プリズマ☆エルヴァ 第一部 邂逅篇   作:炭団

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第三章 第四次聖杯戦争
20、初登校


 翌朝、朝食を終え、制服に着替えてから向かいの家に行った。

 宝具が無いので、魔力を喰う極小泡沫空間は余り使えない。なので魔術でカバンの中の空間を広げてあった。夏冬の体操服にグラウンドの運動用シューズ、体育館シューズに上履き、教科書に副読本に参考書やノート、筆記具を含めた文房具。

 とにかく今後必要となる物を全部入れた。初登校とは、小さな引っ越しだ。何より今の状況だと、カードの件で当面自宅学習が難しい。それに落ち着いて自宅学習ができるようになったなら、必要に応じて自宅用の教科書や参考書を買い足せば良いと割り切っていたからでもある。

 実際、あちらのエルヴァは学校用と自宅用、そして旅先用と教科書を複数持っていた。その小学部指定の横型ランドセルには、更に重力軽減の魔術が掛けてある。あくどいが見逃して欲しい。女の子に通学用カバンは重いのですよ。

 

 その重いカバンを軽々と背負ったまま、玄関のインターフォンを押した。直ぐにセラから返事が来た。先日の記念写真と違い、今日のブラウスは長袖だ。4ボタンのベストのショルダーからはみ出るブラウスの膨らみが可愛い。

 これも姿見でわざわざブラウスの肩部分を摘んで出して、ふわっとなるように形を整えているのだ。待っている間、私は手鏡を出して髪型や襟をチェックした。

 初登校なのでロングの髪を、サイドの高い位置に流し、サイドポニーテールにしてみた。どうだろうか。まぁまぁかな。うん、リボンも曲がっていない。

 

 この穂群原高等部の女子ブラウスはハイネックだが、平襟と同じで台襟が無い構造だ。なので後ろ襟が大きなカーブを描くのが特徴だった。

 襟には臙脂の縁取りがあり、後ろが丸襟、前が広がった角襟で、そこに小・中・高共通デザインのリボンを結ぶのだ。

 これは夏服も冬服も同じだった。別名、穂群原襟。略称、ホム襟。穂群原は昔から略称がやたら多い。学校全体を指すならホム校、高等部は読みが同じのホム高。中学はホム中で小学校はホム小だ。

 春にある体育祭や運動会はホム春祭で、秋の文化祭はホム祭。こちらは秋が付かない。高等部の校内球技大会はホム球大会。こういう具合に何かあると、ホムなんとかと付く。

 まともに呼ばれるのは中等部の合唱大会くらいでは無いか? そんな面白い伝統がここにもあるのか、初登校の私は知らないけれど。

 それはさておき、後から開校した中等部や小学部の変形セーラー襟より、このちょっと変わった襟は別な意味でも有名だった。市内、いや市外の人からも可愛いと評判で、何度か雑誌に取り上げられた事もあったのだ。

 また、この制服に憧れて受験する女子中学生も多いと耳にしてもいた。なので、デザイン変更やモデルチェンジの噂が出ると、OGやOBが猛烈に反対運動を起こしたりしていた。戦後に決まった制服だが、色んな意味で人気は高いのだった。

 ただ、首から肩に掛けた部分が折れる独特なシルエットは、好みの分かれるところだろう。だから現役からも、不満の声はたまに聞こえる。他校の現役女子高生からは特に不評の声が大きいと思う。

 曰く、襟のカタチが変。

 曰く、縁取りがウザい。

 曰く、大きな襟が幼稚園っぽい。

 だけど、卒業してOGになると懐かしさもあるのか、褒めこそすれ貶す人は居ない。また、男子や男性からの不評不満は現役に卒業生のみならず、外部の人からもまったく耳にしない。

 それはOGのみならず、OBまでがモデルチェンジの反対運動に加担するところからも察せられる。何でそんなに男の子受けするのかな? そこだけは謎だ。

 そんな風に色々耳にするけれど、私自身は可愛いと思っているのでかなり好きな制服だった。

 けれど変わったデザインなのは本当だと思う。何より似合う人を選ぶのはいかがなものかと思う。ハイネックの襟は、ワイシャツと同じで首が太く短い人には似合わないのだ。

 だからと言って、ベタ襟にしてしまうと幼稚園っぽくなるだろうし。大方の不評はその辺にあると私は受け止めていた。

 

 そしてこのハイネックは通常の第一ボタンより上に、小さな隠しボタンがあった。これがまた留め難く、現役の女子からは不評なのだった。隠しボタンなので、慌てていると上になる生地が邪魔をして中々留められないのだ。

 そこで男子の詰め襟みたいなホックを、洋裁店で買って縫い付けるのが2~3年女子の嗜みだったりする。勿論、買い求める色は銀でなく白である。

 キチンと正装する場合はボタンを留めるが、暑い時は襟元を開け下敷きで扇ぎ、授業に入る時にホックでサッと留めるのだ。

 はしたないが、それくらい着ている側にとっては暑い夏服なのだった。先生方も黙認している、穂群原高等部女子の伝統的改造である。

 これはかなり便利で、私も先輩方の眼が光らなくなった2年に上がってから、直ぐにホックを買って来て縫ったものだ。夏場の体育の後、特にプールの後が全然違う。

 なのに1年生には許されないという、暗黙の了解というか奇妙な無言の同調圧力があった。まぁ、どこの学校もそうだろうけど。

 そしてこの改造をしていない3年女子は、私の知る限り姉のイリヤだけだった。真面目な人だなぁ。そこが姉さんだけれど。

 こう聞けば、一見校則が厳しいように思えるかも知れないが、そんな事はない。穂群原は生徒の自主性を重んじる、自由な校風がウリの学校だ。

 例えば授業を終えた部活の時は、試合でもなければ何を着ていても叱られないという大らかさもあった。部でお揃いのクラブTシャツはおろか、ドクロのTシャツを来ていても総原色のド派手なTシャツでも何も言われない。

 要はTPOだ。それさえ守れば指導室の先生も目くじらを立てないのが学園だった。

 また、生徒もわかっているので、そう乱れた格好はしない。自主的に白物の衣類を着ている人が多かった。何だと言えば、主に兄や姉のお下がりのワイシャツやブラウスに体操服の事だ。

 これは他校のものでも、中等部時代のものでも問題なかった。私はそちらの方が問題だと思うのだが、それも汚れても懐が痛まないようにとの学園の配慮なのだった。

 文系はシャツやブラウスにポロシャツが多く、運動部系は体操服と概ね別れていた。夏場はお揃いで注文したクラブTシャツを着ている人も多かった。と言うか、修学旅行での部屋着はクラブTシャツの人ばかりだった。

 絶対、試合への移動用や練習用でなく、修学旅行に併せて新たに作ったのだと思う。何故なら、練習の時は本当にまちまちだからだ。

 小柄なエスカレーター組の子だと初等部時代の体操服を着ている子も居た。私も中等部の1~2年生までは部活で初等部時代の体操服を利用していた。

 洗濯替えにもなるし、汗を掻く季節の5時間目や6時間目に体育があった後だと、濡れて気持ち悪いというのもあった。ただ、身体が成長すると小さくなるので、徐々に徐々にクラブTシャツに変わっていった。

 また、文系の人は公立中学校か小学生用の丸襟ブラウスやポロシャツを着ている子も居た。洋品店やスーパーの隅っこで扱われている、学校指定でない通学用兼冠婚葬祭用だ。

 身長が160センチ未満で胸がそう大きくない人は、そういうのを利用していた。値段も安いしね。

 けれど私達が中等部3年生の頃に少し問題になった。先生方が咎めない事を良しとして、自主的な校内着として授業中にも着用する人が出て来たのだ。

 こうなると一種の流行となって、一気に広まる。そこで以前から持っているものを流用するのは見逃せても、新たに買い求めるのはどうなのだと問題提起されたのだ。

 姉がポロシャツを準制服に推したのは、これが記憶にあったからだと思う。

 そして、私がかつて所属していた軽音部だけど。あそこはワイシャツの子が多かったろうか? 

 私も中等部男子のワイシャツや夏の開襟シャツを流用する場合が多かった。これは高等部女子のブラウスより断然安いのもあるが、仲の良い男子からお古を譲って貰えたからだ。さすがに奔放な私でも姉の顔に泥は塗れない。

 着慣れるとボタンが逆でも気にならないし、開襟シャツだと首周りが楽なのが嬉しかった。男子はこんな楽な格好で授業を受けているのかと、少し悔しかったくらいだ。

 だから、2年生の秋冬は半袖開襟シャツの上にセーターを着て練習していた。

 軽音部なら制服のブラウスのままで良いのではと思うだろうが、それは早計だ。夏場だとギターストラップでブラウスの肩が黒く汚れ、これがまた洗濯のローテーションを乱すのだ。また、ブラウスのシルエットを崩したくなかったのもあった。

 最初に言ったが、冬用長袖ブラウスの可愛いポイントは、ベストを着た時のパフ気味なショルダー・ラインだと私は思うのだ。あのラインだけは崩したくない。だからランドセルに重力軽減を掛けるのだ。

 女の子はオシャレも大切だ。荷物の重さだけでは無いのです。

 

 そんな風変わりな女子ブラウスは、隠しボタンから第一ボタンまでの間なら、どこにリボンの結び目があっても乱れて見えないのが隠れたメリットだと思う。むしろ一番上のホックや隠しボタンの辺りより、真ん中からやや下で結ぶ方がバランスが取れるのだ。朝の慌ただしい時にサッと結んでも、だらしなく見えないのはデザインの妙だと思う。

 そのリボンは手結びタイプと、先にカタチが作ってあり、ゴムのベルトで調整する簡易型の二種類があった。ほとんどの女子生徒は手結びタイプを選び、襟の後ろで一回か二回団子を作って、垂れる長さを調整していた。

 ダラ~ンと長いのは新入生か転入生、或いは体育の後の教室移動で慌ただしい時に予備の簡易型を付けている人だけだった。

 荒業で簡易型の結び目を固定している糸を解いて、ゴムベルトと繋がっている部分を切り、短くして縫い直すという方法もあった。

 忙しい生徒会長の姉のために3本作ってあげたのは1年の後期だった。朝イチは手結びできても、それ以外は休み時間でも忙しい姉は大いに感謝してくれた。

 そして今朝の私は、無意識で団子を二つ作っていた。習慣とはつくずく恐ろしい。

 またこの二つの結び目を左右に振り分ける事で、襟が折れて凹んで見えるのを防ぐ方法もあった。拘る人は結び目と結び目にハンカチなどを通し、左右と後ろ襟をふんわりさせたりもしていた。学園生ならではの着こなしである。

 

 そして今日は暖かいので着て来なかったが、4つボタンのベスト以外に3つボタンの上着がここにはあった。もう一人のエルヴァが驚いていたブレザーである。前の世界には無かったので、試着の時に珍しく思ったものだ。

 逆にあちらにあった袖や首元に2本のラインが入った、ニットのベストやセーターはここには無かった。あれのキャメル色が好きだったのになぁ。2サイズほど大きめを買って、ダボッと着るのが良かったのに。

 けれど指定品が無いだけで、オーソドックスな紺やグレー、白のニットは自由に着て良いらしい。だから私も白とグレーのニット・セーターを揃えた。勿論2サイズ大きめで。

 しかしこの長袖のカフスだけは、いつ腕を通してもデザインが変だと思う。カフスボタンもホールでなくループに通して止めるので、どことなくチャイニーズな風味がある。

 だからという訳では無いが、冬だとセーターを着ないと袖口がスースーするのが欠点だった。それで、ブラウスのサイズをワンサイズ大きめにして、カフスに手が隠れるようにしている人が多い。

 そうすると寒い日は防寒となり、暑い日はボタンを外さずとも、さっと捲り上げられるのだ。ほとんどの女の子は二の腕や手首が細いから、ぴったりサイズでも捲れるけれど。

 でもそうすると、手を洗う時に濡らしやすいのだ。だから私はカフスのボタンを追加して、通常の位置とは別にもっと袖口を閉めて止められる位置との二箇所に改造していた。

 既に2年以上着ているので、新品とはいえすっかり慣れてしまっている私だった。

 

 しかし、そんな私の制服姿が珍しいのか、玄関に飛び出て来たお父さんは目尻を下げて、似合うよ可愛いよと抱きしめてくれた。

 後ろで立っていたお母様があらあらと笑う。何だ何だと四人の妹達がお母様の更に後ろから覗いていた。可愛いとか格好良いとか嬉しい事を言ってくれる。ここに残ると決めて良かった。

 けれど嬉しかったのは事実だが、お父さんがタバコ臭いのには閉口した。一体、朝から何本吸っているだろうか? 新しい制服に匂いが移りそうだ。それは我慢としても、元の世界の父は一日4~5本程度だったので驚いた。

 

 驚いたと言えば、昨日一昨日と余り話せなかったセラにもだ。頑張って下さいねとお弁当を手渡されつつ声を掛けられたのだ。これは違う意味で嬉しかった。巫女をしている義姉が話していた言葉を思い出したからだ。

 

『エル、セラとリーゼリットを幸せにしてあげてね』

 

 義姉は大聖杯を閉じた。きっとその時に連動して義姉のリーゼリットは停止した事だろう。セラも自壊してしまったのだと思う。

 どうしてそんな願いを? 

 

『私はあの子達を壊してしまった。こんな寂しい思いをあなたの大好きな姉にさせたくないの』

 

 セラ達を壊したのは巫女の義姉のせいでは無い。聖杯戦争という儀式そのものであり、そんな風にセラ達を造ったアハトだろう。

 それに義姉に添いたいという、セラ達の願いもあったと思う。

 顔を合わせれば口ゲンカばかりの義姉と姉だが、心の奥では繋がっていた。

 

『エル? 渡ったら必ずセラとリズがどうなっているか調べて。そしてあの子達が困っていたなら救けてあげて。それでもし、もしもよ? 幸せな二人が居たなら、それを教えてちょうだい。わかった?』

 

 こちらは姉の言葉だ。

 別に義姉は姉のセラやリーゼリットを羨んだりしない。姉も自慢なんてしない。けれど姉は、義姉の世話を優先しろと二人に命じている。また、二人も義姉に姉と変わらぬ忠誠と親愛を見せている。

 なら、私はありがとうとお礼を言い、抱きしめるしかないではないか。セラも抱き返してくれた。それを見て幸せなリーゼリットがからかう。照れて怒るセラも幸せそうだ。オリジナルの私に伝えよう。帰ったら姉さんに必ず知らせて欲しいと。

 そんな事を考えていたら、リーゼリットに髪をクシャクシャにされた。登校前の女子高生に何をする。またセットしないと。けれど、彼女はとても優しい顔で笑っていた。

 その人並み外れ、英霊にも近いチカラを得るために、知能を対価にされていたあのリーゼリット……。

 

「かゆうま」

「何、エルヴァ?」

「いえ、なんでも」

 

 リーゼリットが言うには、私が真面目で良い子だからセラが気に入ってくれたのだそうだ。料理やお洗濯、いわゆる家事のお手伝いは、高校生なら誰でもしているだろうに。

 ふとおチビちゃんとクロちゃんを見る。たくさん教えてあげたなぁ。ここの二人にも教えてあげないと。いや、その前にリーゼリット。あなたは家政婦でしょう? ゴロゴロしないで、お手本となるように働けよ。

 

 リビングで朝食はルヴィアのところで済ませたと話すと、士郎クンは慌ててご飯を掻き込み、一緒に登校しようと誘ってくれた。理由を聞いて笑いそうになった。学園までの道順がわからないだろうからと気を遣ってくれたのだ。

 

 

 小学部と中等部は徒歩かバス通学と決まっている。高等部生で申請した者だけが自転車通学を許可されるのだ。

 駐輪用のステッカーは編入試験を受けた日に頂いて、既に自転車に貼ってあった。泥除けのフェンダーなんて付いていないので、シートチューブに鋼材ブランドのステッカーのように貼ったのだ。

 普通なら許可されないだろうけど、これを許可するところが穂群原だ。

 慣れない街並みを抜けると、見慣れた街並みの中に入って行く。そこで信号を待ち、ここを左、次は右に。そう走ると信号待ちが少なく済むという、最適なルートを的確に先導してくれる士郎クン。わかっているなぁ。

 学園に近づくと、徐々に徐々に進行方向を同じくする徒歩の学生が増えてきた。

 そして──さぁ、いよいよ悪名高い学園坂だ。ここは冬木のユイの壁。

 ベルギーで毎年春に開催されるワンデイ・レースの名物坂に私が例えるのは、ここがコース取り次第で最大勾配20パーセントを超える激坂だからだった。

 これが穂群原学園での自転車通学者が少ない理由だった。圧倒的にバス通学者が多いのは、バス停が小学部の校門前だからだ。そこから中等部・高等部の正門まで100メートルも無い。その代り、バスは無茶苦茶混む。小学部の登校時間が中等部や高等部よりやや遅いのは、始業時間が遅いからだけでは無いだろう。

 深山町の大きな四辻にあるバス停で、運転手さんが優先座席を全部跳ね上げるのだ。車椅子の人が居るからでは無い。それだけ立てる場所を作って学生を押し込むのだ。強制おしくらまんじゅう。こうして学生は都会で就職した場合の訓練をするのだろうか? 

 元が欧州人の私や姉には信じられない。なので自転車通学を選んだのだった。

 徒歩通学の人もガッツがあると思う。あの激坂を毎日毎日テクテクと。凜や桜ちゃんが徒歩だったが、夏場だと軽く死ねるだろう。

 アスファルトの照り返しと、指に食い込むカバンの把手。そして首をすっぽり覆い、体熱の逃げ場がない女子のブラウス。保健の先生が学生だった頃、同級生の女の人が熱射病で倒れた事があったそうだ。姉の制服改革を後押しして下さったのも、その先生だった。

 ここではカレンが小学部の校医だった。これには驚いた。向こうでは3学年下で、現在中等部の3年生なのだから。おまけに彼女は私を尊敬していると話していた。誰にも臆する事なくスパスパものを言うからだと言うが、好かれても余り嬉しくない子だった。

 そんな子がここでは20数歳。校医になるにはそれなりの勉強をし、免許が必要だ。まぁ、それは取得したのだろう。問題はあの性格だ。よく学園は雇ったものだ。

 そして反対派の先生は……。通勤途中で見事にぶっ倒れた経験をお持ちだった。登校中の学生が発見し、学校に携帯電話で知らせたので救かったのだった。無茶は駄目ですよ先生。

 

 坂の始まる比較的勾配が緩い地帯には、建売住宅が並んでいる。反対派の先生の御自宅もここにある。先生は学園で骨を埋める覚悟をお持ちなのだ。

 姉はあの先生の事をブツブツ言っていたが、私は結構好きだった。

 姉が生徒総会を通して決めた制服改革案に反対したのは、貧富の差を助長しないか、無理をして揃える家庭がないかとご心配だったからだ。

 プライバシーに関わるから細かくは無理だろうが、各家庭の凡その年収程度は学園事務局なら把握しているものだ。

 どの家庭が授業料を滞納気味か、どの家庭が寄付金を景気良く収めてくれるか程度は。

 学園は学校法人であり会社と同じだ。慈善事業では無い。しかし教育機関ではある。だからああいう先生も必要なのだ。

 今、2年A組の担任をされている倫理の葛木先生などは、学年が上るごとに味がわかる先生だと評する人が居るが、高校生が理解できる段階でわかりやすい部類だと私は思う。

 世の中にはもっとわかり難いが、有能な人は大勢居る。姉さんも会社を経営すればわかってくるのに。

 

 そんな住宅街を抜けると、家が徐々にまばらになって行く。

 最後の家を越えると、ガードレールの遥か向こうに冬木港が見えるコーナーまで一直線だ。

 しかし、このコーナーまでの坂が、住宅がなくなる途端ググっとキツくなる。ここまでなんとか登れても学園はまだまだ遠いし、気は抜けない。何故なら、そこから道路は急角度で左に曲がるのだが、この急角度の複合コーナーが一番キツイ登りとなっていたからだ。

 ここではバスもローにギアを換えるし、マイカー通勤の先生方も、周りに学生が多いならクルマのギアをローに落とす人がほとんどだ。セカンドで登れるのは、人が居らず飛ばせる早朝だけだろう。なので、このコーナーのガードレール外で一息つく人が多い。そんな激坂も400メートル程掛けて徐々に勾配が弱まり、やがて右へ90度曲がる。この二番目のコーナーも少しキツイ坂になっているが、最初のコーナーより幾分マシだ。ただ、ここを越えれば、後はうねうねと150メートル程登るだけで、校門前までは気楽な緩い坂だった。

 これが有名な『学園坂』だった。不思議とホム坂とは呼ばれていなかった。ある種の畏怖や畏敬の念があったのだと思う。何故ならこの坂を登って自転車通学を諦める新入生が、毎年数人居るからだ。自転車を新調したのに諦めてしまう坂。

 だから別名は『ママチャリ崩し』と言う。変速の無いママチャリはここまで登れないし、変速があっても最初のコーナーで心と脚力をへし折られる。士郎クンが他段変速のクロスバイクをチョイスするのは意味があるのだ。

 私はバスをやり過ごして、ガードレールの外で大きく息を吸った。疲れたからでなく、景色を眺めたかったのだ。積乱雲はまだだけれど、茂る青葉が目に鮮やかだった。自分の目で見ると本当に景色が美しい。

 

 以前、このガードレールの右側から義姉のアルトリアと一緒に朝日を眺めた。東京に住めば、夕日は富士山の方角で、大阪に住めば、夕日は海に沈む。そして冬木では夕日が柳洞寺に沈んで行く。朝日は遠坂神社から登るのが冬木なのだ。

 だからここから朝日を眺めると、眼下の街並みが目覚めて行くのが一望できる。

 

『千年経とうが二千年経とうが陽は変わらんな』

 

 義姉は透けるような肌を朝日に染めて、ポツリと言った。1年でクラスの顔ぶれが代わり、3年過ぎれば生徒全員が変わる。けれど母校は変わらない。義姉は朝日を反射させた金色の瞳で、そうも話していた。

 聖杯戦争後、2年に編入した義姉は、今母校の英語教師だ。これは私が高1の時の思い出だから、義姉が新米教師の頃だった。

 思うところがあったのか、朝のジョギング中に声を掛けられ、ここまで走って来たのだった。姉のイリヤは距離があるのでパスしていた。まぁその後、家に戻って制服に着替えて、また来ないとダメだしね。

 

『姉さん、何を?』

『うん? 剣道部を全国一にし、教え子の英語力をアップすると誓ったのさ』

 

 朝日に誓うとは古風な人だ。実際1500年も昔の時代に生きていた人だ。

 今まで色んな事をたくさん話した。楽しい話も悲しい話もワクワクする話もあった。余り話したがらなかったが、ブリテンの様子やキャメロット城での生活は聞いていて楽しかった。

 笑いあったし、ケンカもした。叩かれもしたし、お風呂で長話をして二人してのぼせた事もあった。

 ウジウジと悩む時はとことん悩み、吹っ切れたらどこまでも上昇する。気分屋なところが玉に瑕だ。

 けれどそんな義姉が私は大好きだった。本当なら義姉が初めて送り出す卒業生が私達だったのに。いや、オリジナルと姉は問題ないけれど。でも……。

 

 今日が編入初日だったから唐突に思い出した。鼻腔をくすぐる風の香りも、春の香りから夏の香りに変わりつつある。もう夏も近い。その前に梅雨だった。ああ、雨合羽かポンチョを用意しないと。

 

 気持ち良いですねと声を掛けても返事が来ない。振り向けば……士郎クンは最初の坂の半分を越えた辺り。屍になり掛かっている? 

 ここの彼は正義の味方を目指していないから、基礎体力に文句は言えない。待っている間にこちらの呼吸も整った。私は殆ど汗を掻いていないが、追いついた士郎クンは汗がダラダラだった。

 背負ったカバンからスポーツタオルを取り出して手渡した。きっとギアが重いのだ。フロントをインナーに落とし、リアを大きなギアにして、ケイデンスで登れば良いのに。見ればフロント三段のセンターで登っている。ググっと踏まないと自転車で走った気がしないのだろう。

 その内教えてあげないと。ああ、もしかしたら私がシングルギアなので、女の子に負けていられないと対抗しているのかな? なら、キミのクロスは48T、38T、28Tだから、私の46Tに合わせるならアウターだぞ? 

 

「ホント、速いなぁ。ごめん、タオルは洗って返すよ」

「そのままで良いですよ。家族ですから別段汚いとも嫌だとも思いませんから」

「いや、何か悪いぞ?」

「そんなの気にしないで下さい。それよりも後続集団が追いついて来ました。一気に離して逃げ切りますよ」

「ええ~ッ!?」

 

 校門前で待っていたら、数分遅れでゼーゼー言いながら士郎クンが来た。先頭交代も風除けもしてくれないとは、紳士とは言えないぞ? 

 

「遅~い。雨天の基礎練習をちゃんとしていますか?」

「ハァ、ハァ……あ~、水、水……。やってるけど、エルヴァさん凄すぎだろ……。立ち漕ぎもせずに……」

「大和民族はゲルマン民族に敗北を認めますか?」

「いや、俺が負けただけだ。他の人は関係ないぞ?」

「ナイスな回答です」

 

 やっぱり。ほんの少し対抗心があったか。

 私はフェミニストも嫌いだが、男女同権を声高に語る人も嫌いだ。どちらが優れているといえば、そんなものは個人の能力に帰結するとしか言いようが無いからだ。

 ただ女性は妊娠・出産があるし、平均的に男性より体力が劣る。それはそう産まれて来たのだから仕方ないと思うのだ。

 男性なら男性ならではの悩みが、女性なら女性ならではの悩みがある。また、あって当然だ。なら自らの性を楽しんだ方がお得だと思う。彼にも言わなきゃダメなのかな? 

 女は護るべきもの……。これ程、女の子をバカにした言葉はない。

 かつて私は弟を道場で1秒掛けずに倒した。回し蹴り一発で棒のように倒れる奴が、サーヴァントと戦うとか寝言を吐くな。水をブッ掛け、起きた彼にコンコンと説教した。

 松葉杖の人がボルトに勝てるか? 九九の七の段で躓く人が、数学博士に何を言うつもりだ。セイバーとあなたとの差はそれくらいある。憧れて目標にするのは自由だが、人様の足を引っ張るような真似をするなと何度も話した。

 自らの現時点での能力を冷静に分析し、今の自分に何ができ、どういう風に動けば役立てるのか。それを常に考えろと話した。不貞腐れて文句を言えば殴った。だって私の話している事は全部、社会人になれば当たり前の事だからだ。

 士郎クン、弟と思うから私も厳しいのだ。一人前になって幸せになって欲しいから煩い事を言うのだ。

 他人だったらどうでも良いよ。キミが守護者になろうとどうしようと。それで過去の自分を殺したいと言い始めたら、また殴ってやる。ほれ、見た事かと。

 バカは死んでも治らないってホントだなと笑ってやろう。今はなんとか理解しているが、最初は酷かったなぁ。

 けれど、この士郎クンはどこか違っていた。そんな風にならないでとの願いや祈りなんて何一つ必要でなく、今後どうなって行くのかなと期待が持てるのだ。

 

「お~い、衛宮~」

「お早う、美綴」

「お早う。その人か?」

「ああ」

 

 美綴綾子は自己紹介と挨拶を交わしつつ思った。

 時々見る衛宮の妹に似ているが、鼻筋の通ったもの凄い美人だ。目は大きいし、睫毛が長いなぁ。そして健康的に焼けた小麦色の肌。これは綺麗な蒔寺か? 

 しかもあの衛宮が息を切らす学園坂を、一緒に登ったとは思えないほど息が整っている。心肺能力がかなり高いのだろう。

 正直、3年生で海外からの転入生だ。期待はしていなかった。しかし駐輪場まで自転車を押す後ろ姿は、背筋が伸びていて体幹も安定している。これなら、ある程度期待が持てそうだ。

 衛宮はこういうところを総合的に見て、勧誘を薦めてくれたのだろう。とは言え、まずは柔軟体操からだけど。

 

 

 私は職員室に立ち寄り、担任となるらしき見知った先生と挨拶した。

 教室は3年A組。あちらと同じ。けれど担任は当然アルトリア姉さんでは無い。出席番号も姉に続く2番でなく最後になる。

 悲しく寂しいが、こればかりは仕方ない。ここに残ると決めたのは自分自身だ。これは逆の立場でも同じだろう。

 オリジナルのエルヴァや姉達の生活を壊す訳には行かない。気持ちを新たに先生の引率で教室に入った。

 

「初めまして。ドイツから参りましたエルヴァ・フォン・アインツベルンと申します。年度替わりも過ぎた頃の編入ですが、卒業までご一緒させて下さい。以後、よろしくお願い致します」

 

 初等部の編入を思い出す。と言ってもあの時は、同じ年度替わりでも新学期初日だった。今回は学期の途中なので、リハウスした気分だ。

 クラスメイトとなる人達の歓声と、日本語が上手だという感想が聞こえる。少し高校生にしては挨拶が固いと思ったが、これで得られる距離感の方が良いと判断した。孤立したいのでなく、見知った顔が多過ぎたからだ。ずばり、あちらの3年A組とほぼ同じ顔触れだったのだ。

 中には初等部時代からの友人も居た。当然、向こうは私と初めましてだけれど。

 

 指定された席に着きカバンを掛ける。前の女子の座高が高く、黒板が見難い。あちらでの親友、遠峰薫だった。スキッとしたこの美人は、身長が178センチ。あちらの弓道部部長である。

 ライダー、172センチなんて現代のギリシアに行けば普通ですよ? オランダに行けばあなたより高い人だらけです。

 桜ちゃんが連れて来たサーヴァントは、私と姉をよく見詰めていた。とても落ち着くのだそうだ。理由は知っているが、敢えて聞いていない。

 そんな読書好きで物静かな人とどこか似ている、かつての親友。2年の美綴さんに部長職を譲るのは秋だと思っていたが、こちらでは年度替わりで体制だけ変えるのかも知れない。

 え? 誰だって? 衛宮士郎の元となる遠坂司郎と遠坂凛の遠縁で、並行世界では言峰教会の地下で搾取されていた子だ。

 遠峰家は未遠の一族から分かれた家系で、冬木では珍しい混血だった。この赤味掛かった黒髪も、紅赤朱の予兆と言えなくもない変わった血筋なのだった。

 本人達が知っているかどうかはわからないが、確か士郎クンとは再従兄弟姉妹か三従兄弟姉妹の間柄だ。遠坂司郎や衛宮士郎が赤いというより橙色の髪を持つのも、ここの血が少し混じっているからだった。

 

 そして教科書を広げながら周りを見渡すと、居た居た。腐れ縁の磯尻クン。

 中等部からの受験組で、八代台小学校の出身。コースと専攻が近いので、中学1年から高校の3年まで同じクラスだった奇縁の男子生徒だ。

 彼のご両親は、新都の外れ、遠坂神社に近い旧商店街に食堂を開いている。おかずをガラスケースから取る大衆食堂なのに、焼き魚や煮魚と並んでムニエルやポワレが並ぶ隠れた名店だ。

 1200~1500円出せば大盛りライスにスープとメインが二皿くらい取れる。和食の惣菜を選んでも似たような価格なので、大衆食堂としては少々高い方だが、メニューから考えれば安いと言える。

 お得な定食も多かった。例えば、中ライスと味噌汁が付くハムエッグ定食は400円ポッキリだ。牛丼屋の朝定食と、ほぼ同価格なのが驚きだ。採算割れしてないか? 

 豚こまを用いた生姜焼き定食(並)は450円。これも中ライスと味噌汁付き。味噌汁を豚汁に変更するのに100円アップ。

 お椀でなくどんぶりとなって具もかなり増量するのに、僅か100円の追加だ。沖縄の味噌汁定食並みに安いと思う。

 どちらもレモンの風味が利いた、パセリを振りかけた千切りキャベツが付くのだが、またこれが堪らないのだ。

 あの食堂は磯尻クンのお祖父様が開いたお店で、お父様がフランス料理店で働いていらっしゃり、後を継ぐために冬木に戻ったのを契機に今のメニューになったそうだ。お母様はお父様の料理専門学校時代の友人である。

 兄のアーチャーも、料理の師匠のシロウさんも、あの店はリーズナブルで美味しいと太鼓判を捺していた。そのせいか、磯尻クンの料理は唸らせるものがあるので気が抜けない。中等部時代に調理実習で姉のイリヤも唸ったのだから。

 そっか、居たのか。私は実習での必勝を胸に誓ったのだった。

 うん? 今どきの調理実習は男子も必修ですよ? お・じ・さ・ま。

 

 そしてもう一人、見知った顔が……。白鳥珠美だ。

 冬木医生会病院院長の孫。ここでは聖堂病院だろうか?

 要は聖堂教会の息が掛かった病院で、聖杯戦争の一端を担う教会側の組織でもある。

 けれど、それを知るのは院長と娘婿の副院長だけ。この副院長の娘が珠美だった。

 珠美は元々冬木の人間では無い。院長が一人娘を危険な冬木から出していて、そこで看護学校に通い正看護師となったのだ。

 やがてご夫妻は他の都市で居を構え、女の子をもうけた。それが珠美である。

 しかし珠実の母親は、珠美を産んだ後にご病気で残念にも亡くなられた。それでも父親は、幼い珠美を抱えつつも家政婦を雇い、珠美を保育所で預かって貰って仕事に打ち込んだ。その甲斐あって、当時勤めていた病院で外科部長にまでなった。

 けれど、小学校に上がってから徐々に珠美はおかしくなった。かなり有名な私学に入っていたのだが、慣れない電車通学や鍵っ子生活で寂しかったのだろう。幼い身体は目に見えないストレスを溜め続け、ついに通学途中で倒れてしまった。

 自分が勤務する病院の小児科で診て貰えば、温厚で人が好い事で知られるベテランの小児科部長が、新進気鋭の外科部長を本気で叱ったそうである。

 そこで父親は反省し、院長と義父に相談した。義父は父親に冬木へ来いと勧め、それを切っ掛けに越して来たのだった。これは聖杯戦争が終結したからである。

 父親は義父である院長の紹介で再婚し、今は男の子も産まれた。

 また、この再婚相手ができた人で、珠美を実の娘か妹のように愛情を注いで育てた。だから珠美はとても性格の良い女の子として女子のみならず、男子にも知られている。亡き母親譲りのドラ○もん体型を除いては。

 彼女は療養後、元の小学校を卒業するまで通い続けた。片道1時間半の電車通学である。よく頑張ったと褒めてあげたい。

 そして中学受験で穂群原に合格して今に至るわけだ。

 中等部時代、彼女が同じクラスなら、遠足のバスは決まって私か姉さんが珠美の横だった。私達姉妹は小柄だからね。

 そんな珠美は二つ隣の席だった。B組じゃ無いんだ? 相変わらず、襟が首で埋まっている。

 人が良く愛嬌もある可愛い子だが、身長158センチの体重75キロはおかしいと思う。それなのに50メートル走は7秒2で駆け抜ける。フットワークは軽く、働き者で、成績も私や姉さんの次くらい。

 つまり私達が居なければ、彼女が1番なのだ。けれど第五次聖杯戦争が起きる世界には居ない。そんな彼女がここに居た。目が合うとニコリと微笑み返す、優しい子。幼稚園に通う前の弟くんも居るのだろうか? 

 彼女はある意味、冬木の平和の象徴だった。

 

 

 2時間目と3時間目の間のティーブレイク。

 士郎クンに今朝渡しそびれたタッパを渡しに行く。ついでにコーヒーでも飲もう。階段を降り掛かると、踊り場で二人の男子生徒と鉢合わせした。士郎クンと柳洞一成クンだった。

 私の世界では姉のイリヤが1年後期から3年前期まで2年連続生徒会長なので、彼は書記に甘んじている。他の世界では彼も2年連続の生徒会長なので、元々のスペックは高いのだ。ただ凜が副会長なので、彼は会長になれないかも知れない。

 それはさておき、彼は魔力や怪異に敏感だ。私はググッと気合を入れて絞り込んだ。

 

「ああ、エルヴァさん。今、行こうとしてたんだ」

「あれ、士郎クン。そちらは?」

「お初にお目に掛かります。当学園の生徒会長を務めております、柳洞一成と申します」

「これは、これは、ご丁寧に。初めまして、エルヴァ・フォン・アインツベルンです。お世話になります」

「なんの、既にお世話になって居るのは当方です。差し入れ、有り難く戴きました。美味しかったですよ」

「ありがとうございます。そうです。今、士郎クンに渡そうと。士郎クン。会長さんとご一緒にどうぞ」

「ああ……また。本当に悪い。ありがとうな」

「いえいえ。健康な男の子なら栄養をしっかり摂らないと。私、コーヒーを買いたいのでここで」

「あ、はい。ありがとうございます。失礼します、アインツベルン先輩」

 

 そうして二人と別れ、私は自販機まで向かったのだった。

 

「衛宮。素敵な方だな?」

「だろう? 毒入りとか言いやがって」

「まったくスマン。しかし見た目は欧米人そのものなのに、和の心をお持ちだと思える方だな?」

「な? わかるだろ? 空手を子供の頃からやっていたそうだから、正座もちゃんとできるんだ。一成とウマが合うかもな」

「ほぅ、空手とな。衛宮、あの方は放課後弓道部に行かれると言っておったな?」

「ああ、話した通りだ」

「見学に行きたいが時間が取れん。事故が無いようよろしく頼む」

「了解だ。任せとけ」

 

 

 放課後の弓道場。

 この道着もまだ無い先輩には体操服に着替えて貰い、備品の足袋を渡した。そしてまずは1年生と混じって柔軟体操をして貰った。おかしな見栄とか持たないのは外国人だからか?

 今更という空気が2~3年生にあったのは事実だ。けれど素直なところは好印象だろう。1年生も3年生とペアだと緊張するはずなのに、打ち解けあって笑顔が見える。ふむ。コミュニケーション能力が高いな? 

 しかし、身体がタコのように柔らかい。何だこの人? かなり運動慣れしている人だ。これならイケるかと、説明後にゴム弓を引いて貰った。アッサリ軽々だ。

 腕の位置が良い。胸筋の使い方も良い。変わらず安定している体幹は素晴らしいの一言だ。これは慣れていて腕のある者程わかるだろう。感嘆の小さな声が少しずつ広まった。

 

「弓道をされていたんですか?」

「いえ、コンパウンドボウを齧ってはいましたが、和弓は初めてですよ。ただ姉妹が皆んな日本の武道が大好きでして。一番上の姉が剣道で、すぐ上の姉が弓道をやっています。それで知識だけは。私自身は空手や柔道に合気道といった格闘技ばかりでした」

 

 空手に柔道に合気道か。私と似たようなタイプだろうか? 

 しかし空手をやっているとは。拳ができているのに皮膚がそれを感じさせない。拳ダコが無いのだ。いや、厳密には少しはある。けれど本当に皮膚がツルツルなんだ。なので言われるまでわからなかった。

 

「空手は何段ですか?」

「二段です」

 

 すっと手の平を上げて、蹴ってくれと頼んだ。ゆっくりと上った足が私の手の平にちょこんと当たる。全然軸がぶれない。手を退けてそのまま上げて貰えば、180度開いた。いや、放っとくと後ろに反りだしたぞ? 

 片足立ちで180度以上開くって……完璧に足技の人だ。軽く空を蹴って貰えば、かなり高度だ。身体の柔軟性が活きている。同じ二段の私だからわかる。

 いや、脚のタメやしなり具合はは経験者でなければわからないと思うが、ヒュンと空気を切る音は誰でもわかるだろう。

 道着だと開いた袖からよく音が出る。それは衣類から出た音だ。普通は風切り音なんて出ない。なのにこの人は体操服で、バットの素振りみたいに風切り音を出していた。強いだろうと確信した。

 

「なるほど。それで体幹が安定していたんですね。身長はお幾つですか?」

「153センチです」

「間桐と変わらないな。おい、間桐。先輩に弓と矢の用意を。それと胸当てを貸してくれないか?」

「はい、美綴部長。どうぞアインツベルン先輩」

「ありがとうございます。ユガケとシタガケは?」

「ああ、それは部の備品を。衛宮、選んでくれ」

「了解」

 

 間桐の指導で弓具を付けて貰った。きちんと正座してユガケを着けている。

 さすが武道をやっているだけはある。太ももが膝に掛けて坂のようになっていない。姿勢もバッチリだ。

 何より弦枕の具合や手首の動きを、間桐に訊ねながらチェックしているところが場馴れしている。

 

「では、間桐の言う通りに矢は番えず弓だけ引いて下さい」

 

 いわゆる素引きだ。足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引き分け、会……。射法八節を教える間桐だが、戸惑っている。それはそうだろう。この人は初心者のレベルじゃない。

 中等部から弓道をやっていて、1年の中では筋の良い間桐でも無理があった。完全に私の人選ミスだ。なので先に気付いた衛宮が補助に入った。

 

 足踏みの開きがキマっている。迷わず一発で矢束の幅を決め、ピタリと60度にした。

 胴造り、弓構え、打起しに至る流れの中の緊張感が凄まじい。体配も綺麗だ。初心者だと謙遜こそしているが、この人はちゃんと学んでいる人だと思った。取り分け、手の内は我々2年のお手本になる程に思えた。

 打起しは雄大。大三から引き分けに掛けては2年のエース、衛宮を越えていると思う。型だけなのに、見えない矢が的に向かって飛んで行く気がした。

 だけど、実際は会に行く一歩手前で弦を戻された。そうしないと弓を傷める場合があるからだ。間桐や衛宮の指導だけど、年下の言葉もきちんと聞き意味を理解してくれる。

 衛宮と私、後3年生の何人かが長い溜息を吐いた。その先を見たいと思ったからだ。

 だから私は賭けに出る事にした。この小柄な先輩は、もう精神が入ってる。間桐を視線で下がらせ、顧問の先生や衛宮と頷き合う。私はそっと矢を預けた。

 

「16~18キロの弓をお願いします。それと矢は87センチのものを」

 

 私は慌てて弓と矢を用意した。自分の強さと矢尺を申告して来るのか? 弦は私のを張った。お礼を言って受け取った彼女は、中仕掛けと矢の筈を確認してから的前に入った。

 見事な執弓の姿勢から立射に入る。

 一発で決める足踏み、どこもかしこも水平かつ垂直な胴造り、弓構えからの物見で的に執着していない。見ているのは的との相対位置だけだ。

 そして天井を突き抜けるかのような雄大な打起し。大三から三分の二、引き分けは力強いのにしなやかで流れがスムースだ。会に入る少し前に弓手を押した? 

 会は呼吸を忘れるほど荘厳。そして緊張で目眩がするほどの、その長い会の後、瞬間の美が凝縮された離れがあった。綺麗に響く弦音で誤魔化されてなるものか。あの柔らかい手の内を見逃してはならない。

 なのに見事に弓返りしているという結果しか、私の目は捕らえきれなかった。残心する姿が絵画のようだ。

 

 その見事な八節で、矢は霞的の中白下端を貫いていた。もう一度見るのだ。だから再び矢を預けた。至福の時間の後の結果は中白上端だった。

 私は三度矢を預けた。繰り返される見事な八節。矢は中白左端だった。2~3年が息を呑む。その次はもうわかる。四度目の矢は、見事中白右端を貫いた。

 あの衛宮がにじり寄って、更に矢を預けた。わかるよ。見たいよな? 

 

 今度は中白中心。五射皆中────

 

 部員全員が歓声を上げた。誰の目にも明らかだ。継ぎ矢で備品の矢を痛めたく無かったのだと。

 目の良い衛宮が言う。

 

「あれ、分度器と定規で測ったら、絶対に全部均等に直角だぞ。借り物の弓と矢で……神業だ……」

 

 だろうと思う。

 それも奇跡だが、この人は奇を衒っていない。ただ、入って無心で射た。その結果があれだったとわかるのだ。

 これじゃないのか? 衛宮、私やお前が目指しているものって。

 何故、この人が3年なのだ。せめて2年だったら……。いつの間にか来ていた藤村先生が溜息を吐いた。

 

「美綴さん。上には上が居るものね?」

「まったくです。衛宮以上の人が居るなんて」

「けれど……」

「はい……。女子のレギュラーはもう決まっています。チームの心も夏に向けて纏まっています。ですから……」

 

 弓道部女子には衛宮と並ぶ逸材がいる。3年の遠峰薫前部長だ。その前部長が呆けている。私も同じ気持ちだ。

 美しかった。心を奪われた。もう一度見たい。晴れ舞台で。何かそんな大会は無いか。この美しい人に相応しい舞台は無いのだろうか。

 顧問の先生はここで会議があるとかで職員室に戻られた。藤村先生が来る日なので、会議を入れていたのだろう。

 

「先輩は本当に初心者なんですか?」

「はい。姉に礼儀作法や型などは教えて貰っていましたが、和弓を射たのは本当に初めてです。ですからユガケの感覚に戸惑いました」

「では、洋弓を?」

「アーチェリーでの競技という意味なら経験ありません。ただ先程も話した通り、狩猟でコンパウンドボウは使っていました」

「仰ってましたね。コンパウンドボウを狩猟で……。お国柄の違いだと思いますが、それはまたどうして?」

「幼少の頃から射撃場でライフルを撃っていました。ですが未成年なので狩猟に使えないからですよ」

「その辺が良くわかりませんが、それがあればこその集中力ですか?」

「実銃は集中しないと事故の元です。一番上の姉と真剣で対峙する時より緊張感が増しますね。今日の弓はそんな気持ちを思い出しつつ射てみました」

「真剣……」

 

 藤村先生はおろか、衛宮も驚いていた。衛宮も知らなかったのか。

 

「アインツベルンさんは剣道もやっているの?」

「一番上の姉から少々。でも段は持っていませんよ」

「何か感じさせるものがあるわね。ね? 無剣で良いから構えてみて」

 

 先生がそう言って、先輩は構えを取った。

 気合? 気迫? 確かに迫るものがある。私も剣道をやっているが、何かが違う。

 

「あなた、居合もやっているでしょう?」

「はい。これも一番上の姉に。型だけ教わりました」

「幾つか見せてくれる?」

「はい」

 

 正座からの抜刀で腰が抜けそうになった。無手なのに重みがある。本当に真剣を持っているかのようだ。

 

「二段、いや三段かな? 無段と言うけどそのくらいの実力がありそうね。教えてくれたお姉さんは五段以上で、剣道と居合の他に剣術もやってらっしゃるでしょう?」

「はい。当たっています」

「そしてあなたも実戦派ね。あなたの想像で良いから私を相手と思って動いてみて」

「わかりました」

 

 ホンの1分程で藤村先生は止めた。

 

「剣道なら勝てるけど、真剣なら死んでるね、私」

 

 五段の冬木の虎がそんな事を言った。部員達がどよめく。

 教師としては行き過ぎた発言だが、これまで一丸となって頑張ってきた弓道部員にはわかる。集中力と気迫が違うのだ。完全に人を斬りに行ってる。

 特に私は、藤村先生の前に斬られて、骸になった自分しか見えなかった。このままドイツに戻らず、大学も日本で進学して武道をなさるなら、トップレベルの成績を残すのではなかろうか。

 

『美人は武道をしていなければならない』

 

 私の信念だが、それを体現している人だと思った。

 

「衛宮? アインツベルン先輩、今日は仮入部なんだよな?」

「ああ、どうだ?」

「学校の部活だからな。拒む理由は無いけど、吉と出るか凶と出るか」

「俺は逆に刺激になると思うんだ。男子がこのところ甘いし、それにほら」

 

 確かに部員の気合が入った。

 そして、衛宮が暗に指した遠峰先輩……。去年の冬からスランプなのだ。その先輩が1年生を指導している姿。なんとなく目に光が戻ったような気がする。

 

「刺激になってくれそうと?」

「なるさ、絶対に」

 

 

 残心の余韻がずっと残っている。どちらかと言えば文系のイリヤスフィールが、中等部から続けている弓道。

 現在は副部長で、試合では大前(御前)を得意としている。対する大後(落)は部長の遠峰薫。どちらも中等部時代から全国大会に出ていて、特に姉のイリヤは書道でも活躍していた。なので度胸が並では無い。

 あちらの弓道部女子は全国2位である。その原動力が我が姉と、親友の薫だった。

 軽く汗を拭き、間桐桜さんに弓具のお礼を述べていると、美綴さんと士郎クンの会話が耳に入った。巻藁の前で1~2年生を指導している薫には聞こえない距離だが、私には丸聞こえだった。

 そうか。教室でも何か雰囲気が違うと思えば、スランプだったのか。

 

 私は今回アーチャーの射でなく、未遠志保さんの射を真似た。

 志保さんは穂群原弓道部のOGであり、我が姉の師であり、薫の師であり、弟の遠坂司郎クンの師でもあった。ここには未遠志保が居ない。となると薫も習っていないのだ。

 生き残った士郎クンに感じて欲しかったから、志保さんの射を披露した。けれど、薫も何かを感じてくれれば嬉しい。

 今回の仮入部は様子見だった。居場所が無ければ帰宅部で構わないと考えていたのだ。入部するかどうかは、まだ正式に返事はしていないが、薫を見て試合に出れずとも役立てればと思うようになった。

 

「どうだ、エルヴァさん?」

「ああ、士郎クン。そうですね。姉が面白いと話していた意味がわかった気がします」

「だろう? けど驚いたよ。正直ここまで上手いとは思わなかった」

「弱気だな、衛宮?」

「そりゃ、弱気にもなるぞ」

「美綴部長。神聖な場所に立たせて頂き、ありがとうございました」

「いやいや、アインツベルン先輩。こちらこそ、良い刺激でした。参りましたよ」

「エルヴァさん? 正式に入れないか?」

「この間も話した通り、私は3年生ですから今更試合に抜擢されようとは考えていません」

「え? どういう事だ、衛宮?」

「今、エルヴァさんが話した通りだよ。雰囲気あるからさ、昨夜レギュラーに入れるかもなって話してたんだ。けど、それなら入らないと返されて……」

「ん?」

「私から説明します。どの部活動でも主力は2~3年生でしょう。万一私が抜擢されれば、そこに至るまで苦楽をともにした仲間が欠ける事になります。それはチームワーク的に良くないだろうと話していたのですよ」

 

 声に自慢の色は無かった。自信はあるのだろうが、謙虚さが先立つ人格。1~2年生に学んで欲しい姿勢であり精神だ。

 気付けば私は先輩に頭を下げていた。

 

「是非、弓道部に入って下さい」

「喜んで。お役に立てればと思います」

 

 そうしてアインツベルン先輩は弓道部に入った。部員全員が歓迎し、後日レギュラー全員の希望で五人立の補欠となった。

 私はこの後、ABの2チーム作るかどうかで大いに悩むのだった。

 

「ありがとうございます。それで先輩?」

「はい?」

「私も空手をやっていて。少し見せて貰えればなと。どうでしょう?」

「そうですね……足袋は脱げませんし。それでも良ければ、部長が見たいと思えるものをお見せしましょう」

 

 そう言って先輩は『押忍』と気合を入れてから動いてくれた。型ではない。仮想の敵と戦っている。足袋を気にしていたのに、動きがすこぶる良い。私は背中のTシャツが、じっとりと汗で張り付くのがわかった。

 斃したであろう相手にトドメを刺し、私に向かって『押忍』と締めてくれた。そこで斃れて死んでいるのは私だ。ここまで見えるものなのか。会ったばかりの私の空手が。

 流派は知らないが、トコトンまでの実戦空手だ。特に予想通り蹴りが凄まじい。最後はビュンと音を残して顔面を蹴られていた。間違いない。私の冷や汗が悪寒に変わって行った。

 

 

 結局47番が使い魔を断ったので、多眼の蟲を使い、凜に頼んで出力先を昔ながらの水盆にして貰った。

 それを学校から帰った小学生三人と、呼び出したおチビちゃんとクロちゃんに47番のセイバーが覗いていた。更に上からはお兄ちゃんとアルさんが覗いている。

 私は蟲と繋がっているし、凜は水盆に浮かぶ映像を直接脳に浮かべていた。私のセイバーには私がパスで送っている。中々映らないので、クロエちゃんが文句を言った。

 

「まだ始まらないの?」

「今、弓道場に向かっているところですね」

「映してよ~」

「廊下を映しても面白くないでしょうに。あなたも今日が転入初日でしょう? いかがでした?」

「それはお姉ちゃんに話すから。あなたは関係ないでしょう」

「痛い痛い痛~い! 言ったのはそっちの私でしょう! どうして私にグリグリ攻撃するの!」

 

 クロが涙目で苦情を訴える。チカラは緩めているのはわかるけれど、痛いのは痛い。

 

「近くに居たのでつい。八つ当たりです。ごめんなさい」

「全然感情がこもってない謝罪だ~。離れてよう」

 

 しばらく経つと、まだ少々乱れているが映像が映った。真ん中が白く、上下が焦げ茶色? 

 何だこれはと皆んなが首を捻る。徐々にピントが合うと、あっと声が出た。47番視点の体操服に着替えている場面だった。

 つまり白いのはパンティで、焦げ茶色の部分は彼女のお腹と太腿だったのだ。おそらく気合を入れるための、ある意味勝負パンツなのだろう。しかし……ヤツはこんな清楚なのを穿くのか。

 私も白を身に着ける時はあるが、ガーター・ストッキングと組み合わせるドレス用が多く、フリルやレースが効いたシルク製ばかりだ。学園にはペール系のサックスブルーやベビーピンクの花柄が多い。

 ここまで真っ白だと肌の色と良いコントラストだ。なのに中学生みたいに安っぽく見えない。それはコットンなのに、サイドの控えめなレース部分がお洒落だからだ。どこで買ったのだろう? 

 47番のセイバーをひん剥きたくなった。センス、良いだろうなぁ。

 そして本人は気付いているのだろうか? この数日で、私とはどんどん離れて行っている。特に雰囲気が違う。私より姉のイリヤに近い生真面目さを感じる。もう、姉妹か従姉妹くらい別人だ。きっとこれも世界修正なのだろう。

 

「お腹も引き締まって。骨盤が細くお尻が小さいのは気になりますが、鍛えた良い身体をしていますね」

「一緒だろうが!」

「え? 何ですか、この青い布は。まさか……」

「あ~、ここも3年生は花紺なんですね。まだブルマなんだ、この世界」

「私達も元の世界はブルマだったよ?」

「ここ、小学部もブルマだよ」

 

 今は2004年。平成16年だ。

 平成7~8年で途絶えたと思っていたら、まだ生き残っていたとは。

 

「うっわ。私は初等部で穿いた切りですね。夏はこれで堂々と体育を受けると思えば、ちょっと羨ましいです」

「何が羨ましいのだ。恥ずかしがる人が増えたから廃れたのだろう?」

「このカモシカのように美しい脚線美を、男子に堂々と見せ付けられるのですよ?」

「イカれてるのか?」

「君の姉が、私を喚ばない世界線に産まれた理由がよくわかる。双子の妹がバーサーカーなのだから」

「失礼な!」

「先輩はハーフパンツがお嫌いですか?」

「いえ、別に。おかしな柄で無い限り気にしませんよ。中等部も高等部もハーフパンツですが、今まで色合いにもデザインにも不満を感じた事はありません。ですが、ブルマで男の子を悩殺したかった」

 

 何だコイツと誰も突っ込まない。これがエルヴァだった。

 

「先輩は3年生の編入から6年生までがブルマでしたよね?」

「ええ。ご存知の通り初等部時代はコロボックルでしたから、4年間もたせました。凜は3年生からハーフパンツでしたっけ?」

「いえ、4年生からです。桜は入学の時からハーフパンツでした」

「ああ、そんな頃に導入されていたのですか。となると編入の年ですよね? どうして私と姉さんはブルマだったのか?」

「在庫処分の安売り? アイリ小母様はそんな吝嗇をなさらないと思いますし、小父様の好み?」

「あのエロ嗣なら有り得そうですね。ブルマ姿でベッドで待つ妻。グヘヘ……」

「最低な事を話すな!」

「うるさいなぁ。道場が映ったよ」

 

 そして47番は体操服のまま、備品の足袋を履き、ここの桜ちゃんの胸当てを借りて、備品のユガケとシタガケを着けた。

 

「あらら。先輩に指導しているのは、ここの桜ですね」

「弓道部の桜ちゃんはピンと来ませんね?」

「けれど、私達の世界の方が珍しいみたいですから。桜。道着、似合うなぁ」

「ですね。揺れるポニーテールからチラチラ見える、うなじがセクシーです」

「あちらの先輩もポニーテールが可愛いです」

「さ、いよいよですね」

 

 そこへクロちゃんからの要望。

 

「もっと引きで全体を見れないの?」

 

 魔力を余計に喰うではありませんか。

 けれど仕方ない。私は画面分割して全体と47番視点の映像、さらにワイプで士郎クンの顔を映してあげた。

 

「あ、上は半袖で下は長ジャージか。ブルマと思ったのに……」

「そんな訳が無かろう。君のその執着はどこから来るのだ?」

「魔術の属性が『ブルマ』、起源が『包み込む』なのですよ」

「サラッとウソを言うな!」

「I am the flesh and bone of my own bloomers──So as I play now, I call forth Unlimited Bloomers Works!」

「さすがに発音が良いな?」

「爾時世尊 従三昧安詳而 告舎利弗──得入無上道 速成就仏身」

「何だと?」

「世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音 具足妙相尊 偈答無尽意」

「だから何だそれは?」

「いえ、お経の中身をすっ飛ばしたような気分でしたので」

「私の呪文はお経では無いッ!」

 

 最初のは法華経の方便品と如来寿量品だが、方便品の頭と如来寿量品のお尻を食っ付けるのは、日蓮宗や日蓮正宗では噴飯ものの究極の手抜きだ。

 そして二つ目は観世音菩薩普門品、略して観音経の一節だ。これは般若心経と並んで禅宗でよく唱えられるお経だ。柳洞一成がよく唱えるのもこの二つだった。彼もそのうち逝くのかも知れない。逝け~。

 

 閑話休題。

 

 エルヴァの魔術属性は火、地、風であり、起源は『蔵』だ。姉のイリヤは属性が地で、起源は『器』である。この起源故か、二人ともやたらとモノを集めたがる。

 コレクターならまだ可愛げがある。転売が利くものや、時間が過ぎ価値が上がるものなら良いのだが、細々した日用品や道具にまでやたら凝るのだ。

 エルヴァの場合、その究極にあるのがナイフやライフル、バイクに楽器なのだった。イリヤも似た傾向だが、彼女は鍋が特に多い。とにかくそんなに使わないだろう鍋を、棚が落ちそうな程集めている。また、二人の母であるアイリスフィールは、土鍋をインテリアとして部屋に飾ったりする。

 巫女のイリヤも小さなイリヤも、母から土鍋を贈られ首を捻っていた。勿論、イリクロも土鍋を贈られていた。意味不明である。起源とは、かくも人の有様を曲げるものなのだった。

 

「映像分割、無駄に高度な魔術ですね」

「しかし、少女達の気持ちを思えば正しいワイプの使い方だ」

 

 ツッコミ命のアーチャーを無視して、凜の言葉を返すヘラクレス。

 彼は暇を持て余しているのか、テレビも結構見ている。オリンピックの期間中に、やれワイプが邪魔だ、やれ芸人が煩いと液晶を2台壊されたエルヴァは苦い顔をする。4年に2台壊されるのか。お金は良いが、神代の人は短気で困る。

 おまけに彼は人間模様に一家言あったりする。何故かドロドロストーリーのドラマや、ある特定のお昼のバラエティーが好きなのだ。暇な主婦か、お婆ちゃんか? 

 歯磨き粉などの日用消耗品はライ○ンに限るとか言うし。CMにマルっと影響を受けている。

 アルタまでの道を教えろと聞かれた時は閉口した。冬木から新宿まで歩いて行くのか? その巨体でスタジオに入るのか? 絶対に誰もいいともとは言ってくれないぞ? 

 

 

 構えを見て感心していたアーチャーだが、ふと思い至った事を口にした。

 

「この構えはイリヤ……でなく、志保か?」

「志保さんですね。間違いありません」

「なるほどな。む、薫も居るが顔が冴えんな?」

「あ、本当だ。どうしたのでしょうね」

「む。弓を替えたと思えば、矢を渡されたぞ」

 

 いよいよ射るみたいだ。固唾を飲んで見守った1射目は中白下端に刺さった。

 

「巧い! 引分けから会が見事です。コンパウンドボウのドローイングやフルドローとは引き方が違うのに良くぞここまで……」

「だな。私と違い君の弓は完全に洋弓のそれだろうに」

「ですよ。ここまで和弓に対応できるとは。お見事です。姉さんと変わらないのでは?」

「いや、イリヤは正しい手順を踏んで、結果として的を射ている。求めているものは不動の精神と揺るがない行動だ。あれが本来の弓道の姿だよ。対して君は手順こそ正しいのだろうが、動きの一つ一つが一撃必殺で獲物を仕留めるという猟果に集約されている。かなり違うぞ? それに君は狩猟で照準器やスタビライザーを使わんだろう? あれが功を奏しているのだろうな。結局足踏みと胴造りだよ。岩場や斜面にも対応できる下半身の強さと柔軟性、そして頭の中にある照準。これが明確にあるならば、後の事は些末に過ぎんさ」

 

 話している内に今度は上端に刺さった。

 

「狙ってますねぇ」

「魅せてくれるな」

「これ、次は左右のどちらかとか?」

 

 クロの予想に小学生組が驚く。

 

「本当に巧いですね、47番は」

「ああ、少々やり過ぎだが。何か意味があるのだろうが、映像から場の空気までは伝わらんからな」

 

 3射目は予想通り中白左端。4射目は中白右端。クロとクロエが溜息を吐いた。そんな中で士郎が矢を渡す。

 5射目は中白中心で皆中だった。

 

「和弓はわからんが見事だな。自前の弓では無いのだろう、少年?」

「ああ、呆れるばかりだ。パラドックスを完璧にコントロールしている。私のチカラを切ってこれか」

「え? 切ってるの?」

「うむ。あのエル自身の実力だよ。弓と矢の声をキチンと聞き、対話している。クロ、今後中等部で弓道をするならこれを学べよ」

「対話?」

「簡単に言えば、弓の強さ、弦の硬さ、矢の硬さにしなり具合を見抜いているという事だ。それに合わせて引いているから狙い通りに飛ぶのだよ。クロ、私の模倣をしているだけでは限界は近い。自分だけの究極の一を探さねば、どれだけ努力をしても無駄になる。セイバーの剣、ヘラクレスの剣と弓。私には届かぬ頂きだが、それでも実戦となればやりようはある。2mくらい先の針穴に糸を通すようなものだが、今まで教えて来た事を一つ一つこなして行けば、穴の大きさはもっと大きくなる。道具との対話もその重要な要素の一つだ」

「う~ん……」

「お兄ちゃんの弓を小型化しただけで良いのか? 剣を矢に変える時、お兄ちゃんも指摘したようにしなり具合も変えるべきなのか? 今の自分の体格や力量をキチンと知った上で、その弓を投影していたのか? 47番はそれらを全部わかった上でコントロールしているのですよ」

「え~っ!?」

「おチビちゃんでは混同しますね。イリヤちゃん?」

「はい?」

「彼女が礼装姿で弓を射る場面を見ていますか?」

「うん、ライダーの時に見たよ」

「どう思いました?」

「綺麗だなって。あたると相手はどうなるのかなとしか思わなかったよ」

「外れるとは思わなかった訳ですね?」

「それは全然思わなかった」

 

 アーチャーは遠い昔を思い起こしていた。

 射場に立って番えれば、中るか中らぬかが確信できた。エルの射撃の腕前は知っていたが、弓でこの領域に来るとは思わなかった。

 あの妹と心ゆくまで射てみたいと思うのであった。

 

「その矢は、黒く拗れた剣でしたか?」

「ううん。白く輝いていて……そうだ、柄が黄金で、青い石があったよ」

「バルムンク?」

「だろうな。何故バルムンクなのだ?」

「天魔失墜と天馬失墜を掛けた?」

「なるほど、それだろうなぁ」

「ですよね。実に私っぽい」

 

 英霊のチカラ。それは常人を遥かに越えるものだ。

 クロは何度もまな板の上でリンゴを押し潰している。リンゴが滑らないように固定する左手のチカラが強過ぎるのだ。

 リンゴ切りをイリヤとエルヴァが教えて来たのは、刃物の扱いだけでなくそのチカラのコントロールを教えたかったからだ。47番のエルヴァはそれを完璧にコントロールしていた。

 

「本当に凄いよね、あのお姉ちゃんは」

「うん。凄い……」

 

 クロの呟きにクロエも頷いた。

 

「士郎クンと薫に見せようと……。志保さんの代わりのつもりでしょうか」

「あちらも、やっぱり先輩ですね」

「では、切りますよ」

「ダメ! もっとお姉ちゃんを映して!」

「凄ぇ。私もこれくらい言われてみたいものです。ね? クロちゃん?」

「何を言いたいのかわかんない」

「あなたがもっともっととおねだりする時は、魔力供給中だけですから。お姉ちゃん、寂しいです」

「お、お姉ちゃんから、そういう魔力供給なんて受けたコトなんかないっ!」

 

 エルヴァとクロは、魔方陣を使った正式なパスが通っている。なので、戦闘時や魔術行使の魔力はエルヴァが送っているのだ。

 けれどこういう話し方をすると、クロが照れ、イリヤが顔を赤くするので楽しい。年下の子の面倒見はとても良いエルヴァだが、たまにこうやってルビー染みた事を言い、からかって遊ぶ悪い癖があるのだ。

 ルビー達がアインツベルン製と聞いた時は信じられなかったが、今はそれが信じられるイリクロだった。本当にお姉ちゃんと、あの杖はどこか似ている。

 

「セイバー? 倫敦へ向かう時、彼女は残した方が良さそうに思えますね?」

「確かに学業もあるでしょうし、エル、あなたの考えもわかります。しかし、あちらもあなただ」

「残すと怒りますか。なら、デコイでも用意しますか」

「それが可能ならば、彼女も助かるでしょう」

「しかしエル? あの城の設備で素体を鋳造はできんだろう? どうするのだ?」

「念のため数体持って来ています。ですが、使い魔を核にエーテルを纏わせても良いですし、凜の宝石を核にしても良いですね」

「先輩、2年生はもうじき修学旅行では?」

「ああ、その期間3年生の薫はともかく士郎クンは居ない訳ですか。つまりターゲットの半分が居ない……」

「ええ、ですからデコイや人形で生まれるリスクは避けて、現状のままで良いと思います。私の使い魔で見た限り、自己紹介でドイツから来たと話されていました。なら、あちらの手続きが残っていたとか言えば休む理由は作れますよ」

「なるほど。下手の考え休むに似たりですね。凜が正しいです」

「となると、彼女の従者たるあなたも、現代のブリテンへ帰還ですよ」

 

 あっと驚く47番のセイバー。

 

「あなたは今までに何度か?」

「いえ、この夏にエルと旅に出る予定でした。コーンウォルやウェールズを巡ろうと」

「む、感慨深い旅になりそうですね?」

「ええ。ですが今回はマスターを護る任務です。観光はあなたのマスターと後日訪れて下さい」

「そうですね。そうだ、ウェールズをカムリとも言うのは本当ですか?」

「えっと……エル?」

「カンブリみたいな発音ですが、現代のウェールズ語で言い表すなら、その通りです。何か?」

「いえ、イリヤスフィールの家族にアルトリア・カムリと紹介したからです」

「その偽名を名乗れと? 実に私っぽい。クルマの名前にもカムリがあり、あちらは冠から来ているそうですね」

「そう聞きました」

「大切に思われているのですね?」

「え? ええ、そうなのだと思います」

 

 エルヴァにとってセイバーは、長姉のアルトリアとは違う意味で大切な親友であり姉でもある。

 だからこそ47番はセイバーを召喚したのだろう。結局、この世界の美遊と同じだ。心細かったのかも知れない。

 しかし、ここのイリヤとクロエが47番を慕うのは彼女の人徳だろう。そこは自分も同じつもりだが、今は彼女を褒め称えたい。

 

 

 副部長である俺が弓道場の鍵を顧問の先生に預けた帰り、校門で桜とエルヴァさんが待っていてくれた。

 

「お待たせ」

「先パイ、ご苦労様でした」

「士郎クン、お疲れ様のご馳走様」

「は?」

「隅に置けませんね。中等部時代から間桐さんと仲が良いと聞きました」

「い、いや、それはだな……」

「『ああ、桜は彼女なんだ。イリヤ達には秘密にしてくれないか……』 君の心の声を受諾しました」

「バ、バ、何を言って……!」

「応援しますね」

「え、え? だ、だから!」

「だから応援すると言っています。承認でも認証でも了承でも承諾でもありません。受諾とは公的に受け入れるという事です」

「はい?」

「日本人はシャイ過ぎですよ。公序良俗に反せよとは申しませんが、もっとオープンでも良いと思いますよ? ドイツの高校生だとそこらでプチュプチュ、キスしまくってます。毎朝、ヤックデカルチャーですよ。とは言え、私も今朝一番にキスを済ませていますが」

「え~ッ!?」

「だ、誰とさ? まさか編入初日で彼氏を作ったのか?」

「いえいえ、お寝坊さんを起こしてあげる時に、可愛い声でお姉ちゃ~んとキスして来るのです。ま、ドイツでは挨拶の範疇ですから」

「それ、イリヤちゃんですか?」

「そうです。最初はお兄ちゃ~んでしたが、最近はお姉ちゃ~んです」

「あいつは……」

「ハァ……。お兄ちゃん子ですものね……」

「私も立場はわかっていますから。きっとホンの少し、心が成長したのですよ。こうやって心の中に入れても良いよと思える人が増えて行けば、本当に好きになった人に好きと言える日が訪れます。楽しみですよね」

「ハァ……イリヤを頼みます」

「先パイ?」

「ああ、こういうのって男の俺だとわからないからさ」

「う~ん……」

「桜ちゃん? 小姑がお兄ちゃんラブなままだと困るでしょう?」

「え、ええ~っ!」

「大船に乗ったつもりで居て下さい。私はあの子達と泥舟に乗って妖しい世界に沈みます」

「な、何を仰って……?」

「クロエちゃんですよ。病気がちでしたので、今まで空気の良い私の方の別荘で預かっていましてね」

「ああ、お袋が話してた。何の病気だったんだ?」

「胸の病気です。今は治まりました。ただ、今まで私が親身に面倒を看ていたので、それであの子がお姉ちゃん子に」

「だよな」

「そのクロエちゃんって、それで日本に?」

「そうです。親戚を訪ねて遊びに来てみれば、日本の学校に通わないかとお誘いを受けたのですね。それが今回のお話に繋がった訳ですが、そうなるとあの子が居ても立ってもいられなくなったみたいで」

「でも、元々イリヤちゃんと双子なんですよね?」

「けど酷いんだぞ、桜。親父もお袋もイリヤに話していなくてさ。幼な過ぎてイリヤは憶えていなかったんだ」

「え? 離れて暮らしていても姉妹ですよね? そんな事ってあるんですか?」

「あの両親だしなぁ。クロエの方はエルヴァさんが話したり、両親の手紙を見せたりしていたから憶えているんだ。だからイリヤには、正直に話して仲良くしろよと」

「それくらいしか言えませんよね?」

「ああ。けどな……そんな二人の事もあって、エルヴァさんにこっちの家で暮らして欲しいってなったらしい」

「どういう?」

「ウチは部屋が一杯だろ? だから家の向かいのエーデルフェルトさんちで下宿って言うのかな? ともかくあちらで部屋を借りてくれているんだ。日本に残れと頼んだのはこっちなのにさ。ま、それはともかく、男女比の差が酷いと言うか、なんと言うか……食事の時はいつも俺の両側にベタッとくっついてさ」

 

 トホホと言う士郎クン。

 

「両手に花で最高ですよね?」

「ないない。妹だぞ? それが毎日睨み合うは言い争うわで、真ん中の俺は……」

「士郎クンって結構グラスハートですからね」

「可愛い。女の子だなぁ」

 

 イリヤやクロエの気持ちがわかる桜だった。

 

「ですが可愛いだけではありません。士郎クン、兄、姉としてお互い頑張りましょう」

「だよな。けど、エルヴァさんが居なければ、折れてたよ」

「折れる?」

「折れると言うか萎えるですね。憧れの先輩もトイレ以外の排泄行為は必要ですから」

「な、何を言ってっだッ!」

「そこで噛まない。この程度の性教育はヨーロッパでは小学生レベルですよ。つまりクロエちゃんも知識があります」

「だから、クロエってイリヤよりませてるのか?」

「そういう事です。カルチャーショックでしょうけれど、このギャップはこれからもチラホラあると考えて下さい」

「そうだよな。お袋が昔そうだったし」

「だから、その先も考える」

「え?」

「あの二人の仲も、そういうギャップが発端になっているのではと考えませんと」

「ああ、そっか。イリヤは日本育ちだから。その理由はありそうだな」

「そうそう。それだけでなく、それもこれもありそうと複数の答えを考えておくと対処しやすいでしょう、副部長?」

「参ったな……。けど、そういう事だよな? 家族もそうだけど、部活もそうだ。ありがとう、エルヴァさん」

「いえいえ。お互い高校生です。私も成長途上ですよ。あ、新都行きのバスが来ましたよ?」

「では、先輩方失礼します」

「ああ、またな、桜」

「また明日」

 

 夕暮れの中を赤く灯るバスのテールランプが遠ざかる。

 私ことエルヴァは、殊の外ここの桜ちゃんが気に入ってしまった。この士郎クンにぴったりだと思ったのだ。妹や家族を大切に考える彼にぴったりだと。

 そして桜ちゃんも。あの作られた仮面では無い。あの11年間を隠した作り笑いでなく、自然な笑顔を見せてくれている。

 それに11年でなく、5~6歳頃のたった1年だ。

 その苦悩の記憶を遠坂での楽しかった思い出を対価にして、完全に消去したのだろう。

 消しゴムで消したとか、修正液で白く塗ったとかのレベルでは無く、そのページを白紙で綴り直したのだ。だから、そのページは矛盾なく後のページへと繋がって行く。

 チャキチャキした元の世界の遠坂桜ちゃんとは違うが、この暖かな雰囲気も桜ちゃんの嘘偽り無い素顔だと思えた。

 

 この記憶消去の魔術は、本来ホムンクルスの実験体に使う錬金術だ。言ってみれば記憶のリセットだ。

 まともな人間にこれを使えば脳への負荷が大きく、かなりの危険を伴う。お母様は他の方法を知らなかったので、この方法を取ったのかも知れない。しかし心を閉ざして、いや、殺してしまった子供には有効なのだろうか? 

 まさか、こういう使い方をするとは。その発想は私にも無かった。道理でオリジナルが、凛を折るはずだ。

 あの二人は二度と姉妹に戻れない。だが凛の祈りにも似た、今が幸せならそれで良いという言葉。そこに嘘は無いだろう。なら、戻れない事実を受け入れられるなら、こういう解決の仕方を残酷だとも言えない。

 そして私は……何故かその事に対して、煮え切らない気持ちを余り抱かなかった。オリジナルの中で47番として考えていた時なら、絶対に嫌悪感を抱く案件だ。

 僅か1年の記憶にそこまでするのかという疑問と、凛の真の気持ちはどうなるのだという疑問を、悶々と考えた末に反対意見を述べたはずだ。

 終わった事をグチグチ言うなと、ほぼ全員から却下されるのだろうけれど。しかもそれは、私達エルヴァ全員が嫌う理想の押しつけ、つまりゴリ押しに他ならない。いや、他ならないと、こう考えて受け入れられる時点で私は変だ。

 反対意見を出すように、今まではフィルターか何かが思考方法に掛かっていた? わからないが、そんな気がする。剥離して一人になったから外れてしまったのかも知れない。なのに遠ざかるテールランプを見送る私の胸は少し痛かった。

 しかしこの小さな乖離というか違和感、それは何だろうか? 何に起因しているのだろうか? 

 

 

「どうだった?」

「今日という意味ですか? 学園生活は面白かったですね。授業も問題なく着いて行けました。休み時間も楽しかったです。たくさんの人と話せましたよ。弓道に関してなら……少しやり過ぎたかも」

「本当は即レギュラーだろうに。部員の事を考えてくれてありがとう。美綴も感謝しているよ。けど、センスがありそうとは思っていたけど、まさか巻藁免除でいきなり的前に立たせるなんて。美綴も大胆だよな。たぶん、顧問の先生や藤村先生がサインを出したんだろうけど」

「藤村先生? ああ、あの後から来られた居合を見せてくれと仰った先生ですか?」

「そうそう。小学部の先生でイリヤの担任なんだけど、学園のOGでさ。冬木の虎ってアダ名が付くくらい学生時代から強かったんだよ」

「それは弓道で? それとも剣道で?」

「剣道だよ。当時は剣道部主将で、弱小の穂群原から一人だけ全国大会に出てさ、個人優勝を引っ攫った人なんだ。卒業後の大学で教職課程を取りながら、何だっけな? 女子だけの全国大会、そこでも優勝しているんだよ」

「へぇ~、それで居合や剣術もお詳しいと。強い人なのですね? どうして剣道部の顧問をなさらないのですか?」

「顧問になれないんだよ。さっきも言ったように藤村先生は学園の教師ではあるけど、小学部の先生だろう? だから弓道部でもコーチ扱いなんだ。そして剣道部は藤村先生の後が続かなくて弱いんだよ。それで予算が出ないから、コーチを雇えない。けど、先生としては学生と触れ合いたい。そこで女子が多くて男性顧問と男性コーチだけだと目が届きにくい弓道部が招聘したって訳さ。だから藤村先生は小学部のクラブや特別クラブの担当が本業。弓道部は特別手当だっけ? 何か給料の名目が違うんだってさ」

「なるほど」

「それに武道に関しては真面目な人だから、神社に近い弓道場でキチンと弓道を学んでるんだ。弓も安定して上手いよ」

 

 エルヴァの世界では弓道部と並んで剣道部も強い。インターハイの団体で優勝を狙う弓道部には劣るが、県下では一番だ。

 過去、姉のアルトリアと一学年下の藤村大河がインターハイ個人で優勝している。また藤村が主将時代は団体も県予選を通り、ブロック大会でも3位に入っていた。

 現在の剣道部顧問は高等部教師のアルトリアで、弓道部顧問は初等部教師の藤村である。アルトリアはともかく、藤村が顧問なのはアインツベルンが穂群原学園を買い取った事による体制再編の恩恵だろう。

 私学は名を売って生徒を集めないと設備投資も儘ならない。特に高等部は完全2学期制で、コースや選択が細かく別れ、生徒や保護者のニーズに応えている。様々な特徴を打ち出さねば、少子化の時代を生き残れないのだ。

 幸いにも母のアイリスフィールはアイデア・ウーマンで、あの手この手で特色を出していた。生徒募集も県下に収まらず、隣の県からの受験生も多い。

 また、積極的に海外からの留学生を受け入れているので、冬木市内に何ヶ所も学生寮を用意している。

 そのせいか、アルトリアも藤村も、とても忙しい。朝練から始まり、授業を終えても寮生の自主練習や寮内特別授業を受け持ったりもしていた。

 それに対応するために藤村は小学校教諭一種免許の他に、高校英語教諭の専修免許を取得しており、目下一種免許を狙い定めている。姉のアルトリアが居るせいか、かなり真面目な先生だ。

 

 ここの藤村先生も、今日会えば雰囲気が似ていた。宿題の学年が間違っていたのは、コピーしたプリントが6年生と入れ替わっただけなのだろうと好意的に解釈する事にした。きっと職員室では6年の先生方と机が隣り合っていたりするのだろう。

 

「なぁ、エルヴァさん。遠的、やってみないか?」

「遠的?」

「ああ、遠的は五人でなく三人が多いんだ。後二人集めれば」

「そんな、手の空いた人が居ますか?」

「女子の人数は多いんだから、探せば居ると思うぞ? それと遠的は近的の28メートルでなく60メートルで競うんだ。専用の弓具が必要な場合があるけど、どう?」

「そうですね。猟もそのくらいの距離でしたから」

「やっぱり。的が近く感じた?」

「ええ。武道ですからあの弓と、それを扱う上での礼節や精神性が重んじられるのは重々承知ですが、コンパウンドボウなら真ん中の白点を絶対に外さない自信があります。60メートルでその周りの黒い輪までかな?」

「それなら絶対遠的だ。1メートルある的のどこかに中たれば良いんだから」

 

 遠的か。確かにその方が自分には向いているかも知れない。

 弓道は的を狙う競技なだけでは無い。真なるもの。己の心技体は勿論、その先にある真と善を学び取り、美を得るものなのだ。ある意味、魔術師向きの武道とも言える。

 義兄は高校生時代に弓道を辞めた。仲間を置き去り、独り必ず中る域に達していた事が許せなかったのだろう。また、実戦派の弓は邪道と考えていたみたいだ。良くも悪くも純粋過ぎた。

 カードのライダーを斃す時、私は偽・螺旋剣でなくバルムンクを改造して使った。不滅の剣・デュランダルとカリバーンとで迷ったが、天馬と引っ掛けて、ここは天魔失墜だろうとバルムンクにしたのだ。

 あの時の距離が60メートルくらいだったと思う。当然おチビちゃんに被害が及ばぬよう、かなりランクを落としていた。何故なら私が魔力を込め始めると、弓を使わず剣だけで勝手に吹っ飛んで行きそうだったからだ。

 アーチャーの能力は私と相性が良過ぎだ。本家本元である義兄のように固有結界を展開する能力こそないが、実体化させていないだけで、全部持ち歩いている感覚がある。

 ほら、少し考えただけで20メートルほど上空に数本の剣が。これではまるでダモクレスの剣だ。

 また干将莫耶も可怪しい。黒い龜文の陽剣干将が闇に溶ける効果は期待したが、何も軌道を変えてまで闇を縫う事は無いだろう。白い漫理の陰剣莫耶の時差攻撃に至っては明らかに変だ。空中に留まったりしていたのだから。

 あれは鶴翼三連を超えている。明らかに固有結界の中での動きだ。それも最上級レベルの魔術師がマスターだったらの、条件付きである。

 つまり、オリジナルのエルヴァが魔力を送る義兄の能力そのものだったのだ。そう、私は視えない固有結界を常時展開しているようなものなのだ。

 今日も他の剣が霞的に殺到しないかと気が気でなかった。洋弓でなく和弓で良かった。

 ライダーには兄と同じ弓を使った。無意識で投影していたのだ。後でコンパウンドボウでなかったと気付いて慌てたが、少し考えたら理由がわかった。兄の魔力では滑車の造形が無駄になるのだ。精密であればあるほど、カタチにする時に魔力を食う。なら、その分の魔力を剣に込めるべきだ。

 矢となした剣は、弦と弓の強さだけで飛ぶのではない。持っている神秘と込められた魔力も大いに関係する。そして本質。矢に変えられた事で、斬るという概念が刺さるという概念に変化している。

 この両者を解析で掴み、バランス良く、矢と変えた剣に魔力を込め、概念を引き出すのだ。当然、材質や嵌められた宝玉などに応じて魔力の込め方も変わる。

 ホワイトノイズかカラードノイズか。或いは正弦波なのか矩形波なのか三角波なのか。別の事に例えるのは難しいが、そんな風にアプローチの仕方が異なると考えてくれると良い。

 そしてその兄の使う弓は、様々なタイプの魔力の込め方に対応できる事に気付いたのだった。その弓の名を『フェイルノート』と言う。これはトリスタン卿にあやかって勝手に名付けだけで、本物のフェイルノートでは無い。

 だけど、だからこそ『フェイルノート』と名付けたのかと納得できた。兄はやはり戦士である前に魔術師だった。

 

 以前、そんな兄にワーグナーの『Tristan und Isolde』は聞いた事があるかと尋ねた事がある。答えはNOだった。

 なので前奏曲や序曲の選曲集をCDで聞かせれば、タンホイザー序曲と、ニーベルングの指環第一夜第二幕『ワルキューレの騎行』だけは聞いた憶えがあるらしい。

 そんなものかも知れないなと妙に納得した憶えがある。

 

 私はバイロイト祝祭劇場とシュトゥットガルト歌劇場で通しを全部観ているし、前奏曲などは各地のホールで何度か聴いていた。クラシックのコンサートには何度も足を運んでいる。かなり好きなのだ。

 バイロイト音楽祭、ザルツブルグ音楽祭にルツェルン音楽祭にも行った事がある。ただ、フィレンツェ五月音楽祭はまだなので、高校を卒業したら行こうと思う。

 私はドイツ系なのでベートーヴェンやブラームスも好きだ。ワーグナーと並んで今まで何度聞いたか。

 余り憶えていないのだが、1989年12月25日、最晩年のバーンスタインが第九を振ったあの歴史的演奏会を、東ベルリンのシャウシュピールハウスへお祖父様と一緒に聴きに行った事もあった。

 これはベルリンの壁が崩壊した記念の演奏会だ。歴史的な行事にはチャンスがあれば必ず参加しろというのがお祖父様の教えだった。

 3歳の子供には、2時間近く大人しくする事は難しかったが、私はなんとか耐えた。というのも家にはベームやバーンスタインがウィーン・フィルと録音した全集があり、しょっちゅう通しで聴かされていたからだ。

 だから当日の演奏会は、演奏が荒いなという程度の感想しか抱けなかった。余り憶えていないのは感動しなかったからだろう。けれど、今にして思えば行けて良かった。

 お祖父様は言う。

 

『儂は19世紀からコンサート通いを続けておってな。グスタフ・マーラーがウィーン・フィルを振るのも生で見たんじゃぞ?』

 

 羨ましいじゃろと、胸を張ってお話されるお祖父様。

 

『二回の世界大戦も儂の音楽熱を冷ませんかったなぁ。特に第二次は大戦中であっても演奏会へは意地でも行ったわ。名指揮者が明日をも知れない時代に、ただ大衆のために奇跡の名演奏を聴かせてくれたんじゃ。瓦礫があろうと爆撃があろうとソ連が迫っていようと関係ない。音楽こそが儂の生きる希望であり全てだったんじゃ』

 

 お祖父様は第二次世界大戦前夜の第三次聖杯戦争で御長男を亡くされた。御長男はマスターでは無かったのにだ。けれど大聖杯を護るために数人のホムンクルスと来日し、遠坂や間桐と組んでナチスから護り切った。

 でも、残念な事にその時に負った大怪我が元で亡くなられたのだ。二・二六事件があった頃という。

 お祖父様は何も語らない。言葉の代わりに歴史的な名盤をたくさん聴かせて下さった。ハンス・クナッパーツブッシュ、エーリッヒ・クライバー、ブルーノ・ヴァルター、オットー・クレンペラー、アルトゥーロ・トスカニーニ……etc。

 時代を彩った名指揮者達。ターンテーブルに乗るのはヴィルヘルム・フルトヴェングラーが多かった。

 

 お祖父様は彼の大ファンでパトロンでもあった。なので、ドイツ国内の演奏はほとんど行ったと豪語してらっしゃる。

 1942年3月22日から24日のベルリン・フィル定期演奏会、同年4月19日のヒトラー誕生前夜祭、1943年12月8日のストックホルム・フィル客演、1951年1月7日のウィーン・フィル定期演奏会、同1951年7月29日と3年後の1954年8月8日のバイロイト、1951年8月31日のザルツブルグと1954年8月22日のルツェルンの音楽祭。

 音源が残っているベートーヴェンの第九だけでこれだけある。この全部に行ったと言うのだ。

 ストックホルムにも? そう、お祖父様の最初の奥様はスウェーデンの人だった。他の指揮者のコンサートにも行っていたそうだから、そちらも数えると膨大な回数になる。こんな動乱の時代に良く行けたものだなと感心してしまう。

 

 フルトヴェングラーが残した音源では同じベートーヴェンなら、第五番や第六番に第七番も多い。

 五番なら1947年5月25日から29日までの復帰演奏会がとりわけ有名だろう。戦前と変わらぬ疾走感が最後の最後で大爆発する。

 音源が残っている中でも特に有名な27日のコンサートが、お祖父様はベルリンのマズーレンアレーにあった帝国放送局の小さなホールでの演奏だったと仰っている。腰が抜けたからハッキリ憶えとるぞと。

 なお、復帰初日の25日はダフ屋に1万ライヒス・マルクを支払ったという。ピンと来ないが、当時の大佐クラスの年俸に匹敵する金額だとか。

 今なら幾らだろう? フォルクス○ーゲンのタイプ1が1000ライヒス・マルクだったのは、その頃の民衆の平均年収がそれだったからだ。となると大衆車10台分だから、日本円で2~3000万くらいだろうか?

 お祖父様はこんな歴史的名演奏に行ったのか。正直羨ましい。

 

『あのテンポをとっとる靴音があるじゃろ? あの後の咳は儂じゃ。悪い事をしたわ』

 

 あれ、あんたかよ! 

 モノラルで音も悪いのに、今も運命の中で最高の演奏と言われる名盤だ。

 ズジャジャジャ──ン、1・2・ウン、ジャジャジャ──ーンと特徴あるタメとノビを、音楽の先生から聴き比べさせられた記憶がある人も居るのでは? 

 そんな奇跡の名演で咳き込む我が養父。ハッキリ言って葉巻の吸い過ぎだ。

 

 私が個人的にもっと凄いと思うのは、1945年1月23日にアドミラル・パラストで演奏された、ブラームスの交響曲第1番第4楽章だ。

 この演奏を生で聞けるのなら1億払っても惜しくはない。それくらいの鬼気迫る演奏なのだ。

 事前のプログラムはモーツァルトの交響曲第40番だった。しかし空襲で壊された街の瓦礫を乗り越えて行けば、演奏会は再びの空襲で停電してしまい中断した。

 けれど爆撃が近づいているのにも関わらず、電気が復帰するまでの間、観客は誰一人帰らなかったそうだ。

 何故ならこれが最後の演奏だと皆んなわかっていたからだとお祖父様は仰っていた。

 

『照明が次々消え、演奏が途絶えて行くんじゃ。最後は第一ヴァイオリンじゃったかな。音が消え楽団員や指揮者が楽屋に引き上げる足音だけが響いた。あれがドイツの終わる音じゃった。儂はロビーに出て葉巻を吸った。戦後処理が大変じゃなぁと考えておったな。何分なのか何時間なのか憶えとらん。けれど、演奏は再開された。いきなりブラームスの交響曲じゃ。あれが彼らのメッセージじゃった。これからの苦難を乗り越えてくれと。必ず歓喜と栄光は訪れるからと……。儂は泣いたよ。いや、泣いたっちゅうか、勝手に涙が流れるんじゃ。あれを聞けたから今もこうして頑張れるんじゃよ』

 

 1850年生まれ、御歳154歳のお祖父様の御言葉だ。

 まだ40代に見えるお祖父様は、100歳サバを読んでいらっしゃる。

 それはともかく、私もこのレコードを聞くと泣いてしまう。お祖父様のお膝の上で聞かされたお話。

 私にとってフルトヴェングラーの音楽は、アインツベルンの悲願を、正義のあり方を教えてくれた存在だった。

 フルトヴェングラーはブラームスの交響曲第1番を、戦後の1947年8月13日ではザルツブルグでウィーン・フィル、8月27日にはルツェルンでルツェルン祝祭管弦楽団で振り、11月17日から20日に掛けてはウィーン・フィルを振ってスタジオ録音を残している。

 1950年7月13日のアムステルダム・コンセルトヘボウや1951年10月27日の北西ドイツ放送交響楽団、1952年1月27日のウィーン・フィルとの音源も有名だが、1952年2月10日か5月18日のベルリン・フィルを振ったティタニア・パラストでのライブ演奏が全曲通しなら一番好きだ。

 ハンス・シュミット=イッセルシュテットが北ドイツ放送交響楽団と残したモノラル録音、カール・ベームがベルリン・フィルを振った59年盤、シャルル・ミュンシュがパリ管弦楽団と残した68年盤も好きだ。

 けれどどれも第4楽章に45年のフルトヴェングラーのような緊迫感は無い。いや……あんな魂を削った、その削りカスがスピーカーから飛んで来るような演奏が残っている事自体が奇跡なのだけれど。

 オリジナルの背中には、長男アルトゥル様がお持ちだった刻印がある。そのせいか、オリジナルもオリジナルと記憶と経験を共有する私もフルトヴェングラーが大好きだ。

 こんな平和な時代こそ、あの偉大な指揮者が残したシューベルトのC major、Die grose C-durだろう。交響曲第8番、或いは第9番。別名、『ザ・グレート』。

 1951年11月のベルリン・フィルと入れたグラモフォン盤も素晴らしいが、私は1942年8月19日のベルリン・フィルや1943年5月12日のウィーン・フィルでのライブ演奏が好きだ。

 ただしウィーン・フィルは良くも悪くもウィーン・フィルなので、弦の艶やかさや間の取り方が優雅過ぎて緊張感に欠けるきらいが若干あるのが玉に瑕だ。

 旧ソ連から西ドイツにテープが返還され、独グラモフォンが出した一連のCDは全部持っていた。その前にソ連製のLPやラジオ放送用テープから盤起こしした、西側の再販LPも何枚か入手してもいた。

 現代から見たら、缶詰に録音されたのかと思えるほど音が遠い。けれど演奏は紛れもない一級品だ。こんな青二才でも、天国的長さに人生を感じたものだ。

 

 お祖父様からはジャズもたくさん教えて頂いた。

 マイルス・デイヴィス、マックス・ローチ、アート・ブレイキー、ジョン・ルイス、クリフォード・ブラウン、リー・モーガン、ソニー・ロリンズ、エルビン・ジョーンズ、ドナルド・バード、ポール・チェンバース、トミー・フラナガンにキャノンボール・アダレイと言ったハードバップやファンキー・ジャズの巨匠達に、セロニアス・モンクとソニー・クラークにビル・エヴァンスのピアノ、そこにエリック・ドルフィーとジョン・コルトレーンを足せば、ボーカル以外はお祖父様の好みが大体埋まる。

 オリジナルはピッコロから始まって、クラリネットとアルト・サックスを今も吹いている。彼女はアート・ペッパーのファンなのだ。

 私も50年代のモダン・アートは好きだけれど、70年代の復帰後の一連の作品には余り共感できない。ただ、ヴィレッジヴァンガードでのライブは熱い。同じヴィレッジヴァンガードならジョン・コルトレーンも熱い。

 エリック・ドルフィーのアット・ザ・ファイブスポットやイン・ヨーロッパと同じくらい熱い。概ねジャズのライブ盤はどれも熱いものなのだが、オリジナルはマイルス・デイヴィスのダーク・メイガスにアガルタやパンゲアをぶっ通しで聞いていたりする。スタジオなら、ジョン・コルトレーンのアフリカ・ブラスとマイルス・デイヴィスのビッチェズ・ブリューなども良く聞いていただろうか。

 アフリカ・ブラスは私も好きだ。キリマンジャロの娘やイン・ア・サイレント・ウェイはわかるが、ビッチェズ・ブリュー以降は何が良いのかわからない。聞くと飽きるのだ。この辺が私の限界なのかな? 

 オリジナルはソプラノとテナーも持っているし、高校に入ってからオーボエを練習していた。当然、初等部・中等部時代はお手本として吹いてくれと、先生に頼まれるくらいリコーダーも得意だった。

 このようにエルヴァという人間はとても音楽好きなのだった。

 

 私も桂剥きや飾り切りと料理は大丈夫だったし、ピアノも問題なく弾けた。だから私もあちらと変わらない腕はあると思う。今後は差が出るだろうけど。それに私もやはり音楽が好きだ。これは否定できない。

 携帯電話を買う時に、携帯音楽プレーヤーも買ってしまった。ルヴィアに部屋を借りた後はパソコンも買った。それでせっせと買い直したCDから音楽をプレーヤーに入れている。

 手始めに買ったのは、オーティス・レディングのディクショナリー・ソウルとジャニス・ジョプリンのチープ・スリル、それとフルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの交響曲第3番、44年盤だった。ここが私が47番である所以なのだろう。

 オリジナルはソウルのCDを持っていない。なのに私はソウルやゴスペルが好きだった。

 なお、フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第3番『英雄』は重厚な1952年盤も良いが、ベルリン・フィルの1950年6月20日や1952年12月8日のライブも良い。

 けれど1944年12月19と20日に録音されたこれが私には最高だった。ここはオリジナルと好みが一致している。

 

 英雄────その死は、必ずしも人々から惜しまれつつ見送られるものでは無い。中には人々に見向きもされず、死して初めて英雄だったと認識される人も居た。そんな悲しき葬送行進曲の後に来る、スケルツォと見事なまでの変奏曲。

 誰かの英雄となった人は死して英霊へと至り、夏の蝉がポタポタと落ちるかのような弦の後、大いなるコーダを結ぶ。それは英霊としての理不尽な使役を終え、真に天へ召される瞬間だ────

 

 義兄の事? どうだろう? あの人に心静かに休まる日が来るのかどうか。そういう日が来て欲しいと願いつつ、来ればあの人は用済みとなった己を恥じ、苦痛に感じるのだろう。困った人だ。

 けれど、私はこれでフルトヴェングラーとウィーン・フィルの相性も悪くないと思えたのだ。緊張感溢れる第一楽章から、これでもかと畳み掛ける第四楽章の変奏曲は、彼の指揮者の奏法と合っている。

 これが破綻せず、たっぷりと響くのはウィーン・フィルだからだろう。

 ウラニアのエロイカをイヤホンで聴くなとお叱りを受けそうだが、私はなんとしても倫敦行きの飛行機で聞きたかったのだ。何故なら、このもやもやした心を決めたかったからだ。

 そしてクラシックやジャズが好きな女の子は滅多に居ない。なので余計に一人内省できる長時間フライトの中で聞きたかった。少し寂しい気もするが、学校で話題に出す事は今後も無いだろう。

 

 またここがオリジナルとかなり異なるのだが、私は楽器への執着心が余り無い。

 オリジナルや姉のイリヤはかなりの好き者なので、楽器を色々持っているしバンドまで組んでいるのにだ。私はオリジナルや姉のように学祭でバンドを組もうとまでは思わない。時々、ピアノを弾きたくなるので、そのうち電子ピアノを買おうとは思うけれど。

 でもなぁ、ルヴィアの家にも良いスタインウェイが置いてあるのだ。私が弾けると知ってから、彼女は遠慮せず好きに弾いて欲しいと言ってくれた。それで満足できると言えばできてしまう。

 なので、オリジナルがやっていないトランペットはどうだろうとチラホラ考えたりもしている。

 

 

「それで、霞的の真ん中は中白って言うんだ。別名正鵠。正鵠を射るの語源だよ。そして、あれが心臓の大きさって言われてる。一の黒までなら動物の心臓?」

「そうですね。鹿などはたぶん、そのくらいだと」

「やっぱ、実戦派なんだな。俺も射詰用の八寸星的で射る事があるんだ。これを練習に使う大学があるらしいけど、やっぱり的が小さい方が気持ちが引き締まる。エルヴァさんもそうなのかな?」

「引き締まると言うか、私が射るのはジビエを得たいからです。食べるためですよ。やはり命あるものは尊いです。半矢で苦しめたくない気持ちの方が大きいですね」

「そっか、喰うためなんだ?」

「食事の前のいただきますは、そういう意味でしょう? お百姓さん、漁師や猟師の皆さん、ありがとうございます、なんて聞いた覚えがありませんから」

「ま、多少その気持ちが籠もってなくもないけどな」

「そこが日本人の良いところですよ」

「そうか?」

「ええ。あちらでは神に感謝を捧げるだけで、人の労力や他の生物には無関心です。もし、他の生物の生命も尊いのだ、だから魚や動物を捕まえては駄目なのだと声高に叫ぶ者は、まず間違いなく金で動いています」

「そうなのか?」

「そうですよ。大義名分をどれだけ粉飾しても、人が自分や身近な人以外のために動くなんてあり得ないのですから。そもそも私達はそうして他の生物を食べて生きています。そうやって歴史を繋いで来たのですよ?」

「難しいな……」

「ま、そうでしょうね。でもこれは言えますね。結局私も自分のために他の生命を奪っているのです。ライフルもそうです。狩猟には使いませんが射撃場では何度も撃って来ました。これも将来狩猟に使うための練習ですよ」

「今、狩猟で使わないのは免許の関係?」

「そうです。年齢と免許ですね。日本人から見れば私って本当に野蛮でしょう?」

「どう……なのかな。上手く言えないよ。これがカルチャー・ギャップ? そちらでは当たり前の事なんだろうけど」

「言ってみれば一本釣りですよね。網漁でない一本釣り。市場やスーパーに魚を行き渡らそうと思えば、網漁をなさる漁師さんが居ないと困りますが、パックされた食材には養殖も多い訳です。お肉売り場のお肉なんて100パーセントそうですよね。その意味で、狩猟はプロであっても個人的な釣りに限りなく近いものです。海の遠い山だらけの国では、今も続く伝統的な仕事ですよ」

「そっか、そうだよな。ドイツのどこだっけ?」

「南ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州です。黒い森とか聞いた覚えはありませんか?」

「ごめん、あんまり知らない」

「州都がシュトゥットガルトで、クルマのポ○シェやメ○ツェデスの本社がある街です」

「ああ……」

「そこの州の北部にマンハイムという街があり、その近郊に私の家があります。そして南ドイツに州は、たった2州しかありません。それ以外の14州は中部から北部にあるのです。お隣の州がバイエルン自由州ですよ。州都はミュンヘン。BM○の本社があって、ビールのオクトーバーフェストで有名ですね」

「ああ、それは知ってる。民族衣装の女の人が大量にビール・ジョッキを持っていたり」

「そうそう。アイリスフィールさんみたいに皆んな胸が大きくて。どうします? あんな可愛い妹もオバサンになればデプリ~ンですよ」

「うわぁ……」

「それで、アイリスフィールさんはバイエルン自由州の最南端、ほとんどチロルに近い山の中の出身なのですね。お城住まいのお嬢様だったのですよ」

「それ、そっちのお袋さんもだろ? お袋のお姉さんだって」

「ええ。女の子ばっかりで皆んなお嫁に出たので、元の家は失くなりました。私も昔何度か伺っていますが、本当に大きなお城でしたね」

「貴族か何かだったのかな?」

「中世の頃は称号持ちだったみたいですね。日本風に言うと豪農が近いと思います。広大な領地を持っていたのですよ。狩猟ができ、木の実がたくさん取れる森や、ワインのためのぶどう畑に醸造所もあって。そういうのが代々続いた家だったのです」

「なるほどだな。お袋ってそういうトコの人だったのか。道理で。親父とはどうやって知り合ったんだろう?」

「お仕事先で出会ってからとは耳に挟んでいますけれど」

「へぇ~。あ! 次のバスが来てるじゃないか。マズッ」

「本当です。すっかり日が暮れて。早く帰りましょう」

「ああ、ごめんな。長話に付き合わせて」

「いえ、こちらこそ」

 

 カバンからLEDライトを取り出し、ハンドルに付ける。そしてサドルの下に取り付けた、赤いLEDライトのスイッチを点滅に入れた。勿論、電池は単4のエネループだ。充電式でないとね。

 長い坂をバックを踏みながら降りて行く。坂を降り切ると、一つ目の交差点に差し掛かった。

 海側に左折すれば柳洞寺の長い階段前を通り、更に進めば武家屋敷街の裏手にある小路に繋がる。この小路は山手となる左が竹林で右の家並みとの間に水路がある。水路は途中で曲がり、家と家の間を抜け、家並みの表側へ流れる。

 並行世界では衛宮の武家屋敷の前にも流れている、本当に小さな川。割り箸と竹で小さな水車を作った記憶がある。姉が喜んでくれた。そんな姉がザリガニに指を挟まれたのも、この水路だった。

 一方、小路は藤村組の豪邸裏で幅が広がり、衛宮邸の裏から横に曲がって、正面の通りと合流する。この小路を挟んだ衛宮邸のお隣が、段々畑みたいになった武家屋敷街最上段の一番端だ。

 元の世界の武家屋敷街は重要指定文化財となっているが、ここはどうだろうか? 

 

 小学生時代を過ごした思い出深い家。

 一段低いお向かいの裏庭から柿の枝が通りに垂れ下がり、秋になれば鈴なりの実が背の低い自分達にも届いた。盗んだりはしなかったが渋柿である。

 このお向かいさんには優しいお婆ちゃんがいて、異国の可愛いお嬢ちゃんと随分可愛がられた。季節の果物や駄菓子、そしてこの柿の木から取った干し柿を食べさせてくれた。

 日本語に慣れない私達に、あれこれと言葉を教えて下さった。そんなお婆ちゃんが亡くなったのは、おチビちゃん達と同じ5年生の時だった。お葬式で姉とわんわん泣いた。

 お嫁さんととても仲が良く、息子さんよりお嫁さんの方が泣いていたのを憶えている。子供さんやお孫さんも皆んな泣いていた。そんなお嫁さんが今はお婆ちゃんだ。

 姉のイリヤは昔ながらにマウント深山まで出向いて買い物をするので、今もそのお嫁さんと時々会うし、暑中見舞いや年賀状をやり取りしている。

 何故なら、私達は中学に上がった年に新都のビルに引っ越したので、あの家を魔導師のリン夫妻に格安で貸していたからだった。

 鳴子の結界は無かったが、誰かさんが神殿化してしまったので、事前にアポを取らないと近寄れない変な家になってしまった。文化財に指定されたのが余程気に食わないらしい。

 けれど、お向かいさんとは私達と変わらず仲が良く、おかずのやり取りを時々しているとシロウさんが話していた。

 

 土蔵の横に枇杷の種を植えた。今は実がなる木に育った。道場の前にスモモを植えた。そろそろかなとシロウさんに伺っていた。

 縁側で足をぷらぷらしてスイカを食べた。縁側の下を探検して蜘蛛の巣だらけになった。

 6年生の時、牛乳瓶をたくさん集めて縁側の下でショウジョウバエを飼っていた。夏休みの自由研究で遺伝について発表したのだ。

 中庭のビニールプールで姉や美遊と遊んだ。今はおチビちゃんとクロちゃんが美遊と遊んでくれている。

 池で亀を飼った。道場でアルトリア姉さんに鍛えられた。檜のお風呂は毎日姉と入っていた。

 

 あれは何時だったろう? 

 ある日の事だ。姉が父とくるみの新芽を探した事があると教えてくれた。とても羨ましかった。すると姉は、『探しに行こう』と私の手を引いて竹林の中へ連れて行ってくれたのだ。そんなところにくるみの木なんて無いのに。

 けれど嬉しかった。あれは何? これは何? と、二人してクスクス笑い合いながら林の中を進んだ。

 メイド達が突然居なくなった私達を、大騒ぎで探していたらしい。暗くなる頃に家に戻れば姉はケロッとした顔で、私に思い出を分けてあげたかったのだと話した。私も必死にくるみの芽を探していただけだと言い張っていたと思う。

 だって、姉さんがあそこと言った先に、確かにくるみの木が見えたのだ。それが心の中の幻であったとしても。

 父も母もメイド達も、私達を抱きしめるだけで叱らないでいてくれた。全部懐かしい思い出だ。

 

 降りはバックを踏んでスキッドさせずに滑走するクロスバイクの方が断然速い。

 思い出に浸っている内に、士郎クンに抜かされた。程なくバス停のある交差点を抜ける。交差点の左を真っ直ぐ抜けると藤村邸や衛宮邸の前を通り、やがて右に緩くカーブして格段の横道と枝分かれする。

 終点は冬木大橋の下を抜ける海浜公園までの道に突き当たるのだ。

 一方、交差点を右に曲がり、住宅街がまた坂になる辺りから上が洋館街だ。

 突き当りの一番高いところに遠坂の家がある。両隣が無く、崖下に建った大きな洋館。

 ただ崖下とは言え、だだっ広い裏庭を挟んでいるので崖が迫る怖さは無い。裏庭にはたくさんの花壇があり、真ん中には噴水まである。ここではお父さんが崖を崩し、全部壊しちゃったけれど。

 初めてアーチャーのカードで夢幻召喚した時に、遠坂の家を見て驚いた。そのあまりの変貌振りに。

 ただただ広いだけの、庭とも喚べない敷地に、不釣り合いなまでの小さな可愛い家。けれど張ってある結界は、遠坂式の古い結界を基本としていて、そう難しくは無かった。実際、三節で解除できた。

 他所の世界では、中庭の噴水に宝石を嵌め込み、結界を発動させていた。これも二節で解除できる。要は術式の基礎部分が同じ結界なのだった。凛はもう少し遠坂の魔術以外も知るべきだ。

 実際自分でもそう思っているのだろう。だからどの世界の凛も時計塔に行くのだと思う。

 だけど、時計塔で学べる魔術はどれもこれも、開示しても問題のない範囲ばかりだった。秘匿を旨とする魔術師が、人様の研究成果を知る機会はまず無い。あってもホンのさわりを知るだけ。

 となると必要なのは想像力だ。そしてそれは魔術師にとって、とても重要な資質だった。

 

 その遠坂の噴水の結界は、一つの起点から円形に発動するタイプだった。

 なので噴水を中心に同心円状に結界が発動する。この手の結界は魔力と術式によって同心円の範囲が変化する。

 当然、家屋はその範囲の中にある。だけれど玄関とは反対になる裏庭の一番奥、そこにある細長いプールの横に設置された貯水槽の端、その僅か5cm程が結界から外れている。これはどこの世界でもそうだった。

 実はこの貯水槽がその昔には無く、代わってそこにはサウナ小屋があったらしい。凛や凜の父方の祖母か曾祖母がフィンランド人だったという証拠だ。つまりあの細長いプールは遊泳用でなく、サウナの水風呂だったのだ。

 それはともかく、普通結界は何を目的にしようと、敷地の外周の要所要所に支点を設け、起点もバックアップを考慮して、敷地内に2~3箇所、敷地外に1~2箇所用意するものだ。

 まして建造物を護りたいなら、樹々や他の建物を利用して立体的に結界を張るものだろう。

 だけど、遠坂家は冬木に根を張る地主の家だった。来客も多く地域との交流もある。人除けの魔術を重ね掛け、幽霊屋敷と呼ばれるようになったのは凛の代からだと思う。現に私の知る遠坂邸は誰でも普通に玄関まで行ける。でないと新聞も来なくなるからね。

 そしてそのプール脇のFRP製貯水槽だけれど、これが結界外から錐で簡単に穴が開けられるのだ。なので毒物でも何でも混入し放題。魔術師でなくとも遠坂家は攻略できるだろう。

 勿論、時臣小父様に指摘した。口をあんぐりと開けて固まっていらっしゃったけれど。

 そもそも洋館街で一番高いところにあり、両隣が無いのだ。火には注意を払っているだろうが、下水を塞ぎ上水道を止められたらどうするのだ? 毒入り貯水槽の水を飲むのか? 

 実はこれは小父様や凜のせいでは無い。洋館街は海外からの移住者が多いので、プロパンガスに早々と切り替わった地域だったのだ。冬木の他の場所はまだ七輪だった時代に。

 街灯も電気の前にガス灯が立っていたり、排水路の代わりに細く小さな下水管が先に普及していたのだ。

 これらの背景と景観問題があって、ライフラインの近代化が洋館街は少し遅れたのだ。プロパンから都市ガスに完全移行したのも、平成に入ってからだった。

 つまり第四次が始まる数年前までの洋館街はプロパンだったのだ。この地区には始まりの御三家の内、二家がある。

 第四次の時に私は、行政の都市計画書、企画書や工事の進行表、電信柱配置図、下水地図、ガス管配置図などのコピーを入手していた。それを父に見せつつ、間桐の攻略も簡単だと話せば、君は本当に僕の娘かと呆れられた。

 ちなみに私はこの時に初めて、深山町の洋館街と新都の再開発地区に、近年までガスが通っていなかった事実を知ったのだった。

 教会が隠蔽にガス事故を頻繁に装うのもこのせいだったのだ。そして冬木でプロパンガスを販売していたのは間桐の一族だった。地方でのプロパン利権は大きい。あの蟲爺は本当に抜かりがない。

 

 なお、遠坂邸裏の崖の中程に湧き水があり、それが裏庭に小さな池を作っている。

 その脇にこれまた小さな祠が建っていた。そこが神社側の言う『火の祠』だ。ここでは祠だけが再建されていた。これは凛ではないだろう。お父さんか別の誰かが、後から冬木の結界を知って建て直したのだと思う。

 また、遠坂の家の前の道から1本川に近い方の道は比較的大きな道路で、その道路を山側に進むと遠坂の崖の上に出る。そこをウネウネと登って行けば、やがて円蔵山と尾根続きのもう一つの頂にある展望台へと続く。

 ここに登ると冬木市が一望できる。センタービルは街中なので、戦略を練る眺望には向かないのだ。

 彼の征服王は、若き日のウェイバー先生を引き連れ、ここから冬木攻略を練ったそうだ。図書館に押し入ったのもホメーロスのイーリアスためだけではない。

 あの王は冬木市の地図やガイドマップも一緒に強奪していたのだ。宝具で空を飛べるのに、事前調査は怠らない。さすがだと思う。

 ちなみに強奪したワインは藤村組が注文した海外製の高級品だが、船便だったので熱劣化を起こしていたらしい。樽なのでブショネは無いとの判断で仕入れたのだろう。

 征服王は甘いなぁ。同じ樽なら清酒を盗めよと。清酒の樽がコペンハーゲンの倉庫にあったかどうかは知らないけれど。

 だけど、この県は日本酒に必要な山田錦の名産地だ。また名泉や名水も多いので、昔から清酒造りが盛んな土地でもあったのだ。

 そこで本醸造の名酒を手に入れられたのなら、肴次第でこれはこれで合うなとAUOに認められた可能性はあったと思う。

 神々のネクタルは、ワインやブランデーといった果実酒が神格化したものだ。後味がカルヴァドスに似ているので、リンゴと何かをミックスしたブランデーではないかと私は睨んでいる。

 そしてあの神酒は美酒には違いないが、意外な弱点がある。実は合う肴がほとんど無いのだ。

 単独で飲むか、フルーツと一緒に飲むか、或いはハーブや岩塩で味付けした素朴な焼き肉料理にしか合わないのだ。魚貝類、特に刺し身とは壊滅的に合わない。

 高級なアワビや新鮮な牡蠣でも、生臭さが倍加して吐きそうになるし、イクラやウニだと最悪だ。勇気ある人は試して欲しい。あの王をギャフンと言わせるチャンスだ。

 それだけで最高であるとは、それだけで完結したものでもある。ところが飲み物や食べ物で完結してしまうとその先は無い。何故なら料理は、それ単独で終わるものでは無いからだ。

 大昔の神はバカなのだろう。世界各国の神話を紐解けばわかる。本当にバカばかりだから。

 そしてオリジナルの従者であるセイバーは、この知恵を与えられ、他の世界での聖杯問答でAUOを黙らせ、次の事を朗々と述べていた。

 

『己の宝物の特性も知らぬとは。なんと何の組み合わせが良いかを判断できぬのなら、人々の運用も国家の運営も儘ならんだろう。つまりあなたの治世は、その程度の知識で成り立つ時代だったのだ。野蛮な時代に絶対の法を唱える王は必要だった。人が増え運営が難しくなった時代には、国土の全員が一致団結するには大きな目標となる夢が必要だった。しかし弱小国が戦乱の世を生き残るためには、私のような王も、また必要だったのだ』

 

 征服王は無駄に聡く、何をどう解釈したのか、『つまり、王とは国を、民を味付けるスパイスよな』と膝を打った。

 面白いおっさんだ。ちなみに姉のメル友だったりする。あの姉は母似なのかノリがとても良い。なのでウマが合うのだろう。

 その一方、AUOは怒るのも忘れ、オリジナルと兄が作る料理に夢中だった。勿論、私も47番として『そこはこっちの胡椒だ! 塩はこの銘柄の岩塩の方が合う!』と叫んでいたのを思い出す。

 しかし堪らないのは、そこで召喚された別のセイバーだろう。

 

『故国が滅んだのは偏に王の失政である。自らの失敗を認めるなら諦めなさい。それを受け入れられぬ者は王では無い。テストの点が悪いからと、やり直しを求める小学生ではあるまいし』

 

 と、頭にハテナが浮かぶ事まで言われていたのだ。

 確かにやり直し要求は小学生以下だ。征服王の小娘発言もむべなるかなだろう。そう。会社の倒産は確定したのだ。後はどう残務処理して精算するかだ。その精算を逃げれば、王である前にまともな大人ではない。

 頑張って働いてくれた社員(騎士)に、精算後頭を下げて終わるのだ。それがけじめであり、顧客(国民)への詫びとなる。それを怠る者には、社会(世界)の報復が待っている。信用なくして再起は無いのだから。

 

 

「夕飯、どうする?」

「え?」

「いや、だからこっちで食べるのか、ルヴィアさんちで食べるのかって」

「突然どうしました? それにそちらはテーブルが一杯でしょう?」

「まぁ、そうだけどさ……」

「ああ、私とリビングのテーブルへ逃げたいと?」

「ホント、話が早い。その通り。逃げる口実が欲しいんだ」

「弟分の頼みとあらば引き受けるのも吝かではありませんが、間桐さんにこうやって助けられたと、後で話すのはナシですよ?」

「なんでさ?」

「彼女の君に対する好意には気付いているでしょう? 幾ら私が親戚でも、キミと一緒に並んで食事をしたい彼女にとっては敵となり得るのです。キミの鈍さで人を死地に送らないで下さい」

「あ、あ~……。けど死地って大げさな」

「大袈裟も小袈裟も、お坊様が着ければ同じ袈裟です」

「は?」

「ともかく他言無用です。もう少し女の子の気持ちを汲まないと。あんな良い子は中々居ませんよ?」

「話さないのは約束するよ。けど、そんなに? エルヴァさんから見た桜ってそんなに良い奴なのか?」

「ヤツではありません。良い子なのです。男の子の目線だと感じ難いと思いますが、女の子の目線だとかなりポイントが高い子ですよ。想像して御覧なさいな。家族での散歩。上の子を肩車する士郎クン。下の子を抱っこしている間桐さん」

「え、え?」

「それを例えば……そうですね。遠坂さんとか、エーデルフェルトさんに置き換えて想像してみて下さい」

「うん……ん、ん? あ……本当だ。浮かばない……ってか、ピンと来ない」

「浮かんでも、水族館で散々振り回されたり、ヴェルデでお買い物をした荷物を大量に持たされたりとかでしょう?」

「ああ……。本当だ、何でだろう?」

「ですから彼女にするには良いけれど、結婚相手の対象としては選べない相手だって事ですよ」

「そういう事なのか?」

「そうですよ。キミは最初のガールフレンドが、結婚相手になり得る人だったのです。しろと言ってる訳ではありませんよ? お互い高校生で先は未だ見えません。けれどこんな風にシミュレーションはしましょう。女の子はこんな事を小学生の頃からやっているのですから」

「本当に?」

「本当ですよ。イリヤちゃんの本棚がファンタジーものから恋愛ものに変わって来たら、そういう思春期に入ったサインです。もっとわかりやすく言えば、なか○しが違う雑誌になれば」

「ええ!?」

「お兄ちゃん、しっかりしなさい。心と身体の成長度合いは人それぞれです。気持ちと感情、そして身体の変化。これがケース・バイ・ケースで変わるのです。思春期に入れば、大人になるためにホルモンの分泌が変わります。今までに無かったものも分泌されたりもします。成長痛で膝は痛いわ、骨盤は痛いわ。他にも色々。それで気持ちや感情が揺れ動くのですね。あんな素直で大人しい子でも、両親への反抗心が出て来ます。そんな時に家族の絆を見失わないように、キミがしっかりしないと」

「ああ……」

「私達が大学に通う頃、あの子達は思春期のピークを迎えます。お父さんの口からは、妹達のためにキミはしばらく家から離れて暮らしなさいとは言えないのですよ。キミは可愛い息子ですから。だから察しなさい」

「え? どういう事だ?」

「生理が始まれば、失敗して下着を汚したり、トイレを汚す場合もあります。それをお兄ちゃんに見つかったら?」

「あ~……」

「ね? 日本は遅れているでしょう? 男の子でも高校生くらいなら知っていて当然の知識であり配慮ですよ?」

「どうしたら……」

「ここで年齢差が活きて来ます。大学生になれば、寮かアパートで下宿しなさいな。そこで経済的で健康的な料理でも研究して、今のアインツベルン家を補う料理でなく、衛宮士郎の料理を考えれば良いのです。そしてその時も間桐さんが傍に居てくれるなら、今度はあなた達家族の料理を考えれば良いのです。それは何事にも当て嵌まります。それが親離れですよ」

「親離れ……」

「そうです。いつまでも子供のままでは居られません。精神だけでなく経済も独立して、そこでこの人と決めた相手と自分達だけの家庭を持つのです。年の離れた妹は子育ての良いシミュレーションですよ。そして自分達の子供を、お父さんやお母様に抱っこして貰えば良いのです。イリヤちゃんやクロエちゃんに可愛がって貰えば良いのです。そうやって世代交代して、連綿と繋がるのが家の歴史なのですよ。家をそのままにするというのは、いつでも戻っておいでという親心なのですから」

「そっか……そんな風に考えないとダメなんだな。前から思ってたけど、エルヴァさんって大人だな」

「これこれ。私は7月21日でやっと18歳ですよ。キミと一つ違いの高校生ですから」

「え!? イリヤと1日違い?」

「正確には7年と1日ですが。それにクロエちゃんも双子なので、誕生日は7月20日ですよ?」

「あ、そっか。そうだよな」

「ええ、それであの子達の誕生日プレゼントを一緒に考えませんか?」

「そうだよなぁ。エルヴァさんの方が女の子向けは詳しいだろうし」

「それと、修学旅行から帰った来週か再来週の日曜日に付き合って下さい」

「買い物?」

「はい。弓具を揃えませんと」

「わかった」

「そこで間桐さんも誘って下さいな」

「どうして?」

「体格が似ているので参考になりますでしょう?」

「なるほど」

「それを口実にして、私をダシにデートを愉しめば良いのです」

「はい?」

「だから、グループ交際もしていないのでしょう? 二人だけだとハードルが高くとも、私が居れば安心でしょうに。それとも既に二人だけで何度も逢っていて、キスくらいは済ませている?」

「ええ~ッ!」

 

 家に帰る頃は辺りが真っ暗だった。少し肌寒い。遅くなったので制服のまま夕飯を頂いた。

 先に食べていてくれれば良いのにと、抜けた事を言う士郎クンを急かしてテーブルに着いた。あの子達は君と離れて食べるのも嫌なのに、食事の時間も別にしてどうするのだと。

 私が睨んだ事で察したようだが、どうもこの子は人の心理を読むのが下手だ。

 その後、あちらで皆んなが待っているからと、お父さんに促されエーデルフェルト邸に向かった。消化に悪いなぁ。




少々長いですね。
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