【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ 作:風海草一郎
遠野秋葉は不機嫌であった。
浅上女学院(通称浅女)と呼ばれる冷たい揺り籠の中でも、冷徹、冷酷、冷血人間の名を欲しいままにする彼女は、己の機微をコントロールする能力は幼いながらも一級品だと自負している。
事実、大抵の事ならば眉一つ動かさず冷静に処理する秋葉であったが、その彼女が唯一、心をかき乱す存在があった。
何を隠そう遠野志貴である。戸籍上は実兄であるものの、実際は血の繋がらない兄。非常さを叩きこんでくる遠野邸の中で、自分に暖かさをくれたヒト。
遠野秋葉は兄を愛していた。
それも家族ではなく異性として。
来たる日のために毎日手入れを欠かさない艶やかな黒髪も、水すら弾く磨き上げられた珠のような肌も、鈍感な兄には一切意味を為さなかった。
自分に魅力が無い。とは思いたくない。純粋培養箱入りお嬢様製造機である浅女でも自分と並ぶ美貌を持つものなど片手で足りるだろう。
勇気を振り絞って追いかけてみれば孤独癖のあるカレは、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。求めれば求めるほどすり抜けていく兄に、秋葉は言いようのない不安を覚えていた。
いつか、何も言わずに風のように去って行ってしまうようで。
秋葉はかぶりを振って弱気な考えを振り払う。らしくない、欲しい物は力尽くでも奪うのが自分のモットー。無駄に乳がデカイだけのカレーやあーぱー吸血鬼に愛しいヒトを渡してなるものか。少々の胸の薄さなど愛の深さでカバーすればよい。
未だにあの二人が兄に粉をかけている事には甚だ不愉快ではあるが、彼女たちのために兄が深夜に出かける事は減っていた。その事を喜んでいたというのに、すぐコレである。
秋葉は壁時計に目をやると、既に一時を回っていた。いくら明日は学校が休みとはいえ、無断で学生が出歩いていい時間ではない。
高級そうな絨毯の上をうろうろと意味も無く歩き回り、時折つま先はカツカツと床を叩いて十六ビートを刻む。
「……秋葉様。志貴様のご帰宅でしたら私が確認いたしますので、今夜はもうお休みください」
実に三時間近く、後ろで一言も発さずに佇んでいた少女――翡翠が秋葉に就寝を促した。
クラシカルなメイド服に身を包んだ翡翠の勧めを秋葉は断る。
「そういうワケにもいかないのよ翡翠。いままで兄さんの悪癖にはずっと目をつむってきたけれど、もう限界よ。いい加減、遠野家の長男としての自覚をもっていただくためにも、今日という今日はガツンと言ってやらないと気が済まないわ」
苛立たしげに階段の手すりを指先でトントンと叩きながら、まなじりを吊り上げる秋葉に、翡翠は控えめに志貴を弁護した。
「秋葉様、志貴様にもきっと事情があるのです。明日、理由を聞けばよいではありませんか。いくら明日はご予定が入っていなくとも、健康によくありません。後の事はどうか私にお任せください」
「よくないわ。あなたがそうやって兄さんを甘やかすからあの人は調子に乗るのよ」
「秋葉様……」
「秋葉様、翡翠ちゃん。お話し中申し訳ございませんが、噂をすれば志貴さんがお帰りになられたようですよ」
「ッ! 本当なの琥珀?」
秋葉は声のした後方を振り返ると、そこには割烹着を着た翡翠の双子の姉、琥珀がにこやかに報告をしてきた。
秋葉は待ちわびた人物の帰宅に顔を輝かせるが、すぐに引き締める。が、どうしても緩んでしまう。明日は久々の休日だ。埋め合わせと謝罪を兼ねて、どこかへ二人きりで遊びに連れて行ってもらおう。当然、兄に拒否権は無い。
秋葉は二人に見えないよう、こっそりとほくそ笑むと、明日の予定をアレコレと考え始める。ちなみに兄を叱るという考えは既に薄れていた。なんだかんだと秋葉も翡翠の事は言えなかった。
しかし、琥珀の一言が真空管の突き刺さった爆弾のスイッチに触れた。
「それが秋葉様、志貴様はどうやら女性をお連れしているようなんですよ。それも二人」
ビキリ、と秋葉のこめかみに青筋が浮かんだ。
女性……?
じょせい……?
ジョ・セ・イ?
私がこれほど気を揉んでいる間に……?
「あららー、しかもお二人共かなりの美人さんですねー。一人は志貴さんの通われている学校の制服を着られていますし、もう一人の異国風な方も同い年くらいでしょうかー? 両手に花なんて志貴さんやりますねー」
「姉さん……! わざとやっているでしょう……!」
秋葉周辺の空間が蜃気楼で歪み、髪は燃えるような赤色を帯びている。荒れ狂った血潮は体中を全力で駆け抜け、燃えるように熱い。
そんな秋葉を尻目に、モニターを見つめる琥珀は喜色満面。爆心地へナパーム弾を撃ち込むより激しく、燃料を投下する。
「あらら、志貴さんったらお姫様だっこまで。やーん、彼女も照れていますがまんざらでもなさそうですねえ」
「ふーん……」
みしり、という音とともに、秋葉の手から木片が零れ落ちた。先ほどまで握りしめていた階段の手すりを秋葉が握りつぶしたのだ。
残った木片を投げ捨てると、秋葉はゆらりと身体を玄関へ向け、歩いて行く。殺気のこもったその歩みは止められないと、翡翠は本能で悟った。
琥珀が開けた鉄製の門扉はもはや地獄への入口。
これから主人の身に降りかかるであろう災難を想像して、翡翠は重く目を閉じた。
〇
帰宅した志貴を出迎えたのは一人の鬼だった。
さすがに客人の前で血を覚醒させる事はしないものの、全身から迸る殺気は熱を帯び、志貴の肌をチリチリと焼いた。
そこで志貴も抱きかかえたクラスメイトと傍らのシオンを見ると、ようやく自身の迂闊さに気が付いた。
「秋葉、これには事情が――」
「結構です」
志貴の弁解は怒気の籠った一言に遮られた。
「あらあら。あらあらあらあらあらあらあら兄さん。こんな夜分遅くまで、遊び歩いていた挙句、女性を連れてご帰宅とはいい身分ですね」
「……あの、秋葉。もしかして怒ってる?」
「いいえ、ちっとも。兄さんの悪癖は今に始まった事ではありませんし、そんな事でいちいち目くじらを立てていたら身が持ちませんから。兄さんも年頃ですから外に女性の十人や二十人。おほほほほほほほほ。あらやだ私ったら」
自分で話していくうちにボルテージが上がり、歯ぎしりの音が大きくなる秋葉。どう考えても怒っている。
志貴が弁明を続けようとしたその時、首にかかっていたさつきの手がだらりと下がった。
「弓塚さん?」
「さつき!?」
志貴が疑問の声を挙げ、シオンはさつきの側へ駆け寄る。さつきの頬は赤く染まり、呼吸が荒くなる。苦悶の表情から漏らされる吐息は、重く、沈み込むようだ。
「琥珀!」
「はいはいただいまー」
秋葉の即断に琥珀は応え、さつきのもとに駆け寄りバイタルサインのチェックを始めた。
琥珀の細く白い指がさつきの橈骨付近に埋まり、脈拍を測る。
「うーん、脈も速いしお熱もありますね。これはちょっと別室で休ませましょう」
「あ、ああ分かった! 俺の部屋でいいか!? 弓塚さん、ちょっとごめん!」
志貴はさつきをお姫様抱っこの要領で抱えると、自室への階段を駆け上がろうと足に力を込める。すると、さつきは微かな声で志貴に何か囁いた。
「――――た」
「え? 何? 弓塚さん」
志貴の耳に届く前に口から零れ落ちる声は頼りなく不鮮明だ。志貴はなんとか聞き取ろうと顔を近づけ、さつきの声を拾おうとする。
さつきは今にも消え入りそうな声で囁いた。
「――――お腹すいた」
〇
「美味しい! これ美味しいよ遠野くん! あっ、琥珀さんも急にお食事を作ってくれてありがとうございます」
「私からも礼を言います琥珀。実に数か月ぶりの文明的な食事……! ああ、やはり食事とはこうでなくとは! 人とはこうであるべきでは!?」
「お二人共ありがとうございます。ありあわせの食材で作った簡単なものですけれども、お二人にそこまで喜んでいただけるならば私も作った甲斐があります」
目前に並べられた料理を勢いよく平らげていくさつきとシオンに、琥珀は笑顔を絶やさない。よほど空腹だったのか、年頃の少女にギリギリ許される程度の節度を守りつつ、暴飲暴食を繰り返す姿を、志貴と秋葉はじぃっと見つめていた。
結局、さつきの体調不良は一時的なものらしく、小康状態と先程のような発熱と悪寒を繰り返しているのだとさつきは言った。食事を摂れば多少はマシになるとのシオンの言により、さつきとシオンは琥珀に手料理を振る舞われていた。
二人の食事の仕方はすさまじく、お嬢様らしきシオンは所作こそ美しいが速度が尋常ではない。運ばれた料理がまるで手品ように消えていき、どうしても背後にガツガツといった効果音が聞こえてきそうだ。
飢えた肉食獣が久方ぶりに捕えた獲物を胃袋に収める時は、きっとこのような光景なのだろうな、と志貴はどうでもいい感想が浮かんだ。
「しかし、すごい食べっぷりだね二人とも。そりゃ琥珀さんの料理は絶品だけどさ、そんなに美味しい?」
志貴のつぶやきにさつきはゴキュ! と喉につまらせ、シオンから手渡されたコップの水を勢いよく飲み干すと、向日葵が咲くように顔を輝かせた。
「うん! こんなに美味しいのは初めてかも! お父さんに連れて行ってもらったレストランより美味しいなんてもうなんなのコレ! すごいよすごいよ! 最近じゃ期限切れのネコ缶やネズミばっかりだったから余計に美味しく感じるよ!」
「…………そうか。それはよかった。好きなだけ食べてくれ」
「あららー、お二人共苦労されてるんですねえ」
何やら聞き捨てならない単語がさつきの口から漏れた気がするが、志貴はあえて深く追求はしなかった。志貴は黙って二人を見つめる。
食堂内にしばらく二人の咀嚼音のみが響き続けた。
「――当然、どういう事か説明していただけますよね兄さん」
二人が食事を終えて、琥珀が食後のお茶を運ぶと秋葉が口を開いた。
紅茶の入ったカップをソーサーに置き、秋葉は腕を組む。その表情は言外に「少しでも嘘を言ったら許さない」と書かれている。緊急事態に食事を提供する事は出来ても、歓待は出来ないらしい。
「その、彼女は実は病気で……」
「嘘を言わないでください兄さん。先程琥珀が体を診察したところ、人間ではありえない体温だったそうですよ」
「…………」
志貴は先程までのさつきを思い出すと、思い当たる節があった。
死徒は生命活動を未だ続けてはいるが、人間のソレとは大きな隔たりが存在する。さつきの体温はまるで体内が燃えているような熱を持っていた。人間ならばとうに死亡しているだろう。
吸血鬼は人を遥か凌駕した膂力を得た代償として、エネルギーの消費が桁違いに多く通常の食事では追い付かない。とうにガソリンの切れた車を無理矢理動かそうとすれば、車体にガタが来るのは当然と言えた。
黙秘を続ける志貴に、いい加減痺れを切らした秋葉は核心に触れる。
「彼女たちは吸血鬼でしょう。よりにもよってなぜウチに? 私に始末を任せたいわけではないでしょう?」
「ばっ! そんなワケないだろう!! 彼女は俺の元クラスメイトだ! 危険じゃない!これには深い事情があるんだよ秋葉!」
「ですからそれを説明して下さいと言っているんです!」
互いにギャーギャーと言い争いを続ける二人は、徐々にヒートアップ。志貴の素行にまで追求を始めた秋葉は、志貴の下手な言い訳など聞きはしない。シオンとさつきも一応は止めに入るのだが、頭に血の登った秋葉は「部外者は黙っていて下さい!」と言い放ち、外界からの横槍を完全にシャットアウト。口角泡を飛ばす勢いで志貴を責め立てる。
「大体ですね! 兄さんは体が弱いのに遅い時間に一人で出かけるわ荒事に首を突っ込んで帰って来るたびにボロボロになっているわで一体全体、何を考えているんですか!? もう少し遠野家の長男としての自覚を持って下さいと何度言ったらわかるのです!」
「今はそんな事関係無いだろ!? 第一、吸血鬼騒ぎだけじゃなくて――」
「言い訳は結構です! そういった事は全て私の仕事です! そんな事をしている暇があるなら、学校の勉学に励むなり経済学を学ぶなり時間を有効に使ってください。兄さんの帰宅が遅くなるだけで私が一体、どれだけヤキモキしているとお思いですか!? この間なんて兄さんの上着から女性の香がすると翡翠が言っていました。またぞろ、低脳金髪と何かされていたのですか!? 兄さんの節操無し!」
「それはもっと関係ないだろ! お前、ここぞとばかりに言いたい放題――」
――ヒュン。
言い争いを続けようとした二人の動きが急に制止する。物理的な拘束ではなく、脳から筋肉へ伝わる信号が遮断されたような感覚。
自身の身体が鉛へ変貌したような重さに、志貴と秋葉は抵抗虚しく指先さえ動かす事は出来ない。いくら動けと命令しても、筋肉はギチギチと悲鳴をあげるだけで、他者から強制的に服従されるように、主の命令を無視した。
「乱暴な制止ですがご勘弁を。二人共、頭は冷えましたか?」
努めて冷静な口調でシオンは言うと、右手を微かに振った。
「うおっ?」
「きゃっ!」
小さな風切り音と共に、全神経を拘束されたような硬直が解かれ、志貴と秋葉は前のめりに倒れる。その志貴は咄嗟に秋葉を受け止めた。
「あれ、動く?」
「あなた一体……。それに今のはどうやって」
志貴の腕から離れた秋葉はシオンの腕を睨みつけると、そこで志貴も気付く。シオンの腕周辺に僅かに光を反射している。通常ならば視認出来ないだろうが、光具合からそれが糸状のものだと辛うじて理解できた。
「シオン、それは」
「我がエルトナム家の秘技、エーテライトと呼ばれる疑似神経です。もとは医療用の技術ですが応用すれば、対象の神経を乗っ取り自由を奪う事も可能です」
シオンはエーテライトを束ねると、手の中で弄びながら軽く説明をする。
エーテライト。
それはエーテルと呼ばれる架空要素で編み上げられた疑似神経で、他者の神経への介入を可能とする。介入したエーテライトは脳髄からは情報を、魂からは思考法則を読み取る。
――それは魂のハッキングとでも言うべき悪魔の所業。
他者が長い年月をかけて研鑽し清廉した知識、技術、全てを対象に気付かせることなく根こそぎ奪う。道徳とは無縁の錬金術師たちでさえ眉を顰める異端の技術。いかに倫理、道徳、美学に反していようが極めて合理的なモノ。
それこそがエーテライトだとシオンは言った。
「ええ!? あっ、そう言えばあの時何か妙な斬撃を使ってくると思ったら、それだったのか!」
「ますます聞き捨てなりませんね。あなた、兄さんを襲った挙句、死徒の身でありながらよりにもよって遠野家に協力を求めるのですか?」
図々しいのは承知の上です。とシオンも頷く。
「ですが、私とさつきもまだ人の血を吸わずにいられている。私は確かに吸血鬼ですが、それでも見境なく人を襲う死徒たちと一緒にされるのは心外です。まだ、何か手があるかもしれないのです。私がまだ私でいられるうちに私は諦めたくないのです」
「うん、私もシオンも体は吸血鬼になっちゃったけど……。まだ、心までは吸血鬼になりたくないの……」
「うっ……」
秋葉は言葉に詰まる。心の奥に染み込むソレは既視感か親近感か、二人の姿に自分を重ねてしまった秋葉は怒りを一時飲み込む。
「秋葉、重ねてお願いします。私たちは真剣に吸血鬼化の治療法を探しています。もしこれが実現すれば、魔を狩るあなたがたの負担も減るはずです。それに」
シオンは一息置くと、絞り込むように告げた。
「それを応用すれば、吸血衝動を抑える方法が見つかるかもしれません」
秋葉の血は一瞬で沸騰し、紅く染まった髪は文字通り怒髪天をつく。憤怒を目に滾らせた秋葉はシオンの胸倉を掴むと、そのまま壁に叩きつけた。志貴とさつきが制止するが、秋葉の勢いは止まらない。
「――――あなたに何がっ!! 他者の思考は読めても、気持ちまでは読めませんか錬金術師!! もう我慢なりません、見逃して差し上げますから私の目の前から消え失せなさい!!」
全身から噴出する殺気を叩き付けられて、全身が粟立つ。秋葉がその気になれば、死徒の身体といえど、一瞬で蒸発する。もし眼光が物理的に干渉できるのならば、シオンの身体をいとも容易く貫いていたことだろう。
しかし、シオンは臆する事も憤慨する事も無く、
そっと、首を絞め挙げている秋葉の手を包んだ。
「――知っています。その辛さは誰よりも知っているから」
「――――――――――――」
秋葉は瞠目し、呆けたように口を開く。そして俯くと、だらりと腕を下げた。
志貴は秋葉の肩に手を乗せると、諭すように呟く。
「もういいだろ秋葉。俺はシオンに協力したい。シオンの研究はきっとこの先、罪もなく犠牲になった人を救えるかもしれないし、今まで犠牲になった人も多少は報われるんじゃないかな」
志貴の問いかけに秋葉は答えず、小さく漏らした。
秋葉には離れで行われている場景が思い起こされていた。割烹着をはだけさせ、蒸気した肌を露わにした琥珀。その柔らかな肌に歯を立てる自分。そして自分は――
「……知っていたんですね。兄さんは」
「……ああ、けっこう前から」
「……そう。そうですか」
志貴は秋葉の肩を抱き寄せると、秋葉は頼りなさそうに体重を預けた。
細く、繊細で華奢な体躯だ。遠野家という社会的地位のある家を守るための重圧、内に潜む鬼と戦う日々。いかに気丈に振る舞う秋葉と言えど、己を取り巻く境遇はやすりのように心と身体を摩耗させていった。
秋葉は無言で志貴の胸に顔をうずめると、やがて小さく肩を震えさせた。
さつきは状況が全く飲み込めていない様子だったが、沈黙を選ぶ。
屋敷の中には時折もれる嗚咽のみが聞こえる、静かな時間が流れて行った。
〇
パシャリ、手酌の水で顔を洗うと、弾ける飛沫が水面を小さく叩く。
立ち込める湯気は白く、肌という肌が潤っていく感覚に飲み込まれる。
「何という贅沢な水の使い方……。湯に浸かる事で血行を促進し、疲労回復の効果まであるのですか」
ほう、と感嘆の息をもらすシオンは再び湯を掬うとパシャパシャとすり込むように顔にかけた。
湯船に浸かる肢体は暖かく包み込まれ、僅かな浮遊感と共に体中の汚れと疲れが洗い流されていく。
シオンとさつきの居住環境(ダンボールハウス)の現状を知った秋葉は顔を青くし、遠野邸の露天風呂を開放してくれていた。シオンは最初断ったが「淑女はいつでも身体を清潔にする義務があるのです」という秋葉の強引な勧めによって、シオンはお言葉に甘える事にした。
顔を半分まで沈め、マーライオンから流れ出るお湯を眺めていると、背後から扉の開く音と二人分の足音が聞こえてきた。
「うっわー、すっごい広いお風呂!! 温泉に来たみたいー!」
「弓塚さん、喜んでくださるのは嬉しいのですが足元にお気をつけて」
「うわとと、ごめんごめん」
はしゃぐさつきと、悠然とした秋葉も浴室にやってきた。二人は軽く体を洗うと、しずしずと湯船に入ってきた。二人共細い体つきのせいか、浴槽に立つ波も随分と小さいな、とシオンは全く関係無い思いを浮かべた。
二人はシオンの側にやってきて、湯の心地良さにしばらく身を任せる。
さつきはタオルを頭に乗せ「あー、生き返るー」と年寄り臭い声を漏らし、秋葉は優雅に長い黒髪を撫でつける。
「お風呂なんて久しぶりー……。今まで、深夜の公園でドキドキしながら水浴びするくらいしか出来なかったもんねーシオン」
「さ、さつき。それは恥ずかしいから内緒にしておく秘密……」
シオンが顔を赤らめているのは湯のせいかはたまた、秋葉には判別が出来なかった。
ゆったりとした時間が流れ、三人は思い思いの姿勢でリラックスタイム。いままでは忙しくて濡れタオルで体を軽く拭くくらいしか出来なかったので、老廃物が流れて行くこの感覚は天にも昇る気持ちだった。
三人の肌がすっかり桜色に染まり切った頃、秋葉が唐突に口を開いた。
「ところであなた、ええと、弓塚さんでしたか。あなたが着てらした制服は兄の学校の制服だったと記憶しておりますが、兄さんとはどういったご関係ですか?」
「ふえっ!? わ、わたし!? ええと、その、遠野君とは中学校から同じ学校で、高校の時もクラスメイトのなった事があって、あの、そのあのその!」
かなりの狼狽振りを見せるさつきに、秋葉は『私の』兄さんセンサーがギュルギュルと反応しているのを感じ取った。この錯乱具合、間違いない。あの天然女たらしな朴念仁のことだ。またどうせ八方美人の優しさで可憐な乙女を無意識に堕としたに違いない。
秋葉は内心で深々と溜息をつき、多少の同情を含めながら秋葉はさつきのしどろもどろなエピソードに耳を傾けた。
中学二年生、ある冬の日、体育倉庫に閉じ込められた事。
それは一月上旬の部活終わりで、日の短い真冬の季節ではすっかり太陽が沈んでしまう時間帯。
バドミントン部の練習で使用した用具を片付けようとて、体育倉庫に全員で入ったのが間違いだった。
もともと、立てつけが悪く、半端な閉め方で毎年一人は閉じ込められるのは、先輩たちから代々語り継がれてきたある種の伝統だった。なので、閉める時は必ず、一人は外で待機させるというのが鉄則だったのだ。
しかし、その日は私含めて気が緩んでいたのかもしれない。早く作業を終わらせたいので、あろうことか全員が室内に入り片付けを行っていたその時。
突然拭いた強風で扉が勢いよくしまり、その錆びついた重低音とそれに続くガチャリという音は、皆が忘れていた心配を現実のものにした。
最初は全員、誰かが助けてくれると楽観視していた。しかし、時間が経ち、下がる気温と一向に人の訪れる気配の無さに、徐々に焦りが生じていた。
焦りが恐怖へと変わるのにそう時間はかからなかった。意固地に自分達を閉じ込める扉を蹴り飛ばす暴力的な音をバックコーラスに、さつきは寒さと空腹にただ震える事しか出来なかった。
とうとう、後輩の一人が泣き出した。「私たち、このままお腹すいて死んじゃうのかな。寒くて死んじゃうのかな」と。
そんなの知らないよ。と私は言いたかった。後輩は私に何か安心出来るようなセリフを言って欲しいらしく、しきりに話しかけてきたが私は「そうだね」とか「大丈夫だよ」などの気の抜けた返事をするだけだった。
私は自分が泣き出さないようにするだけで精一杯だった。
弓塚先輩は大人びていてかっこいいと後輩たちは言う。
うううん、私は必死に背伸びをしているだけ。
弓塚は聞き分けが良くて素晴らしいと先輩たちは言う。
うううん、ホントは弱いから仮面を使い分けるのが上手いだけ。
本当の私など弱くて、どこにでもいる平凡な女の子だ。勝手な勘違いをしないで欲しい。
ぎゅっとジャージのズボンを握りしめて耐え続ける。涙腺はもう決壊寸前。もはや勝手に持たれたイメージなど投げ捨てて、みっともなく泣き喚いてしまおうか。
じんわりと視界が滲んだその時、扉の向こうから声がした。
「――中に誰かいるの?」
その声に私はハッとした。
この柔らかくも芯の強い、温かな声はクラスメイトの遠野志貴クンだ。「見て分からないのかあああああああっ!」と怒鳴り散らすバドミントン部の主将の声に怯むことなく、遠野クンは冷静に二言三言言葉を交わす。
「内緒にしてくれるなら開けられる」
と聞こえた。どうやって? 私が思うより早く、すっと扉に真っ直ぐな線が走った。
金属製の分厚い扉はまるでバターのように切り裂かれ、派手な音と共に倒れた。
木枯らしが倉庫内に流れ込み、一瞬、身体が縮こまる。しかし、それも一瞬の事で久しぶりの外はすっかり夜なのに明るく見えた。
皆が歓喜の声を上げ、我先にと外へ飛び出す。細かい事はどうでもよかった。
私たちは助かった。
遠野クンが助けてくれた。
それだけでもう十分だった。それ以上はきっと私の頭がパンクしてしまう。
わらわらと出ていく女子部員を眺めながら、なんでもない事のように佇む彼に、私はお礼を言おうと近づいた。
「あの……」
言葉が上手く出てこない。そういえば喉もカラカラだった。上手く回らない舌を懸命に動かし、何とか感謝の気持ちを伝えようとするも、言葉は詰まって出てこなかった。
すると、私に気が付いたらしい遠野クンがこちらにやってきて、微笑んだ。
「寒かっただろ。早く家に帰ってあったかいお風呂に入るといいよ」
「えっ、あの私……」
「ご両親も心配してる。寄り道せずに帰るんだよ」
自分の言いたい事だけ言うと、話は済んだと言うように、遠野クンは背中を向けて、白い息を吐きながら去って行った。
私は彼の消えた方角をしばらくぼうっと眺めていた。
「――っていうのが私と遠野クンの馴れ初めなんですけど……。あれ、秋葉さん? シオン? どうしたのそんな顔して?」
さつきが思い出話を語り終えると二人は――微妙な顔をしていた。
秋葉は腕を組んで、複雑そうに眉根を寄せ、何か考え込んでいる。
シオンは薄く目を閉じ、何かに呆れるように天井を仰いだ。
「くっ、何それ羨ましい……! そんな一生忘れられないような甘酸っぱいエピソードなど私には一つも……っ!」
「ええ? 確かに絶対忘れられないけれど甘酸っぱいかなあ? それに遠野クンは多分……」
「はい、恐らくさつきの事をクラスメイトだと認識すらしていなかったと思われます」
「あっ、シオンもやっぱりそう思う? そうだよね……遠野クンってそういうところあるもんね……。高校のクラスで一緒になったとき、『初めまして』なんて言ってきたんだよ……?」
「やはり志貴は心の機微にまったくもって愚鈍です」
「それについては完全同意いたします」
さつきは肩を落とし、秋葉は嫉妬を表情から消して同情の念を浮かべた。やはり彼女は自分と似ていると思った。
自分と似た人間を前にした時、ヒトがとる行動は二つに一つ。
徹底的に嫌うか、好きになるかのどちらか。
秋葉にとっては自分から兄を奪おうとする輩など殺しても許さない。しかし、この二人はどうか。
己の本心を素直に告げられず、いくつもの仮面で周囲を欺き己の弱さに嘆く者。
絶望的な状況ながらも、諦め悪く困難に立ち向かおうとする者。
秋葉はしばし無言で二人を眺めると、やがて観念したように湯船から立ち上がる。
「分かりました。お二人は事が終わるまで、いいえ気のすむまで屋敷に居てくださって結構です。私もお二人に協力します」
秋葉の言葉にさつきは驚き、シオンもどういった心境の変化か、と目を丸くしていた。
「それは嬉しいけど本当にいいの? 私たち……だよ?」
さつきはあえて言葉を濁すが、秋葉は笑う。
「ご心配なく、私も似たようなものです。それに――」
「それに?」
女王様じみた悠然としたポーズをとる秋葉。
「それにお二人は何だか仲良くなれそうな気がします。低脳吸血鬼やカレー臭い法衣女よりよほど」
それだけ言うと、ザバリ、と秋葉は湯船から上がり、出ていきそうになる。無駄のないプロポーションと、そこからしたたり落ちる雫が何とも美しい。
その魅惑的なヒップにかかる黒髪と、そこに隠された白い背中に同姓のさつきですら唾を飲みそうだった。
秋葉は浴室の扉に手をかけ、振り向いた。
「ですがこれだけは肝に銘じておいてください。兄さんに何かあったら絶対に許さないと」
秋葉はそう言い残し、扉を静かに閉めて去って行った。何やら話声がするので、琥珀か翡翠のどちらかが待っていたのかもしれない。
残された二人は、示し合わせたように顔を合わせ。
「愛されてるねえ、遠野クン」
「ええ、とても。さつき、あなたの恋路はとてつもない茨道のようですよ」
「うう、頑張ります……」
ここが風呂場で本当に良かったとさつきは思う、頬を伝うしょっぱいものは、きっと汗だと誤魔化す事が出来たのだから。