人魚の夏   作:ふーてんもどき

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一章

 私はクールビズに真っ向から唾を吐く者である。

 

 我が家のクーラーには朝から晩まで過労を強いており、冷凍庫は常に豊富な種類のアイスクリームで満たしている。極寒と呼ぶに相応しいほど冷房の効いた部屋で毛布に身を包み、棒アイスを食べることは至上の贅沢だ。

 寒いなら冷房なんか点けるな、とおっしゃられる自然主義の方々には是非ともこの妙味を一度味わっていただきたい。クーラーを奴隷のごとく酷使しつつも、寒いので毛布を被るというこの無駄こそが贅沢の極致であると私は考えるものだ。

 古今東西の隔てなく、上流階級の人間は無駄の限りを尽くして贅沢を楽しんできたではないか。食べきれないほどの豪勢な酒宴しかり、何のためにあるのか分からぬ天蓋付きの巨大なベッドしかり。一般人でありながらこれらに準ずる贅を貪れる現代に産まれたことを感謝するばかりだ。

 故に私は、文明の利器によって夏の酷暑を嘲笑う。それこそが現代人としての使命であると信ずるところである。

 

「分かるか、弟よ」

「出ていけ引きこもり」

 

 血を分けた唯一無二の兄弟に同意を求めたが、にべもなく拒絶された。そればかりか兄である私を引きこもり呼ばわりとは、なんということだろう。私は人よりもほんの少し単位を落としがちなだけで、気の向く講義があればちゃんと大学に顔を出しているというのに。

 弟は中学生になって以来、年長者を敬うという美徳を忘れてしまったようだ。実に嘆かわしい。

 

「お前な、ここは俺の家だよ。どこに出てけと言うんだ」

「僕の部屋から出てけってんだ」

「そんな冷たいことを。冷たいのはクーラーとアイスクリームで間に合うのに」

 

 弟の部屋の真ん中で敢然と居座っていた私は、怒り狂った弟によって床から引き剥がされてすごい力で追い出された。廊下へ放り出す間際、尻に蹴りまで入れてくる始末だ。補助輪付きの自転車で「兄ちゃん!」と必死に私のあとを追いかけてきた弟はどこへ行ってしまったというのか。

 まあ彼の気持ちも分からないでもない。

 人生初の受験期を迎えた中学三年生の夏休み。勉強する傍らで誰かが寛いでいては、さぞかし鬱憤が溜まることだろう。それくらいは分かっている。

 分かった上で兄弟の絆を信じ、彼の人情に訴えたわけだが、残念ながら兄の気持ちは伝わらなかったようだ。以心伝心とは難しいものである。

 

 ここで私は途方に暮れた。家のなかで涼める場所を全て失ってしまったからだ。

 我が家には四台のクーラーがある。居間、私の自室、弟の自室、両親の寝室にそれぞれ一つずつの配置となっている。

 この内、居間と私の部屋のクーラーが同時に故障するという空前の大事件が起こったのは昨晩のことであった。ここに私のサンクチュアリは潰え、弟にも見限られ、華々しい大学生の夏休みに汚点を残すこととなった次第である。ちなみに親の寝室にあるクーラーは型が古いので私の肌に合わない。

 

「この世は無情だ。神も仏もいないじゃないか」

 

 私は居間に備え付けてある神棚へ文句を吐き捨てる。お供えしてある水なんか沸騰して熱々のお湯になればいいのだ。

 しかしいくら神に不平不満をぶつけたところで、茹だるような暑さは変わらない。私は涼を求めに外出する所存のほぞを固めねばならなかった。

 

 家の近辺でゆっくり涼めるところとなると、かなり限られてしまう。大抵、市立図書館か喫茶店の二択である。昔は喜んで川なんかで遊んでいた私も、このように立派なインドアに成長した。

 無論、万年厳しい懐事情に則しているのは図書館であるが、そこへ行くには自転車を十五分も走らせなければならない。それに比べて最寄の喫茶店『マーメイド』は徒歩五分で着く。

 玄関を出てマンションの一階に降り、駐輪場に停めてある愛車の黒いサドルに触れてみる。太陽の恵みをこれでもかと吸収した合成樹脂は凶器的な熱を帯びていた。

 なにが愛車か。

 私は喫茶店へ行くことにした。

 

 

 

 

 『マーメイド』は老夫婦が二人で経営している小ぢんまりとした昔ながらの純喫茶である。軒先に雑然と並んでいる観葉植物が目印だ。

 やれハニートーストだの、やれタピオカミルクティーだのと奇抜な洒落っ気に走りがちなカフェが乱立する昨今、素朴な味わいのナポリタンを十数年変わらずオススメとして提供し続けるこの店には好感を抱かざるを得ない。

 私は足繁く通っているわけではないが、それは常に金欠だからであり、決して『マーメイド』を軽んじていはいない。むしろ懐が潤えば進んでコーヒーの一杯でも飲みに行く。ここのコーヒーはやたらと苦くて旨い。

 

 もう一つ、私が『マーメイド』を気に入っている理由として、知り合いに会わないことが挙げられる。

 私と同年代の学生たちはこぞって前述した流行りものの店に行く。そして写真映えする料理を携帯電話のカメラで撮ってはオンラインに晒すのである。

 私は清貧を重んじるよく出来た人間なので、こうした自己顕示欲の塊じみた行為を蛇蝎のごとく忌み嫌う。その光景を見れば嫌気がさすし、キャッキャウフフとした声を聴くだけでも腸から怒りが込み上げてくる。

 それが大学のキャンパスを同じくする同輩であれば尚更だ。友人や恋人と一緒になっている時に、偶然にも隣の席に座っている私を見かけた彼らはヒソヒソと陰口を叩くのだ。「あいつ一人で来ているぞ」とか、「友達いないのかしら」とか。そうして静謐を愛する私のような好青年が、あたかも一人ぼっちの寂しい人間だと吹聴されるのである。きっとそうなるに違いない。たぶん。おそらくは。

 そういった煩わしさを感じなくて済む『マーメイド』は重宝するものだ。あの店はあらゆる面で私に優しい。

 

 住宅街を抜けて幅の広い県道を横断する。アスファルトから照り返す熱が厳しく、私の白い肌をチリチリと焼く。家を出て三分で私の全身は汗ばんできた。じっくりと干物にされてゆく鯵の気分である。

 艱難辛苦を乗り越えて、私はどうにか商店街の入り口に着いた。ここから向かってすぐ左に折れて裏通りへ進めば、喫茶『マーメイド』がある。

 裏路地では建物の壁に張り付いている室外機がファンをやたらと回して熱風を吐き出している。むわっと暑い空気に当てられて、急激に私の腹の底から憎しみが沸き上がってきた。

 あれらの室外機は当然、建物の中の空調に繋がっていて、部屋の気温と湿度を適切に保っているはずだ。屋内にいる人間たちはその恩恵を一身に受けて恍惚としているに違いない。

 考えるだけで吐き気を催す光景だ。自分達だけが涼むためにこれだけの熱を排出して、奴らは平然としているのである。許しがたい。地球に申し訳ないとは思わないのか。こんなに苦労している私に申し訳ないとは思わないのか。人類は皆平等に夏の苦しみを共有するべきではないのか。あれもこれも全部ぶっ壊れてしまえば平和に近付く気がするし、これを大学の卒業論文のテーマに据えよう。

 

 私は幽鬼のようにフラフラと歩きながらも、足元の鉢植えを蹴飛ばさないよう注意し、営業中と書かれた看板がぶら下がっている『マーメイド』の扉を開けた。

 

「いらっしゃいませー」

 

 ドアの鈴が鳴り、年配の奥さんの声と、店の中に蓄えられた冷気が私を迎えた。

 私は先刻までの己を恥じた。

 いったい何をトチ狂っていたのだろう。クーラーはこんなにも素晴らしい発明ではないか。全くもって今こそが平和であるに違いない。

 圧倒的な自己矛盾を抱えた私はそれを良しとしつつ、カウンター席の一つに腰かけた。お冷やとおしぼりを持ってきた奥さんにコーヒーを注文する。

 

 店内には他にも何人か客がいた。

 テーブル席は四つのうち三つが埋まっていて、カウンター席には私の他に一番奥の方で初老ほどの男性が座っている。男性はくたびれたベレー帽を深く被り、コーヒーを啜りつつ競馬新聞を熟読していた。身なりが全体的に薄汚く、私は彼の私生活を案じた。

 近くのテーブル席に座っているのもカップルや家族連れではなく、これまた中年のおじさんで、彼の手元をこっそり見ると内田百聞の全集を読んでいるらしかった。

 『マーメイド』にはこうした客が珍しくない。この水煙草でもふかしたら似合いそうな雰囲気が実に私好みである。水煙草はやったことがないれけど。

 

 胸ポケットから取り出した煙草に火をつけて、煙を口のなかで弄びながら久しぶりの『マーメイド』をゆっくり見回す。狭い店内にも関わらず出入口の近くにピアノが置いてある。あれは奥さんと旦那さんのどちらの趣味なのだろうか。

 この店のマスターである旦那さんは口元に見事な髭をたくわえた老紳士で、コーヒー豆を挽いたり、その粉をサイフォンで蒸らしている姿はとても絵になる。

 そうやって作業をしている旦那さんの後ろの壁には、いくつかのメニューが書かれた札が掛かっている。上から順に眺めていくと定番のナポリタンやオムライスなどのメニューが並び、その最後に『ヴェスヴィオの噴火』という文字が異彩を放っている。

 

 ヴェスヴィオとはイタリアのナポリ湾岸にある火山の名前だ。海原を見渡す位置にあるこの大いなる山は、かつてローマ帝国の時代に大噴火を起こし、ポンペイという麓の街を壊滅させたことで有名である。

 その山の名を冠するメニューの実態こそは超巨大なナポリタンとなる。要は大食いチャレンジだ。一食二千円で、三十分のうちに完食できれば無料となる。

 

 私がまだ食欲の権化だった高校生の時分、これに挑み完膚なきまでに叩きのめされた。

 この店特有の噛みごたえのある太い麺はすぐに胃を満たし、しかも腹のなかでさらに膨れてくる。ケチャップソースで赤く染まったこれが食べても食べても一向に無くならず、さながら止めどなく湧き出る溶岩と闘っているような気分にさせられる。そして我々の胃袋はポンペイの轍をなぞるがごとく壊滅させられるのである。

 かつてのトラウマから目を反らし、煙草を吸い終わったので持ってきた文庫本を読みつつコーヒーが出来上がるのを待つ。

 すると、ドアベルが鳴って新しい客が入ってきた。

 不意にそちらを横目で見て、私は驚きのあまりその人を二度見した。

 

 白いワンピースの女性だった。

 背はすらりと高く、踵の高い靴がさらに彼女のスタイルを良く見せている。夏も盛りだというのに肌はまったく日焼けしておらず、透明感を感じるほどに白い。それと対照的に黒い長髪は漆を塗ったように豊かな艶がある。

 しかし私が驚愕を顕にしたのは、決してその人が美人だったからではない。

 彼女は私と同じ大学に通う学生だったのだ。

 

 

 

 

 鮎川さんは私と学舎を同じくする心理学部の三回生で、これまた私と同じボランティアサークルに所属している。

 同じだった、と言うべきか。

 

 まだ私がキャンパスライフに夢を見るホヤホヤの新入生だった頃、勧誘されるがままにこのサークルに入った。表向きは貢献意欲に満ちた好青年のつもりであったが、女子の一人とも仲良くなれなかったことを鑑みるに、私の欲望は外部に筒抜けだったのかもしれない。

 私が鮎川さんを見たのは新歓パーティーでのことだった。

 酔漢と化した先輩の猛威から逃げて隅の方で麦茶を飲んでいたところ、同じく孤立している鮎川さんと目が合った。お互いに無言で会釈しあい、それから一つも言葉は交わさなかったあの日のことを、今も鮮明に覚えている。私は物静かな紳士を装いつつ、あんな美人がいるなら入部した意味もあるなあ、と内心で歓喜していた。

 

 しかしながら私は、恋も青春も何一つ成就しないまま退部した。

 女と見るやのべつまくなし口説こうとする軟派を嫌う私は、己がそうならないよう自戒する。そうして徹底的に受け身の姿勢をとっていたのだが、どうにもそれが裏目に出たらしい。

 入部早々、私は周囲から浮き始めて、一ヶ月経ってもなかなか名前すら覚えてもらえず、半年が経つ頃にはサークルに大変居辛くなっていた。二回生になってから暫くしてだんだんと顔を出さなくなり、三回生にしてもはや修正不可能と見て、泣く泣く退部届けを出した次第だ。無論、誰も惜しみはしなかった。

 

 私が辞めるまでの二年と数ヵ月の間、鮎川さんも仲間内からは浮いていたわけだが、彼女のそれは私とは気色が違っているようであった。 

 鮎川さんの何事にも驚かぬ巌のように冷静沈着な振る舞いは、孤高の趣すらあるものだ。サークル内のお調子者が公然で堂々と告白し「いいえ」の一言でばっさり切り捨てられていたのは実に痛快無比であった。

 そんな鮎川さんの姿勢は少しも変わることがなかった。私も彼女とはほとんど話す機会がなく、退部してからはいよいよ直接的な関わりを持たない。

 

 ただ一つ、私には鮎川さんに対して後ろめたいことがある。どうしてだか、彼女とはよく目が合うのだ。

 例えば講義中、しみったれた教授の講義を聞き流して何となく辺りを見てみると、鮎川さんの視線とかち合う。廊下ですれ違う際も視線が交わることは多々あった。終いには踏み切りで電車の通過を待っている折、その電車に乗っている鮎川さんと目が合う始末だ。もちろんサークルに所属していた時など甚だしいことこの上なかった。

 私は最初、これを恋の予兆と感じ、鮎川さんが私に思いを寄せて常に視線を送っているのだ、と妄想に耽っていた時期があった。そうして受け身一辺倒の自戒を破り、彼女に何やら話しかけた記憶がある。

 

 しかし冷静になってみれば、私の方が無意識に彼女を見つめているのだとも考えられる。容姿の差を考慮に入れたならば、誠に遺憾ではあるが後者の説が有力となる。

 そうなると、第三者から見れば私はあたかもストーカーではないか。

 ひょっとすると鮎川さんは日々私の視線に怯えているのかもしれない。彼女に交遊関係がないからまだ良いものの、もしも誰かに相談されればたちどころに噂が立ち上り、私の悪評が燎原の火のごとく広まることは想像に難くない。やがて私は正義を振りかざす有象無象に弾圧され、ボランティアサークルでの羞恥も余すことなく掘り起こされた挙げ句、退学を余儀なくされるのだ。変態のレッテルを貼られながら。

 その恐ろしい顛末を考えるたびに、私の背筋に冷たいものが走る。

 つまり私は私で、鮎川さんに怯えているのである。

 近頃は彼女と目を合わさぬよう試行錯誤を繰り返しては失敗する日々を過ごしている。何故失敗するのか。天に偶然を司る神がおわすのであれば、一度そのご尊顔を仰ぎとっちめてやりたい。

 どちらも被害者なはずなのに、男女の違いでこうも状況が変わるのはどうしたことだろう。私は世間に断固として男女平等を訴える。

 

 以上のような経緯があり、私は鮎川さんを苦手としている。彼女の得体の知れないところが尚更不安を掻き立てる。彼女がその謎に包まれた雰囲気の通り、この町の権力者や、危ない仕事を生業にしている組織の令嬢だった場合、私はどうなってしまうのだろう。ドラム缶の中でコンクリートと仲良く心中し、海底の風景の一部と化す様が頭をよぎる。

 

 だからこそ私は鮎川さんと極力関わらないように仙人のごとく身を潜めて過ごしてきた。

 しかし偶然を司る神様とは、ほとほと折り合いが悪いようである。

 

 

 

 

 『マーメイド』にやって来た鮎川さんは、ちらりと私を見た。例によって目が合い、私は慌てて顔を下に向ける。

 鮎川さんは何も言わず、奥さんに促されるまま私から一つ空けた隣の席に座った。盗み見るように横目で伺えば、ツンと澄ましたような彼女の横顔がある。他人の空似ではない。間違いなく鮎川さんだ。

 

 私はひどい混乱に陥った。

 一体なぜ、彼女のような人がこんな所にいるのだろう。住まいがこの近くにあるのか。どこかの令嬢ではなかったのか。いやそれは私の妄想か。でも本当に彼女に迷惑をかけていたらどうしよう。

 考えが纏まらず、涼しい店内にいるのに脂汗が滲んでくる。

 

 鮎川さんのような乙女と、分煙もされていない鄙びた喫茶店はどこまでもミスマッチである。まるで沼に住む鴨の群れに、一羽の白鳥が紛れ込んでいるような不自然さだ。

 動揺を隠すためにコーヒーを啜る私の横で、鮎川さんはメニューをしげしげと眺めている。手元のメニュー表を一通り見終えたのか、今度は壁に掛けられたホワイトボードに視線を移す。

 

「あの、ヴェスヴィオの噴火ってなんですか」

 

 鮎川さんが奥さんからお冷やを受け取りつつ質問をする。ナポリタンの大食いチャレンジだということを教えられた彼女は少しの間考えてから言った。

 

「じゃあそれください」

 

 一瞬にして、店内に緊張が走った。

 奥さんが言葉を失い、それぞれの趣味に没頭していたおじさん達も鮎川さんに視線を集中させる。かくいう私も、もはや体裁など気にしている余裕はなく絶句して彼女を見つめた。

 すごい量になることを奥さんは脅かすように説明するが、鮎川さんの意思は変わらなかった。

 

 しばらくして彼女の前に山と見紛うほどの麺の塊が置かれた。ケチャップで真っ赤になったそれは溶岩を流すヴェスヴィオ山の威容を存分に放っている。私は過去のことを思い出し、このナポリタンを見ているだけで腹が一杯になった。

 鮎川さんはそれを前にして、眉一つ動かさずフォークを手に取った。実に手慣れた様子でフォークに麺を巻き付けて口に運ぶ。

 

 それはなんとも不思議な光景であった。

 背筋はピンと伸びていて、麺を巻く際に食器の音を立てることはない。口元は汚れず、全く啜らないために白いワンピースにソースが着くことさえない。彼女は実に洗練された動きで、しかし麺の山をみるみる内に小さくしていく。優雅な姿勢のまま圧巻のペースで食すので、まるで魔術によって麺を消し去っているようにすら見えた。

 半分の量になっても鮎川さんのペースは衰えを見せず、ついには完食してしまった。僅か二十分の出来事であった。

 カウンター席の奥にいたおじさんを皮切りに拍手の音が店内に響く。店のご夫婦も、怪しいおじさん達も、ついでに私も。皆が鮎川さんを「ブラボー」と口々に讃えた。

 すると鮎川さんは少し頬を赤くしながら、拍手喝采をあげる私たちにペコリと慎ましいお辞儀をした。そんな彼女の姿を見るのは初めてのことである。

 

「あの、デザートにアイスクリームを」

 

 鮎川さんが小さく挙手をして言った。

 

 

 

 

 サンデーグラスに乗ったアイスクリームが実に涼しげに見える。食べている人が鮎川さんだから、余計にそう思うのかもしれない。彼女はさっきまでのナポリタンと違い、ゆっくりと氷菓子の冷たさを味わっていた。

 彼女の食べっぷりを気に入ったのか、旦那さんがサービスだと言ってコーヒーを出す。滅多に出さない高級な豆を使ったとか、なんとか。

 鮎川さんはそれをおずおずと受け取り、ほんの少し啜ってからアイスの横に置いた。苦いものはあまり好きではないのだろうか。

 すっかりぬるくなったコーヒーを飲みつつ私が盗み見ていると、彼女は不意に私の方を向いた。

 

「な、なんでしょう」

 

 何を敬語になっているのだ、私は。

 ここで視線まで逸らしては男が廃ると思い、鉄の意思で彼女の目を見ると、鮎川さんが私の持つコーヒーを眺めていることに気付いた。

 

「コーヒー、好きなの?」

「うん、まあ」

 

 私の曖昧な返事に「ふうん」と言い、自分のコーヒーを飲む鮎川さん。一口飲むたびにアイスクリームを三口は食べている。

 

「最近いないよね、サークル」

 

 再び口を利いた鮎川さんに、私はコーヒーでむせそうになった。

 まさか私が辞めたことを知らないのだろうか。いや、誰にも気にかけられることのない私に限っては仕方がないかもしれない。

 しかしそうなると、彼女は私と目が合うことさえ気にしていないのだろうか。今までのことは私の一人相撲だったのか。ならばまだ彼女の中に威厳ある私の像を築くことも可能なのではないか。

 私は錯乱した思考を脳内の奥に押し込めて、ひとまず鮎川さんの問いに答えた。

 

「辞めたんだよ、夏休みの前に」

「なんで?」

「いやそれは」

 

 ずいぶんと繊細なところをズバズバと聞いてくる人だ。さっきから鮎川さんの印象が二転三転して私を混乱させる。

 

「鮎川さんはちゃんと行ってるの」

 

 ずっと孤高の風だった鮎川さんを思いながら聞き返すと、彼女は無表情のまま「うん」と言う。

 

「昨日は川のゴミ拾いだった」

「川って、隣町の?」

「ううん。山の方にあるバーベキュー場の。今度の打ち上げで、使用料金が割引になるんだって」

「なんて現金な」

 

 ほとんどアルバイトじみた活動内容に、私は呆れた。ボランティアとはなんぞや。しかし鮎川さんはその仕事に満足しているらしい。

 

「でも、川が綺麗になるのは良いこと」

 

 私は、いつの間にか鮎川さんと普通に話している状況に気付いた。喫茶店のカウンターに並んで、彼女とこんな風に何気なく会話する日が来るなどと思ってもみなかった。

 そもそも鮎川さんはこんなに話す人だったのかと驚かされる。それは彼女の胃の巨大さよりも意外なことで、胸の中にむずむずとした熱のようなものが込み上げてくるのを感じた。

 

「鮎川さんはこの近くに住んでいるのか」

 

 勢い余って、個人情報を聞いてしまった。なんて節操のない。もっとこう、丁寧かつ慎重に事を進めるべきだというのに。そう考えて、『事』とはなんだろう、と自分で分からなくなる。

 鮎川さんは特に気にした様子はなく「いいえ」と簡潔に答えた。しかしそれ以上のことは言わなかった。

 

「森崎くんは、よくここへ来るの」

「たまにね。今日は暑いから涼みに来たんだ。うちのクーラーが壊れちゃったからさ」

「そう」

 

 鮎川さんは素っ気なく言って、残ったコーヒーを一気に飲み干した。そしておもむろに立ち上がるとレジ前へ歩いて行き、アイスクリーム分の清算を済ませる。腹にあの大量のスパゲティが収まっているのか疑わしいほど自然な振る舞いだった。

 

 少しは話せることを嬉しく思っていたのだが、やはり鮎川さんという女性は謎のままであった。ひょっとしたら何か気に障ったのだろうか。しかしそれを直裁に尋ねるのは、私の主義に反することだ。

 もう行ってしまうのを残念に思いながらも、私はまだ寛いでいくために再び本を広げようとした。

 

 しかし、立ち去るかと思われた鮎川さんは、扉の前に立ったまま私の方を見つめていた。まるで私も一緒に来るのを待っているようである。そう思ったのは、流石の私であっても間違いではないだろう。

 開きかけた本をしまい、私も会計を済ませると、鮎川さんは一つ頷いて扉を押し開けた。外の熱い空気が流れ込んでくる。私は彼女の後に続いて店の外へ出た。

 去り際、奥さんの「ありがとうございました」という声を聞き、私は何だかむず痒い気持ちを覚えた。

 

 

 

 

 私は鮎川さんの後を追うようにして商店街を歩いた。アーケードの日陰を持った商店街は、太陽の下を直に歩くよりはだいぶん楽である。しかしそれでも暑いものは暑いので、普段より客足は疎らなようだった。

 

 少し前を歩く鮎川さんは時折、雑貨屋や服屋の前で立ち止まり、店頭に並んでいる品物を眺めている。彼女もウインドウショッピングなんてするのだと意外に思ったが、その頭の中で何を考えているのかはやはり分からないままである。

 豚の貯金箱やエキゾチックな竹編みのくずかご、輪っかの形をしたヘンテコな扇風機、私の嫌うクールビズを主張する紳士服などを鮎川さんはしげしげと観察する。古本屋では乱雑に積まれたセール品の山から黄ばんだ一冊を引き抜き、ぺらぺらと捲る。彼女はそれを購入して鞄に入れた。

 他にも薬局で冷えピタの製品情報を見比べたり、誘われるままに水素水の試飲をしてみたりと忙しい。販売員のお兄さんは水素水の効能を熱心に説明していたが、鮎川さんの鉄壁の会話術を前にして早々に諦めたようで、私は彼に憐憫の情を抱かずにはいられなかった。

 

 鮎川さんはなかなかに好奇心が旺盛で、その行動を予測することはもはや不可能に近い。私はそんな知られざる彼女の一面を好ましく思う反面、己の存在意義を早くも見失いつつあった。

 いったい私が付いていく意味はなんだろう。ひょっとしたら鮎川さんが「一緒に来い」という素振りをしたように見えたのは私の勘違いだったのか。いや、彼女は確かに私へ頷いたりしていたが。

 そう思い始めたところで、鮎川さんは唐突に話しかけてきた。

 

「暑いのは嫌い?」

 

 ある雑貨屋の前で足を止めた彼女の隣に立つ形になり、私は暫く返事に迷ってから、嫌いな方だということを伝えた。

 

「私も、少し苦手」

 

 鮎川さんはそう言ってから店の中へ入り、棚を物色し始める。色とりどりの風鈴が掛かっている棚だった。彼女が優しく触れる度に、丸い硝子細工がチリンチリンと軽い音を立てた。

 日本人の遺伝子が風鈴の音を涼しく感じさせるのだと云う。そんな何処かで聞きかじった曖昧な知識を、私は思い出した。つまり鮎川さんの鳴らす風鈴の音色に、図らずも私が涼しさを覚えたのは、私が純然たる日本人である証かもしれない。それに、同じような形をしているのに音色が微妙に違うのも面白く感じ、私にもそのような感性が備わっていたのだと感慨深くなる。

 そうして一緒になってこの可愛い硝子玉の群れを見ていると、しばらく風鈴の具合を確かめていた鮎川さんは、たくさんある中から一つを選んで購入した。

 会計から戻ってきた鮎川さんは私の方へ来ると、今しがた買った物を私に差し出した。

 

「あげる」

「えっ」

 

 断る暇もなく、風鈴の入っているレジ袋を私に押し付けるようにして渡してくる。それを落とさないように受け取り、私は呆気にとられるままビニールの袋から風鈴が梱包された箱を取り出してみた。

 箱を開けて中身を確かめると、それは川魚が泳いでいる絵の描かれた風鈴であった。女の子が選んだにしては随分と渋いなあ、と思う。しかし相手が鮎川さんなので不思議と納得できるものでもあった。

 しかしこれを本当に貰っていいものなのか。それ以前になぜ私に風鈴を買ったのか。

 不可解な行動のわけを聞こうと、風鈴を一旦箱に戻して顔を上げたが、そこに鮎川さんの姿はなかった。

 

「鮎川さん?」

 

 忽然と姿を消してしまった鮎川さんを探して雑貨屋の中を見て回るが、私以外の客の気配はない。店から出てアーケード街を右往左往してみたが、それでも白いワンピースを着た彼女は見つからなかった。

 

 まるで空気に溶けてしまったかのように、なんの前触れもなく、鮎川さんはいなくなっていた。

 

 私は前衛アートの彫刻が据えられた商店街の中心で立ち尽くした。帰ってしまったのだろうか。こんなにも唐突に。

 狐につままれるか、ひっ叩かれでもした気分である。別れが突然すぎて喫茶店を出てからの記憶さえ疑わしく思えてくる。

 これまでのことは白昼夢だったのだろうか。夏の暑い空気に錯乱して見た、泡沫の夢だったのか。

 

 しかし私の手には確かに、彼女が「あげる」と言って渡してきた風鈴がある。

 私は己の頬をつねる代わりに、もう一度風鈴を取り出してその音を聞いた。川魚の風鈴は、その渋い柄にしては妙に可愛らしい音を奏でる。色々鮎川さんに聞きたいことはあるが、連絡先さえ知らない彼女の動向を追うことなど出来るはずもない。

 そうやって突っ立っている内に汗をじんわりとかいてきて、私はもともと避暑のために出掛けたのだと思い出し、今度は図書館へ向かうことにした。

 何だか自転車を走らせてもいいような気分だった。

 

 

 

 

 愛しのクーラーの調子を診てくれる業者は、明日の昼に来るとのことであった。それで今晩だけは熱帯夜に耐えなければならない。

 弟は、また私が自室に入ってくるのを恐れていたのだろう。いつまで経っても私が乱入して来ないことを怪訝に思った彼はあちらから私の部屋にやって来た。

 

「兄ちゃん、自分の部屋で寝るの?」

「クーラーがこれだからなあ」

「別に、寝るだけなら僕の部屋に布団持って来てもいいよ」

 

 どうも弟は、昼に「引きこもり」とか言ったことを気にしているらしかった。彼はまだ青いけれど、そうやって反省できる点は立派なものである。

 

 しかし私はやんわりと断りを入れた。

 窓のレース掛けには川魚の絵が掛かれた風鈴が提げてある。網戸を残して開け放たれた窓からは生ぬるい風がそよいできて、それが風鈴を軽やかに鳴らした。

 

「どうしたのそれ」

 

 弟が心底意外なものを見る目をして聞いてきたので、私は少し考えてから言った。

 

「クールビズというやつだ」

 

 

 

 

おしまい

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