微笑んだ。何かの償いをするように、必要のない苦労を背負い込むように。
「いいよ、弓塚さん」
「志貴……くん?」
その時のわたしはきっと間抜けな顔をしていただろう。志貴くんの言葉が信じられないように私は大きく目を見開いた。
「俺の血で良ければ吸っていいよ。約束だもんな……キミと一緒に、いってやる」
「なんで……? なんで今更、そんな優しい事を言うの……?」
戸惑いと驚きを込めてわたしは震える唇を動かす。
それをしたら、最後に残った私の一欠片さえも砕け散ってしまいそうで。
私は受け入れて欲しかった。
嘘よ、本当はそんな事、望んでいない。
私は拒絶して欲しかった。
それも嘘よ。彼が欲しくてこんなにも疼いているというのに。
「やめて……! やめてよ志貴くん! そんな風にわたしを受け入れないでよ!!」
その優しさに縋ったら、きっと本当に何もかも終わってしまうから。
志貴くんは躊躇するわたしに呆れたような顔をした。
「……なんだよ。今までそうしたくて散々追い回したんだろ。なんでここで遠慮するのかな、弓塚さんは」
「ほんとに、いいの……」
「痛いんだろ。なら、いいよ。俺はキミを助けられない。だから、弓塚さんの言う方法で助けるしかないじゃないか」
彼は笑っていたけれど、私はどんな表情をしていたのだろう?
喜んでいたのだろうか?
それとも嘆いていたのだろうか?
今の私の気持ちが、人間の弓塚さつきのものなのか、吸血鬼としてのものなのか、わたしにはもう分からない。
気付けば、私はアスファルトに膝をつき、志貴くんに牙を突き立てた。
唇越しに伝わる志貴くんの体温。それが急速に失われていくのが分かる。
静かな、とても静かな死。
彼はその死を乗り越え、私と共に新たな生を謳歌するのだ。
彼と一緒に享受する生はどれだけ幸福なのだろう。わたしはあり得ぬ未来を夢想する。
そして、
「――――ごめん。俺は弓塚を助けられない」
トスリ、と胸に突き刺さるナイフの感触に、わたしは心底安堵した。
力が急速に抜けていく。
わたしはその間隔すら愛おしいというように、何も感じなくなった体を志貴くんに寄りかからせた。
「そっか。――やっぱり一緒には行ってくれないんだね、志貴くんは」
わたしはどこか清々しさを含ませて、当然の帰結に安心した。
これでよかったんだ。わたしは自分を納得させる。
わたしは最後の最後で、人間でいられたのだろうか?
わたしの腕の中で、小さくすすり泣く声が聞こえた。わたしは志貴くんの瞳に光る雫を見て、少しだけ救われたような気がした。
「ありがとう、そしてごめんね。あんなにひどい事をしたわたしのために泣いてくれるんだね。――そんなトコ、誰よりも好きだった」
足は既に肺となり、風に乗って霧散していた。
わたしは上半身だけになって、彼に最後の言葉を告げた。
「ばいばい志貴くん。あなたの手で終わりを迎えられたんだから、わたしはきっと幸せなんだよ」
「これのどこが……っ!」
鼻声で志貴くんは怒りを滲ませる。
その怒りはわたしにじゃなくて、この状況を作った犯人に対して、そして理不尽な世の中に対してなのだろう。
この人を好きになってよかった。
わたしは目を閉じた。
もう私は胸も消えかけていた。
どうして最初、わたしはあなたに中々話しかけられなかったのか、ようやく理解できた。
志貴くんは優しさの中に、とてつもなく冷酷なものを飼っていたんだ。すでに救いの無いわたしに、ほんの僅かな救いを与えてくれる人。
――そう、わたしに『終わり』という救いを与えてくれる人だったんだ。
そうしてわたし、弓塚さつきは二度目の生を、一番好きな人の中で終えた。