消毒液の匂いが漂う保健室。真っ白に統一された壁や家具は清潔感を感じさせる。
少し空いた窓から風が吹き込み、薄く白いカーテンを靡かせる。
そんな典型的な保健室に並べられた二つのベッド。天井からぶら下がるカーテンによって仕切られたその内の一つには黒澤先輩が横たわっている。
「黒澤先輩……」
保健室に運んだ直後に比べれば大分落ち着きはしたものの、今も黒澤先輩は苦しそうに唸り、眉間にはしわを寄せ、脂汗を流している。黒澤先輩が横たわるベッドの横に置かれたパイプ椅子に座る私は、定期的に真っ白なタオルで先輩の額から汗を吹いている。
苦悶の表情を浮かべる姿ですら、どこか芸術的に見える。
「ダイヤのこんな姿……初めて見たな」
私の後ろに立つ果南ちゃんは腕を組んで、黒澤先輩を心配そうに見下ろしていた。
私も同じことを思っていた。
どんなことも、体調管理だって完璧にこなすだろうと思っていた黒澤先輩がまさか、私達の前に倒れて、保健室のベッドで眠るなんて姿は想像できなかった。
「何があったんだろう……」
「さぁな。ただ、一つ言えることは結局のところあいつも人間だってことだ」
果南ちゃんは神妙な面持ちでポツリと呟く。
そうだ。いくら完璧超人に見える黒澤先輩も私達と人だ。
時には体調悪くなり、風邪だって引くし、根を詰めれば疲れたりする。
寧ろ、受験勉強を集中しながら、生徒会長として仕事を果たすなんて、普通の人なら音を上げるようなオーバーワークを今までしてきたんだ。多分、倒れるのも時間の問題だったのかもしれない。
そんなことを看病しながら考えていると、保健室の外からバタバタと廊下を走る足音が聞こえてくる。それからまもなくして、誰かが保健室のドアをバンと勢いよく開けてくる。そして、黒澤先輩と外を仕切るカーテンを開け、ある少女が雪崩れ込んでくる。
「お兄ちゃん!」
激しい息遣い交じりの声が静かな保健室に響く。保健室で出していい声量ではなかったが、それでも黒澤先輩の意識は目覚める気配は感じられなかった。少女はそんな黒澤先輩を不安そうに見つめる。
保健室に入ってきたのは赤髪でツインテールの少女。高い声と小柄で未発達な体つきに幼い顔立ちのおかげで私と同じ浦の星の制服を着ていなければ到底高校生には見えない。
「お兄……ちゃん? もしかして!」
「あ、その……初めまして……。一年生のく、黒澤……ルビィです」
さっきまでの勢いはどこへやらと言わんばかりに、まるで小動物のように怯え、震え始めるルビィちゃん。恐らく、チラチラと私の後ろに視線を移しているところを見ると不良で有名な果南ちゃんに怯えているのだろう。
それにいても驚いた。黒澤先輩に妹がいるのは聞いていた。先輩の妹のことだから同じように真面目なのだろうと思っていた。容姿も黒澤先輩に似て、長い黒髪にキリっとしたツリ目に高身長なんだろうと勝手に想像していた。
でも、実際はそんなに似ている要素は薄かった。同年代に比べれば圧倒的に大人びている黒澤先輩と逆に圧倒的に幼ないルビィちゃん。髪の色は黒と赤と似ている要素は皆無。辛うじて瞳の色こそ似ていたものの、それ以外の要素がほとんど似ておらず、ぱっと見では兄妹には見えなかった。
「あの……お二人がお兄ちゃんを……」
ルビィちゃんの視線は私の手に握られているタオルに向けられる。
そして、ルビィちゃんが保健室に駆け込む前に私達がいることから付きっ切りで看病していたことに気づいた様子。
「うん……まぁ」
「……いや。俺は違うってことにしといてくれ」
「果南ちゃん?」
思わず振り返り、果南ちゃんを見る。いくら、仲が良くないからと言ってそんなつく必要のない嘘を吐く意味はないはず。
「あいつは……俺に助けられたって事実を知ったら……多分死ぬから」
私の視線の先にある果南ちゃんは相変わらず黒澤先輩を見下ろしている。でも、その表情はどこか悲しげだ。
まるでスタメンから外されたスポーツ選手のようだ。
「もう、俺は必要ねぇみたいだから行くわ」
そして、果南ちゃんは一つ大きな溜息を吐き、逃げるように保健室から去ろうとする。
「あ、あの! 待ってください!」
すると、ルビィちゃんは去ろうとする果南ちゃんの後を追う。
「何だ?」
「その……お兄ちゃんの代わりにお礼を……」
「……礼なんていい。困っている人がいたら助けるのがが当たり前だからな」
ルビィちゃんの感謝を向けられながらも果南ちゃんは一切応えることない。そしめ、そのまま振り返ることなく、そのまま保健室から出ていく。
「果南ちゃん……どうしたんだろう……」
私は首を傾げる。今日の果南ちゃんはどこか変だ。黒澤先輩が苦手なのは知ってる。だからと言って、逃げる必要なんてないはず。
そして、時より見せる哀愁が漂う表情。あれは何を意味してたのだろう。黒澤先輩の体を案じてか。違うと思う。ただ他人を案じるだけで、あの表情は浮かばない。もっと、自分に対してじゃないと浮かばないと思う。
じゃあ、何だろうと考えても答えはわからない。結局のところ、真意は果南ちゃんにしかわからない。
「あの……」
シンと静まり返った保健室にルビィちゃんの可愛らしい声が響く。
「どうしたの?」
「さ、さっきの人は松浦……果南先輩ですよね……?」
「そうだけど……」
流石、果南ちゃん。関わったことがないはずの一年生に名前を覚えられているなんて。
「その……先輩のお名前は……」
「あ。そうだったね。私は高海千歌って言うんだ」
「高海……先輩」
「あ、敬語でいいよ。ルビィちゃん」
「でも……」
「いいの。千歌って子供っぽいって言われるから。先輩扱いされるよりもその方が楽だから」
部活にも入っていない私はあまり先輩と呼ばれることに慣れていない。それに三姉妹の末っ子な為、子供扱いされてばかり。だから、突然、先輩扱いされてもむず痒い。
先輩に敬語で言われて、戸惑うルビィちゃん。でも、私の思いを汲んだのか「それじゃあ」と納得してくれた。
そして、ルビィちゃんを私の顔をまじまじと見つめる。まるで、港で目利きをする漁師さんみたいだ。
「あの……千歌ちゃんとお兄ちゃんって、どういう関係なんですか?」
「ふぇ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
どういう関係もなにも同じ学校の先輩と後輩。それ以上でもそれ以下でもないはず。
でも、ルビィちゃんはどうもそんな普通な関係に見えないらしい。
「そのお兄ちゃんってクラスと生徒会以外の女の人とは全く関わらないし。それに、保健室に入った時、千歌ちゃんがお兄ちゃんの汗を拭いていたから……もしかしてって」
「そ、そんな関係じゃないよ! ただ、黒澤先輩に親切されたことがあったり、少しを話したりするだけだよ!」
「本当?」
慌てて、ルビィちゃんの誤解を解こうとする。
しかし、この慌て様が逆にルビィちゃんの疑いの目を一層濃くしてしまう。
「……ここは?」
ルビィちゃんの純真無垢な瞳に焼かれていると、今まで眠っていた黒澤先輩が目覚める。そして、状況を確認しようと
「お兄ちゃん! 良かった!」
「ルビィ!? どうしてここに……」
目覚めた黒澤先輩を見て、ルビィちゃんがパァッとまるで蕾から花に成長したような笑みを浮かべる。
そして、私がいることなんて気にせず、ルビィちゃんは黒澤先輩に飛び込む。
いくらルビィちゃんが小柄とは言え、病み上がりの黒澤先輩には少々キツイ衝撃だったようで「うっ」と小さく呻き声を上げる。
「そうか。僕は倒れて……」
自分の先程までの体調の悪さ。今、保健室のベッドの上にいること。ルビィちゃんの態度。そして、私のホッと安心した表情から自分が気を失って倒れたことを黒澤先輩は察した。
「ルビィ。心配かけてごめんな」
黒澤先輩は優しい笑みを浮かべ、ルビィちゃんの頭を優しく撫でる。
そのまま黒澤先輩は私に顔を向け、
「高海さん。ご迷惑をおかけしました」
と頭を下げる。
「そ、そんな! 気にしないでください!」
みんなから憧れの存在とされる黒澤先輩が頭を下げてまで感謝されるなんて部相応に感じ、私は慌てて顔を横に振る。
そもそも感謝される程ことなんてしていない。目の前で人が倒れたのなら助けるのが人として当然のことだ。
「千歌ちゃんね! お兄ちゃんのこと、ずっと看病してくれたんだよ!」
「ル、ルビィちゃん!?」
「え? それは……その……お恥ずかしいところを……」
ルビィちゃんから恥ずかしい事実を聞かされた黒澤先輩はまるで魚のように目を真ん丸にする。そして、茹でられたタコのように顔を真っ赤にして、視線を逸らす。
私も同じように顔を赤らめながら、黒澤先輩もこんな顔をするのかと知った。
黒澤先輩も私と同じ『人』なんだ。
確かに名家の長男で、生徒会長という『特別』であっても、時には体調だって悪くなるし、照れたり、恥ずかしがったりする。
今まで天の上の存在と思い込んでいた黒澤先輩が途端に目の前に降りてきたようなそんな感覚に陥る。
「高海さん。その……ありがとう……ございます」
「は、はい……」
黒澤先輩は視線を逸らしながら、もう一度感謝を呟く。さっきと同じ意味の言葉でもどこかむず痒い気分になる。
多分、同じ立場になれたから感じるようになった感触なんだろう。