人魚の夏   作:ふーてんもどき

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二章

 川原を歩く夢を見ている。

 なぜ夢と分かるのかと言うと、大学生にもなった私が川原なんぞに出向くわけがないからだ。虫に刺されるし、足は疲れるし、良いことなど一つもない。

 しかし今の私の足は、いくら歩いても疲弊しないのだ。虫も、一匹も見かけない。

 両側は森に囲まれ、さわさわと揺れる緑葉の隙間からは木漏れ日が射している。その光が澄んだ小川の水面に反射し、微かにきらめく。目には見えないが、何処からともなく蝉の鳴き声が穏やかに響いていた。

 やがて、川へ競り出すように大きな白い岩がでんと聳えているのが見えてきた。私はその岩に登らなければいけない。

 何の躊躇いもなく素足を水に着ける。背筋を凍らせるような冷たさは感じない。私の足は一切の感覚がなくなったようだ。なのに気分はふわふわと軽やかで、風船のように宙へ浮かんで行きそうな気持ちさえした。

 岩の頂上に苦もなく登った私は、しかし、そこからの景色を見ることはなかった。足を滑らせたのだ。

 私は頭から真っ逆さまに落ちて、水飛沫を上げて川に潜る。くぐもった水音。この川に底と云うものは無く、下にはただただ暗い深淵が広がっている。まるで得体の知れない怪物が、大口を開けて待ち受けているようだった。

 

「助けて!」

 

 幼い男の子の声が響いた。それは私の口から出たものである。

 水のなかにいるのに「助けて」という言葉だけが明朗に響く。しかしそれが父にも母にも弟にも、誰にも聞こえないことを、私は知っているのだ。

 どれだけもがいても私の体は鉛で出来ているように沈んでいく。冷たい水が肺を満たす感覚がする。それは死の触感だった。

 もう水面からの光も届かなくなった時、私に近付いてくるものがあった。彼女は朦朧とする私を優しく抱き締めると、魚のように見事な速さで上へと泳いでいく。

 私は彼女の顔を見ようとした。ぼやけた視界のせいで輪郭すら曖昧だが、彼女が穏やかに笑ったような気がした。

 そして何事かを私に言う。

 

「ヴーヴーヴー」

 

 まさかのバイブ音である。どういうことか。

 疑問を抱いた瞬間、私の夢はシャボン玉を割るように呆気なく覚めてしまった。

 彼女の顔も、分からぬままだった。

 

 

 

 

 私が目を覚ますと、そこは慣れ親しんだ自室であった。間違っても河原ではない。

 横を向けば、開きっぱなしの本がある。幼いときに買ってもらった妖怪大全という図鑑で、人魚の頁が目につく。他にも、万年床と化している煎餅布団を中心として、フローリングの床には文庫本や参考書や猥褻本などが散らばっており実に居心地がいい。

 

 ヴヴヴと音がする。

 

 窓からは昼下がりの陽光が差している。しかし室内は実に涼しい。先日壊れたクーラーは無事に修理されて、順調に冷気を送ってくれているのだ。

 

 ヴヴヴと音がする。

 

 クーラーの風に煽られて、窓枠の風鈴がチリンチリンと爽やかな音色を奏でる。あれは最高の睡眠導入剤だ。

 

 ヴヴヴと音がする。

 

 鮎川さんから貰った川魚の風鈴。その音を聴きながら寝たから、あんな夢を久しぶりに見たのだろうか。

 

 ヴヴヴと音が。

 

 私は怒りに飛び起きた。枕元で携帯電話が震えている。

 こんな昼間から電話をかけてくるとはどんな不埒者だろう。きっとセールスや詐欺の電話に違いない。私の電話帳の乏しさを鑑みれば、自ずとかかってくる電話の内容は予想できる。実に嘆かわしいことである。

 着信拒否をしてさっさと寝直そうと思い携帯を手に取ってみると、液晶画面に表示されていたのは数字の羅列ではなく、私の知る人間の名前だった。つまり、数少ない電話帳に登録してある人物である。

 しかし決して嬉しくはない。何故なら私の知り合いなど、ろくなのがいないからだ。どちらにせよ吉報にはならないことに虚しさを感じる。

 それも、今回かけてきた野田という人物は、特に厄介な相手だった。

 

 

 

 野田先輩は私よりもずっと歳上で、私の知る誰よりも得体が知れない。

 私が一回生だった頃の夏、まだ大学デビューには間に合うと思い込み無駄な努力を積み重ねていたある日、目の前に彼が現れた。

 『馬鹿』と大きく書かれたTシャツを堂々着こなす彼は、野田と名乗った。後で聞いた話によると、喧嘩別れした彼女が置き土産として残していった物らしい。野田先輩は「あつらえ向きである」とやけに好んで、夏の間中その馬鹿Tシャツを愛用している。私としてはあの人に彼女がいたことの方が驚きだった。

 

「君は現状に悩んでいるな。自分の思い描いていた大学生活とかけ離れていくことに対して焦っている」

 

 開口一番、彼は私の心情をピタリと当てた。私がこのストーカーめいたことを言う男に恐怖と困惑を持つと、それを表情から読み取ったのか、男は朗らかな顔でうんうんと頷いた。朗らかな、というところが尚さら胡散臭い。

 

「案ずるな。少年よ大志を抱け、だ。いや青年だったかな。どちらでもいい。大志の前では悩みなどあってないようなものじゃないか。君は己の内から湧き出る欲望のままに人生を謳歌すればよろしい」

「え、ああ、はい」

 

 彼が何を言っているのか半分も理解できなかったが、その圧倒的な熱量により、私は諸々の疑問を放棄して頷くしかなかった。

 男は満足そうにニンマリと笑う。

 

「よしよし。少しはためになったかな」

「まあ、はい」

「よしよし。では百円」

「えっ」

 

 それが野田先輩との出会いだった。結局は金をむしりとられた記憶しかない。私が流されるままに払った百円で彼はパピコというアイスを買い、私と分けあった。しかも足りない分は自分の懐から出している。もう訳が分からない。

 

 野田先輩について詳しく述べると話は紆余曲折し、やがては単行本を出版し続編まで書くことになるため、ここでは簡潔に説明することとする。

 男性。年齢不明。所属サークル不明。専攻科目不明。そもそもちゃんと単位を取っているのか不明。

 やや簡素過ぎたであろうか。無論、上記の内容は、野田先輩という深淵の表面に漂う上澄みの一部でしかない。

 確かなのは彼の素性がほとんど不明であるということだ。二年ほど留年していて、三年休学していることは彼自身が明かしている。酒の席でのことだったので定かではないが、本当だった場合、留年した年数と休学期間だけで五年経っていることになる。恐ろしいことだ。どうやって学校や親を説得しているのだろう。

 

 三日三晩麻雀に没頭しては荒稼ぎをし、見知らぬ人の宴席に乗り込んでは一芸を披露し酒を鯨飲して拍手喝采を浴び、そして猫のようにしこたま昼寝をする。これで大学生だというのだから驚きである。少なくとも私は、彼が学問に取り組んでいる姿を見たことがない。

 それでいて憎めないのが野田先輩の特異な点だった。彼はロバのように面長でやや間の抜けた顔をしていて、いつもニコニコと愛嬌のある笑顔を絶やさない。何が面白いのか常に笑っている印象である。まあ、彼ほど卓越した、先に煩わされることのない落ち着きぶりを持っていれば、この世のほとんどは面白く見えてくるものなのかもしれない。

 

 私は先輩が嫌いではない。むしろ好きと言える部類だ。ああいう奇人変人の類いは見ていて飽きない。

 しかしそれは見る分には、という話であって決してお近づきになりたいなどといった気持ちは一欠片もない。関わったが最後、ハンマー投げの鉄球のごとく振り回され散々な目に遭うことは想像に難くない。

 なのに何の因果か、私と野田先輩は少なくとも互いの連絡先を知っているくらいの関係にある。無論私から接触するはずもない。コンタクトは大抵向こうからだ。

 私はどうやら、野田先輩という怪奇的生命体に気に入られているらしかった。

 

 

 私は電話に出るか出まいか迷った。その間も携帯は鳴り続けついる。野田先輩の執念は凄まじい。あの人は一度こうと決めたら頑として方針を変えない人だ。なんとはた迷惑な初志貫徹だろう。

 葛藤の末、電話に応じた。出なかった時の方が被害が大きいだろうと考えた次第である。

 

「はい、もしもし」

「やあ君。すっかり待ちくたびれたよ。あまり師匠を待たせるものではない」

「弟子になった覚えはありません」

 

 野田先輩は何かにつけて私を弟子にとろうとする。或いはもう師弟のつもりなのか。

 彼が何を人に伝授することがあるのか甚だ疑問だが、自分のことを「師匠」と呼ばせたがることから察するに、師弟関係というものに憧れているだけなのかもしれない。

 

「相変わらずつれないな。まあ良い。自我は強い分だけ良い。そうでなくては人生を楽しめないからなあ」

「また訳の分からないことを。それを言うために電話かけてきたんですか」

「そう焦るな。短気は損気と言う」

 

 野田先輩は電話の向こうであくびをした。向こうも昼寝をしていたのだろうか。大口を開けている姿が容易に想像できる。

 

「君はどうせ暇だろう。取り敢えず今から私の下宿に来なさい。ちょっと話があるんだ」

 

 この言葉に、私は大変な危険を感じ取った。胡散臭いにも程がある。呼ばれるままに馳せ参じれば十中八九、面倒事に巻き込まれるであろう。

 

「話があるなら電話で済むじゃないですか。今言ってくださいよ」

「顔を突き合わせることに意義がある場合というのもあるのだ。いいから来なさい。アイスもあるよ。君、パピコ好きだろう」

「馬鹿にしてます?」

 

 アイスごときで私が釣られると本気で思っているのだろうか。野田先輩はそこはかとなく、私を馬鹿だと思っている節がある。

 

「君を馬鹿だと思ったことはない。どちらかと言えば阿呆で間抜けだ」

「ひどい!」

 

 何が変わっているというのか。

 

「いいじゃないか。何事にも良し悪しがある。君の間抜けは良い間抜けだ。誇りなさい。私の弟子となるに申し分ない才能だよ」

「誇りません。と言うか誇れません。弟子にはならないし、先輩の下宿にも行きません」

 

 スピーカーから「ううむ」と先輩の唸る声。

 

「困ったな。良し、パピコはやめだ。ガリガリ君を買ってあげよう」

「微妙に価値が下がってませんか。とにかく行きませんからね、俺は」

 

 そう言って通話を切る直前、野田先輩が「仕方ないか」とため息混じりに呟いたのが聞こえた。

 スリープにした携帯をそのままポケットへ入れ、私は出掛ける準備を始める。胸は焦燥感でいっぱいだった。

 あの野田先輩が、これしきのことで諦めるはずがない。

 では「仕方ない」とは、どういう意味になるのか。強行手段をとるに決まっている。すなわち私の家に訪れるつもりなのだろう。

 私は野田先輩の湯水のように湧き出るバイタリティーを称賛しながらも、その矛先が自分に向けられては堪らないので逃げの一手を打つことにした。

 

 しかし外は相変わらずの猛暑だ。座っているだけでも生命力が汗と共にぐんぐんと流れ出てミイラと成り果ててしまう。どこか涼める場所。つまり冷房のある場所に行く必要がある。

 こういう時、行き付けの喫茶店は重宝するものである。

 

 

 喫茶『マーメイド』は私のお気に入りの店だ。隠れ家のような立地が大変良い。特に今回は、文字通り隠れ家として使っている。さしもの野田先輩であろうと、地元の人間でさえ知る者の少ないここに私が避難していると特定するのは難しいはずだ。

 今日のところはここで凌げば良い。野田先輩は熱量こそ凄まじいものの飽きるのも極端に早いため、長くとも明日を乗り切ればほとぼりは冷めてくれよう。

 

 店内に変わった様子はない。外観も内装もメニューも客の顔ぶれも、何年経とうが変わる気配がない。そこに磐石の安心感がある。

 しかし私は変わった。

 ほんの少し、マーメイドに通う頻度が高くなった。

 何故かと言うと、そこのところが自分でもよく分かっていない。何故私は最近になって、金欠を押してまで通いつめているのか。自室のクーラーも直っているというのに。

 

 いや、分かってはいるのだ。本当はよく理解しているとも。

 私のなかで、先日の鮎川さんとの時間が未だに尾を引いている。日が経つに連れてあの昼下がりの思い出が美化されていき、もはや少女漫画もかくやというほどのラブロマンスに発展していることは認めざるを得ない事実だ。桃色の妄想が止めどなく押し寄せ、理性というダムを木っ端微塵に打ち破って濁流のごとく思考の地平を埋め尽くす。

 しかしこれを認めたくない私がいる。人としての生を受けて二十年余り、清廉を貫いてきたのは何のためか。男女が蝶々結びのようにくんずほぐれつ結びつき、息をするがごとく睦言を交わし合う、風紀紊乱のこの世に抗うためではなかったのか。その俺がこんな有り様でどうする。

 もう一度、この喫茶店で偶然にも出会えると心のどこかで信じているのだ。なんという破廉恥。恥ずかしすぎて死んでしまいたくなる。けれど来るのを止められない。

 

 私は悶々としながら苦いコーヒーを啜った。カフェインたっぷりの味わいにより、幸いにも脳みそに冷静さが戻ってくる。

 問題ない。少なくとも今回ばかりは違うのだ。

 今の私は野田先輩という無頼漢に付きまとわれ、ほうほうの体で逃げてきた可哀想な書生である。恋愛の熱にのぼせていたり、鮎川さんが来ることを心待ちにしていたり、何かの偶然の末に鮎川さんと手を繋いでしまったりというような妄想に駆られて来たわけでは断じてないのである。

 そう思うと心に余裕が出てきて、目の前のコーヒーを楽しむゆとりが生まれる。

 苦しい葛藤に打ち勝った私は腰を据えて小説でも読もうと思った。

 

 思ったところで、固まった。

 店に新たな客が入ってきたのだ。

 頭から追い出したはずの鮎川さんの名前が瞬く間に脳裏を埋めつくし、否応なしに心拍数が跳ね上がる。

 まさか、まさか、まさか。

 はち切れんばかりの期待を込めてドアの向こうから現れる人影を凝視していた私は、しかし、次の瞬間には深い絶望を味わうこととなった。

 

「やあ、やっぱりここだったか」

 

 そう言って片手をあげ、私に挨拶した人物は『馬鹿』と書かれたTシャツを着ていた。

 すなわち野田先輩だった。

 どうしてこうなった。

 

 

 私は野田先輩に促されるままテーブル席に移った。先輩はコーヒーを頼み、そこへミルクと砂糖を山ほど入れる。あれではコーヒー風味の甘い牛乳である。表面張力の限界に差し迫ったそれを全く溢さず、優雅な仕種で飲む技術はまるで手品のようだ。

 

「なぜ、ここが」

 

 やっとの思いで、私はそう言った。何故、何故、とそればかりが頭のなかをグルグルと駆け巡っている。絶対の信頼をおいていた隠れ家は、今や一刻でも早く出ていきたい牢獄と化していた。

 野田先輩は威張るでもなく、さも当然のように答えた。

 

「前々から君がこの喫茶店に入り浸っていることは知っていた」

「うそだ」

 

 頭を抱えるしかない。私は決して、野田先輩にマーメイドのことを漏らしたことはない。いざという時に逃げ込むためだ。今となっては全くの無駄だったわけだが。

 

「私は電話を終える間際に、仕方ないか、と言ったな。君はそれに怯えて家を出る。しかし君は物臭だから遠くへは行かず、近場で涼める場所へ行こうとするはずだ。ならば常連のここしかあるまいと考えるのは自然なことだよ」

「ストーカーではないですか!」

「心外だな。言っておくが、私は君に特別執着しているわけではないよ」

 

 野田先輩は広辞苑のように分厚い本を取り出してみせた。

 

「これには我らの通う大学に在籍する、学生や教授たちの情報が詰まっている。生年月日から食べ物の好き嫌い、思春期の甘酸っぱい思い出まで。君の個人情報もその内の一部にすぎない」

 

 私は唖然とするばかりである。

 およそ人道を欠いた悪魔の書物を、野田先輩はペラペラと捲る。とあるページを開き「どれどれ」とそこに記してある文を読み上げた。

 

「君は高校生の頃、ヴェスヴィオの噴火なる大食いチャレンジに挑戦して返り討ちにあったらしいな。よくやるもんだ」

 

 もはや驚きもしない。どのような情報網を駆使すれば、こうした些細なプライベートまで把握できるのだろう。ただただ恐怖するばかりである。

 野田先輩はマーメイドにおける私の青春時代をあらかた掘り起こし、やがて本を閉じた。

 

「しかし、いぢらしいことだ。婦女子との出会いを待ち焦がれて喫茶店に通い詰めるだなんて」

「な、な、な」

 

 私は無意識のうちに立ち上がり、口を鯉のようにパクパクとさせた。顔が火照っているのが分かる。

 何故それを、と何度めかになる疑問が胸中にこだまする。あの辞書じみた手帳には、そんなことまで書いてあるのか。

 

「落ち着きたまえ。ほら、茹で蛸のようだぞ」

 

 人の気も知らず、目の前の怪人は甘ったるいであろうコーヒーを美味そうに飲み干した。言葉にならぬままなんとか着席した私に、彼は微笑む。

 

「案ずるな。当人の感情や動機までは、さすがに書にも記されてはいない。今のはあくまで私の推察さ」

「推察……?」

「君は先日の昼下がり、鮎川嬢と二人で商店街を歩き、彼女からプレゼントを買ってもらった。その事実と、君が最近になってこの喫茶店へ頻繁に訪れていることを照らし合わせれば、簡単に解るというものだ」

「探偵にでもなったらどうです」

「無論、考えたことはある。だけど飽き性だから向いていないと結論が出た」

 

 私はもはや投げやりな気持ちになり、犬が腹を見せるように机に突っ伏した。もうどうにでもしてくれ。

 

「本題に入ろう。今回はその鮎川嬢についてのことなのだ」

「なんですと」

 

 私は即座に顔を上げた。食い付いたのを見て、野田先輩はニヤリと笑う。

 

「いかな私と言えど、情報の提供者がいなければ知ることはできない。君が彼女と一緒にいたところを、誰が目撃して私に知らせたと思う」

「ずいぶん焦らしますね」

 

 話を急かす私に「まあ聞きなさい」と野田先輩。

 

「速水という男は、君も知っているだろう」

 

 先輩の言う通り、私はその名前を知っていた。なにせ私の後輩である。

 そして速水なる人物のことを思い浮かべるにあたり、この件の主旨をぼんやりとだが理解した。

 

 速水は、鮎川さんにフラれた過去を持つ。

 

 

 かつて私の所属していたボランティアサークルは、男女の社交場としての側面を持つ。むしろそれを目的としてやって来る輩がいた。私が見るに部員の半数以上はその口である。社会貢献よりも己の願望を満たすために来るとは、なんたる破廉恥だろう。ボランティアサークルなどという肩書きは捨てて『破廉恥同好会』とでも改名すればいいのだ。

 

 まあ、私のサークルに対する私怨はさておいて、速水という男も破廉恥の部類に属する者である。

 彼はボランティアサークルの一員で、顔見知りでこそあるが、私とは全く相容れない部類の人間だ。ピアスに金髪、着崩したシャツなど、そのチャラチャラとした見た目もさることながら、美女が好きだと公言して憚らないところが受け入れがたい。さらには誰に対しても「うぇーい」と迫るのだから空恐ろしい。初対面のとき、焦りに焦って思わず「うぇーい」と返してしまったことは、数ある我が汚点の中でもとびきりの恥辱である。

 四六時中、清い交際について考えている私とはまるで水と油。その恋愛観は磁石のように反発する。

 そんな私たちの間に知人以上の関係が生まれるはずもなく、ほとんど会話もせず思い出も築かないまま、私は今夏にボランティアサークルを去った。

 しかし速水が鮎川さんにフラれたあの瞬間だけは、今も鮮明な記憶として残っている。部員たちの耳目を集めながら告白をした彼は「いいえ」の一言で見事なまでに切り捨てられた。私は腹を抱えて笑いそうになるのを堪え、心のなかで鮎川さんに喝采を送ったものだ。

 

「君と鮎川嬢がそこの商店街を歩いていくのを見てしまった速水くんは、どうにかして私に辿り着き、助言を求めてきた。実に健気な話だ」

 

 野田先輩はことのあらましを説明して、一息ついた。健気さに感心しているというよりは、喜劇を面白がっているような顔をしている。つまり悪い顔だった。

 

「ところで君は鮎川嬢と付き合っているのかな」

「いいえ全然」

 

 私は言葉を被せぎみに否定した。言ったあとで、何をこんなに必死になっているのかと恥ずかしくなる。

 野田先輩が古風な煙管からプカプカと煙の輪っかを吹かしながら「ふむ」と頷く。

 

「それは良かった。これで速水くんの依頼も果たせるというものだ」

「依頼って言うと、まさかまだ鮎川さんを諦めていないんですか。あいつは」

 

 「いかにも」と野田先輩。あれほどこっぴどくフラれたにも関わらず、なんという執念だろう。いっそ尊敬の念すら湧いてくる。

 

「彼は近々、再び鮎川嬢に交際を申し込むつもりだ。そのお膳立てをしてやることになっている。丁度いいから君も手伝ってくれないか。彼らと顔馴染みの人間がいればなにかと捗る」

「嫌です」

 

 即座に拒絶したものの、野田先輩は想定内であるといった風で落ち着きはらっている。

 

「何故あんなチャラチャラとした男のために一肌脱がねばなんのです。冗談じゃない。そもそも相手はあの鮎川さんだ。結果は見えてるじゃないですか」

「ほう、そう思うかね」

 

 野田先輩は糸目を微かに開いた。私はその気迫に閉口してしまう。

 そう、誰であろう野田先輩が手を貸すのだ。学生の諸事情を網羅している彼ならば、たとえ難攻不落の鮎川さんでも或いは、と思わせる凄味がある。

 しかしそうなると私としてはやはり面白くない。と言うか、かなり不味い。野田先輩の妖術にかかり、速水とイチャコラする鮎川さんなど見たくない。

 

「いいじゃないか。君は別に彼女をどうとも思ってはいないのだろう」

 

 私は「ぐっ」と言葉に詰まる。先ほどの見栄がこんなところで自分の首を絞めてくる。

 

「それとこれとは話が別です。何より俺にはなんの得もない」

 

 私がそう言うと、野田先輩は「そうかそうか」と笑った。将棋を差すとき、私は何度となく今と同じような彼の笑顔を見てきた。手詰まりになった私へ向ける、勝ち誇ったあの表情。

 私が悪寒を覚えたのと、野田先輩が言ったのは同時であった。

 

「君の麻雀における借金。あれについて便宜を図るつもりだったんだが」

「喜んでお手伝いさせていただきます」

 

 変わり身は一瞬であった。平身低頭、足を舐める勢いでへりくだる。野田先輩は満足そうに笑いつつ、慰めるかのように私の肩をぽんぽんと叩いた。

 斯くして、私は赤の他人の恋路を応援するはめになってしまった。誠に遺憾である。

 

 

 私と野田先輩はそのまま喫茶マーメイドに居座り、作戦を練った。と言ってもほとんどは野田先輩が事前に考えてきたものである。

 川に沿って車で一時間ほど移動した山の中にキャンプ場がある。設備が整っているために子連れの家族に人気で、私も小学生だった頃に何度か家族とキャンプをしに行き、冷たい川で遊んだものだ。

 今週末、そのキャンプ場にて、私のいたボランティアサークルが打ち上げとしてバーベキューを催す。夜通し行われるそこへ我々が忍び込むのだ。

 速水曰く、食後の夜には肝試しをすることになっているらしい。小さなグループに別れて、暗い森のなかを一周するという。そこが狙い目である。私と野田先輩が裏から手を回し、鮎川さんと速水を二人きりにすることが目標となる。

 

「しかし真面目にやったところで毛ほども面白くない」

 

 野田先輩は語気を強めて言った。何よりも退屈を目の敵とする人だ。爛々と光る彼の瞳は、面白きことこそが人生の至上命題だと言わんばかりの迫力に満ちている。

 私はひどく面倒なことになる確信を持ってうんざりとしつつも、どうせ逃れられないなら行けるところまで行こう、というヤケクソな気持ちがムラムラと沸き起こった。変に前向きになったわけだ。

 

「バーベキューを滅茶苦茶にしましょう。奉仕活動という大義にあぐらをかき、酒池肉林を貪る奴らに今こそ鉄槌を!」

 

 私は「鉄槌!鉄槌!」と叫んだ。

 

「我が弟子は過激派だな。良いだろう。前々からあのサークルの不純異性交遊については私も思うところがあった。ここいらで一つ、お灸を据えることにしようか」

 

 無論、野田先輩は風紀の乱れなんて気にするような人ではない。むしろさらに掻き乱して、その混沌とした様を高みから見物するのが大好きである。今回もそうなるように事を運ぼうとするのだろう。

 そうして我々の、無闇に壮大で阿呆な作戦が出来上がった。

 

 

 バーベキューほど憎らしいこともそうないと、私は思うものである。自然の静謐を打ち破って煙を撒き散らし、ひとしきり騒いだ後はゴミを溢れさせて行くあの所業こそ、悪以外の何ものでもない。

 品の良い人達もいるじゃないか、といった反論が湧きもするだろう。知ったことではない。あの若者共がキラキラと戯れる姿を想像するだけで怒りと虚しさが胸中に渦巻く。なぜ私はあの場に居られないのだ。

 

「見ろ。キノコがこんなに採れたぞ。夏でもいけるもんだ」

 

 私が劣等感に耽りながら、じうじう焼ける肉を弄っていると、森の奥から野田先輩がほくほくと満足そうな顔をしてやって来た。手には色とりどりのキノコを抱えている。

 地面の上に広げた戦利品は、ほとんどがおぞましい見た目をしていた。その出で立ち一つで「俺には毒があるぜ」と見事なまでに主張している。

 

「これ食べられるんですか?」

「なに。食べてみないことには分からんさ」

「捨てましょうよ」

 

 私の言を無視して、野田先輩は菌類の塊を焼いて食し始めた。一時間経っても先輩が死ななければ食べてみようかと思いつつ、私はマシュマロを焼く。

 我々は計画を遂行するべく、町外れの山の中にあるキャンプ場に来ていた。某サークルが予約を取っているところから離れた場所に陣取り、こうして先輩とバーベキューに興じている。時が満ちるまでの暇潰しだ。

 

「いや、バーベキューをやってる場合ですかね。先輩はともかく、俺は顔が割れてるから見つかれば計画がおじゃんですよ」

「その辺は向こうにいる速水くんが上手くやるだろう。彼、声はやたらと大きいから。まあ今は楽しみたまえ。君、バーベキューなんて初めてだろう」

「はい。こんなに寂しい気持ちになるものだとは知りませんでした」

 

 男二人だけで囲む火の、なんとつまらないことか。肉が鶏肉しかないというのが輪をかけて惨めである。しかも私の目の前にいるのは野田先輩だ。無精髭を生やして逢髪をなびかせ、『馬鹿』と書かれたTシャツを着ている彼と一緒に安い鶏肉や謎のキノコを食っていると、あたかもホームレスになったようであった。今の私はボランティアを受ける側として申し分ないのではなかろうか。

 先輩の懐から電話の着信音が鳴った。

 

「やあ、順調か。うん、うん。それじゃあ手筈通りにな。では」

 

 相手は速水だろう。簡単な報告だけしたようで、先輩はすぐに通話を終えた。

 

「彼、張り切っているよ。鼻息が荒かった」

「奴は性欲の権化です」

「だろうなあ」

 

 私はここに及んで猛烈に、速水の企みを邪魔したくなった。あのアンチクショウめの毒牙に鮎川さんのような乙女がかかるなど、あってはならないことだ。鮎川さんまで「うぇーい」とか言うようになったらどうしよう。想像してみて少し可愛いかもしれないと思った。

 どうしてあの二人の仲を取り持つ立場にいるのか、と自分で自分に腹が立つ。麻雀で負けが込んだからである。底抜けに間抜けな話だ。

 野田先輩はその微笑みの裏で何を思っているのだろう。少なくとも、葛藤に悶える私を面白がっているのは間違いない。

 大変やるせなくなって、私も謎にピンク色なキノコを口に詰めこんだ。「おお」と野田先輩が目を見張る。もしも死んだら本物の幽霊に化けて出て、速水の肝っ玉を試してやるつもりだ。

 

「これで一蓮托生ですね」

「うむ。ちなみに君が食ったのはトキイロヒラタケという。毒などないから安心していい」

「えっ、ではこれは」

「それも食用」

 

 どうやら野田先輩はキノコの知識にも精通していたらしい。おかげで私の覚悟は全くの無駄となったわけだ。本当に良かった、と今になって冷や汗が垂れる。

 

「さて、そろそろだな」

 

 野田先輩がそう言って空を見上げた。抜けるように青かった空に夕焼けの色が混じり始めている。雲にさす朱色は濃く、やがて東からは夜が昇ってくる。

 逢魔ヶ時のすばらしい空模様を目にした私は、自分のなかに魔性めいた何かが入り込んできたように思われた。それはさながら狼男が満月によって変身するように私を大いに昂らせ、先ほどの葛藤をたちまち何処かへ追いやってしまった。

 夜が来る。祭りの夜だ。物怪と化した私と先輩は闇夜に乗じ、乱痴気騒ぎを好む阿呆大学生を恐怖のどん底へ突き落とす。

 それからまもなく山は夜におおわれた。空にかかる月が美しい。バンガローのある方からは賑やかな声が聞こえ、オートサイトにいる私たちにまで牛肉の焼ける良い匂いが漂ってくる。

 私と野田先輩は互いに頷き、黒いローブを頭から被った。火を消しペンライトを持って立ち上がる。

 狩りの幕開けである。

 

 

 私は忍者のように気配を殺して茂みに潜んでいる。目の前の広場では今まさに、私の憎むべき狂宴が行われている。バーベキューコンロをいくつも並べ、その横で男女が肉の乗った紙皿やビール缶を持ちながら赤ら顔で談笑している。広場一帯が貸し切りなので、中央にはキャンプファイアーまであった。

 当然のことながら、私が見知っている人間が何人もいる。

 その中に鮎川さんの姿もあった。彼女は喧騒から少し離れたところで椅子に座っていた。巻き上がる炎や戯れる人たちを眺めながら、手酌で酒を飲んでいる。その様子は退屈しているようにも、祭りめいた熱気を楽しんでいるようにも見える。

 そんな彼女に近付く者がいた。速水である。速水はこちらにまで聞こえるほど大きな声で「いえーい、飲んでる?」と鮎川さんに絡み、酒を注ごうとする。

 私はてっきり鮎川さんが突っぱねるものと思っていたが、彼女はわざわざ残っていた分を飲み干して速水の酌を受けた。しかも今度は速水のコップに注ぎ返してやっている。

 衝撃である。私は悲鳴を上げそうなるのを必死に堪えた。

 先日の商店街で得たアドバンテージは跡形もなく消え去った。ここに及んでついに良心の呵責というものは一切なくなり、すぐにでも速水をギャフンとすら言えない状態にさせてやりたくなった。私も鮎川さんに酒を注いだり注がれたりしたい。

 そうやって変態的な妄想を捏ねつつ観察していると、ポケットのなかで携帯電話が震えた。野田先輩からの連絡だ。

 

「動きが見られる。準備は出来たか」

 

 「イエッサー」と私は答えた。師匠になりたい野田先輩が笑う。

 

「よろしい。配置に付きたまえ」

 

 電話を切った私は、音を立てぬようゆっくりと茂みから後退する。

 そうして立ち去ろうとした瞬間、鮎川さんと目があった。心臓が飛び出そうなほど脈動し、咄嗟に顔を下へ向ける。

 確かに視線と視線が交わった。向こうから暗がりとなっている此方は見えないはずだが、いや、しかし。

 私は踵を返して、逃げるように森へと分け入った。鮎川さんのあの涼しげな視線が、まだ背中に向けられている気がした。

 

 

 今回、作戦の要となるのは鮎川さんの性格である。ボランティアサークルに所属しながらも、天然記念物とでも呼ぶべき一匹狼っぷりを誇る彼女は、絶対に肝試しなんぞ眼中にない。宴から離れたところにいて一人で酒を飲むだろう、と私たちは予想した。実際にその通りであったため、計画は次の段階へ進む。

 

 これから始まる肝試しを利用し、皆を浮かれさせ出払わせ、速水と鮎川さんが二人きりになる隙を作ることが目標となる。

 私の役目はサークルの部員たちを徹底的に怖がらせることである。ペアになった男女がイチャイチャしながら森の奥まで来たところを、能面を被った私が強襲する。しかも手には包丁を持ち、絵の具で返り血のように赤黒いペイントまで施している念の入りようだ。

 個人の真価とは、思わぬ危機に直面したときに初めて見られるものだ。森から出てきた能面に、男女のどちらかは腰を抜かして小水を漏らし、どちらかは相手を置いてきぼりにして逃げ出すだろう。そうして情けなさを存分に見せあった二人はお互いを罵り、埋めがたい溝を作ることとなる。

 

 なるはずであった。

 しかし私の姿を見た人たちは悲鳴を上げながらも、皆一様にはしゃいでいた。

 笑う者、怖がる者、叫びながら逃げる者、写真を撮ろうとする者。反応はそれぞれで違うが、彼らの表情は浮かれた者のそれである。肝試しというイベントを心の底から面白がっている顔をしているのだ。中にはこちらへ対話を試みるような奴までいてもう手に負えない。

 

「やべー、さっきの見た?」

「もうマジ怖かったよー」

「あれ誰がやってんの」

「もう一度探しに行ってみるべ」

 

 森中に歓声めいた声が響いている。別のルートに進んでいた連中も、野田先輩の仕掛けた罠によって同じ目に遭っているようだ。つまり楽しんでいる。

 私は途方に暮れるしかない。

 何が悲しくて、この私が憎き彼らを楽しませなればならないのか。被っているお歯黒の能面は微笑を浮かべているが、その下で私は泣いていた。どうして、どうして、と自棄になって脅せば脅すほど、ボランティアサークルの連中は鬼ごっこをする子供のように逃げていく。誰も私の望む恐怖を持ってはくれない。

 

「先輩、先輩」

 

 とうとうやりきれなくなった私は、木立の影に隠れて野田先輩へ救援を要請した。

 

「おお、どうした」

「どうしたもこうしたも、どうにもなりません。奴ら楽しんでばかりで全然仲が良いままです」

「ええじゃないか」

「何も良くありません。それに計画はどうなっているんです」

 

 野田先輩の暢気さに業を煮やしかけた私は、スピーカーの向こうから聞こえてくる賑やかな音に気付いた。それに先輩の声も心なしか弾んでいる。

 

「というか先輩の周り、なんかうるさくないですか」

「うむ。今歓待を受けていてなあ。少し酔ってきたところだ」

 

 私は天を仰いだ。こちらが悪戦苦闘しているうちに野田先輩はとっくに寝返っていたのだ。「いけるクチですねえ」とか「こりゃどうも」などと向こうで掛け合い、野田先輩が手品を見せているらしく実に愉快な声が私の鼓膜を刺激した。痛撃もいいところである。

 

「君もこっちに来ないか。それに計画はだな」

 

 私は通話を切り、今度こそ本当に途方に暮れた。暗い森のなかでたった一人、何をやっているのだろう。心の中心にぽっかりと穴が空いたようである。

 

 木々の枝にはいくつか提灯が提げてある。不定期に明滅するよう先輩が細工したもので、遠目には暗闇に鬼火が浮かんでいるかのように見える。他にも私が仕掛けたラジカセからは少女の狂ったような笑い声が響いていたり、三メートルほどはある大入道のハリボテが木立の間から覗いていたりと、下手なお化け屋敷よりも恐ろしげだが、最早そんなことはどうでもよくなってしまった。

 何処へ行くでもなく森をさ迷う。とぼとぼと歩く私の能面を鬼火モドキが照らし出し、それを偶然見かけた男女が叫びながら逃げていく。楽しそうだなあ、と羨ましくなる。

 

 再び携帯電話が震えた。もちろん野田先輩からだ。いつもは沈黙を保っている私の携帯電話だが、今日はやたら大活躍である。履歴を見れば野田先輩の名前一色で、げんなりすること請け合いではあるが。

 しばらく迷ってから「はいもしもし」と応じる。

 

「話は最後まで聞きなさい。作戦は終了したよ。ご苦労さん。あとは自由に過ごすといい」

「作戦って、速水の、ですか」

「それ以外なかろう」

「ええと、その、成功したということですか」

 

 作戦という言葉で、ここへやって来た当初の目的を思い出し、私は固唾をのみ込んだ。まさか鮎川さんに限ってとも思っていたが、祭りの空気とは人を惑わせるものだ。吊り橋効果も侮れない。

 酒でも飲んでいるのか、ぐびぐびという音のあとに続けて先輩は言った。

 

「それなんだがね、二人の姿がないんだ。川の方へ行くのを見たという人がいるが、まあ気にするほどのこともないだろう」

「わかりました。川ですね」

「うむ。あ、麦酒をもう一杯」

 

 私はキャンプ場のすぐ側を流れる川へ向かって憤然と歩き出した。先ほどまでとは違い、爪先にぐっと力が入る。

 男女二人が川原へ行くなどただ事ではない。私の定める、羨ましいシチュエーショントップ10にランクインする。いや、今なら堂々の一位だ。

 那由多の彼方にあると思っていた危機は現実のものとなった。事ここに至ってようやく、私は私の成すべきことが見えた。鮎川さんを速水なんぞに任せておいて良いはずがない。麻雀の借金云々など知ったことか。

 暗い川辺に突き当たり、そこから上流へ向かって歩いていくと、二人分の人影が見えた。満月の明かりが拓けた場所にいる二人を照らし出している。間違いなく速水と鮎川さんである。

 速水はなんと、鮎川さんの腕を掴んで今まさに引き寄せようとしているところだった。鮎川さんはそれに応じず、抵抗しているようにすら見てとれる。

 その光景を目撃した私は怒り心頭、茂みから勢い良く飛び出して姿をさらした。

 

「はぁやぁみいいいい」

 

 私は偽包丁を振り被って奇声をあげる。

 すると速水は顔面を蒼白にさせた直後、声にならない悲鳴を上げてキャンプ場の方へ逃げていってしまった。まさしく脱兎の如しである。その見事なまでの逃げっぷりに呆れを通り越して感心していると、横で鈍い音がした。

 振り向けば、尻餅をついた鮎川さんが私を見つめていた。私が心配し慌てて近寄るも、鮎川さんは手を前に突き出して待ったをかけた。

 

「そのお面、脱いで」

 

 相変わらずの無表情だが、どうやら鮎川さんは驚いて腰を抜かしてしまったらしかった。私は自分の今の容貌を思い出し、迅速に能面を脱ぎ捨てた。模造の包丁も捨てて「怪しい者ではありません」と言う。それでようやく彼女は一息ついた。

 鮎川さんにも怖いものはあるのだ。

 

 

 私たちは川のほとりにある岩に腰を落ち着けた。満月の明かりとは大したもので、私はライトを点けずとも鮎川さんの表情を見ることができた。

 

「びっくりした。急に出てくるから」

 

 鮎川さんは言いながら、私へお茶のボトルをくれた。下戸の私にはありがたい。

 私は驚かせたことへの謝罪と共に、何故自分がここにいるのかという理由をかいつまんで話した。全ては速水が元凶だということを強調して。

 鮎川さんは驚くでも呆れるでもなく「ふうん」と一言で済ませ、酒の缶を傾けた。

 

「鮎川さんはなんでこんな川の方に?それも、その、速水と」

「この辺りで飲もうとしたら、あの人も付いてきたの。女一人じゃ危ないからって」

 

 速水はそうした真っ当な理由を建前にしたらしい。上手いものである。

 しかしその後の行動がいただけない。川原まで来た途端に奴は鮎川さんに迫り、大胆にも告白の段階を飛ばして接吻を迫ったらしい。

 そうして再び鮎川さんにフラれ、なおも食い下がったところで私が登場したという。鮎川さんの飄々とした態度に焦ったのかもしれないが、強行突破は不味かろうとさすがの私でも分かる。

 私は散っていった速水に合掌しつつ、鮎川さんがたぶらかされるという展開が杞憂だったことに安堵した。

 

「さっき、茂みの中に隠れてたでしょう」

「気付かれていたか」

 

 やはり視線が合ったのは勘違いではなかったらしい。しかも鮎川さんの口振りからするに、能面の男が私であることにも勘づいていたと見える。私が奇声を発して乱入しても尻餅を着くくらいで済んだのは、ある程度の心構えが出来ていたからということか。

 

「じゃあ俺が森で脅かし役をやることにも気付いていたわけだ」

「そうね」

「また阿呆なことをやっていると思った?」

「そうね」

 

 自分で聞いておいて、穴があったら入りたいなあ、と思う。

 

「でも助かったわ。ありがとう」

「ああ、うん」

 

 そこで会話は途切れてしまった。気まずくなり次の話題を探す私の横で、鮎川さんは特に気にする様子もなく月見酒を楽しんでいる。風鈴のことを言うべきか。それとも彼女の大食いの秘密について聞いてみようか。

 虫の鳴く音や川のせせらぎが私たちの間に流れる。そんな無言の時間が続いていたところで、鮎川さんはやおら立ち上がり、川の方へ歩いていった。まさか水の中に入るのではと思ったが、彼女は川縁でしゃがみ込むと何かを拾い上げ、こちらに戻ってきた。手には空き缶を持っている。

 どうやらゴミを見つけて拾ったらしい。ついこの間、サークルでゴミ拾いをしたと聞いていたが、やはり捨てる輩は後を絶たないようだ。こればっかりは仕方がない。

 

「ここ、昔は鮎やマスがいたの」

 

 座り直した鮎川さんが言う。彼女にしては珍しく、残念そうに目を伏せている。どうやら鮎川さんは昔からこのキャンプ場、ひいては川のことを知っていたらしい。これもまた彼女の印象からは想像しにくいが、釣りでも趣味にしているのだろうか。そういえば鮎川さんはサークル内でもとりわけ自然環境への気配りが細やかであった。

 小さい頃、この川で遊んだことのある私も魚を見た記憶がある。藻の影に潜んでいる鮎を近くで見ようと躍起になったものだ。今からでは考えられないくらい、遠い昔のことのように思える。

 

「そういえば子供の頃、このあたりで溺れたことがあるよ。昔はたまに家族でキャンプに来ててさ」

 

 思い出したことをそのまま口に出したところ、それまで川や月にご執心だった鮎川さんが私をまじまじと見つめた。穴を開けんばかりに視線を注いでくるので、さっきと別の意味で言葉に詰まらされる。どうしてだろうと考えても一向に理由が分からない。私は何か彼女の地雷を踏み抜いたのか。

 しばらくして、ようやく視線を外してくれた鮎川さんは「そっか」とだけ呟いた。なんだったのかと言及したいところではあるが、私にそんな勇気はない。

 

「私もこの川で遊んでいたわ」

 

 今度は私が鮎川さんを見つめることとなった。一瞬、この間見た夢が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。川に落ちた私を助けた謎の人物。そのボヤけていた像に、鮎川さんの顔が重なったような気がした。

 妄想に捕らわれそうになった私は、いかんいかんと頭を振ってくだらない考えを追い散らした。ロマンチズムに浸りすぎても良いことなどない。

 

 それから我々は特別語らうこともなく、中天にかかる月を眺めた。鮎川さんから麦酒を一口もらったが、やはり私の口には合わない。しかしほんのりと気分が高揚し、白っぽい月もなんだか色付いて見えてくる。

 野田先輩がまだ猛威を奮っているのだろう。祭囃子が遠くに聞こえる。先ほどと違い、意外にも私はそれを心地よく思った。

 

「綺麗な月ね」

 

 鮎川さんがポツリと言った。「そうだね」と私は答えた。

 

 

 今回の件で速水の納まるべき立場をものの見事に奪った私は、野田先輩に麻雀での借金を返済するため東奔西走、残りの夏休みを全てアルバイトに捧げることとなった。

 

 などと云うことはなく、その辺りは無罪放免となった。

 私たちの目的はあくまで速水と鮎川さんを二人きりにするというものであり、その後どうなるかは速水次第だというのが先輩の理屈らしい。速水からどれほどの報酬を得たのかは知らないが、野田先輩は無報酬でも面白かったならば良いと考える人なので、そこはあまり重要ではないのだろう。

 

 また、速水が恋人を作ったというのが大きい。もちろん相手は鮎川さんではない。野田先輩曰く、サークル内の後輩だという。構内で見かけた速水らカップルはいかにもな熱烈ぶりを発揮しており、私は速水を性欲の権化と言い表した自分の正しさを再認識した。

 喫茶『マーメイド』でそうした諸々の報告を終えた野田先輩は「楽しかったなあ。またやりたいなあ」などと宣う。二度とごめんである。

 

「そういえばあれから上手くはいったのかい」

「なんのことです」

「鮎川嬢とだよ。せっかく二人きりになるよう仕向けたのに、何も無いということはなかろう」

 

 私がぎょっとして見ると、野田先輩は愉快そうに大笑した。

 話の流れからするに、その二人きりというのは私と鮎川さん以外にいないだろう。

 あの夜のことはつまり、全て先輩の手のひらの上にあったのだ。面白きことを至上とするこの人がただ普通に依頼を受けるはずもなく、協力者であった私自身もその面白きこと、つまりは先輩が観察する人間模様の中に含まれていたらしい。

 野田先輩はしてやったりという顔をするでもなく、ただ満足そうに笑っている。踊らされたこちら側としては面白くないが、結果としては良い思いが出来たわけだから、なんとも複雑な気持ちになる。

 私はせめてもの抵抗として、黙秘権を行使することを選んだ。無論、焼石に水だろうけど。

 

「なあ、彼女と何を話したんだ」

「特に何もないですよ」

「本当に?」

「本当に」

 

 喫茶店の窓から外を見る。正午の太陽は狭い路地裏にもその光を届かせていて、屋内から見ているだけで暑さを感じさせる。

 日は長い。夏もまだ盛りだ。

 そう思うにつけ、うんざりすると共に、鮎川さんのことが頭に浮かぶ。つい先日、軽率な恋愛など唾棄すべきだと己の中で結論付けたにも関わらず、性懲りもなく彼女のことばかり考えている。これは良くない傾向だ。

 商店街で連れ添ったこと以上に、あの月見が私の心を惑わせる。これも夏が持つ、人を浮わつかせる魔性めいた力のせいか。そんなものに惑わされたくは、ないものだ。一時の感傷などに捕らわれて、これ以上恥ずべき歴史を塗り重ねないよう努めたいと強く思う。

 

 しかしもしも、あの夜に意味があるのならば。鮎川さんも何かしら感じるものがあったのなら、もう少しだけ話をしてみるのも吝かではない。

 私がたまに見る夢のこと。鮎川さんが遊んだという川のこと。

 いや、もっと他愛ない会話でも良いかもしれない。それこそ食べ物の話や、夏が暑すぎると言うだけでも悪くない。

 

 次に彼女に会ったら何を話そうかと、私は常々、思ってしまうものである。

 

 

おしまい

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