【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ 作:風海草一郎
寒くて痛くて不安で苦しくて独りぼっち。
夜の街は冷たく、無口な他人は流れるだけで、私は群衆に埋もれる誰か。
ふらりと入った路地裏で膝を抱え、私は独りじっと耐えていた。
ずっと弱い自分が嫌いだった。
私は器用な子だった。相手の求めるままに仮面を作り変え、その人の望む事をしていればいつの間にかクラスのアイドルなんて呼ばれるようになった。
だけどそれは弱い私を隠すための嘘、幻想、擬態だ。
両親も学校も、自分を閉じ込める社会のルールも何もかも面倒で鬱陶しい煩わしい。
いっそ全部無くなってしまえ。
そう思っていたら本当に無くなってしまった。
そこで私はようやく気付いた。
あれほどやかましかった社会のルールも、お節介に過ぎる両親も、みんなみんな弱い私を守っていたという事に。
常識、と呼ばれる枠組みの中で、普通、というレールに乗っている事がどれだけ奇跡的な事なのか、馬鹿な私はすべてを失わなければ気が付けなかった。
ちっちっち、と小さなネズミが目の前を走る。私は常人離れした動きでそれをなんなく捕獲し、ぞぶり、と歯を立てる。
油や泥で薄汚れた毛が舌に触れ、ドブのような異臭が鼻をつくが、もう慣れっこだ。少し歯に力を込めて、血で喉を潤す。
「ん……」
ぷはあ、と息をついてさつきはようやく一息ついた。これで少しはましになるだろう。
火傷に唾を塗るような、何の解決にもならない一時の気休め。それでも、確かに抑えた。
「吸うもんか。絶対に吸うもんか」
さつきはねずみをアスファルトに放り投げるとよろよろと立ち上がり、ごみ箱を漁ろうとする。
――足りない。
――足りない足りない足りない足りない足りない足りない、圧倒的に足りない!
ー何が?
愚問に過ぎる。
私はとっくに壊れてて、人の尊厳なんて微塵も残っていなくて、私ですら上手く言えないひどく曖昧な一線をぎりぎりのところで踏みとどまっている。
それでも、それでも私はその一線を守り続ける。
日々壊れていく私の心が恐い。もう、ネズミや犬猫の血で誤魔化すのも難しい。
私が私でいられるのは一体、あとどれくらいなのか。
「――志貴クン」
無意識に最も信頼できるひとの名前が零れた。
「――志貴クン、志貴クン、志貴クン」
会いたい。彼に会いたい。
ピンチの時は助けると、彼は言った。
他愛の無い口約束。だけど、志貴クンなら何とかしてくれそうな気がした。
――ドクン!
彼の顔を思い出した時、私の心臓は一際強く跳ね上がった。彼の優し気な目元が、屈託の無い笑顔が、ふとした時に見せる優し気な表情が、コマ送りのように脳内へ映し出される。
――破裂する!
身体の中から、小さな火種が爆発し誘爆し、内部から崩壊していくような激痛。胸を掻き毟り、のどを絞めて抗うも、湧き上がる衝動は全く怯む気配はなく、むしろ勢いを増す。
「うぐあああああっ! があああああああっ!」
ガンガン! と手足をむやみやたらにバタつかせ、コンクリートの外壁を、アスファルトの地面をえぐり、破壊する。
――痛い。
――痛い痛い。
――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いなんてものではない!
とたん、酸っぱいものがこみ上げて、げえげえ吐いた。今朝がた口に入れた、半消化体の残飯がぶちまけられる。
頭蓋へ直接電極を打ち込まれ、高圧電流でショートさせられた脳は割れるように痛む。
激痛をこらえながらのたうちまわり、吐瀉物を全身に隈なく塗りたくるとようやく衝動はおさまった。
痛くて寒くて情けない。こんな醜態を晒してまで生きている意味があるのか。
涙を零しながらも、私は立ち上がる。
暴れ過ぎた、あれだけ騒げばいかに人気の無い路地裏といえど、人が来る可能性がある。そう思った矢先に、
「――君、こんなところで何をしているんだい」
最悪な場面にその人は現れた。
年の若いサラリーマン風の人は、汚れた私の格好を見て、心配そうにこちらを見ていた。
何でもないです、と私は言おうとして彼の顔を視界に収める。
「――――あ」
それがいけなかった。
彼は平凡な顔立ちだった。短く切りそろえた短髪で黒縁眼鏡からは優し気な瞳が覗いている。
そして何より。
――志貴クンにどこか似ていた。
「――――――――――――」
考えるより先に体が動いていた。彼が恐怖を浮かべるより早く、私の身体は動き出し、喉笛に喰らいつこうとして。
――ピン、と全ての自由を奪われたのだ。
まるで体が何かに縛り付けられたかのように動かず、吸血鬼の膂力をもってしても動かない。サラリーマン風の彼は、私の異変を察したものの、私への恐怖心が勝ったらしく、一目散に逃げ出した。
代わりに、一つの人影が現れ、ネオンの毒々しい光に照らし出された。
最初は黒ずくめかと思ったが違った。夜では分かりにくいが、全身紫で随分と目立つ格好だ。エキゾチックな香りのする彼女は腕を振るう。
「それ以上いけません。あなたはそちら側へ行ってはいけない」
それが私とシオンの出会いだった。
私たちは色々な事を話し合った。自分の過去や境遇、いかにして吸血鬼になったのか。
本音を言うと、錬金術や魔術などシオンの取り巻く環境の事を完全に理解しているわけじゃない。それでも、私と同じような立場で同じ苦しみや悲しみを分かち合える友達が出来たのが嬉しかった。
シオンは色々と教えてくれた。私よりずっと長く、吸血衝動と闘ってきたらしく、何とか吸血衝動を誤魔化す方法や、人に見られず行える街での生き延び方もシオンから学んだ。
シオンと過ごした日々を思い出していく中で、私はこれが夢なのだと気が付いた。
これは吸血鬼と化した私とシオンの思い出。あの時シオンがいなければ、私はとっくに一線を越えていた。
私はまだ大丈夫、私はまだ――
その時、私の世界はぐにゃりと歪んだ。
テレビの砂嵐じみたノイズがいっぱいに広がり、足元が溶けて奈落に落ちていくような感覚。感覚はひどく頼りなく、夢の中で夢を見るよう。
瞬間、視界がクリアになった。
舞台は同じ路地裏。空には満天の星空。吹き抜ける夜気。
ただ一つ違うのは、
私が、人間の血を吸っていたというコトだけだった。
首筋に吸い付いた唇から、艶めかしく濃厚な鮮血が喉を流れ、それに反比例するように人間からは体温が消えていった。
よく見れば、その人はさっき逃げて行ったサラリーマン風の男だった。
口を離し、名残惜しそうに私は口元の血を袖で拭う。
私は恍惚の表情を浮かべ、薄く微笑む。
無造作に投げ捨てた人間は、灰となって風に流され消えていった。素質が無かったのだろう。今夜は外ればかりだ。
一息入れようと、さつきはアスファルトに腰を下ろすと、びしゃりとスカートが濡れた。
スカートを濡らしていたのは血液だった。
その赤黒い液体は地面一杯に広がり、周囲の壁も血飛沫が飛び散り悪趣味な現代アートのようだった。
見渡せばそこは一つの地獄だった。手足を無造作にもぎ取られ、脳漿をぶちまけ、首を捩じ切られ、十人十色の殺され方をしている。
――これは私がやったのだろうか?
――当然だ。他に誰がいる。
内なる私が律儀に答える。
そして私はくつくつと肩を震わせた。
――ああ、なんだ
――私はとっくに――
〇
「――うぐあうっ!?」
叫びと共にさつきはベッドから跳ね起きた。はあはあと荒い呼吸を繰り返し、両手を見る。綺麗な手だった。血の残り香も無い、見た目だけなら何の変哲も無い少女の手だ。
「はあ……」
安堵の息とともに、ぐっしょりと全身が濡れているのに気付いた。翡翠と名乗るメイドさんが用意してくれた寝間着は汗を吸い、ずっしりと重い。
「またあの夢かあ……」
元から吸血衝動を無理矢理抑えているだけに、先程のような夢を見る事はたびたびあった。しかし、ここ最近頻度が上がっている。
ちらり、とさつきはベッド脇のテーブルに置かれた血液パックに視線を投げる。
秋葉から「どうしても我慢出来なくなったら」と渡されたものだ。
シオン曰く、死徒は肉体の崩壊を防ぐだけなら200ml程度必要だと計算していた。
視線の先にあるのはきっちり200ml。シオンの計算が正しければあれでしばらくしのげるだろう。
震える手を伸ばしかけ、やめた。
さつきは後悔を断ち切るように、部屋を後にした。
ジャーと水道から出される水をコップになみなみ注ぎ、さつきは一息に飲み干した。
冷水の清涼さが内臓から冷やしてくれるようで、少しだけ落ち着いた。
コップを流し台に置くと、部屋にもどろうとした時、目の前に志貴が現れた。
「弓塚さん。起きてたんだ」
やあ、と軽く片手を上げる志貴は寝間着で、さつきは中々見られない志貴の姿にどきりとした。志貴は戸棚からコップを取り出し、さつきと同じように水を汲んだ。
「こんな時間にどうしたの? あっ、俺と同じか。そうだよね。他にキッチンへ用は無いもんな。つまみ食いなんて考えるのは俺くらいだろうし。というか秋葉や琥珀さんに起こられるもんな」
すでに流しに置かれていたコップを見つけた志貴は、苦笑しながら水を口に含む。
ごちそうさま、と誰も居ないのに律儀に礼を言う志貴が何だかおかしくて、さつきは暖かくなった。
「それじゃ、俺はもう部屋に戻るよ。弓塚さんも速く戻った方がいい」
「ええっ、あっ、う、うん……」
さつきは早々に立ち去ろうとした志貴だが、さつきの脳裏に一つの考えが浮かんだ。
これは二人きりで話すチャンスなのでは?
そう思った瞬間、さつきは志貴の寝間着の裾を掴んでいた。
「も、もうちょっと話そうよ遠野クン! せっかく偶然会えたんだし!! このまま寝るなんてすごく勿体ないよ!!」
「そう? それなら少し話そうか」
志貴はさつきの勢いに押され、テーブルに備えられた適当なイスに腰を下ろした。さつきもそれに倣い、対面するかたちで着席する。
それじゃ何から話そうか、と気軽に志貴は笑い、さつきは浮足立っていた。
いざ何かを話そうとすると、咄嗟に話題など思い浮かばない。
「遠野クンは何かご趣味は!?」
盛り上がらないお見合いで無理矢理話題を探すようになってしまった。当の志貴も戸惑いながらも律儀に答えた。
「趣味は……しいて言うならナイフ集めかな。ナイフの鋭い刃先とは光を鈍く反射する輝きとかちょっと興奮する」
「ナイフ集め! うんうん、すごくいいと思うよそれ!」
志貴の異常性の片鱗が垣間見えるセリフも、興奮したさつきにはさしたる問題ではない。むしろ、ナイフを恍惚とした表情で眺める志貴クンも素敵! と妄想に拍車がかかっていた。
テーブルの上で組んだ指をもじもじとさせながら、さつきは拙くも次々と話題を振った。
それは他愛の無い、毒にも薬にもならぬ話ではあったけれど、さつきが志貴と同じ学び舎で過ごした日々のように眩しい時間だった。
そしてさつきは本題に入る。
「その遠野クン、突然なんだけどさ、……覚えてる? 私たちがまだ中学二年生だったころに体育倉庫に閉じ込められたのを遠野クンが助けてくれた事」
「え? そんなことあったっけ?」
志貴は記憶の糸を手繰るように首を傾げた後、一考するが、海馬でのサルベージ結果はあまり芳しくないようだ。閉じた瞼にしわが寄るも答えが出ない。
さつきは志貴のそんな態度に相好を崩し、思わず吹き出してしまった。
「ぷっ……! あははははははははははははははは!」
「なっ、何だよそんな大笑いして。俺、何かおかしな事言ったっけ?」
「ううん。遠野クンらしくていいなって思っただけ。そうだよね、遠野クンにとっては何でもない事だよね。それって、とってもすごい事なんだよ」
「ご、ごめん。本当にわからないんだ」
「いいのいいの」
さつきは顔の前で手を振って、目端に滲んだ涙を指で救う。
少しだけ悲しかったが、喜びのほうが勝っていた。
――そうだった。私はこんな人だから好きになったんだ。
決して目立つ風貌ではないけれど、いざという時に何でもないように現れ、飄々と去って行く風のようなヒト。
「わたしね、こうやって遠野クンとこうして話せたらいいなって、ずっと思ってたんだ」
「……何言ってるんだ。話なんてこれからいつでも出来るだろ」
「……うん、だよね。私は吸血鬼なんてものになっちゃったけど、これが治ったらまた学校で話せるかもね。あ、でも私はもう退学になっちゃってるか」
「……」
志貴は空席になった机を思い出し、顔を曇らせる。教室の一番左の窓際、そこが彼女の席だった。
主を失った小さな城は所在なさげに佇み、風を孕んだカーテンはその上をそっと撫でるだけ。ぽっかりと開いた穴は、どうしようもなく彼女の不在を物語っていた。
志貴の陰鬱な表情とは裏腹にさつきの表情は晴れやかだ。憑き物が落ちたように両手でガッツポーズをした。
「だいじょーぶだよ! 私はまだ生きてるんだから。退学くらい、吸血鬼になっちゃった事に比べたら全然平気! 私には心強い友達も出来たし、遠野クンにだってまた会えたもん!」
さつきは仮面ではなく、巣の笑顔で本心から口にした。
言葉は空元気でも、それはいつか必ず本当になる気がした。
――私は弱い。ただ、要領が良かっただけだ。
臆病者が小利口に立ち回ってきただけで回りに勘違いされてきただけだ。
――それでも私にはこんな弱い私を助けてくれる人がいる。
それだけでさつきは幸せだった。
じんわりと胸の奥が暖かくなり、さつきは立ち上がる。時計の短針は二時を過ぎている。そろそろベッドに戻らなければさつきはともかく志貴には差し障りが出るだろう。
「そろそろお開きにしよっか。付き合ってくれてありがとう遠野クン。また、こうやって話していいかな」
「俺で良ければよろこんで」
即答する志貴にさつきは笑い、志貴は立ち去ろうとする。先に部屋に戻ろうとする志貴の後ろ姿をさつきは見送る。
そこで、さつきの視線は一点に吸い込まれる。
短く切り揃えられた髪と寝間着の間にある、やや色白な首筋。
――どくん。
「――――――――――――――――――ッ」
さつきは咄嗟に目を逸らし、口元を抑えて顔を伏せる。
荒く漏れそうになる息を押し殺し、小さく腹式呼吸。
落ち着け、落ち着け、おちつけ、オチツケ。
ひゅう、ひゅう、と指先から小さく音が漏れる。気付かれたか、とさつきが上目遣いに志貴のいた方向を見ると、幸いにも志貴は姿を消していた。
さつきは安堵の息を吐くと、かぶりを振った。
ようやく、最近はこれといった吸血衝動も無かったのに。
今夜はおかしい、志貴とその他の人では滾る激情が桁違いに大きい。
私は彼が欲しいのだ。異性を欲し、まぐわい合うは生命としての定め。それが性交ではなく吸血という行為にすり替えられたのが『吸血鬼』と呼ばれる生命体だ。
そこでさつきは一つの重大な解に至る。
つまり吸血衝動は。
――意中の相手への想いが募るほど大きくなるのだと。
〇
「上手くいったようですねさつき。やはりあなたはやれば出来る子です」
「過保護ですねシオン。まあ、私も人の事は言えませんが」
渡り廊下を潜り抜け、あてがわれた部屋に向かうさつきを眺めながら、シオンは微笑み、秋葉は唇を尖らせた。秋葉は薄いネグリジェでシオンも貸し出された色違いのお揃いだ。
もしさつきが志貴を襲おうものなら、一片の慈悲もなく殺害するつもりだった秋葉はシオンを薄く睨む。
「で、聡明なあなたの事ですから何か保険はかけていたのでしょうが、そのエーテライトとやらを刺せば吸血衝動を抑えられるんですか?」
秋葉の質問にシオンはまさか、と首を横に振った。
「それで抑えられるのならばとっくにやっています。エーテライトに出来るのは神経へのハッキングによる行動の制限や操作、後は思考を読み取るだけです。さつきは志貴を襲いたい気持ちをきちんと自分でコントロール出来ていました」
「……ちょっと待ってシオン。思考が読めるですって?」
「はい、そう言いましたが」
「じゃあ、あなたは兄さんの思考も読めるっていうの?」
「造作もありません」
シオンは努めて冷静に、淡々と答えるが秋葉には何か背徳的な欲求が沸き上がっていた。
――もしそれを私が使えるようになれば、兄さんのあんな事やそんな事が……
秋葉はしばし黙考し、がしりとシオンの手を掴んだ。
その双眸は新しいオモチャを買い与えられた子供と、生贄を前にした悪魔が混在するような綺麗に濁った瞳だった。
「シオン、そのエーテライトの使い方をご教授してくださらない? 出来れば明日からでも」
「……何やら不穏な事を考えているようですが、対価としてはお安い御用です。志貴にもいい薬になるでしょうし」
シオンはポケットからエーテライトを取り出すと、秋葉に手渡した。秋葉は興奮さめやらぬようで、軽く鼻歌を歌いながら、自室へ戻っていった。
志貴はまた秋葉に逆らえなくなる要素が一つ増えた事を知るのは、少し後のお話であった。