それでは、どうぞ
雪が好きだ
何故なら今は遠い故郷を思い出すから、俺の故郷は峻厳な山奥にある、人里離れた場所ではあったが静かで美しい所だった、今は、もうない
雪が好きだ
何故なら余計な音を消しくれるから、俺はめっぽう静寂を愛している、雪が降るって事は、季節は冬だ、獣は眠り、山は閉じる、不気味なまでの静けさが、しかし俺にとっては最高だった
雪が好きだ
あの白さがたまらなく好きだ、白いから雪が好きなのか、雪が白いから白が好きなのかは、もう忘れた、とにかく歌にも出てくる犬よろしく、小さい頃は喜びのあまり庭駆け回る程であった、今じゃあ流石に遮二無二はしゃぐ年ではないが、それでもやはり、良いものだ
俺の好きな、雪と冬と静寂とその他諸々の魅力を言葉で表現しようとすると、困ったことにキリがない、とにかく俺がどれだけソレらに心惹かれているかわかってくれただろう
そんな俺だが、薬師をやってる、大きな木箱を背負っていろんな土地を回るのだ、山越え谷越え丘を越え、ひたすら歩いて旅をする、故郷なき今、俺を留めるものは無い、正味な話、不憫に思う所は山ほどあるが、これがなかなか自由で良い、しかしながら、長く旅をしていると不思議な事によく会う
そんな訳で、これから俺がする話は、旅の道中に出くわした奇妙で珍妙な一間の物語である
前置きが長くなってしまい、たいへん恐縮に御座いますが、ご興味あれば、どうかそのまま聴いてください
鬼と藤と童と天狗のお話です
事の始まりは、そう、単なる好奇心です、いつものように旅の道中、腹が空いたので近くの茶屋で握り飯を食ってました、そこの主人が膝が悪いってんで良くほぐしてやると、えらく感謝され、ここいらの話をしてくれました、なんでもたいそう不思議な山があるとか無いとか、そこの名前は確か、そう
「藤襲山?」
季節は冬、外は凍てつくような寒さの中、俺は茶屋の主人のご厚意に甘え、炉のある部屋で握り飯を食っていた
茶屋の主人は随分歳をくった老人だが、明るく善良な方であった、寒風に軋む膝が痛いとかなんとか言っており、まぁ軽くほぐしてやっただけなのだが、随分と気に入ってくれて、こうして共に暖を囲って話している
「そうなんですよ、藤襲山って言うんですがね?凄いんですよ、山の麓から中腹にまでビシッー!っと藤の花がさいてんるでさぁ」
「おぉそれはなんとも、でも残念だ、今はもう血気盛んなクマ公だって大いびきかいて寝ちまってる、こんな時期には葉も付いてやしないでしょう、長く留まる訳にもいかねぇし、いやはやまったく、残念だ、まぁ上手いこと都合がついたら、また5月頃に寄ってみますかね」
藤の花、たしか紫色で小さな花を垂れ下がるように咲かせる植物だ、それが辺り一面に咲き誇っていると言うのなら間違いなく絶景なのだろう、しかし見頃は5月で、桜のように長く咲き続ける訳でも無い、本当に残念だが見物できるのは来年になりそうだ
が、どうやら主人の話には続きがあった
「それがですよ、薬師さん、なんと藤襲山の藤の花は散らないんですよ」
「散らない、とは?」
「そのまんま、どんな理屈かは知りやせんけど、一年中咲きっぱなしなんでさぁ」
「んむ、真に?」
「おや?疑っておられるので?」
「そりゃあご主人、お伽話でもねぇ訳だし、そうそう信じちゃいられんよ」
それが本当ならなんとも不思議な話だ、しかし俄かには信じ難い事である、普通に考えて一年中咲きどうしの花など無い、植物には植物の都合がある、アレが花を咲かせるのは自らの種子を残す為であって、当たり前だが人に愛でられる為ではない
この世には人の理解を超えた不思議な出来事が沢山あるが、その比ではない数のデマがある、いちいち真に受けてちゃキリがない
「まぁしかし」
そう、キリがないのだが
「急ぐ用事があるわけでもねぇし、下見も兼ねていっちょ騙されてみますかね」
俺は旅の薬師だ、崇高な使命も仲間も故郷も金もない、だから俺は思うがままに生きれる、まったく人生は素晴らしい
それではいっちょ行ってみようかと、壁に立てかけた蓑と笠を被っていると
「あ、旦那待って下さい」
茶屋の主人から待ったがかかった
「なんでしょう?」
「今夜はもう遅い、一晩泊まっておくんなせぇ」
まったくこの主人は、いったいどこまで善良なんだが、赤の他人を普通家に泊めようとは思わねぇ、しかも俺みたいな全身笠被ったよそ者なんてそりゃ不審でしょうがないだろう、そんな人間の安否まで気にかけちまう、いつか魔がさしたどっかの馬鹿たれが、ここの主人を襲っちまうともわからねぇ、俺はほとほと心配だ
「いやいやご主人、あんなうめぇ握り飯貰っといてその上宿まで借りるなんざぁ申し訳ねぇ、払える銭も幾許もねぇんだ、勘弁してくれ」
「銭なんざいらん、たった一晩泊まるだけよ、減るもんでもねぇから遠慮なさんな」
茶屋の主人は一向に引き下がらない、なんともまぁ頑ななこった、しかし、ここまでくると逆に怪しい、クソみたいな考えだが、善意で泊めるフリして、俺の寝込みを襲って荷物を全部ふんだくる、そんな事を考えているんじないかと…
(くそったれ!なんて事考えてんだ俺は!脳みそ腐ってんのか、握り飯の恩を忘れやがって!まったく、この未熟者が)
まったくもって失礼極まりない、一瞬でも頭をよぎった自分の未熟さを恥じ入るばかりだ、ただまぁ、執拗に止めてくるのも事実、何か理由があるのだろう
「なぁ主人、善意はありがてぇ事だが、そこまで止めるにゃ何かワケでもあんだろ?聞かせてくれよ」
外出の支度を済ませた俺は、担当直入に主人に尋ねる、俺を引き止めるその訳を
すると茶屋の主人はなんとも歯がゆいような、何か言いたげな微妙な顔をして、意を決したようにモゾモゾと口を開いた
「まぁその、なんでぇ、薬師の旦那があんまり楽しみにしてるし、水を差すのも何かと思ってなぁ、それにまぁこんな歳になって言うのも恥ずいもんでして」
もぞもぞ、もぐもぐ、何やらいらん事ばかり言って一向に知りたい事が出てこない、流石に俺も痺れが切れそうだ
「おうおう、そんで結局何なんですかい?」
「いや、そのですね、俺はまったく信じちゃいないんですけど、出るらしいんですよ、藤襲山には」
「何が?」
「鬼です」
「うひゃ〜コイツは凄げぇ、絶景だ」
で、結局俺は茶屋の主人の忠告も聞かずに、ノコノコと藤重山にやってきた、なんでかと言えば、善は急ぐもんだからだ、それだけだ
それでまぁ、実際目の当たりにしてみりゃどうだ、正直言って話半分程度にしか信じちゃいなかったが、凄げぇ、とにかく凄げぇ、こりゃ麓から中腹あたりまでか?満開の藤の花がびっしり咲き誇ってやがる、一体どんな手を加えりゃこうなるのか気になって仕方ねぇ、好奇心が爆発しそうだ
「散らない桜なら見たことあるが、藤の花は初めてだ、月明かりも相まって最高だ、コイツをツマミに酒が呑みてぇな」
思わず本音が漏れちまった、しかしなんだ、良い歳こいてこんなに興奮すんのも久しぶりな気がする、俺も大概珍妙な出来事にゃ事欠かないつもりでいたが、やっぱり世間は広い、これだから旅は辞められん
「よっしゃ」
さてさて、感極まんのもいい加減にして、そろそろ仕事に取り掛かるとしよう、そりゃ確かに俺は話半分の物見遊山で来た訳だが、逆に言えば半分は信じてきた訳で、そんで何に期待して来たかと言えば、そりゃもちろん薬師としての純粋な好奇心だ、一年中散らない花だなんて滅多にない、こりゃあ調べんわけにもいかん、こんだけ咲いてんだ、多少目減りしたくらい大した事ねぇだろ
「それじゃ、失礼するぜ」
誰に言うわけでもなく、雑多にぶら下がった藤の花を一つもぎ取る、それからはまぁ、ひたすら観察だ、触ってみたり、色んな角度から眺めてみたり、匂いを嗅いだり、舐めてみたりもした、そうして一通りの観察を終えた初見は、普通の藤より色合が随分と深く、そして匂いも濃い印象を受けたが、それ以外はなんら普通の藤の花であった
落胆は無い、パッとみで全て理解できるとは毛ほども思っちゃいないからだ、後はそう、コイツを潰して煎じた液を1つ、俺の木箱に詰め込んでだら終いだ、久々に山でも降りて知り合いの医者のとこで詳しく調べてみようと思う
(まぁそう急ぐ事もねぇから、ひとしきりこの山を散策して、頂上で日の出を拝んだら出るとしよう、帰りには茶屋の主人に礼でも言っておくか)
そんな呑気な事を考えながら、おれは呑気に夜の森を歩いていた、道は整備されていたし、明らかに人の手が加えられた痕跡があったので、ここはそれなりに人出の多い所だと思っていた、だから獣は寄り付かなねぇと、思えばそれは度し難い慢心だったと言える
山道に沿って登って行くと、いつのまにか藤の群がなくなり、普通の木々が乱立した森となっていた、最初にも言ったが季節は冬なので、虫も鳴かない静かな夜だった、丑満時、1日で最も夜が深い刻である、月の木漏れ日を頼りにおそらく山頂へ向かってるだろう方角へ足を運んでいると
何やら鈍い音が聞こえた、気がした
ドン ドン ドン
それは、大型の獣の足音にも聞こえる
「勘弁してくれぇ」
俺は思わず天を仰いだ、星が綺麗だった、いやそんな事どうでも良い
人の味を覚えた獣は、たとえ冬季に入ろうとも獲物の匂い嗅ぎつければ眼を覚ます、まだそうと決まったわけではないが、十分にあり得る事だ、俺か、もしくは他の誰かが起こしちまったかはわからんが、とにかく今は音とは逆の方向に行くべきだ、夜の森で人喰いに遭遇するだなんて、考えただけでゾッとする
ふと、先程した茶屋の主人との会話を思い出した
『出るらしいんですよ、藤襲山には』
『何が?』
『鬼です』
………
「…落ち着け、そして行動だ」
そう、俺は冷静だ、ぜんぜん怖がってない、特に肝が際立って冷静だ、冷静な汗も止まらない、そして、なんという事だ、これだけ冷静な状態でいながら、俺の闘争心は烈火のごとく燃え上っているようだ、なぜなら先程から武者震いが止まらないのだ
よし!そうと決まれば話は早い
「さっさとズラかろう」
固い決意を胸に、俺は歩みを進めようとした、が、それは叶わなかった、思えばそう、そもそも俺が茶屋の主人の忠告を素直に聞き入れてれば、こんな厄介ごとに巻き込まれずに済んだのだ、しかし言い訳をするのなら、俺は知らなかったのだ、鬼の存在、そしてそれを狩る組織、何よりちょうどこの時期に、人知れず藤襲山で行われる血生臭い試練について
妙な気配を感じたのは、俺がトンズラを決め込んだ直後であった
ドガァ!
っと俺の頭上にある木の幹に、何か重たいものがぶつかったような音がした、すかさず視線を向ける
木にぶつかったソレは、最初はどでかい蹴鞠かと思った、花柄の可愛らしい模様が見えたから、しかしすぐに違う事に気がつく、常識的に考えて夜中の森で蹴鞠をする奴なんていないし、そもそも大きすぎる、ちょうど童が体を丸めたのと同じくらいだ、そんなもんを蹴とばせる人間なんていない
じゃあなんだったって言う話だが、結論から言うとソレは人間だった、しかも子供で恐らく少女、花柄の着物を真っ赤な血で染めた息も絶え絶えの女の子が、突然上から降ってきたのだ
情況が全く掴めず混乱の極致に達した俺は、もうどうすれば良いのか分からず、取り敢えず落下の衝撃でほつれた少女の着物をそっと直した