妻が死んだ。結婚してから二年後の事だ。あまりにも突然に逝ってしまった。
ちょうど満月の日だ。夜中に突然電話がかかり医者から危篤と伝えられ、急いで病室に駆けつけた。着いた時には既に、穏やかな顔つきで妻は息を引き取っていた。月光は無機質な光で妻の死に顔を照らしていた。
悲しさは無かった。ただ、宙ぶらりんの気分になってしまった。現実感が無く地に足がつかないような、周りから浮いてしまったようなそれは、今でも続いている。
私は浮わついた意識のまま妻の身辺整理をし始めた。暫くすると、シワ一つ無いキレイな真っ白い封筒に「遺言書」と書かれたそれを見つけた。
妻は遺言を残していた。夫である私宛だった。「私を愛しているなら、墓に月下美人を植えて下さい。必ず貴方に会いに行きます」書いていたのはそれだけだった。
月が好きな妻らしいと、私は思った。生前の妻は月が好きで、満月になる度に私を月見に誘った。月見だんごをこさえて、月が上りきる前に「月を見ませんか?」と言うのだ。
決まって私は粛々と頷き、月を見上げる妻の隣でもくもくと月見だんごを頬張った。その度に妻から「今夜は月が綺麗ですよ」と月を見るように促されて、「あぁ」と生返事を返して月を仰ぎ見たが、さして綺麗だと思わなかった。何時も通りに輝やく月を綺麗だと言えるほど、私は感性に富んでなかった。
妻の葬式は亡くなったときと同じ、満月の時に執り行った。妻の体と共に、妻の持ち物を全て燃やしてもらった。服も、鞄も、指輪も、何もかも燃やして、煙にした。煙は満月の輝く夜空へ、死した妻のいる月へと立ち上っていく。私はしばらく見上げていたが、次第に煙は細くなって、完全に消えてしまう。妻が、灰になったからだ。
その後は妻だったものを骨壷に入れ、墓に入れることで葬式はつつがなく終わった。妻は、人格者であり人望があった。だからだろう、葬式に出席していた妻の親族や知人達は皆一様に涙を流しながら、彼女の遺影の前で手を合わせた。私だけ。私だけが、涙を流すこともなく、手を合わせることもしなかった。
私はただ、浮いていた。月のようにではなく、残暑で揺らめく陽炎のように、不確かに浮かびそして消えかけていた。
私はすぐに、墓の近くに穴を掘った。膝下近くまで掘ってそこに、遺言通り月下美人の苗を植えた。そうして、待った。地に腰を据え、蕾も付いてないそれを眺めながら、待った。妻が会いに来てくれるのを。
こんなにも妻を愛しているのだから、遺言通り月下美人を植えてやったのだから、妻はまた私の元へ来てくれる。そんな確信があった。
待った。
待った。
待った。
ひたすら待った。
だが、妻は一向に現れない。
待ち続けてふと、私はこう思った。
妻は、遺言の事など忘れてしまったのだろうかと。ならばこうして待っているのはバカらしいじゃないかと、妻はきっと大好きな月のもとへ行けて私のことなど忘れてしまったんだと、そう思った。
ボサボサになった頭をかいて、私は立ち上がった。妻の墓に背を向けて、すっかり暗くなった墓地から立ち去ろうとした、
その時だった。
「甘い匂いがする……」
私の周りに、甘い匂いが立ち込めているのに気付いた。墓地に似つかわしくない、どこか懐かしさを思わせる甘く濃い匂いに私は、ウットリとした。
「この匂いの元は何処だろうか」
私は急にその事が気になって周りを見た。そして、見つけた。
「あぁっ……!蕾だ、蕾をつけている……!」
匂いの元は、月下美人だった。さっきまで蕾なんか無かったはずなのに、いつの間にか月下美人が白く大きな蕾を一つ付けて、墓の前で佇んでいた。
私は月下美人に駆け寄った。蕾はみるみるうちに大きくなっていく。私の目の前で、蕾は徐々に花びらを開けていき、立派な花をつけた。
白く美しく咲いたその花を、そっと撫でた。指先に伝わる瑞々しさと柔らかさに、私は泣き崩れた。浮いた感覚はもう、無くなっていた。
ゆっくりと空を見上げる。見上げて、気付いた。
今日は、十五夜だった。