【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ 作:風海草一郎
揺れ動くカーテンから漏れた朝日が瞼越しに目を焦がす。心地良い日差しがまた一日が始まった事を告げていた。
手をもぞもぞと枕元を這わせると固い感触。わたしははそれを掴んで顔に掛けると、ぼやけた視界がクリーンになった。
ベッドから起き上がり、うーんと背伸びをする。血液の循環が良くなり寝惚けた身体をすっきりさせる。窓から下の道を見下ろすと、朝練に向かうらしい中学生くらいの男の子が元気よく登校している。窓際に飛んできた小鳥に挨拶を交わすと、鼻腔をくすぐる芳醇な香りに気が付いた。
ターメリック、ローレル、カルダモン、ベイリーフ、ナツメグ。香辛料のオーケストラが生む絶妙なハーモニーはシエルの食欲をそそる。
キッチンへ視線を投げると、見慣れた後ろ姿が飛び込んできた。中肉中背ながらも引き締まった身体。短く切り揃えられた髪と耳にかかった眼鏡をかけた少年、志貴くんだ。
そう、わたしは高飛車妹と低脳金髪を押しのけ、志貴くんをゲットし、なんと同棲を始めていた。
「――おはようシエル。カレー、もう出来てるよ」
振り返ると彼の眩しい笑顔が私の心に暖かさを染み込ませてくれる。
「おはようございます、志貴くん。良い匂いですね。スパイスを変えました?」
「さっすが俺のシエル。違いが分かる女っていいと思うよ」
「こーらっ、生意気ですよっ」
人差指をたてて「めっ」とアピール。いくら恋人同士とはいえ、私のほうが年上なのだ。彼のやんちゃなところも可愛らしいけれど、それはそれ。甘えつつ、甘やかし過ぎないのがちょうどいい塩梅なのです。
テーブルに座ると、彼が湯気のたちこめる皿を持ってきてくれた。カレースープにポークカレー、カレーうどんとバランスの良いメニュー。さらに口直しのカレーサイダーまで用意しているのだから完璧に私の好みを把握してくれている。
私はスプーンでカレーをひとすくいして口へ運ぶ。香辛料の弾けるような辛みと、溶け込んだ人参と玉ねぎが甘さをくれる。舌の上いっぱいに広がる幸せをわたしは噛みしめた。
そこで、志貴くんが笑ってくれているのに気付く。何だか私は気恥ずかしくなって、スプーンを置いた。
「な、なんですか志貴くん。人の顔をまじまじと見つめて」
「はは、ごめんごめん。俺さ、シエルの幸せそうにカレーを食べている顔って好きなんだ」
「もう! そういうところが生意気だっていうんです」
わたしは顔をプイと背けてふくれっ面を作る。我ながらあざとい仕草だとは思うけれど、彼はそんなところを含めて自分を愛してくれるだろう。彼の無意識に出てくる歯の浮くようなセリフにはこうでもしないと対抗できないのだから。
志貴くんは柔らかな微笑みを浮かべながら、私の置いたスプーンを持つとカレーをすくう。そして私の顔に近づけてきた。
「シエル、あーん」
「…………」
わたしはスプーンをちらりと見ても、すぐには振り向かなかった。年上のお姉さんであるところを見せなくっちゃ。
「あーん」
「…………」
「……シエル?」
私の態度が本当に不機嫌に映ってしまったのか、志貴くんは不安そうな表情になる。
……卑怯だ。
彼は普段ひょうひょうとしているくせに、こうして時折、捨てられた子犬のような表情を見せる。私はこの顔に弱いのだ。
振り向きざまにぱくりとスプーンを加えた。ただし、恥ずかしいので目をつむったまま。
もぐもぐと咀嚼する。悔しいが美味しい。このこみ上げる多幸感はカレーのおかげだけではないだろう。
わたしは照れ隠しにコホンと咳払いして礼を述べる。
「……ありがとうございます志貴くん。カレーはとってもおいしいです」
「あらあん嬉しいわ。私のカレー修行もついに実を結んだのねえん!」
「…………………………………………んん?」
シエルはゴキリ、とスプーンを噛んだ。歯と金属が強引に噛み合い、鈍い痛みが止まった思考を動かす。
ひたひたと現実が徐々に近づいてくる足音がする。嫌だ、わたしはまだこの都合のいい夢に溺れていたい。今のはきっと、代行者の激務がたたって聞こえた幻聴だ。
恐る恐る瞼を開くと、悪夢がそこにいた。
色黒の肌に筋骨隆々の暑苦しい身体。威厳ある蓄えられた口ひげも、オネェ言葉のおかげで台無しだ。その顔には見覚えがある。私をカレー狂いにした死徒、キルシュタインだ。いつの間にか、最愛のヒトは筋肉の塊に変貌していた。
「やっとお目覚め? シエル。そろそろお目覚めの時よおん」
「嫌です!」
わたしは力いっぱい叫ぶんで、席を立とうとするが丸太のような腕に阻まれる。彼は私に馬乗りになると怪しく瞳をぎらつかせる。
「まあまあ、聞いてよシエル。やっと自分が納得できるカレーを作り上げたの。これは是非ともあなたに食べて欲しくてこんなところまでお邪魔しちゃったのよお」
「それならば現実でやってください! どうして! どうしてわたしは夢の中ですら幸せを許されないのですか!?」
「うーん? 私は上手く言えないけれど、しいて言うなら……『だってシエルだし?』」
「ガラムマッサラアアアアアアアアア(超ムカツクゥゥゥゥゥ)!!」
キルシュタインは嘆きの咆哮を挙げる私の口腔にカレーを突っ込んできた。もうだめだ、薄れる意識の中で私は思う。ああ、わたしはいつだって
貧乏くじばっかりだ――
〇
顔に叩きつけられる衝撃と冷たさに神経が刺激される。脳内に立ち込めていた濃霧は強引に晴らされ強制的に意識を覚醒させられる。ビクリ、と反射的に体を震わせたシエルはゆっくりと目を開けた。
見れば志貴はバケツをかつぎ、仰向けに倒れたシエルの顔を覗き込んでいる。
「先輩! よかった気が付いたんだな!? 『究極のカレーは私が完成させます!』とかうわ言で言い出した時はいったいどうしようかと思ったぞ!!」
「遠野ク――ン! アレあったよ――!」
シエルがむくりと起き上がると、さつきがアイロンのような形をした救急救命道具――AEDを持って走ってきた。
シエルは腹部に手を当てると、損傷はほとんど直っているのを確認する。どうやら無意識のうちに魔術を行使して傷を塞いでいたらしい。あの男の知識に助けられるのは癪だが背に腹は代えられない。
何度も水をかけられたのだろう、濡れ鼠になったシエルは足元の水たまりを見ると嘆息し、AEDを押し付けてこようとするさつきを手で制した。
気を取り直したように側で立っていたシオンに向き直る。
「シオン・エルトナム・アトラシア。あなたの事は彼に任せるとしましょう。これ以上、あなたがたに関わって、本業が滞るのも馬鹿らしい。能力の向上しているあなたに死徒や遠野クンが加わっては勝算は薄いようです」
「……では見逃すと? 教会は殺人集団とお聞きしておりましたが」
「勘違いなさらないでください。あくまで優先順位の問題です。私の最優先はあくまで死徒狩り。今は教会から正式に指令の出された死徒を優先させるまでです。」
「ではあなたも噂の吸血鬼を捜しているのですか!? それならば……!」
「ええ、あなたの計算通りですよ錬金術師。タタリは近日中に姿を現すでしょう」
「……!!」
シエルの言葉をシオンを驚倒させた。シオンは呼吸も忘れる程に動揺し、全身を震わせる。教会が観測した。ならば確実にアレは現れる。
シオンの記憶から去来するは、血の涙を流し続ける悪夢。
肩を抱き、小刻みに震えるシオンに、シエルは続ける。
「あなたの気持ちは分からなくもないですが……死徒狩りは教会の役割。でしゃばるのはやめなさい。ヤツは私が責任を持って処理します。今の私は雑事にかまけている暇は無いのです」
「あの、どうしてそこで私を見るんですか?」
さつきの言葉を無視してシエルは残っていた街灯の上にジャンプした。
シエルは両手を後ろで組んで、学校で見せるような包みこむ笑顔を浮かべる。
「そういうわけですから遠野くん。彼女の事は頼みましたよ。あなたのほうから彼女たちに関わったのですから。途中で放り出したらそれこそ許しませんよ」
「……了解、先輩。こうなったらとことん付き合うさ」
志貴は力強く頷くと、任せろ、と言うように胸を叩いた。
「それを聞いて安心しました。――それとなんでこうなったか、詳しいお話は事が終わってからじ~っくりと聞かせてもらいます」
「え? あ? うわあぁぁ」
志貴の決意がかなり揺らいだ。今、先輩が浮かべる笑顔は、補習を知らせた時の秋葉の笑顔と同類なのだと志貴は思い知った。
シエルは一際強く跳躍すると、あっという間に濃い闇の中へと消えていった。
嵐が過ぎ去った公園は、木々がほとんどなぎ倒され凄惨な状況となっていた。シオンは代行者が大人しく引き下がった事に驚いた様子で口を開く。
「代行者はよほど志貴を警戒しているようですね。先ほどの戦闘でも、志貴との近接戦闘だけは頑なに避けているように見受けられましたし……。まあ、ともまれ予測していた最大の障害は排除できましたし……志貴?」
「……なあシオン。さっき先輩が言っていた事って」
「……どのことでしょう?」
「全部だよシオン! あのDNA鑑定や指名手配の事もそうだし、それにシオンは何だか噂の吸血鬼について知っているんじゃないの!?」
さつきが志貴の疑問を代弁するが、シオンは拍子抜けたようだった。
「ああ……何かと思えばそんな事ですか?」
「そんなって……。なんでそんな大事な事を教えてくれないのシオン。私と一緒にいたときだってそんな話は一言も言ってくれなかったじゃない。」
自身の目的どころか素性まで疑われるような状況になりながら、シオンはまるで意に介していない。算数の問題を子供に聞かれた親の方がまだ悩むだろう。
志貴とさつきの非難を込めた視線を浴び、シオンはばつが悪そうに口を開いた。
「私は話す必要が無いから話さなかっただけなのですが……。確かに私のミスだと認めます。まさか教会まで私を追ってきたのは予想外でした」
「……シオン、君は何者なんだい先輩が本気で襲ってくる事なんて――」
志貴の脳裏に穏やかなシエルの笑顔が浮かび、数珠繋ぎのように先輩との思い出がフィードバックする。
シエルの家で勉強を教えてもらっていた時に、ちょっかいをかけにきたアルクェイドに第七聖典をぶっぱなす先輩。
登校時に通学路で待ち伏せをしていたアルクェイドに黒鍵を投げつける先輩。
先輩と先に約束していたけれど、断り切れずにアルクェイドと映画を見に行った夜、帰宅途中で斬りかかってきた先輩。
「……しょっちゅうあるけど、理由も無しに襲うような人じゃないぞ。何かしているのならばちゃんと言ってくれないと困る」
「そうだよシオン。どうしてわたしだって困るよ」
「……困る? 志貴とさつきが? どうして……? それは必要不可欠な要素なのですか?」
理解出来ない。という風に目を丸くするシオン。とぼけているのではなく、本気でこちらの意図を汲めていないようだった。
志貴はポケットに手を突っ込み、少しだけ気を落としたように告げる。
「……俺はシオンの事を仲間だと思っている。必要かどうかじゃなくて、仲間として必要な事だと思うんだ」
「うん。私もシオンの事は吸血鬼になっちゃってから出来た唯一の友達だと思っているよ。友達だから全部話して欲しいとは言わないけれど、出来れば隠し事はしないで欲しいなあって思うの」
「仲間……。友達……」
シオンは人差指を口元にあて、黙り込んだ。初めての感情を噛みしめるように二人の言葉を胸中で反芻する。
シオンはしばらく逡巡し、そして意を決したように語り始めた。
アトラス院。
それは不可侵の腫物。
私たちは何もしない何も成し得ない。
ただ穴に籠り各々が至高と考える物事を作る事に専念している。
そんな学院のただ一つの戒律。
いかなる禁忌をも許すが創造の開放を禁ずる。
自己の成した成果は自己にのみ公開する。
それがアトラスの唯一にして絶対の規律。
「ですが私はその禁を犯しました。アトラスで穴熊をきめていては決して辿り着けないと判断した私は、魔術協会や教会を始めとした多くの機関を訪れたのです」
「もしかしてシオン、自分の研究結果と吸血鬼の情報を交換していったの?」
「おっしゃる通りですさつき。私も錬金術師にあるまじき行為だとは思います。ですが私にはアトラスの規律より自分の疑問を晴らすほうが優先でした」
「それが吸血鬼化の治療法を見つけるってことなのか?」
志貴の言葉にシオンは頷く。
「そうです。死徒とは不老不死――それを人間は求め、不完全ながらも可能にしながらも、それを禁忌として避ける人間の思考回路。なぜ自分自身に疑問を持つのか、という疑問が私の枷です」
シオンの物言いは理知的なようでいて、ときおり婉曲な表現で分かりづらい。真っ直ぐでいて歪曲に紡がれるセリフは理解出来ない部分が多々ある。
「いずれにせよ、私が追われているのはアトラス院の教えに背いているからです。志貴やさつきは犯罪者に加担しているわけではないので安心してください。信じなさい。私は志貴たちが嫌悪するような事はしていない」
「や、まあシオンが悪い事をしているなんてこれっぽっちも思っていないけど……」
さつきは顔の前で手を振ると、杞憂だと否定する。もともと、志貴はともかく自分のような新米吸血鬼に接触するメリットがあるとは思えないとさつきは言った。その言に志貴も追従する。
「俺もそう思う。……シオンの事は信じるよ」
「それは良かった」
なぜか得意げな表情を浮かべるシオンに、さつきと志貴はなごやかな気分になった。
しかし、まだ疑問は二つある。
「シオンの事は信じるけれど、先輩が言っていた『タタリ』って噂の吸血鬼の事だろ? 君はその事を知っているみたいだったし、どうも雰囲気からしてシオンも無関係だとは思えないだが」
「モチロン、シキニタノマレテジョウホウヲアツメテイマス」
昭和のアニメに出てくるロボットのように、カタコトで話すシオン。明らかに動揺している。
じぃっと志貴はシオンを見つめ、次の言葉を待つ。シオンは最初、貝のように口を閉じていたが、やがてマシンガンのように言葉を弾丸のように繰り出した。
「し、知りません! 私には一切合切完璧に完全に、まったくもってこれっぽっちも関わりなどありません!! ええ! なぜこの私が取るに足らない吸血鬼騒ぎに関わらないといけないのですか!!」
これが漫画的表現ならば間違いなく火を噴いていただろうな、とさつきは傍から見ていてどうでもいい感想を抱いた。シオンは自分が思っているほど冷静ではないのに気付いているのだろうか。
「うわあ、取るに足らないってひどいな」
「あいえ、そういう意味では無くて。噂が確定されていない以上、犠牲者も出ていません。私としては犠牲者が出る前に辿り着けたのは僥倖です。犠牲者が出てからでは遅いのです志貴。いいですか、吸血鬼が再来したという噂自体は無視してはいけない始まりで――」
「シオン、君さ。アルクェイドに用があって来たんじゃないのか?」
「あっ……それは、その……」
シオンはハッとした表情を作り、頬を朱色に染める。失言だ、と気付いた時にはもう遅い。唖然としたさつきと、じっとりとした視線を向ける志貴を前にして、シオンの語調は尻すぼみに小さくなっていく。プルプルと震えた後、誤魔化すように顔を上げて再び火を噴いた。
「そうだと最初から言っているではないですか! そこでたまたま私とは無関係の死徒が現れて、それがたまたま私の知っている死徒だったというだけでしょう!?」
無茶苦茶だった。もはや理屈は何一つ通っていない、完全な感情論だ。いたずらを咎められた子供のほうがまだマシな嘘をつく。
シオンはぶつぶつと何か言っていたが、志貴は肩を竦めると天を仰いだ。
思えば、最初から事情を全て話してくれる人の方が珍しかった。彼女が何か隠している事は明白であるが、少なくとも悪意があるようだ。
「ま、いっか」
「……何がいいのですか」
志貴がやれやれといったポーズをとった事が癇に障ったのか、やや上目遣いに睨み付けるシオン。志貴はそれを苦笑いで軽くいなすと、眼鏡をブリッジを押し上げた。
「いや、何か色々と隠し事があるみたいだけど、悪い人間には見えないからいいかって思っただけさ。秘密はあっても悪意はなさそうだし。弓塚さんもそれでいいよね?」
「うん、話さないんじゃなくて話せないって感じだし、私もシオンを信じるよ。DNA鑑定の事は気になるけれど、私は捕まっちゃったシオンの方は知らないし」
「二人とも、その………………………………ありがとうございます」
「ん? 最後の方がよく聞こえなかったんだけど?」
「――――うるさいですよ志貴! さつきもニヤニヤしない!!」
シオンは烈火のごとく怒り、志貴はまた理不尽に怒られたと困惑。さつきはそんな二人の様子を見てのんきに笑っていた。
志貴はシオンから逃げ回り、シオンは何か理屈っぽい長台詞を吐きながら追いかける。口調と目つきは厳しいものの、口元が僅かに綻んでいる。
さつきは二人を眺め、同世代の友人との触れ合いのなつかしさに、自然と笑みをこぼし