気付けばコーヒーの飲み過ぎで胸焼けしていた。いつの間にか路地裏には斜陽がさし、ほんのりと茜色に染まっている。
喫茶マーメイドで野田先輩と話し合っているうちに、夕暮れ時になってしまったようだ。緊張と興奮が続き、喉が乾く度にコーヒーをおかわりした。逆さにして机に置かれている伝票を表に返してみると、目を背けたくなる数字の羅列があった。私はそっと伝票を伏せた。
それだけの時間話しあっても、結局、鮎川さんという女性が何者なのかという問いに答えは出なかった。
年齢、住所、学歴など個人情報の一切が不明で『鮎川』という名前すら本名か分からない。それらの情報は野田先輩が事前に調べていたものだった。
「しかし迂闊だったな。ここ最近まで彼女について何も気にしていなかったなんて」
野田先輩が言うには速水からの依頼、私も巻き込まれた肝試し騒動の一件によって、初めて鮎川さんの存在に注目したという。
飽き性の先輩が唯一長年に渡って続けているのが人間観察であり、それを元に例の名簿を作成することだ。だというのに鮎川さんのことを今まで忘れていたのだから、彼の悔やしさは押して知るべしである。
私も鮎川さんについて知り得ることを野田先輩に教えた。学内やサークルにおける彼女の言動を思い起こし、新入生の頃から何かと目が合っていたことや風鈴を貰った経緯を語り、尋常ではない大食いだったりコーヒーがあまり得意でないことなど、どんなに些細なことでも話して聞かせた。
普段であればこうした思い出はひっそりと胸の内にしまっておくものだが、予断を許さない事態なので四の五の言ってはいられない。
私が話した内容は意外にも野田先輩を驚かせた。どれも彼の知らないことだったらしく、熱心にメモまで取っていた。
「不思議だなぁ」
「何がです」
「話を聞く限り、どうも彼女は君に特別な関心があるようだ」
私は絶句した後、自分の頬が熱くなるのを感じた。慌てて否定しそうになり、口をつぐむ。余計な話を挟んで本題から脱線させたくはなかった。
「心当たりはないかな。昔、彼女と何かあったとか」
「それは…………」
一瞬、件の夢のことが頭をよぎる。川で溺れた幼い私を、人魚の姿をした鮎川さんが助ける夢だ。まるで運命だとでも言わんばかりに、最近はその夢ばかりを見る。馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、鮎川さんが身元不明だと知った現状では「もしかすると」と思ってしまう自分がいる。
しかし、このことばかりは誰かに言うつもりは無い。もちろん野田先輩にも。荒唐無稽な妄想を浮かべることにかけては卓越した能力を誇る私であっても、信じてもらえる内容ではないと弁えている。
私が言葉に詰まったのをどう捉えたのか、野田先輩はとくに言及もせず、何本目かになる煙草に火を点けた。彼は自分で煙草の葉を何種類か混ぜて、紙で巻くのを好む。混ぜてから数日寝かせると良い塩梅になるという。
風来坊じみた彼がそうしているとマーメイドの雰囲気と相まって異国情緒が漂い、怪しい煙を吸っているようにも見えてしまう。
「吸いすぎではありませんか」
「気にするな。コスタリカ産のオーガニックの葉っぱだ。化学物質のなんちゃらを混ぜ込んだそこいらの既製品よりずっと良いし、何より美味い」
「ふうん」
「君もたまに吸うだろう。嗜好品は良いものを選ぶべきだよ」
細めに巻いた煙草を実にうまそうに味わってから「さて」と先輩は話を続けた。
「鮎川嬢の交遊関係は皆無と言っていい。これまでに取材した人たちは誰も、彼女の人となりを具体的に話せなかった。大学に入学する以前の知り合いすらいないという状況だ」
「ボランティアサークルの全員にも掛け合ったんですか」
「無論だ。君の他では速水君くらいだな、彼女に関心を持ったのは」
「ちょっと待ってください」
野田先輩の言い回しに違和感を覚えて、私は話を遮った。
「関心がないって…………鮎川さんが他の人に対して、ということですよね?」
野田先輩が「いいや」と首を横に振る。
「それも間違いではないが。私の言った通りだよ。鮎川嬢がそうであるように、他の人も彼女には無関心でいるようだった」
「そんなはずはありません」
「ふむ、どうしてかな」
「鮎川さんと話したがる人がたくさんいたからですよ。そりゃあ自分から輪に入ることはなかったかもしれませんけど、周りからは話しかけられていましたし」
「君と違って?」
「ぐっ、お、俺と違ってです」
野田先輩のストレートな言葉に傷つきながら泣く泣く肯定する。私の孤独は寄る辺のない寂しいものだが、鮎川さんのそれは己の生き方を貫いている故のものである。その違いは雲泥の差と言える。
もちろん他人からの評価もガラリと変わるものだ。路傍の石同然となり果てていた私を尻目に、鮎川さんは部員たちの畏敬の念を一身に集めているようだった。毅然とした態度というのは人を惹き付けるもので、鮎川さんはその美貌も相まって近寄りがたくも人気のある、まさしく高嶺の花と呼ぶにふさわしい存在だった。速水などが告白して無惨に散ったのもやむ無しである。
私の意見を受けて、野田先輩は「そうかそうか」と頷いた。そのくらいのことは先刻承知、と言うような態度だった。
「しかし私が見聞きしたこととはだいぶんズレがあるようだね」
「どういうことですか?」
「先日、ボランティアサークルにいる君の同期に鮎川という人について聞きたい、と訪ねてみたよ。そしたらどうだ。彼はしばらくポカンとした後『ああ、確かうちに居ますね、その人』などと言った」
野田先輩の声真似が誰のものであるかは分からなかったが、実に素っ気ない口調であったことは伝わった。ほとんど名前も知らない、赤の他人について語るような。
「同級生が、ですか」
「そうだ。他の誰に聞いても同じような反応だった。私が尋ねるまで、鮎川嬢のことを綺麗さっぱり忘れていたようにね」
野田先輩は煙の輪っかを吐いた。「まるで妖術だな」
異常な話に、私は唾を飲み込んだ。
鮎川さんは決して幽霊部員ではない。むしろゴミ拾いを始めとした環境整備への積極性は目覚ましく、その献身ぶりは他の部員たちも一目置いていたはずである。私には終始配られることのなかった差し入れのジュースやお菓子も、彼女にはいの一番に渡されていた。
それがどうしたことだろう。鮎川さんの居ないところでは、皆が彼女のことを忘れているというのだ。
野田先輩は「やや作為的に思える」と言う。
作為的とは、誰のことを指しているのか。もちろん鮎川さんだろう。しかし鮎川さんが人目を避ける理由などあるのだろうか。あったとして、そんなあからさまに他人の認識を操る術があるものなのか。
私は不意に、すぐそこの商店街で鮎川さんから風鈴を貰った時のことを思い出した。ほんの少し目を離した瞬間に、彼女は幻のごとく立ち消えた。あの時は深く考えなかったが、今にして思うと繋がるものがあるのでは。いや、しかし…………。
「まあ、それはさておき」
パンッと手を叩く音で、思考に没頭しかけた私は顔を上げた。目の前には相変わらず、ニコニコと笑う野田先輩がいる。
「ここ最近、君たち二人に何かと接点があるのは紛れもない事実だ。君が他の人と違い、鮎川嬢への興味を失っていないというのも気になるところではある」
「それで、俺に鮎川さんのことを調べろと?」
「依頼の形をとる必要もないだろう。我々の利害は一致している。協力し合おう」
私は押し黙った。野田先輩と違って興味本意だけではないからだ。今後、どうやって鮎川さんと関わっていくのが正解なのか。その答えが途方もない闇の中に隠れてしまったような気がする。
野田先輩は私の返事を待たずに言った。
「ところで君、次の週末は空いているかな」
「え、週末というと……」
「河川敷の花火大会の日だよ」
私の住む街には県境に大きな川が流れていて、毎年の夏に花火大会が催される。今朝がた弟も彼女と一緒に行くとか言っていた。
夜になると川に小船が何艘も浮かび、そこから花火が打ち上がる。暗い空に色とりどりの花火が連綿と咲き誇る光景はなかなかの見物で、その日の河川敷や橋の上は大変混雑する。
道路の一部は閉鎖されて車の代わりに人間がごった返し、朝方の満員電車のような様相を呈する。川沿いに立ち並ぶ露天で意気揚々とりんご飴や綿菓子を買っても、人の服に糖分を擦り付けるだけとなり、たこ焼きは地面に転がって誰のものかも分からぬ下駄に踏みつけられてしまう。
全ては苦い過去の記憶だ。故に私は花火大会なんぞには決して近づかない。別に一緒に行く人がいないからではない。
無論、長期休暇を欲望のままに貪る腐れ大学生に他の予定があるはずもない。「空いていますが」と私は誇りをもって答える。すると野田先輩は「よし」と言って、一枚のチラシを懐から取り出し机に広げた。
「当日の夜、有志の集いによる大食い大会が行われる。祭り会場の北端だ」
チラシを手に取って眺める。いかにも素人の手作りくさいそれに書かれていることを要約すると、どうやら賭け事の類いらしい。大食い自慢の知り合いを選手に立てて一攫千金を狙うというわけだ。
よく見るとスポンサーの一つに我が校の将棋サークルの名前がある。悪事珍事の枚挙に暇のないあの団体が噛んでいるとあれば、荒れることは火を見るより明らかである。
「鮎川嬢を誘って、ここへ来なさい」
「へ?」
私は豆鉄砲を喰らった鳩のように目を丸くした。寝耳に水である。いくらなんでも話が飛躍しすぎてついていけない。
「彼女がまさか健啖家だとは知らなんだ。しかも噂に聞くこの店のナポリタンを苦もなく完食するとは、いや素晴らしいな。是非とも参加してほしい」
「いや、いやいや。なぜ私が鮎川さんを誘わなければならんのですか」
「君が一番、鮎川嬢と関わりがあるんだ。スカウトマンとしてはこれ以上ない適任だろう」
「しかし、しかし」
すぐさま否定できない私に、野田先輩は畳み掛けた。
「無名で、しかも可憐な女性が優勝したとなれば大穴だ。会場は興奮に沸き返るぞ」
それは阿鼻叫喚と呼ぶのではないかと思いつつ、確かに鮎川さんならば勝てるかもしれないと妙な期待が湧く。
問題は、私たちが鮎川さんの連絡先や住所を知らないことだ。当日までに上手いこと彼女に出会し、勧誘する必要がある。それを一任されるのだと思うと気が重いところだ。
そう考えていると、野田先輩は「そうそう」と言ってまた懐から紙切れを取り出した。彼は懐はファイルにでもなっているのだろうか。
「ここに鮎川嬢の電話番号が書いてある」
「は?」
今度こそ、私の思考は停止した。続いて様々な疑問が津波のごとく押し寄せたが、それらは入り乱れすぎて何を口にすべきか分からず、私は「あうあう」と言った。端から見て実に情けない姿であっただろう。
「何故そんなことを知っているのか疑問だろう」
私がこくこくと頷く。
「まあそこは企業秘密というやつだ。君が私の高弟となり、ゆくゆくは跡を継ぐというのなら教えるに吝かではないがね」
今度は首を横に振ると、先輩は「残念だなあ」と全く残念じゃなさそうに笑う。
野田先輩がわざとらしく掲げている紙切れを、私はまじまじと見つめる。鮎川さんの電話番号が記されているというだけで、少しシワの寄った薄汚い紙片が宝石のように輝いて見える。むしろ宝石が霞むまである。つまりは欲しくて堪らなかった。
半ば無意識に手を伸ばすと、ひょいと紙切れを遠ざけられる。野田先輩に「こらこら」と言われてようやく我に帰る。私は自分の行動にびっくりした。恋は盲目という言葉が身に染みた瞬間だった。
「な、何故、それがあることを先に言わなかったのです」
私が聞くと、野田先輩は「それも企業秘密だ」と言った。ひょっとしたら彼は企業秘密という言葉を使いたいだけなのかもしれない。
「交換条件だ。君は彼女の電話番号を得る代わりに、私の頼みをしっかりと果たす」
「わかりました!」
「よしよし」
即答であった。釈迦が垂らす蜘蛛糸のごとき好機に、私は否応なく飛びついた。まさに垂涎の逸品。実際に口にはいっぱいに涎が湧いており、鼻息も荒く、どこからどう見ても変態である。
しかしこの時の私に自分を客観視する余裕など欠片もなかった。鮎川さんの電話番号を手に入れた興奮にのぼせ上がり、飛躍的妄想を次々に浮かべるばかりであった。
電話で約束を交わした我々は、当日の夕暮れ時に駅前で待ち合わせをする。私が約束の三十分前という模範的な時間にやって来ると、その反対方向から浴衣姿の鮎川さんも歩いて来るのだ。しっかりとした着付けをして、長い髪は綺麗な簪で結わえ、白い肌には薄く頬紅をさしている。その気合いの入れようから、彼女がどれだけ私と祭りに行くことを楽しみにしていたかが分かる。私は自然な態度で彼女の浴衣姿を誉めた後、「それじゃあ行こうか」と手を握る。我々は屋台の立ち並ぶ川沿いを練り歩き、的屋で遊び呆け、ラムネを飲みつつ欄干に寄りかかって花火を見上げるのだ。花火の光に照らされる鮎川さんの横顔はとても美しいだろう。額に滲む汗すら清らかに見えるはずだ。私が彼女に見惚れていると、不意に鮎川さんはこちらを向き、今までに見たことがないほど柔和な笑顔を浮かべるのである。
ここまで完璧な構図を思い描いて、野田先輩との約束を入れ忘れていたことに気付いた。
どうということはない。目前にある人生初のデートと比べれば些事である。あわよくば素知らぬふりをしてすっぽかそうかという、我ながら悪どい考えが閃いた。いやむしろ鮎川さんのためを思えばこそ、そうするべきではないか。彼女がいかに健啖家とはいえ、金を賭けられむさ苦しい男共の群れに混じって大食いを披露するのは嫌がるはずだ。私には紳士として、彼女を守る義務があるのではないか。
そんなあれこれを黙考していると、先輩はおもむろに煙草の火を消し、窓の方を向いて呟いた。
「やあ、もう夜になるな」
野田先輩につられて、暗くなり始めた路地裏を見る。すっかり長居してしまった。
「そろそろ出ますか」
席を立って会計をしに行こうとすると、野田先輩がさっさと私の分も払ってしまった。そういえば電話口で「麻雀に勝った」などと言っていたなあと思い出す。ついコーヒーを飲み過ぎてしまい、私には非常に厳しい金額が積み重なっていたので、とてもありがたい。
感謝を述べると、野田先輩は私の方を向き、にんまりと笑った。
「おかわり分はツケておく。鮎川嬢の件、よろしく頼むよ」
間抜けにも私の口がぽかんと開く。
どうやら、引くに引けなくなってしまったようであった。
○
野田先輩は電車で帰るということで、最寄りの駅まで私もお供した。暑いことに変わりはないが、日光がなくなった分いくらか楽である。道路沿いに植えられた並木からは蝉時雨が響いている。
歩きつつ蝉の性生活論議に花を咲かせていると、すぐに駅のロータリーが見えてきた。駅舎へと続く階段を上がる前に、野田先輩が「ここまでで十分だよ」と言った。
「先輩」
「なんだね」
私は一拍置いて、静かに深呼吸をした。
「もしもですよ。鮎川さんがその、人間ではなかったら、どうしますか」
野田先輩は目をぱちくりとさせた後、ハハハッと呵々大笑した。
やはり阿保だと思われたか、と口にしたことを後悔しかけたところ、先輩は私の肩をぽんぽんと叩いた。
「どうもせんさ。安心しなさい」
「そう、ですか」
「仮にそうだったとして、肝心なのは君が彼女とどう関わるかだ。自分の問題だ。慎重かつ楽天的に、よく考えておくと良い」
「矛盾してませんか、それは」
「矛盾も良いじゃないか。まあ、なるようになるさ。私の見立てではそう悪い方には転ぶまい。それに君はやるべき時にはやる男だからな」
彼の言っている意味の半分はよく分からなかったが、激励をもらったのだろうと思うことにした。適当なことを思いつくがままに述べている可能性が高いけれども。
野田先輩は券売機で切符を買い、改札をくぐった。電子マネーが普及しつつある今日この頃であるが、彼は切符を通す方が好きだと言って頑なにアナログにこだわっている。
野田先輩を見送り駅を出た私は、あてもなくぶらぶらと歩いた。今日話したことが頭のなかを駆け巡り、どうも落ち着かない気分だった。このまま家に戻る気にはなれず、さりとて何処かへ行こうというわけでもないので浮浪者のごとく町を練り歩く。
しばらくそうしていると、見慣れた商店街の入り口に戻ってきてしまった。頭を使わずとも、体は慣れ親しんだ道を覚えているものである。
この時間ともなると雑貨屋などは大抵シャッターを降ろしてしまっていて、やや閑散とする。代わりに飯処や居酒屋の看板には灯りが点き、仕事帰りのサラリーマンや小さな子ども連れの家族などが各々店に入っていく様子が見られる。
通りに漂う良い匂いを嗅ぐと、私のお腹もきゅうと鳴るので、どこか手頃な店に入ろうかと考える。先ほどの浮いたコーヒー代で牛丼やラーメンくらい食べても良いだろう。
匂いにつられてあっちへフラフラ、こっちへフラフラ。ただの浮浪者から飢餓状態の浮浪者へ昇格といったところだ。
そうして商店街をうろついていると、通りかかった路地裏から怒鳴り声が聞こえてきた。「ふざけんな」とか「金を返せ」などと穏やかではない。
すぐ側にはゲームセンターがある。今も私の目の前でやたら大きな音を立ててピカピカと光を放ち、大きなガラス張りの向こうではゲームに興じる人たちの姿が見える。路地裏の連中もおそらくゲームセンターで遊んでいて、どちらかが不正をしたか負けが込んだかで喧嘩になったのだろう。
「土下座しろ!」
巷で喧嘩など滅多にない。耐性のない私はすっかり怯えて、足早に路地裏の前を通り過ぎようとした。相手に気取られないための技術においては格別の自信がある。私は以前、その技術を駆使してサークル内で空気と同化していたのだから。おかげで名前すら覚えてもらえなかったほどだ。
しかし私は、はたと足を止めてしまった。それどころか路地裏の方を凝視してしまう。言い争っている声の一つに聞き覚えがあった。
私がかつて所属していたボランティアサークルの後輩であり、最近になって因縁ができてしまった男。
速水が胸ぐらを掴まれてひっ叩かれていた。
○
私と速水は赤の他人と呼んで差し支えない。一時期ボランティアサークルで一緒だったとはいえ、住む世界が違いまともに話したことなど皆無である。
しかし、以前あった肝試しの一件で私にとって速水はある意味、野田先輩よりも関わりたくない人物となっている。
速水と鮎川さんを二人きりにさせる作戦のはずが、私と鮎川さんで月見をするという構図に差し替えられてしまったのは今思い返しても不思議でならない。自分で差し替えておいて言うのもなんだが。
あれから私は、いつ速水に報復されるものかと戦々恐々とした日々を密かに過ごしてきた。速水には鮎川さんとは別の恋人が出来たと聞いていたし、野田先輩も大丈夫だと言っていたが、人の恋路を邪魔した業の深さに私はすっかり怯えていたわけだ。
速水を助けるべきか、そうでないか。答えは明白である。
路地裏には速水の他に三人の男と、一人の女がいる。女は噂に聞く速水の恋人だった。彼女もボランティアサークルに所属しているらしいが、幽霊部員だった私は顔もほとんど覚えていない。確か飯島という名前だったと思うがどうだろう。
今にも速水をリンチしようとしている三人は半袖やタンクトップから見える上腕が逞しく、反対に速水は細っこい。あれでは喧嘩にならないだろう。彼女の飯島さんもすっかり萎縮してしまいオロオロとしている。
これに私が突貫したところでどうにもならない。三本の矢という有名な逸話があるが、私と速水がまとまったところで瞬く間にポキンポキンと折られるに違いない。
私は多少の罪悪感を振り捨てて、見なかったふり決め込むことにした。さらば速水。たぶん彼女の前で格好つけて不良相手に大見得をきってしまったのだろう。
そう思い、顔を背けようとしたところで、速水の彼女である飯島さんと目があった。彼女は私に気付くと、地獄にもたらされた蜘蛛の糸を見つけたような顔をした。大きく開かれた瞳が「何がなんでも助けて」と強制的なまでの気迫を放っている。
ここに天秤は傾いた。もしもこの状況で見捨てれば、翌日には私の悪評が大学構内を駆け巡ることだろう。生協新聞に「情の欠片もない畜生現る」と見出しを書かれ、ついに私に声をかける者は皆無となり、その噂は尾ひれはひれを付けてご近所でも囁かれること請け合いである。つまり人生の終わりである。
もう引き返せなくなったことに、心のなかで悔恨の涙を流す。折角なら肝試しの件をこれでチャラにして欲しいなあ、と切に願う。
私は携帯電話を取り出し、110と番号を押した。息をすうっと大きく吸い込む。
「もしもし警察ですか。今、目の前で喧嘩が起きてまして」
私の大声に、速水や不良っぽい三人が私の方を向いた。警察へ状況や場所を伝えるうちに、向こうが勝手に慌て始める。胸ぐらを離された速水はよろよろとバランスを崩して尻餅を着く。
不良たちは私をとっちめようか、この場から逃げようか意見が割れているようである。どうか後者に傾いてください、と祈りつつ「私も襲われてしまう!」と警察に助けを求める。
アーケード通りの真ん中で110番をかけて喚き散らす男はたいへん目立つ。近くにいた通行人がなんだなんだと野次馬で集まってくる。
それでようやく不利を察したのか、不良三人は路地裏の向こう側へと走り去っていった。無頼漢どもを一掃できる法律の強力さに、私は深く感動した。法学部に入っておけば良かったかな、などと叶わぬ妄想か過る。
「だ、大丈夫?」
側に寄って二人に訪ねると、飯島さんが「ありがとうございます」と頭を下げてきた。速水は未だに呆けていて「おお、うっす」などと曖昧な返事をする。
すぐに警察が駆け付けて、飯島さんが事情を説明した。速水が殴られてはいるが、事件にはしないとのことで話はついた。最後に、私は「あまり大声で場を混乱させないように」とお叱りを受けた。理不尽である。
「あの、本当にありがとうございました」
「あざっした」
警察が立ち去り、興味を失った野次馬もいなくなったところで、二人に改めて礼を言われた。前者が飯島さんで、後者が速水である。見た目はどちらもチャラチャラとしているのにこの違いはなんだろう。
「何かお礼をしたいんですけど」
「いやそんな、俺は何も」
彼女の意外すぎる殊勝な態度に私の方が恐縮してしまう。どちらが助けた側なのか、私がペコペコと頭を下げていると、腹がグウと鳴った。
「あ、腹減ってんだセンパイ」
速水が言った。
「じゃあさ、ラーメンでも食いに行くか」
私はその提案に慄いた。デートの最中にも関わらず夕食に第三者を招き、あまつさえ酷暑の夏にラーメン屋を指定するとは。しかも不良と喧嘩して情けなくもしこたま殴られた後である。
これは百年の恋も冷めよう。助けたにも関わらず今ここで一組のカップルが別れるのかと切なく思っていると、飯島さんは「そうしよっか」と言った。二つ返事であった。
「お礼に奢らせてください。あ、ラーメンで大丈夫ですか」
「へ、ああ、はい」
私の口から間抜けな返事が漏れた。
○
人生とは数奇なものだ。昨日まで友と呼べる人間はおらず、野田先輩なる変人に絡まれるのが関の山だった私が、順風満帆なキャンパスライフを送っている後輩たちとラーメン屋の席を同じくしているのだから。
私たちが入った店はこの商店街に古くからあり、私もよく世話になっている中華料理屋だった。醤油ラーメンが一杯四百円と格別に安く、摩訶不思議なほど美味しいチャーシューに店主のこだわりが見える。
テーブル席の空きがなかったので、私たち三人はカウンターに並んで座った。遠慮なしに奢られるのも座りが悪いので私が最安値の醤油ラーメンを頼むと、飯島さんは「他に頼むものはないか」と言ってきた。怒濤の勢いに任せて餃子とビールを注文させられる。酒が苦手とも言えず、私はジョッキを傾けた。
速水が豚骨ラーメンを啜る傍らで、彼女は大盛りの炒飯と唐揚げとチャーシュー麺をがつがつ食べている。しかも全て大盛りである。女性にラーメン屋は大丈夫なのかと不安に思っていた私は圧倒された。鮎川さんといい、世の女性はこういうものなのかと思わずにはいられない。
「はーくんはさ、もっと落ち着かなきゃね」
窘められた速水が「うるさいなあ」と居心地悪そうにする。
「聞いてくださいよ。はーくん……あ、速水君ったらね、そこのゲーセンのアクションゲームでさっきの人たちに嫌らしい戦い方して」
「アクションじゃなくて格闘ゲーム。格ゲー」
速水が横から指摘をするが、彼女に「はいはい」と流される。
「それで相手が怒っちゃって。こっちもこっちで雑魚だのなんだの煽るから喧嘩になっちゃったんですよ。なんであんな言い争いになったのかね。普段のはーくん、そんな感じじゃないのに」
「もういいだろ、済んだ話なんだから」
「なに拗ねてんの。私のこと庇ってくれたし、最後は格好良かったじゃん。負けちゃったけど」
「負けてねえ」
私を置いてきぼりにして二人の世界が展開され始める。恐ろしいことである。その目映いばかりの景色に、私は太陽を恐れる吸血鬼のように縮こまるしかない。
やがて大量の食事をみごとに平らげた飯島さんは、トイレに行くと言って席を立った。私と速水はまだ一杯のラーメンをあくせく食べているというのに、なんたる早業だろう。
しかし困ったことになった。
速水と共に残された私は、黙々と汁に沈んだ麺を掬い出す作業に勤しむ。とにかくそうしていないと気まずくて仕方がない。彼女の前でこそ話題に上らなかったが、私と速水には鮎川さんを巡る因縁がある。不良から助けたことでチャラにならないだろうかと願いつつ、飯島さんが早く戻って来ることを祈るしかない。
チラリと横目で見ると、速水は何食わぬ顔で汁の残りを飲み干している。彼は気まずくないのだろうか。それとも本当に恋人が出来たことで過去の一切は気にしなくなったのか。しかし曲がりなりにも恋の邪魔者が隣にいるのだ。思うところがなくてはおかしいではないか。
しばらく待っても飯島さんは戻ってくる気配がない。女性は長いよなあ、と当たり前の考えに至ったが、腕時計を見ると先程から一分ほどしか経っていなかった。気まずさのせいで時間の感覚が狂っている。
「なあ、速水」
「何すか」
人間、ストレスが極限にまで達すると何をするか分からないものである。
この場合の私は、自ら話を振るという行動に出た。このまま針の
「この前の、肝試しのこと。気にしてないのか」
「肝試し?」
何のことか分からない、と言いたげな速水の顔。
覚えていないのか。いやそんなはずはない。
「鮎川さんのことだよ。ほら、お前が告白しようとした」
私は妙な焦燥感に駆られて、思わず直接的なことを言ってしまった。
それでも速水はピンと来ていない様子だった。どころか「鮎川?」とまるで知らない人のように呟く。こいつは私をからかっているのかとも思ったが、見ると至って真面目な顔をしている。嘘をついているようには見えない。私は戦慄した。
「本当に覚えていないのか。二週間前にサークルの打ち上げがあっただろう。そこでお前、野田先輩に依頼したんじゃないのか」
「あー、そっか。あれか」
私がそこまで追及してようやく、速水は思い出したらしかった。
しかしどうも緊張感に欠ける。あの夜のことは私の中では大事件として記憶されているが、速水は違うというのか。よしんば新しい恋人が出来て浮かれているとしても、ここまで無関心になれるとは思えない。
頭を過るのは、さきほどのマーメイドでのことだ。「まるで妖術だな」という野田先輩の言葉が鮮明に思い出され、それに驚くほどの現実味を感じた。
「あれ、確かに好きだったんだけど…………」
速水が何か言おうとした時、飯島さんがお手洗いから戻ってきた。やっぱり長かったなあと思ったが、どうやら化粧を直してきたらしかった。汗をかいたせいで崩れてしまったのだろう。
私たちが話していたのが見えていたようで彼女は「何々、なんの話」とやけに嬉しそうに聞いてきた。
「二人でなに話してたの」
「何でもねえよ」
「えー、なんで隠すん。ひょっとしてアレな話だった?十八歳未満はダメみたいな」
「バカ、違ぇよ」
彼女の前で速水は防戦一方である。二人のやり取りには付き合い始めの初々しさがなく熟年感すら漂っており、机上と妄想でしか恋を知らぬ私を混乱させた。そんな私をしてさえ、彼女の尻に敷かれる速水の将来が透けて見えるようであった。昨今の男女のはこのようなものなのだろうか。
速水がなかなか頑固なので、飯島さんは私に話を振ってきた。
「そんな隠すようなこと?」
「いや、ただの世間話だよ。花火大会には行くのかとか」
流石に他の女の話をしていたとは言ない。私が思い付くままに答えたものだから、速水の目が少し泳いでいた。
「もちろん二人で行きますよ。ね、はーくん」
「お、おう」
もちろんと来たものだ。
自覚したくもない嫉妬と羨望の炎がメラメラと燃える。恋人と夏祭りに行くなど、私が中学生の頃から夢想しつくし、遂には夢想するだけで終わったシチュエーションではないか。弟も速水たちも何故そう易々と叶えることができるのか。
私が一人で勝手に落ち込んでいると、飯島さんは「先輩も行くんですか」と聞いてきた。私は虚勢にも胸を張って「もちろん」と答える。「俺は夏を謳歌するよ」
「なら先輩も私たちと一緒に来ませんか」
「え、どうして」
私はひどく動揺した。
恩返しでラーメンを奢るのはまだ良しとしても、夏祭りのデートに誘うというのはどう考えてもおかしい。それはもう恋愛観の相違ではなく破壊である。恋人がいるなら恋人と過ごすべきだろうと私は断言したい。そこだけは譲れない。
一方で、いや待てよ、と思う。ひょっとしたら飯島さんは私に気があるのではないか。さきほど路地裏で助けたことによって速水から私に気が移り、このように声をかけたとも考えられる。
そうなると大変である。なにせアプローチが大胆すぎる。まさか彼氏のいる前で男を夏祭りに誘い、彼氏のいる前で逢瀬をしようと言うのだから風紀紊乱にもほどがある。肝試しの件こそ有耶無耶になったものの、今度こそ速水の私に対する憎悪は沸点を越えて爆発するはずだ。
片想いの相手を奪い、交際中の相手さえかっ拐っていく。これでは私がまるで女たらしのアンチクショウではないか。
そうならないよう自戒してきた修行の日々はなんだったのか。もはやモテ期到来と言って喜んでいる場合ではない。このような人生の危機に対処する術を身に付けていない私は誰かに頼るしかない。やはり野田先輩に助けを求めるか。
「ああ、大食い大会か」
「そうそう」
妄想を飛躍させた挙げ句の果てに他力本願の極みへと足を踏み入れたが、速水の言葉で我に帰った。
「大食い大会?」
飯島さんが「はい」と元気よく答える。
「花火大会の日、街の端っこで大食い大会をやるんですって。私たちそれに参加しようかって話していて」
「それはひょっとして、お金を賭ける…?」
「あ、知ってたんですね」
私はほっと胸をなでおろした。彼らは大会を観戦しに来たらどうか、と言っているのだ。我ながら馬鹿なことを考えていたものである。
速水が参加したところで強豪相手に太刀打ちできそうにないが、そこは賑やかしに徹するのも一興であろう。私と飯島さんも声援くらいはかけてやれる。
それならばお安いご用、と言いかけたところで、しかし私は鮎川さんも応援しなければならないのだと思い出した。鮎川さんと速水、どちらを応援するべきかと問うならば迷う必要はない。即決である。誘ってもらった手前、誠に遺憾ながら私は速水たちとは敵対せざるを得ないのだった。
私が断りを入れると、さして残念がられもせず「用事があるなら仕方ない」とそれで話は終わった。人生そんなもんである。
「ところで勝算はあるのか」
速水が食べ終えた並盛り用のラーメン丼を見ながら心配すると、速水に「違う違う」と言われる。
「やるのは俺じゃなくて、こっち」
親指でくいくい、と彼女の方を指す。私が見つめると飯島さんは「私食べる量多くて……」と照れ臭そうにする。彼女はそう言いながら五目焼きそばを追加注文した。しばらくして運ばれてきた料理を受け取って嬉しそうに頬張る彼女を、私は呆然と見つめる。あれだけ食べてまだ足りなかったというのか。
「お前ほんとよく食うよな」
速水が呆れるも飯島さんは「いいのいいの」と軽く流しつつ麺をばくばく食べ進める。
まさか鮎川さんの対抗馬がこんなところにいたとは。世の中の狭さと、人の縁の奇妙さを感じずにはいられない。
結局、飯島さんは苦もなくあっという間に焼きそばを平らげてしまった。麺の一本も残すことなく空になった器の底には、魚が水面から跳ねるような形で描かれている。
「また来よっか」と飯島さんはまだまだ余裕そうな表情だった。速水がこちらを向いて苦笑した。私もつられて笑った。
○
速水たちと店の軒先で別れた後、家路に着いた。夜のアーケード街はムッとした湿っぽい暑さに覆われている。
飲食店でも早いところはすでにシャッターを降ろしていて、通りを歩く客も疎らである。宴会でもやっているのか、何軒か向こうにある居酒屋からは楽しそうな笑い声がする。そうした飲み屋の連なる場所から遠ざかっていくごとに、通りからは人気が無くなる。鮎川さんに風鈴を買ってもらった店の前を通りすぎ、マーメイドのある裏路地を横切ってアーケード街を出る。
癖でズボンのポケットに手を突っ込むと、指先に何かが触れた。鮎川さんの電話番号が記された紙切れだった。汗で数字が滲みかけてしまっていて、私は慌てて携帯の電話帳に番号を登録した。
液晶パネルにはいくつかの連絡先が映されている。見るからに少なく、私は電話帳の画面を開くたびにがっかりする。なにせ家族と野田先輩くらいしか名前がない。言わずもがな、野田先輩の名前が一番私の精神を抉る。サークルでさえ空気同然だった無味乾燥な青春の集大成がここに形作られているようであった。なんたる不毛だろうか。
しかし今は違う。砂漠に匹敵する荒涼とした私の電話帳には、今や鮎川さんの電話番号が燦然と輝いている。それはまるで長い旅の末に見つけたオアシスのようだった。
この番号にかければ鮎川さんが電話に出る。そう思うだけで体が妙に固くなり、心臓が石炭をくべた蒸気機関のように熱を上げる。
夏のものとはまた違った暑さを感じて、私は居ても立ってもいられなくなり走り出した。へなちょこなフォームで夜の町中を駆ける私は、さぞおぞましい変質者に見えたことだろう。または妖怪の類いか。人とすれ違わなかったのが幸いである。
青春とはかくも若人を翻弄するものである。まるで免疫のない私もまた、言い様のない気持ちに急かされて遮二無二ひた走った。
○
読者諸兄、その後私が鮎川さんに電話をかけたと思っておられるなら、それは間違いである。
私は鮎川さんに電話をかけなかった。速水たちとラーメンを食べた日の夜も、その次の日も、そのまた次の日も。ついに花火大会が明日に迫ったが、私は一向に鮎川さんへ連絡をとろうとしなかった。
より正確に言うならば、出来なかったのである。
しようしようとは思っているのだが私は携帯電話と睨み合うばかりでまんじりとも動けずにいる。鮎川さんの連絡先を開いては閉じるという意味不明な行動を繰り返し、ため息をつきながら部屋をごろごろと這い回っていたらいつの間にか夜になってしまう。眠れないのでそのまま朝になることもあった。そうして限りある時間を空費し、祭り前日まで来てしまったのである。
この体たらくを見れば、野田先輩をしても「君は底抜けの阿呆だな」と言われるに違いない。私だってそう思う。しかしこれがどうにもならない。電話をかけねばという意思に反して私の手は意味もなく液晶画面を弄るばかりで、通話ボタンを押すだけの簡単な操作がままならないでいる。
人間とは目の前に成すべきことを突き付けられると目を反らすもので、特に私の場合は顕著だった。ネットニュースを読み漁ったり、弾けもしないギターを弄ったり、思い立ったように筋トレを試みてすぐに止めたり、平素では考えられないことだが自ら文机に向かってレポートを仕上げたりした。
しかしこうした有益に見える行動をとってみても、充実感を得るどころか焦りが増すばかりであった。なぜ学生の本分を果たしているのに焦燥に駆られなければならぬのか。私はその気持ちから逃げるように、これでもかと勉学に取り組んだ。すると遂に、到底不可能と思われた課題の山がキレイさっぱり無くなってしまった。残されたのは焦燥感の捌け口を無くして虚脱した私というヘッポコだけである。
外へ出ようにも街中には提灯が張り巡らされ、幟もそこかしこに立っている。商店街など甚だしいことこの上ない。何処へ行っても夏祭りの猛威から逃れることは出来ず、私は自室に籠城するより現実逃避の術がなかった。
今も私の前には携帯電話が鎮座している。もはや手に取ることさえ億劫になりかけていた。沈黙を貫く愛機は「さっさと電話しろよ」と訴えかけてくるようである。
「俺だってそうしたいさ」
私の頭のなかで囁く声がする。
『乗り越えれば楽になるぜ。そのまま恋路を突っ走って幸せになってしまえよ』
「やかましい。問題はそう単純ではない」
『ヘタレだな』
「それもあるけれど!」
セルフ問答で劣性に立たされた私は呻き声を上げて悶絶した。心境はまさしく危急存亡といったところだ。
だが、単純な問題ではないというのは本当だった。単なる惚れた腫れたでは流石の私であってもここまで苦悶はしない。しないはずだと信じたい。
今回の件は私の心境以前に、鮎川さんの正体が不明であることが考えものであった。祭りに誘ったとして、私は彼女に何を言えば良いのだろう。これからどうやって接していくべきなのだろう。考えれば考えるほど思考は空回り、蜘蛛の巣に絡め取られたように身動きできなくなる。
人の気持ちとは度しがたいものだ。そもそも鮎川さんについては何ら有力な情報がないのだから、彼女の心の内を想像するにも取っ掛かりがない。膨らむのは妄想ばかりで、風船のように宙を漂い、地に足の着いた妙案など一つも浮かばない有り様だ。
「夏が終わってしまう。俺の夏がっ」
夏祭りの足音はもうすぐそこまで来ている。なのに私は心の準備さえ出来ていなかった。いっそこのまま投げ出して、世界一周の旅にでも出ようかと考えたのは我ながら呆れるばかりである。
そうして私が頭を抱えていると、にわかに携帯が振動を起こした。それは電話の着信の震え方だった。
私はぎょっとして目を剥き、爆弾処理を行うような慎重さで携帯を手に取る。まさか向こうからかけてきたのだろうか。まだ私は気持ちの整理がついていないというのに。
しかし相手の名前を見て、一気に力が抜けた。電話をかけてきたのは鮎川さんではなく、例によって野田先輩だった。冷静に考えれば鮎川さんが私の電話番号を知っているはずがなかった。とんだ杞憂である。
「はい、もしもし」
「鮎川嬢の話はどうなった」
ホッとしたのも束の間、挨拶もそこそこに野田先輩は言った。話を急かすような感じに私は戸惑った。彼ほどの人物が焦るとは、よほどのことがあったのか。
何があったのかと聞いても「それより鮎川嬢は」とやけに鮎川さんのことを気にする。
「それがその、まだ電話をしていなくて」
私が恥を忍んで答えると、たいへん大きなため息が聞こえてきた。
「そんなことだろうと思った。全く君という人は!」
「悪かったですね。で、なにをそんなに必死になっているのですか」
「今からそっちに行く。そのまま待機していなさい」
言うが否や、野田先輩は通話を切ってしまった。理解が追い付かず呆然としていると、ややあって家の呼び鈴が鳴った。「はーい」と応対する弟の声が聞こえる。
やがて私の部屋に弟がひょこりと顔を出して言った。
「兄ちゃん。野田さんとかいう人が会いに来たって言ってるけど」
「……わかった」
恐るべきタイミングだが、野田先輩であれば不思議はない。おおかた最初から私を訪ねるつもりで近くまで来ていたのだろう。
弟に礼を言ってから玄関に立ち、野田先輩を招き入れる。「邪魔するよ」と言って上がり込んだ野田先輩はいつも通り悠々とした面持ちであり、電話で受けた印象とは違って見えた。焦りが顔に出ない性質なだけかもしれないが。
ひとまず私の部屋に入れると、野田先輩は我が家のようにどっしりと腰を下ろし「喉が乾いてしまった」と図々しくも飲み物を所望した。彼の欲するままに冷たい麦茶を持ってくると、先輩はそれを一気に飲み干した。
「いやあ今日はいつにも増して熱いな」
「まったく。嫌になります」
挨拶がてらに他愛もない言葉を二、三言交わした後、野田先輩は本題を切り出した。
「なぜ電話をかけない」
「その、色々あってですね。私にも思うところがあるわけでして、決して約束をすっぽかそうとしていたわけじゃないんですが、なんと言いますか」
「分かった、分かった。もういい」
「ぐっ」
「まあ聞かずとも理由くらい察しがつく。意地の悪い質問だったな」
野田先輩は出来の悪い弟子を慈しむように言った。「君は底抜けの阿呆だね」
「実際、大食い大会に関しては無理にでも参加しろと言うつもりはなかったのだ。賑やかしにでもなれば良いかと思っていたんだが、事情が変わってしまった」
「と言いますと」
私が相槌を打ちつつ麦茶のおかわりを注ぎ直す。先輩はそれをまた一気飲みする。まるでやけ酒でもしているかのような飲みっぷりだった。
「私の推薦していた選手が急に参加できなくなってしまってね。新しい有力者が必要だ」
なんでも野田先輩は将棋サークルと確執があるらしく、この大食い大会で決着をつけるつもりだったという。しかし祭りの前日になって何者かの妨害が入り、野田先輩が雇っていた大食い選手が出場できない事態となってしまったらしい。その後釜として目を付けたのが、以前話に出した鮎川さんというわけだ。
何を賭けての勝負かは知らないが、野田先輩の気迫を見るに彼にとってはかなり重要なことらしい。
「今すぐ鮎川嬢に連絡をとってくれ。君が誘えば彼女は必ず来る」
「なんですか、その根拠のない信頼は。もしもそれでフラれたりなんかしたら、どう責任を取ってくださると言うんです」
「当たって砕けろだ。ここで勇気を振り絞らないでどうする」
「砕けるのは嫌です。そんなに鮎川さんの力が必要なら先輩が電話すればいいでしょう」
「この分からず屋さんめ!」
私の巌のようなへっぴり腰に業を煮やした野田先輩は、私から携帯電話をひったくると巧みな指さばきで操作して「ほれっ」と突っ返してきた。
見ると、鮎川さんに電話をかけているではないか。通信中という文字が画面に出ていて、コール音が鳴り始める。
私は目を白黒させて喚いた。
「なにをするんです!」
「いいから彼女と話しなさい。一言誘うだけで済む話ではないか」
野田先輩が言い終わらないうちに、コール音が鳴り止んだ。鮎川さんが電話に出たのだ。
スピーカーから「はい」と彼女の声がする。私は先輩の蛮行を非難することも忘れて慌てふためいた。
「あ、アノ、あのあのの」
「なんですか。あのあの詐欺ですか」
鮎川さんに聞いたこともない詐欺の名前を付けられてしまった。私の気分はどん底まで落ち込んだが、むしろそのおかげで幾分か冷静さを取り戻した。
私が名乗ると、鮎川さんはあっさりと詐欺の疑いを取り消して「何か用?」と単刀直入に聞いてきた。
怒濤の展開に、私の頭は真っ白になった。ここ数日間考え続けてきた長い前置きは一瞬にして忘却され、花火、誘う、アバンチュール、などの単語が頭のなかで渦を巻く。自分でも何が何やら分からなかった。
「どうしたの」
鮎川さんが聞く。私はカラカラになった喉で固唾を飲む。全身にびっしょりとかいている汗は、夏の暑さによるものではないだろう。何せ嫌になるほど冷たく感じる。
極度の緊張によって私の思考能力は瞬く間に削がれていき、脳内に残った単語がぽろりと口から漏れた。
「あの、花火、行きませんか」
「いいわよ」
それで私と鮎川さんのデートは決定した。数刻前まであらゆる状況を想定し、尋常ではない慎重さで事の成り行きを見極めようとしていたのに、あまりに呆気ない幕引きであった。
その後、私は鮎川さんと日取りや待ち合わせ場所について話したが、決めたのは全て鮎川さんだった。燃え尽きた私はうんうんと頷くだけの全自動肯定マシーンと化していた。今ならどんな無茶を言われても何も考えず「うん」と頷いてしまうだろう。
約束を取り付けて電話を終えたあと、脱け殻同然になった私に野田先輩は微笑みつつ、一安心したように煙草を一本巻いて吸った。彼が上を向いてふうっと息を吐くと、風鈴が涼やかな音を立てた。
「やあ。青春だなあ」
こんな疲れる青春があってたまるか。そう思ったが、今は文句を言うだけの力も無かった。斯くして私は、鮎川さんと夏祭りに出掛けることになった。
その晩、遠足を前にした小学生のように寝付けなかったことは言うまでもない。
○
続く