【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ 作:風海草一郎
ぎしり、ぎしり、ぎしり。
みしり、みしり、みしり。
襲い来る激痛の前兆である頭蓋の軋みに、私は「また始まった」と鬱屈した想いで吐き気を催した。脳髄を容器に入れて直接シェイクされるような気持ち悪さと、電極を脳漿にぶち込んで電流を流されるような痛みが混じりあってわたしを苛む。
わたしはこれが始まると、夜が明けるまで必死に体を丸めて耐え続けるだけの芋虫になる。時折、手足を振り回してもがいたところで、痛みはちっとも軽くなってくれない。
奇声を上げる、自身の腕に噛みつく、頭を壁に叩き付ける。ナイフで腹部を刺してみる。
思いつく限りの自傷行為を試してみたが、恨めしいほどに頑丈な身体は、羽一枚分も痛みを軽くしてはくれなかった。
視界と思考がどす黒い紅で埋め尽くされる。
砕ける程に奥歯を噛みしめて、喉元までせり上がって来る衝動を必死に押しとどめようとする。
――なあ、もうよいではないか。
――うるさい黙れ。
私は自分を誘惑してくる声を怒鳴りつける。
――いつまで己を偽り続けるつもりなのだ。
――黙れ。
お前の甘言に耳など貸す者か
――お前のやっている事などただの欺瞞だ。
――黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!
ガン! という衝撃音で目が覚めた。右手で思いっきり何かを叩いてしまったらしい。
さつきは重苦しく目を開けて首だけ横に向けると、粉々に砕かれたナイトテーブルを見て、またやってしまったと自己嫌悪に陥る。
わたしの悪夢は昨日よりひどくなっていた。
夢をみる舞台は決まって路地裏。志貴くんによく似たヒトを襲いそうになって、シオンに止められる。そしてぬか喜びをして、また血を吸っているところで目が覚める。しかも、わたしが殺してしまった人の数はさらに増え、全身を無数の杭で貫かれ、粉々に砕かれるような痛みも酷くなる。
わたしはいまだ鈍痛のある頭を押さえ、そこで気が付いた。
――私の右手は赤く染まっていた。
「――――――――――ッッ!?」
指先からしたたる赤が、布団に点をつけるのを視認すると、わたしの心臓は飛び上がった。
なんで、という疑問と
いつから、という恐怖と
だれを、という後悔がわたしの頭の中をぐるぐると駆け巡った。
呼吸が荒い。調律の狂ったメトロノームのようにでたらめなリズムを刻む心音と呼吸は、完全に平静を失っていた。
震える指先を見つめるわたしは、きっと見るに堪えない顔をしているのだろう?
がちがちとした音は、わたしの歯の根が鳴る音なのだと遅れて気付いた。
ゴンゴン! ゴンゴンゴンゴン!
「さつき! 先程大きな音がしたのですが何があったのですか? さつき!?」
わたしを呼ぶシオンの声で我に返った。
わたしは「何でもないよ」と言おうたけれど、引き攣った喉は擦れた息が漏れるだけで声にならなかった。
「開けますよ!?」
エーテライトを使ったのか、シオンが鍵のかかった扉を開けて飛び込んできた。よほど慌てていたのか、部屋に入るなりベッドの上にまで登ってきた。
「シオン……」
わたしは赤く染まった右手を見せると、シオンは愕然となった。しかし、壊れたナイトテーブルを見ると、緊張を一気に弛緩させた。
「さつき……。よく見てください。それは輸血用の血液です」
「うん……?」
わたしは床に視線を落とすと、敗れて中身をぶちまけたビニル製のパックが転がっていた。そうえばナイトテーブルの上に置いておいたのをすっかり失念していた。
わたしは安堵の息を漏らすと、へなへなとへたり込んだ。シオンもようやく安心したように肩の力を抜いて、ベッド脇に腰掛けた。わたしもなんとなくそれに倣って、シオンの隣に座る。ベッドのシーツが血まみれだけど、もう今更変わらないだろう。メイドさんには申し訳ないけど、また明日取り換えてもらおう。
わたしはぷらぷらと足を揺らしながら、なんだかなあ、と呟いた。
「ねえ、シオン」
「何ですかさつき?」
わたしの暇つぶしにシオンは付き合ってくれるらしい。黙って耳を傾けてくれる。
「――何でわたしたち、こんなに苦しい思いまでして吸わないのかな」
「――――――――」
ここからでは顔は見えないけれど、シオンは息を呑んだような気がした。
「私たちは吸血鬼でさ、血を吸わないと存在出来ないよね」
「…………そうですね」
消え入るような声でシオンは答えた。どっかで読んだんだけどさ、とわたしは続ける。
「悪い事をしたら地獄に落ちるよね。例えば殺人や暴力、盗みとか。人は豚や魚を殺してそれを食べているけれど、それは生きていくためには仕方の無い罪。そういう罪は死んだ時の苦痛とか死に対する恐怖とかで償われるんだって」
「さつき、何が言いたいのです……?」
うん、だからね。と私は、今更な疑問を口にした。
「――どうして血を吸っちゃだめなのかな」
「――――それは……」
シオンは言葉に詰まり、やがて俯いた。
「どうして人の血を吸うのはだめなのかな? だって少なくともわたしたちの身体は吸血鬼で、生きていくためには絶対に必要な事だよ。他の生命から奪わなければ生きていけないのは私たちも人間も同じだよ? ねえ、一体何が違うのかな?」
「…………………………………………」
シオンは完全に黙り込んだ。膝の上で指を絡め、所在なさげに組み替えている。
しばらくの間、重苦しく停滞した時間が流れた。わたしたちは何度も口を開きかけては閉じるを繰り返し、顔を見合わせては背けた。
時計の秒針が揺れる音だけがBGMだった。ただいたずらに時の流れに身を任せても、事態は何一つ好転などしないだろう。わかっていても動けなかった。
どれほどそうしていただろうか。
「…………私たちが人間だからではないでしょうか」
絞り出すような悲痛な声だった。
シオンはぎゅっと唇を噛みしめると、口を開いた。
「上手く言えませんが、私たちがそう思うこと自体が人間である証拠なのだと考えます。確かにさつきの言う通り、私たちは人間の血なくしては存在出来ない不出来な生き物です。認めたくはありませんが、生きるために血を吸うのは吸血鬼としては何も間違っていないのでしょう。事実、私も吸血衝動を抑えるのに必死ですから」
自嘲気味に笑うシオン。よほど屈辱的なのか、固く握った拳は白くなっている。
「シオン……」
「ですがさつき、私たちの心は人間です。あなたは志貴の血を吸おうとしましたがちゃんと耐えられたではありませんか。大丈夫。吸血鬼化の治療法は私が必ず見つけて、あなたの身体も人間に戻して見せます。――だから、もう少し待っていてください。決してあなたにそんな顔をさせないと誓います。私はそのために今ここにいるのだから」
「ありがとう、シオン。でもね、私はちょっと違うの、私は――」
「分かっていますよさつき。志貴を見ると吸血衝動が起こるのでしょう?」
「――――――え?」
わたしはシオンの言葉に全身をこわばらせた。胸がきゅっと締め付けられるようで、反射的にパジャマの胸元を掴んだ。
志貴くんが好きなのがバレているのは当然だ。わたしなりに必死にアプローチしているのに気付かない志貴くんの方がよほど鈍感なせいだ。頭のいいシオンなら、それくらいとっくにお見通しだろう。
しかし、なぜ志貴くんだと吸血衝動が大きくなると知っているのか?
まさか、という疑問が脳裏に浮かび、すぐに氷解した。
「そっか、見守ってくれていたんだね。シオンは……」
「……はい。ですが、私は」
「うん、分かってる。シオンが私を信用していないわけじゃないっていう事くらい、わたしだって分かってるよ。それが正しいんだと思う。だって、あの夜、自分でも危ないって思っちゃったんだもん。ずっと遠くから眺める事しか出来なかった人と、二人っきりでお話出来たんだもん。舞い上がっちゃうよ、わたし。志貴くんの笑った顔、わたしを気遣ってくれる優しい顔なんて見てたら、わたしはもう自分でも制御できなくなって」
そこから先は言葉にならなかった。
出てくるのは小さな嗚咽と鼻をすする音だけ。わたしの悲愴が両目から零れ、シーツに次々としみを作っていく。嘆きと悲しみは涙へと姿を変え、がらんどうの心に重く響く。
シオンは無言でわたしを胸へ抱き寄せ、包み込むように背中へ手を回してくれた。
はは、とわたしの口から乾いた笑いが漏れる。
中学生の頃から好きだったのに。高校生で同じクラスになって、今度こそ告白しようと思っていたら吸血鬼なんてものになってしまった。もう二度と会う事などないと思っていたら、シオンのおかげで再会出来たというのに。
一体、わたしは何なのだろう。
わたしは自問自答する。
手を伸ばす前にその手を折られ、次こそはと手を伸ばせば、その手は包み込んだものを傷つけるだけの呪いの腕となっていた。
わたしが志貴くんを求めれば求めるほど、破滅に向かって行くのが分かってしまうから。とわたしは泣き言のように言った。
「――さみしい」
わたしはシオンの服でくぐもった声を挙げる。
また彼女に甘えてしまっている。それでも彼女の暖かなぬくもりは、少しだけ空っぽのわたしを満たしてくれるような気がした。
「――さみしいよシオン」
「――ええ、とても」
「あああああっ。あああああああああああっ」
わたしの嗚咽が一層激しくなり、堰を切ったように涙が滂沱として流れた。
シオンはただ無言でわたしを受け止めてくれる。
悲嘆も、痛憤も、諦念もなにもかも。わたしから溢れ出る感情の奔流。それを彼女ならば優しく受け止めてくれるはずだと考えている自分の打算と弱さが自己嫌悪に拍車をかける。
辛いのはシオンだって同じなはずなのに。私だけが、みっともなく優しい人に当たり散らしている。
「――――」
そこでわたしは気付いた。シオンの胸に頭を抱き止められた姿勢となっているけれど、わたしの頭に何かぽたぽたと落ちてくるものがあった。
それが涙なのだと気付くまで、わたしはしばらく時間がかかった。
あのいつも冷静沈着なシオンが泣くなんて。
わたしは一層強くシオンを抱きしめ、シオンもより強い抱擁で返してくれた。
シオンは大丈夫、大丈夫ですと言い聞かせるようにわたしの耳元で囁く。
――さつき、頬をつたう珠は天気雨なのです。この涙を乗り越えさえすれば
――きっとさつきに良く似合う、晴天のような笑顔が戻ってきます。
――だからもう少しだけ頑張りましょう。
わたしは力強く頷いた。
何度も何度も頷いた。