窓に茜色の日差しが差し込む。
千歌さんがゆっくりと僕の肩から離れ、「ふわぁ」と大きな欠伸を一つして、うんと背中を伸ばす。まるで縁側で丸くなっていた猫みたいで愛くるしい。
大人になって、年をとって千歌さんと縁側に腰掛けて、熱いお茶を口にしながら思い出話に浸りたい。
そんなありえない未来を夢見ていた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
彼女が目覚める時、僕の束の間の幸せは終わりを告げる。
「あれ……私……ダイヤさんの肩を……」
千歌さんは寝ぼけまなこで今まで枕代わりにしていた僕の肩をじっと見る。
意識が覚醒していくにつれ、僕の肩を枕代わりにしていたことに気づき、千歌さんの顔が引きつっていく。
「大丈夫ですよ。僕はその程度のことは気にしないのでください」
別に肩を枕代わりにされたくらいで怒るほど短気ではないし、器が狭いわけがない。
寧ろ、千歌さんを直に感じられて、幸せなひと時だった。
「私……どれくらい寝てました?」
「大体、二時間近くですね。ですから、もう帰宅しないと……」
「やばい! 早く帰らないと美澄ねぇに怒られちゃう!」
ふと、時計を見ると短針が後少しで五を指すところ。
どうやら高海家には門限があるようで、慌てようから察するに破るとかなり厳しい説教、あるいはペナルティがあるそうです。どちらにせよ下校時間になるため、早々と帰宅しなければなりません。
「えっと、これをしまって」
「そんなに慌てると……」
慌てて、千歌さんは机に広げたままの参考書と宿題の入ったファイルを鞄に仕舞おうとする。
急ぐことは必要ですが、慌てればそれだけ盲目的になり、ミスを犯す可能性が高くなる。
僕が注意しようとした瞬間、千歌さんは案の定、宿題が入ったファイルを落としてしまい、中身のプリントが全て床にばら撒かれてしまう。
「あわわわ!」
無造作に散らばった千歌さんは慌てて、プリントを拾い集める。
おっちょこちょいな千歌さんに呆れつつも、放っておけない僕はプリントを拾い集める。
「どうぞ」
「ありがとう……ございます」
千歌さんはしっかりと礼を言う。
でも、表情は曇っていた。さっき、答えのわからない問題について、悩んでいた時と同じ表情だった。
「やっぱりおかしいです」
「何がですか」
「私にたくさん親切してくれて……忙しいはずなのに勉強まで教えてくれて……私って何も取り柄もなくて……先輩に比べれば……普通なのに」
「そんなことはないです」
千歌さんは辛そうに視線を逸らす。僕は千歌さんの頭を撫でる。
「普通でいいじゃないですか。特別でいることは結構大変ですよ。それに昔みたいに公家や庶民など明確な身分さがあるわけではないです。誰もが誰かと等しく関わること許されているのが今です」
確かに僕は特別な人間だと自負している。
勉強もスポーツだってできるし、生徒会を任されるくらいのリーダーシップだってある。でも、僕は特別になるために血反吐を吐くような努力を続けてきた。その努力はこれからも特別であるために続けていく、言わば枷のようなもの。
いくら僕が特別だからと言って、普通の人と関わってはいけないなんてルールは日本には存在しない。父からは身の丈にあった人間とだけ関係を築けばいいと言われているが、そんなの聞くまでもない。
「高海さんは普通であることが嫌なんですか?」
「嫌と言うか……」
そう聞くと、千歌さんは俯く。
人は誰しも悩みやコンプレックスを抱えて生きている。
僕だって家のことに悩み、思い切りのない自分が嫌いだ。
でも、意外だ。千歌さんが自分の事を取り柄もない、普通の人だと思っていることが。
千歌さんはこの学院内でも五本指に入るほどの美少女だと思う。僕のクラスでも数人の男子が千歌さんの話題で盛り上がっていた記憶がある。
しかし、告白しようかと話が移った瞬間、その盛り上がりは、まるで風に吹かれた塵のように消えてなくなった。
松浦果南だ。千歌さんは松浦果南の傍らにいるから他の男子は告白どころか、近づくことも話しかけることもできない。
構図はまさに虎の威を借りる狐。しかし、千歌さんの場合、虎が勝手に狐を守っているだけですが。
そのせいで千歌さんは自らの恵まれた美貌に気づくことができない。
つくづく、松浦果南というのは他人の悪影響を及ぼす。
「それに千歌さんが特別にこだわるのなら、僕にとって千歌さんは特別な……存在です」
「え?」
僕の口はまるで自分ではないかのように、スラスラと言葉を紡いでいった。
少しでも千歌さんの悩みを、コンプレックスを解消したい。和らげたいと思ったという善意からか?
或いは、そう言える空気だったからか?
自分で発した言葉なのに意図が全くわからない。でも、確かにわかることが一つだけ。今から言う言葉に偽りはない。
「千歌さん。僕はあなたを恋慕っています」
あれ程躊躇っていた言葉を止まることなく紡いだ。緊張も不安もなかった。
あるのは解放感だけだ。
「え……えぇ!」
千歌さんは目を丸くして、頬赤らめ、唖然とする。
僕に好かれていたことに驚いているのか? 自分の言うのも嫌味臭いが学院内でも人気のあり、モテる僕が他の女性を差し置いて、千歌さんを好いたことが驚きなのか。
告白されたことに驚いているのか? それなら僕にとっても驚きだ。千歌さん程の綺麗な方に異性が全く寄り付かないなんてことはありえない。
「どうして……私なんですか……?」
「それはどういう意味で?」
「私は普通で何もないのに……。先輩なら私なんかよりもいい女性が一杯選べるはずなのに……」
千歌さんは戸惑いと恐怖が混じった表情を浮かべている。
きっと千歌さんは特筆したものがない「普通」である自分がコンプレックスなのだろう。そんなコンプレックスを刺激するように、僕が千歌さんに告白した。
「普通」な自分が「特別」である僕に好かれる要因がわからないのだろう。そして、好かれたところで自分では釣り合わない。重荷と枷になるのではと思っているのだろう。
それは僕だけに対する感情じゃない。松浦果南に対しても同様の感情を抱いている。
恐らく、千歌さんと松浦果南は両想いだろう。しかし、千歌さんは自分と松浦果南の身の丈の違いを気にして、恋人関係になれないのだろう。
「僕にとって、あなたは輝く星みたいなんです」
すっと、千歌さんの頬に触れる。
「あなたは凄く綺麗です。一目惚れしてしまうくらいの美貌がある。それだけではありません。殆ど関わりのない僕の看病をする優しさがある。きっとそれは千歌さんだけの『特別』だと思います。そして、僕は普通も特別を含めた千歌さんの魅力に惹かれた。これじゃ、ダメですか?」
すっと、図書室に静寂が流れる。
千歌さんはずっと顔を赤らめたまま、恥ずかしそうに俯いたまま、固まっていた。
「……もしかして……迷惑でした?」
松浦果南のことが好きな千歌さんは僕の告白を迷惑に感じていたと思っていた。でも、優しいから傷つけないように振るにはどうすればいいのかと悩んでいるかと思っていた。
僕の考えと千歌さんの思いは正反対だった。
「違うんです。そんな風に言ってもらえるのが初めてで……どう反応すればいいのかわからなくて……」
顔を手で覆って、千歌さんは照れていた。
愛くるしいその姿に自然と笑みが零れる。
「そのまま受け取ってくれればいいんですよ」
純粋なところもまた千歌さんの魅力だ。
「千歌さん。今度、デートしてくれませんか?」
「え?……えぇ!? デート! でも……」
僕の誘いに千歌さんは驚き、少し気まずそうな表情を浮かべる。
差し詰め、自分の感情を偽りたくないのでしょう。
そういうところ、真摯なところも好きなんです。
「わかってます。千歌さんは松浦果南が好きなんですよね」
すると、「どうして知っているんですか!?」と今日一番の驚きを露わにする。
「松浦果南と色々している時の千歌さん、凄く幸せそうですから」
「そんなに……ですか?」
「えぇ。はっきりと。それに……寝言で彼の名前を言ってましたよ」
「……えっち」
すると、千歌さんは頬を膨らませ、ジト目で僕を睨む。
松浦果南と一緒にいる時の千歌さんの笑顔をこの世界で一番眩しい。
あの笑顔は僕ではきっと浮かばせることはできない。今日だって、一度も浮かべなかった。
千歌さんを幸せにするということに関しては悔しいですが、松浦果南に決して敵わない。
だから、千歌さんの恋した男として、恋が実るまで、手伝いをして、幸せにする。それが僕の千歌さんに対する最後のお節介。
「ねぇ、高海さん」
僕は千歌さんの細く白い手を掴む。
「僕はあなたが幸せでいてくれればそれでいい。でも、一度だけ、あなたとの夢を見させてください」
でも、一度だけ。我儘を言っていいのなら、叶えてもらえるのなら、僕は千歌さんとの幸せを味わいたい。仮初めでも、夢でもいいから。いや、夢であって欲しい。
自分勝手な都合なのはわかっている。それでも僕は普通の人間だから。特別、心が強いわけでもお利口さんでもない。
「黒澤先輩……」
僕の真剣な表情を目の当たりにして、千歌さんは覚悟を決める。
「一度だけ……なら」
「……ありがとうございます」
愚かな僕に天使の千歌さんは手を差し伸べてくれた。
その時、下校を知らせるチャイムが鳴る。
まるでシンデレラの魔法が、夢が解ける合図みたいだ。でも、僕にとってそれは夢から覚める合図ではなく、寧ろ、始まりを告げるものだ。