今夜は新月。
月明かりがないおかげで夜空に浮かぶ星がよく見える。
いつもの天体観測所--小原ホテルの裏にある桟橋で俺は仰向けになって星を眺めていた。
「また、こんなところにいるの?」
頭の方向から馴染みのあるソプラノボイスが聞こえてくるんだ。
そこには真っ白なドレス姿の鞠莉が俺を見下ろしていた。
今日の鞠莉はいつにも増して綺麗だ。
そりゃあそうだ。許嫁との会食があったのだから最大限の化粧やお洒落をするに決まっている。
「果南はここが好きね」
「鞠莉か。ここが一番落ち着くんだ。わかるだろ?」
長い付き合いで俺が迷った時や悲しい時に必ずここに来ることを知る鞠莉は「そうね」と俺の横に仰向けになって同じ空を見上げる。
「婚約相手との会食、どうだった?」
「まぁまぁだったわ」
「まぁまぁって、鞠莉の目は厳しいな。どんな奴だ?」
「真面目な人。果南とは絶対にそりが合わないわ」
まぁ、そうだろうなと呟く。
鞠莉はその類まれなる美貌を持ちながら男性の影を一切見せてこなかった。
告白を受けてもはっきりとNOと突きつけ、好きな人の噂も一切立たない。
周囲からはいいところのお嬢様だから並大抵の男では満足できないお高い女性と噂されている。
別に自分の立場が高いからって男を選ぶような浅い奴じゃない。
ただ、理想が高いっていうのは本当だ。
昔から色々話す中で何となくだが、鞠莉は男らしかったり、ちょっとばかし強引だったりする男が好みだということはわかった。
意外なんだよな。結構、上品だったり、真面目な男が好きそうなんだけどな。
「星が綺麗ね……」
「波の音、夜風も心地いい……」
街灯の少ないこの場所は本当に星が綺麗に見える。
それだけでなく、桟橋に当たる波の音や肌をそっと撫でる風は心身ともに癒やしてくれる。
「ねぇ、覚えてる? 私達の初めて会った時のこと」
「どうした、急に?」
「思い返したのよ。色々とね」
鞠莉は星を眺めながらポツポツと語り始める。
「私が日本に来て、間もない時。勉強が……家のことが嫌になって逃げ出した。果南の家の前を通ったらあなたがいた」
「あの時はびっくりした。俺と同い年の女の子が黒服の男に追いかけられてんだから」
今でも鞠莉との出会いは鮮明に覚えている。
春風が舞う四月の上旬。小学校に入学する一週間前。
俺は父さんの仕事の手伝いとして、家の前で軽い荷物を運んでいた時だ。
純白のワンピースを来た幼い鞠莉が走ってきた。
小さな肩を激しく上下に揺らし、激しい深呼吸。怯えたような表情は今でも鮮明に覚えている。
背後には鞠莉の姿とは真逆に黒いスーツ姿の男達が鞠莉を追いかけていた。
まるで悪の組織に追われるヒロインみたいな光景だった。
鞠莉を救いを求める瞳に俺は突き動かされた。
俺は鞠莉の手を引いて、一緒に逃げた。
「それで使われていないロープウェイの駅に隠れたっけな」
「初めてよ。立ち入り禁止の場所に入ったのって」
「でも、すぐ捕まっちまってさ」
「そうね。だけど、あれから何度も私を外に引っ張り出して……」
「だって、子供は外に出て元気に遊ぶもんだろ? あんな狭い部屋で勉強漬けなんて頭が黒澤ダイヤになるわ」
「果南らしいわ」
思い出話に花を咲かす。
もしかしたら、千歌よりも先に鞠莉に会っていたら好きになっていたかもしれない。
それくらい俺は鞠莉に気を許している。
「ねぇ、今日の私は綺麗?」
「まぁ、いつもよりは」
ふと、豊かで露出された胸につい視線が移ってしまう。
「どこ見てるの?」
「いや……その」
「変態。今日会った人はそんなやらしい目、してなかったわ」
鞠莉は呆れたように溜息を吐く。
ごもっとも。
返す言葉が見つからなくて、鞠莉とは反対の方向に顔を向ける。
「本当、果南は変態でガサツで不良。嫌われてもおかしくないわ」
「酷えこと言うな」
「そんなあなたが好きになった」
「そりゃあど……えぇ!?」
鞠莉の突然の告白に気が動転し、すぐに体を鞠莉に向ける。
すると、鞠莉は俺の胸に抱きつき、体を寄せる。
「初めて出会った時から好きなの。十年経った今でもずっと……ずっと好きなの!」
まるで俺から離れたくないと言わんばかり腰に手を回し、固く抱き着く。
鞠莉の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
胸に夏の暑さとは違う心地よい暖かさと早くなる鼓動が伝わる。
「外に……新しい世界に連れ出してくれた果南に心惹かれた。気づかなかったでしょ? 十年近くも、ずっといたのね」
「鞠莉……」
鞠莉の言う通り。俺は全く鞠莉の思いに気づかなかった。
俺のことが好きだなんて、そんな素振りは一切見せてこなかった。
……いや、見せられるわけがない。鞠莉は誰よりもは早く俺の恋を知ってしまった。
千歌が好きなことを。
その事実を知らせたのは紛れもなく俺だ。
「……もし、私の想いを……受け取ってくれなら……」
拳をギュッと握りしめる。
俺は俺自身に気持ちに嘘をつきたくない。
中途半端な気持ちで鞠莉に寄り添ったところでその場の凌ぎ優しさでしかない。
長い目で見れば鞠莉を苦しめるだけの毒だ。
「……ごめん。俺は……千歌が好きだ! だから……鞠莉の気持ちには……応えられない」
静寂が流れる。
波の音も風の音も聞こえない。
聞こえるのは鞠莉の息遣いと鼓動の音だけだ。
「……良かった」
鞠莉の口から嗚咽でもすすり泣く声でもなく、安堵の息が漏れる。
「告白されたからってちかっちからすぐに目移りするような果南だったら海に突き落としていたわ」
そう言うと、鞠莉はゆっくりと俺から離れ、立ち上がる。
そして、俺を見下ろし、にっこりと笑う。
「ねぇ。いつ、ちかっちに告白するの?」
「……今からって言ったら驚く?」
「何となくわかってた」
「そろそろ俺も男にならないとみんなに迷惑をかける」
俺はジッと鞠莉を見つめる。
そうだ。さっさと気持ちを整理しなかったから千歌、そして、鞠莉を傷つけた。
俺は俺自身の立場に何も気づいていなかった。
「なら、行ってきなさい! 安心しなさい。ちかっちにフラれても、こんな美女が控えているんだから……」
「縁起でもないのと言うなよ……それに」
鞠莉は俺の背中を強く押す。恐らく、鞠莉なりの冗談……いや、もしかしたら、本音かもしれない。
違う。その言葉で安心できるほど俺は器の小さい男じゃない。
「鞠莉は鞠莉だ。千歌の代わりにはなれないし、鞠莉は鞠莉で大好きだ」
「……そういう包み隠さないところが大嫌い」
鞠莉は安心したように満面の笑みを浮かべた。