「ようやく来たな。待ちくたびれたぜ」
目の前にいる彼を見て、僕は大きな溜息を吐く。
クーラーの効いた生徒会室という聖域には既に先客がいた。
松浦果南だ。生徒会長のみが座ることを許される席に足を組んで堂々と座っていた。
僕は汗が滲み出る暑さの中、憂鬱になりながら登校し、この涼しい生徒会室で気分を晴らそうとしていたのに、よりによって松浦果南がいるなんて、癪に障る。
「何か用ですか? 水ゴリラ」
「お前、何でそのあだ名を……まぁ、いいや」
小原家くらいにしか浸透していない碌でもないあだ名で呼ばれ、松浦果南は顔を顰めるがそんなことは今は関係ないと言わんばかりに切り替える。
そして、僕の顔を真剣な面持ちで凝視してくる。
「お前のご希望通り、千歌に告白した」
松浦果南の報告を聞いて安心と苛立ちという相反する感情が混ざり合う。
これで千歌さんの想いが報われると思いつつ、自分では
「そうですか。わざわざ報告しなくても……」
松浦果南は眉がピクリと動く。そして、立ち上がると僕の肩を掴む。
「次はお前の番だぞ」
神経がゾッと逆立つ。
僕は初めて松浦果南に恐怖した。何か得体のしれない物を相手にしているかのようだ。
何度言わせるんだと神経が苛立つ。
「僕は告白しました。次なんてありません」
「それでいいのかよ」
「はぁ?」
「お前はそうやって思いを伝えるだけでいいのかよ」
松浦果南はまるで鮫のような鋭い目つきで僕を睨んでくる。
言葉が喉の上から上ってこない。初めて松浦果南に恐怖した。
そして、まさにその通りだから。僕はただ、思いを伝えてそれで満足している。
松浦果南と比べて決定的に違う点。
だけど、僕は松浦果南とは違い、背負わなくちゃいけない使命や守らなくちゃいけない存在がいる。自由であってはならないんだ。
「……あぁ。千歌さんの幸せになるならそれで……」
その瞬間だ。松浦果南は僕の胸倉を掴むと僕の背中側にある壁に強く叩きつける。
昔からこの近辺では腕の立つ不良であり、ゴリラと評されることもあって腕っぷしは中々だ。
いや、そんなこと噂で聞くまでもなく、あの時目の当たりにしたにもかかわらず、僕は忘れてしまっていた。
「千歌を言い訳にすんじゃねぇ!」
痛い。体じゃない。心に鋭い槍を突き刺されたかのような気を失うような痛みが襲い掛かる。
「好きな人の幸せを……願って何が悪い!」
「違うんだよ! お前は自分が思う幸せを千歌に押し付けているだけだ! そして、その勝手な幸せを盾にお前は千歌からだけじゃなくテメェ自身からも逃げてる! それがぶっ殺したくなるくらい気に食わないんだよ!」
止めろ。止めてくれ。
それ以上、本当のことを言わないでくれ。
わかっているさ。向き合う勇気がないからこそ僕は僕は千歌さんから逃げ、思いも押し隠そうとした。
「俺なら誰よりも千歌を幸せにする自信も覚悟もある! お前はどうなんだ!」
「……僕は」
言いたいさ。松浦果南みたく、千歌さんを誰よりも幸せにできる人間は僕しかいないってさ。
でも、僕は願いを叶えていいのか……。
必死になって心に蓋をする。だけど、千歌さんへの思いは溢れるばかりだ。
「お前はどうしたいんだよ! 黒澤ダイヤ!!」
「僕は!」
僕の我儘でルビィは不幸にさせたくない。それは確かな思いだ。
でも、千歌さんが欲しいのも確かなんだ。
なら、どうすればいい?
その為に何すればいい?
いや。悩むことなんてないだろう!
鞠莉さんの父も言っていた。貪欲になれ。強引になれって。
なら、僕はルビィを守りつつ、千歌さんを僕の手で幸せにすればいいだけだろう!
ルビィが父に振り回されないように僕が守ればいい!
父が強引な手を使うと言うなら力づくで止めればいい!
ただ、それだけじゃないか!
優等生だからってただはいそうですか馬鹿みたいに言うことを聞いていちゃ駄目なんだ!
「テメェの覚悟は!!」
「ここだぁ!!」
覚悟を決まって僕の心が火山の爆発した結果。思わず拳を固く握り締め。
「ちょっ!? 待つ!?」
思い切り松浦果南を殴ってしまった。
松浦果南の頬は深くめり込み、勢いよく後ろに倒れる。
「吹っ切れましたよ! 僕も! 千歌さんを幸せにしてみせる! もう、父の言いなりにならない! 僕は……僕の心に従う!」
「そ、そうか……」
「だか……あっ」
心の噴火が治まり、段々と理性を取り戻していくと目の前で尻餅をついて、口の端から血を流す松浦果南を認識することができた。
「す、すみません! つ、つい気持ち昂ってしまって……」
「気持ちが昂って、衝動的に人を殴るって、お前、中々最低だぞ……」
松浦果南は口元の血を手の甲で拭うと僕の顔を凝視する。
こればかりは僕が悪い。確かに松浦果南は殴りたいくらい嫌いだけど、ただそれだけの理由で拳で振るうなんて本物の不良だ。
報復として今度は僕が殴られても仕方がない。
でも、松浦果南はゆっくりと立ち上がると気持ちのいい真っすぐな笑みを浮かべる。
「まぁ、いい拳だ。お前の思いが乗っていて滅茶苦茶効いたぜ」
「……何言ってるのですが。あなたは。本当に馬鹿だ」
殴られても怒ることなく寧ろ褒める。
意味が分からない。意味が分からなくて、本当に笑える。
あぁ。僕は松浦果南に勝てないんだなって思った。
こいつは僕よりも馬鹿で微生物みたいな単細胞だろうに。
でも、心や人柄は海のように広くて、僕は露骨に嫌っていていて、言わば恋敵同士でかつ順当に物事を運んでいれば千歌さんを自分の物にできていたにも関わらず、わざわざ僕の背中を押すなんて、とんだお人好しだ。だから、慕われているんだろう。
「ありがとうございます」
自然と感謝の言葉が口から零れ、頭が下がる。
今までの僕なら絶対に頭を下げなかった。でも、今は違う。僕は松浦果南という一人の男に敬意を払いたかった。
「えっ? 急にどうした? 気持ち悪い」
「人の感謝は素直に受け取るべきですよ」
「うるせぇ。言っておくけど、お前の為じゃない。お前に借りを作りたくなかっただけだ。それに千歌は絶対に俺の手を取る。そん時のお前の泣きっ面を見るのが楽しみだ」
松浦果南は瞳をギョロギョロと動かし、つま先をでトントンと床を叩き、不器用な動きでに視線を窓の外に移す。
夏の空は一切雲が浮かんでなく、透き通るような青空が水平線まで広がっている。
そして、僕に背を向けたまま口を開く。
「でも、お前になら千歌を任せられるとも思ってる」
「あなたは千歌さんの父親ですか」
「幼馴染だからな。色々と心配なんだよ」
ズルいと思った。千歌さんと松浦果南の古くから結ばれた絆があることを。
「わかりました。千歌さんのことは任せてください。だから、あなたは安心して身を引いていただいても構いません」
「だーかーら! お前に千歌を渡す気はねぇって! 万が一だよ! ま・ん・が・い・ち!」
僕の冗談半分の言葉を真に受けて、松浦果南は僕の方を振り返り、反論する。
「なら、万が一に備えておいた方がいいですよ。これからの僕は……本気ですから」
「あぁ。お前に負けるつもりはないよ」
僕達は視線を合わせ、バチバチと火花を散らす。
今までの険悪な空気ではなく、何処か熱く心地よい空気だった。