夏は人を惑わせる。私が二十年余りにおよぶ人生の中で得た真理の一つである。
海辺の白い砂浜。緑葉の濃い山々。清く冷たい上流の川。夏というだけでこれら普通の景色が鮮やかに色づき、素晴らしい宝石のようにキラキラと輝き出す。
その魅力を前にして、人はしばしば判断能力を失う。やれ一夏の思い出だの、やれアバンチュールだのと妄想を垂れ流し、異性を求めて徘徊するのである。
とりわけ書生という生き物は、徘徊するだけに止まらず、唐突に自分磨きなるものを始める。見向きもしていなかった勉学に取り組んでみたり、ひ弱な筋肉を鍛えようとスポーツジムに通ってみたり、弾けもしないギターを買って散財の限りを尽くしたりする。
何が彼らをそうさせるのか。無論、異性に良く見られたいという自意識に相違ない。私は「いや、そんなことはない」とか「前々から興味があったんだ」と抜かしつつ、付け焼き刃の努力に励む人たちを見てきた。
そして現実は無情である。
理想の異性と巡り会う機会にはついに恵まれず、海では砂と塩にまみれ、山では蚊や
そのような滑稽極まる同世代の人々を私は鼻で笑ってきた。何を無駄なことをと思いつつ、変な形の雲を楽しむように、遥か低いところから彼らを見上げるばかりであった。
「何やってんの兄ちゃん」
居間のソファーで寛いでいる弟が言った。私は彼の方を見ずに上下運動を続けながら答える。
「見てわからんか。腕立て伏せに決まっているだろう」
「いや、なんで突然そんなことやり始めたのかって聞いてるんだけど」
「最近筋肉の衰えを感じただけだ。それだけ。他意はない。本当に」
私の腕が生まれたての小鹿のようにプルプルと震える。鍛練はやり過ぎても逆効果だという豆知識を聞き齧っていたので、私は一区切りつけることにした。
額に滲んだ汗をぬぐう。これまで筋肉が疲労することを嫌悪していた私だが、いざやってみると大きな仕事を一つ片付けたような充実感を感じた。
余暇を鍛練に注ぎ、ほどよい汗を流す。これは何処からどう見ても好青年だなァ、と自分を褒め称える。
「いやあ良い汗をかいた」
私が肩を回しながらそう言うと、弟は白けたような半目で見てきた。
「まだ十回だけど」
「やかましい。千里の道も一歩からという言葉を知らんのか」
「じゃあ腕見せてみなよ」
私は袖をまくり、今しがた自信をつけた上腕二頭筋を見せつけた。弟に鼻で笑われる。あまつさえ「千里どころの話じゃないね」などと言う。なんて失礼な奴だろう。
五歳も下の弟の無慈悲な発言に気を悪くしたので、居間から出ていくことにした。
しかし、このまま自分の部屋に引き下がるのは敗けを認めたようでたいへんな屈辱を感じるため、去る前にほんの少し体裁を整える必要があった。
「さて、今度は勉学に勤しもうかな。なにせ大学生だからな、俺は」
私がカオス理論だのシュレディンガー方程式だのとそれらしいことを口にすると、弟はまるで、路傍に転がる犬の糞が突然喋りだしたのを目撃してしまったような顔をした。つまり一寸たりとも私を尊敬した様子はなかった。兄の威厳はいずこ。
しかしそれでも私の胸のうちで滾っている熱意は衰えることを知らない。かつてないほどのエネルギーが体中の毛細血管に満ちており「何でもいいから励め」と私に訴えかけてくる。
「僕も自分の部屋に行くけど、あまり騒がしくしないでよ」
「何を言ってるんだ。俺は勉学に勤しむと言ったろう。どうやって騒がしくするんだよ」
「だって兄ちゃんさ、すぐにギター弾き始めるじゃん」
立ち上がった弟は鋭い横目で私に釘を刺しつつ、居間を出ていった。
確かに私は最近、物置で埃を被っていた父親のギターを引っ張り出して弾いている。楽器など義務教育でしか持ったことがないので、たまに奇っ怪な音が鳴る。「たまに」と言うよりは「しょっちゅう」と表すのが正しいのかもしれないが、それは些細な違いであろう。寛容さを心がけることが大人物になるためには必要である。
心の広い私は、弟の言うことにも一理あると思うものだ。事実として私の演奏技術はまだ人前で披露できるものではないので、それを勉強中に聞かされては堪らないのだろう。そのくらいの道理は私とて弁えている。
朝食を摂ってからこちら、筋トレはもう痛いほどこなし、弟がいるからギターの練習もできないときている。仕方がないので、今のところは持て余したやる気を全て勉強に向けようと決意した。
朝方だというのに窓からはギラギラとした日光が降り注いでいる。いよいよ真夏と言える時期も最後とあって、太陽も私と同じようにやや張り切り過ぎているのだろうか。そう思うと普段は憎いだけの存在にも妙に親近感が湧くというものだ。
では真夏の太陽よ。お互いに今日一日頑張ろうではないか。
私は心のなかで同志の健闘を祈り、自室へ行った。もちろん冷房は容赦なく効かせる。太陽にエールは送ったが、それとこれとは別問題である。
窓枠の風鈴が涼やかな音を奏でる。鮎川さんからもらった、川魚の風鈴。その音を聞くたびに私の心臓は躍動し、血液を目まぐるしい勢いで手足の先へ送りつける。すると居ても立ってもいられず、何かしないことには落ち着かなくなってしまうのである。
何故こうなったのか。原因はだいたい自覚しているのだが、それを認めるには事の重大さに相応する恥が付きまとうので、あえて考えないものとする。今はそう、前々から興味があったことをやるだけだ。決して言い訳などではない。決して。
そうして私は柄にもなく文机に向かい、意味不明な数式の羅列によって完膚なきまでに叩きのめされたのであった。
○
最近、例の夢を見る頻度が増えた。
私が子供の頃に川で溺れた記憶、その再現のような夢である。昔からたまに見てきたが、ここ二週間でもう三回目となる。そろそろ溺れ慣れてきた感じさえして参ってしまう。
細かな違いはあれど、大筋は変わらない。山中で一人遊んでいた私が、足も着かない深さの川で溺れ、そこを誰かに助けられるという内容だ。
その『誰か』が今までは分からなかった。常にその人の顔は靄がかかったように不透明で知ることが出来なかったのだ。
しかしついこの間から、得体の知れない誰かの役に、鮎川さんがすっぽりと収まってしまった。私がここ二週間で見た夢の三回とも、鮎川さんが幼い私を助けている。彼女は優しく微笑み、人魚のように見事な泳ぎで私を水面へ引き揚げてくれる。夢は、いつもそこで途切れるのだ。
大学のサークルを同じくしていただけで、あとは殆ど接点のない彼女に、私はいったい何を求めているのだろうか。こんな思春期真っ只中の中学生じみた妄想を夢に見てしまう自分に腹が立つ。全くもって愚にもつかない。
しかし単なる阿呆の夢と片付けることができないのがもどかしい所である。
何故なら幼い頃、私がキャンプ場近くの川で溺れたことは事実であり、気絶している内に何故か岸辺に揚がっていたことも紛れもない事実だからだ。倒木や岩に引っ掛かるのではなく陸の上で仰向けに倒れ、濡れた衣服は欠けることなく私の側にまとめて置かれていたという。
たまに家族の間でも話題に上がる。
なぜ私は、あんな風に助かったのだろうか、と。
○
私はかつて努力を手放した人間である。覚えている限りで、その起点は新品のランドセルを背負っていた頃にまで遡る。
宿題が好きだったと言う人は世間にもそう居ないと思うが、とりわけ私は宿題というものを嫌悪していた。その単語を聞くだけで虫酸が走り、夏休み明けの初日などは「胃潰瘍で動けない」と主張し、親に蹴り出されて泣く泣く登校したものである。
大学生になってから、その傾向はますます顕著になった。これまで努力らしい努力をしてこなかったことが自己の一部として屹立し、今更むくつけき努力をしたところで何になる、と頑なさを増した。結果として私の浮浪人じみた空気は一層濃くなり、素敵な女性の代わりに野田先輩などの奇人変人から妙に好かれることになった。類は友を呼ぶと言うが、いつの間にか野田先輩と同類になっていた自分に戦慄を覚える。
そんな努力をしない信条の一環として、己に断固とした恋愛禁止令を敷いていた。
これは何も、全面的に恋愛を禁じたわけではない。私も健全な男児として、女性とお付き合いしてみたいという気持ちはあるのだ。その人権は尊重されるべきだと考える。
『来る者拒まず、去る者追わず』
これこそが私のモットーである。
ガツガツとするのはみっともない、という考えが思春期になりたての頃より私の恋愛観の根底にあった。本能のままに生きたところで欲は満たせても愛は満たせない。むしろ私が理想とする清廉かつ可憐な乙女は、そうした軽薄さを嫌うはずである。いや、そうに違いないと確信していた私は、恋愛における一切を運命に委ねることにした。
そう志して、ついに大学三年生というところまで来た。来てしまった。こちらに来る者が皆無なので、拒むべき人も追うべき人もいないという有り様だ。意を決して入ったボランティアサークルにおいても、路傍の石同然と成り果てて自主退部する始末。どうしてこうなった。
どうしてこうなったのか。そう自問する内に、紆余曲折あって私は一つの天啓を得た。
即ち、努力をして成長すれば、自ずと周りに人が集まるのではないか、と。
諸君、手のひら返しと笑ってはいけない。私は真剣である。初志貫徹は大切なことだが、頑固一徹で押し通そうにも通らないのが人生というものだ。時として我々は柔軟な対応に迫られる。
それに私は、この自己矛盾に対する回答も備えていた。
私はそもそも軽薄な恋愛を嫌っていたのであって、清純かつ真っ当なものであればむしろ歓迎する所存だった。受け身であることこそ変えないものの、相手を受け止める姿勢というのも大切だと今夏に思い直した次第である。
この発想の転換を経て、私の脳裏には約束されたも同然の輝かしい未来がまざまざと描かれた。
腹筋が割れ、胸板も厚くなった私は白いシャツを着るだけで人目を引く。伸びた背筋や悠然とした歩調からは磐石の自信が見て取れ、しかし威張り散らすような傲慢さは欠片もない。眼鏡の奥にある瞳は常に理知的な光を湛え、ふと目を合わせるだけで女性をメロメロにしてしまう。
しかし私が世の女性たちに誘惑されることはない。
もちろん、長い黒髪の似合う清楚な乙女が隣を歩いているからだ。即ち私の彼女となるべき人だ。今は失われて久しい大和撫子然とした立ち居振舞いを身に付け、夏だからといって過剰な露出もしない。きっと裾の長い白いワンピースなどを着ているに違いない。自然環境への気配りができる優しさを持ち、その反面で大食いチャレンジを楽々と制覇してしまうような茶目っ気があればなお良い。
理想のカップルと呼ぶべき私達は清い交際を信条とし、決して人前でベタベタといちゃついたりはせず、しかし仲睦まじく昼下がりの商店街を歩くのである。
「素晴らしい」
いずれ訪れる輝かしい未来を前に、私は恍惚とした。そして奇しくも、私が理想とする女性にピッタリな鮎川さんという人が同じ大学にいるではないか。これは運命に違いない。
もちろん鮎川さん個人を狙っているわけではないが、男を磨き上げた私に彼女が惚れてしまった場合、交際するに吝かではない。
時計を見ると正午に差し掛かるところだった。机上に広げたノートには、およそ成果と呼べるものは書かれていない。妄想に耽っている内に昼になってしまったようだ。情けないことだが、しかし勉学に向き合おうとしたその姿勢だけでも評価されるべきと考える。大切なのは志である。
私はそっとノートを閉じ、台所へ行きインスタントラーメンを食した。腹が一杯になったところで、窓から見える空が雲一つない快晴であることに気付き、少し外へ出てみようかという気が起きた。平素では考えられないことである。
しかし流石に炎天下の中を散歩するつもりはないので、何処へ行こうかと悩んだ。
悩みながら自室に戻り、文机に散らばる様々な書類をなんとなく眺めていると、一枚のメモ用紙の走り書きが目に留まった。
今日の午後二時から自由参加の特別講義が開かれるとある。これに参加するだけで単位がもらえると聞いてメモをしたことを、私は思い出した。常日頃から金と単位に困窮している私には垂涎の話だったが、本来は休暇である時間をわざわざ大学に
すぐに家を出れば間に合う。だが私の貴重な休日が。いやいや今こそ自分磨きの時ではないか。しかしローマには古くから午睡の文化というものがあって。
悪魔と天使が脳内で囁く。
私は葛藤の末、行くことに決めた。
決め手となったのは講義の内容だった。学校のホームページを調べてみると、講師として招かれるのは自然環境の研究をしている著名な学者だという。テーマとしては、環境と社会の共栄うんたらとあるがそんなことはどうでもいい。
この講義には鮎川さんが来ることが予想された。ボランティアサークルでの働きぶりから考えるに、鮎川さんの自然に対する愛情は本物である。彼女のことだから単位数に不安はないだろうが、自然環境の講義と聞いて来ないはずがない。
私はこれから積極性を取り戻すと誓った。目の前にぶら下がっている好機を見逃すわけにはいかない。
そうと決まればうかうかしていられない。
私は急ぎ鞄に荷物を詰め込み、着替えを済ませた。まだパジャマのままだったのだ。寝癖もついていたので洗面所へ行き整える。自分磨きとはなんだったのか。
「出かけるの?」
洗面台の鏡に向き合いしつこい癖毛と格闘していると、弟がひょっこり顔を出した。
「そうだ」と答えると、帰りがけに足りない文房具を買ってきて欲しいと言う。いつの間にか兄である私を顎で使うようになってしまったことは非常に残念だが、今は口論する時間も惜しいので適当な生返事をしておいた。講義が終わっても覚えていたら買ってやるとしよう。
「それと来週の日曜なんだけど、僕は家で夕飯食べないから」
「なんで」
「花火見に行く」
壁にかかっているカレンダーを確認すると、その日は年に一度の花火大会の本祭だった。小さい頃は家族で見に行ったものだが、ここ数年は一度も見ていない。弟の方は中学生になってからは友達と一緒に行くようになった。
私が行かなくなったのは、花火を見たり出店の通りを練り歩いたりするような友人が皆無だったからだろう。つまり運がなかったのだ。私は悪くない。
「友達とか。そういえば去年も行っていたな」
「いや、彼女と」
私が驚愕して振り向くと、弟は勝ち誇ったようにニヤリと笑ってから「買い物よろしく」と捨て台詞を残してそそくさと部屋に戻ってしまった。
出かける時間が差し迫っている。私は弟の恋愛事情を追及したい気持ちを堪えて家を出るしかなかった。
駅まで自転車を漕ぎ、汗だくになりながら電車に乗り込む。平日の昼間の車内にはほとんど人がいない。シートの端に腰かけた私は憮然として外の景色を眺めた。
電車が加速するにつれて町並みの移り変わりも速くなる。この光景を、まるで世界がものすごい速さで回っているようだ、と思うことがある。今日は特にそうだった。移り行く人々の暮らしから外れて、電車に一人揺られる私だけが取り残されている。弟に彼女がいるなんて知らなかったなあ、と私は深いため息をついた。
弟は中学生でもう恋愛の妙味を覚えたのだ。しかも受験勉強を差し置いて恋人と花火大会に行くなどと言う。なんとけしからん。驚倒すべき事実に私は全身が震えた。
それに比べて、私の惨めさといったらない。虎視眈々と機会を待ち続け、いつの間にか成人してしまっている。成人の意味を今一度問い質したい。いったい自分は何をしていたのだろう。切なさに胸を締め付けられる。
電車のアナウンスが項垂れている私の耳朶を打った。私が降りる大学前駅まではあと二駅跨ぐ。
駅から大学へ向かい、講義を受ける。そこには必ず鮎川さんも来ている。私は自然かつ紳士的な振る舞いで彼女に声をかけ、隣の席に座る。そして一時間半に渡って彼女と肩を並べるのだ。
完璧なシミュレーションを経て、私は失意の底から立ち直った。弟は弟、私は私だ。年齢は関係ない。今こそ長らく見失っていた輝かしい青春をこの手に取り戻す時である。
電車から降りて町中を歩き、大学の門前に立った私は学舎を見上げる。あの中にある講義室の一つで私は勝負に臨むのだ。敵陣に乗り込む武士の心境である。
いざ行かん、とフンドシを締め直したところで、私の横を通りすぎる人が目に入った。
その瞬間、私は目を向いて硬直した。
「ひょっ!」
思わず口から飛び出た声は、勇猛な武士からは程遠いものであった。しかし今はそんなことに気を配る余裕などなかった。
何食わぬ顔で側を通りすぎたのは、鮎川さんだったのだ。
私がすっとんきょうな声を上げたことで、彼女は立ち止まってこちらに振り向いた。不思議そうに私を見つめている。
私は固まったまま何も言えなかった。講義室に入って鮎川さんを探すことばかり考えていたが、同じ講義を受けるのだからこの時間に彼女も登校してくるのは当然だと今更になって気付いた。電車の中で練り上げた作戦が音を立てて崩れ落ち、私は間抜け面を晒してただ立ち尽くすしかなかった。
しばらくして鮎川さんは小さく首を傾げ、私に言った。
「講義に行くの?」
私は民芸品のようにカクカク頷く。こんな予定ではなかった。
「早く行きましょう」
彼女はいつもの平淡な調子でそれだけを言うと、一人で歩き出してしまった。芯の通ったなんとも勇ましい後ろ姿で、私よりもよっぽど武将じみた貫禄を醸している。
ハッと我に帰った私は慌てて鮎川さんを追いかけた。
心のなかで繰り返し唱える。こんな予定ではなかった。
○
恐ろしく退屈な講義で私が寝なかったのは、隣に鮎川さんが居たからに他ならない。真っ直ぐな姿勢で教授の話を聞く彼女の横で居眠りするのはいくら私でも憚られた。そもそも緊張して寝るどころではなかったし、作戦を遂行するどころでもなかった。『ペンを落としちゃった作戦』や『分からないところを聞く作戦』などの妙案があったものの、出だしで挫けたために全ては白紙と化した。
「じゃあ、また」
講義が終わると、鮎川さんは荷物を片付けてさっさと教室を出ていった。他の生徒も疎らになった教室の隅で、私はぽつねんと取り残された。結局、何一つとして話せないで千載一遇の機会は終わりを迎えた。
私はしばらく茫然自失とした後、ヨロヨロと立ち上がった。
構内では秋に来る学園祭に備えて様々な人が作業をしていた。講義を受ける前に通りがかった時は緊張のあまり気付かなかった。
大所帯のサークルが中庭で和気藹々と躍りの練習をしているのもあれば、廊下の片隅で一人黙々とヘンテコな張りぼてを作っている人もいる。将棋サークルの部室からは「ロン!」と高らかな声が聞こえてきた。
これらめくるめく青春の坩堝において、私だけが孤立していた。変態詐欺集団として悪名高い将棋部の連中ですらあんなに楽しそうだというのに、私のこの体たらくはどうしたことだ。恋の駆け引きどころかまともな青春すら満足に送れていないではないか。
絶望にうちひしがれた私は半ば自暴自棄となり、普段では絶対に取らない行動に打って出た。
電話をかけて三コール目。「やあ」と気さくな男の声がした。
「助言をください」
私は開口一番に言った。相手はそれだけで諸々の事情を察したのか、面白そうに「よろしい」と答えた。
「マーメイドに来なさい。今、すぐ側にある雀荘で一稼ぎしたところなんだ」
私と対照的に、野田先輩はすこぶる上機嫌であった。
○
電車で来た道を戻り、商店街の外れにある行き付けの喫茶店『マーメイド』の扉を開ける。いつも通り、怪しくも落ち着く雰囲気が流れている。
奥のテーブル席に座っていた野田先輩が、私を見つけて軽く手を上げた。私は彼の対面に座り、奥さんが持ってきたお冷やとお手拭きを受け取って一息つく。悶えるほどに暑い中を移動してきたのでキンキンに冷えた氷水が身に染みた。
「お待たせしました」
「なんの」
野田先輩はテーブルの上に広げている分厚い書物を捲りながら言う。
私が密かに野田手帳と呼んでいるそれは、私たちの大学に在籍している人間の個人情報ならばあらかた網羅しているという恐るべき本だ。私が小学生になってもしばしばおねしょをしていたことまで書いてある。手帳と言うよりは大百科と呼ぶべき質量を誇っており、今も改定中だというのだから呆れるばかりである。
しばらくペラペラと流し見してから「ふう」と息を吐き、野田先輩は手帳を閉じた。私は常々、あの禁忌の書物をいつか焚書しなくてはならないという使命感に駆られているが、今回ばかりは頼るしかなかった。
野田先輩も私が何を欲しているかは分かっているのだろう。向き合ってからまだ一度も「何用か」とは聞かれていない。
「君から連絡をくれたのは久々だな」
「初めてではありませんか」
「いや、春にツチノコ取りに行った時、電話をかけてきたはずだ。あれはなんでだったかな」
「先輩が一人で山の奥に入り過ぎて見失ったからです。遭難するところだったんですよ」
「そうだった、そうだった」
先輩は朗らかに笑いながらミルクコーヒーを啜った。この人には危機感というものが備わっているのかと、時々心配になる。
そんなことを話しているうちに、奥さんが私の頼んだアイスコーヒーを運んできてくれた。ここのアイスコーヒーは氷が少なく、時間が経っても過剰に薄くなる心配がない。
苦いそれを一口飲んで気持ちを改める。さて、前置きもほどほどにしよう、と私は腹を括り本題に入ることにした。
「先輩」
「ん」
「その手帳を貸してもらえませんか」
恥を忍んだ私の申し出に、野田先輩は「うーん」と唸った。彼がここまで露骨に渋ることは珍しい。よほどの事がない限り何でもかんでも即決する人だから、野田手帳がいかに重要な代物であるかが分かるというものだ。
しかし私とて簡単には引き下がれない。野田先輩の手によって
清い交際、信のおける恋愛。確かに理想的なことだが、現実にならなければ只の絵空事で終わってしまう。先ほどの講義の一件で正攻法の不利を知った私は、こうして悪魔の知識に手を染める決断をした。もはや笑いたければ笑うがいい。恋と戦争は手段を選ばないと謂う。その先に栄光ある未来を獲得できるのならば、私は喜んで泥を被る所存だ。
「その上で、御指南を仰ぎたく」
情報とは武器である。それも戦争と並び称される恋という難敵に立ち向かうならば並大抵ではいけない。果物ナイフのような小道具ではなく、あらゆる障害を切り伏せる
好きなものや嫌いなもの。今どんな悩みを抱え、どんな希望があるのか。そして思春期を遡り幼少期に至るまでの遍歴を知り尽くす。
そうした鮎川さんという存在の定義、定理、公式を駆使して、彼女の心の方程式を解いてみせよう。あとは万事が自ずと上手い具合に進んでいくはずだ。
ストーカーの一歩手前である。いや、最早れっきとしたストーカーではないか。
残された良心から非難の声が上がるが、私はそれに耳を貸さない。自重せよと、これまで耳を貸してきた結果がこの私の様だからだ。今や良心への信頼は地に堕ちている。
「君がこの手帳から何を知りたいのか、どういう助言を欲しているのか、だいたい想像はつく」
野田先輩は言った。いざ面と向かってそう言われると恥ずかしさが込み上げてくるが、私はそれを唾と共にぐっと飲み下した。
「実は鮎川嬢について、私も君に聞こうと思っていたことがあるんだ」
「えっ、なんです、それは」
思ってもいない話の切り口に、私はつい動揺してしまった。私がこの人に連絡することは珍しいが、この人が私に質問とは尚珍しい。明日はかんかん照りの日中に雪でも降るのではないか。
野田先輩はまた手帳を開き、目次らしきページを指でなぞった。
「この手帳の風習は、私の恩師の恩師の恩師の、そのまた恩師の代から受け継がれてきた由緒正しきものだ。元は政府密命の調査書類が発端だという噂もあるが、今ではこの通り趣味の範疇に収まっている」
常軌を逸した趣味であることには敢えて触れず、私は「それで」と話を促した。
「現在、編集者として筆を取っているのは私だが、編纂には実に多くの人間が関わっている。大枚をはたいたり、危ない橋を渡って得た情報もある。対象者やその事項によって記されていることの幅はまちまちではあるが、昨年の休学期間において新入生以外の在学中の生徒は網羅したと自負している」
いつになく回りくどい言い回しにさすがの私も焦れったくなってくる。
使用料を払えと言いたいのだろうか。いや、それだけならば野田先輩はとっくに交渉を済ませてしまっているはずだ。
「ですから、その凄い手帳を少しの間貸して欲しいんです。なんなら今ここで見せてもらうだけても構いません」
「いや、貸しはしない。君には無用の長物だ」
キッパリと拒否されて、私は目を白黒させた。「どうしてですか」と詰め寄ると、野田先輩は無精髭の生えた顎をじょりじょり擦って言った。
それは私が初めて見た、野田先輩の悔しそうな表情だった。
「無いんだよ」
「え?」
「載っていないのだ。鮎川嬢のことについては、この私をしてさえ、何も知らん」
私は衝動的に手帳を奪い取ってその目次を洗った。野田先輩は私の蛮行を止めなかった。五十音順に見ていくと、すぐ上の方に鮎川という名字を持つ人の名前が幾つか並んでいた。目次で指定されているページを開く。
呆れるほど長い項目を右上から順に繰り返し確認する。何度も確認して、野田先輩の言うことが本当だと分かった。
手帳には『鮎川・女性』とあるばかりで、他の一切が記されていなかった。下の名前すら載っていない。他にも鮎川という名字の人はいるが、私の求める鮎川さんについては何一つ、有意義なことが書かれていない。
先の話から考えるに、手を尽くして調べはしたのだろう。何代にも渡って築き上げた諜報技術を駆使したのだろう。それでも鮎川さんの素性は何一つ分からなかったのだ。住所も、学部も、年齢さえも。
憧れしかなかった鮎川さんへのイメージに、突如として暗雲が立ち込めたような錯覚をおぼえた。よく見る夢の中で、幼い私を助けてくれる彼女の微笑が脳裏を掠める。
あの時彼女は、どんな姿をしていた?
「彼女は何者なのだろうね」
未知に遭遇した探検家のように、興味津々といった様子で野田先輩が言う。対して、私は何も答えることが出来ない。
店内に流れるジャズの音がやけに遠くに聞こえる。窓からは夏の強い日差しが注いでいる。小さくなったアイスコーヒーの氷が、グラスの中でカランと冷たい音を立てた。
○
続く