よく晴れた昼過ぎ、私は駅前で鮎川さんを待った。駅前広場の中央には、輪っかが捻れたような形をしたヘンテコな彫像が鎮座している。現代アートというやつか。題名に『宇宙と創世』とあるが私には何が何やらさっぱりである。ともかく、その前が鮎川さんとの待ち合わせ場所だった。
田舎の駅だが、今は見渡す限り人で溢れている。すぐそこの道路から出店がポツポツとあり、川に沿って所狭しと軒を連ねている。電車から降りてきた人はそのまま的屋に並ぶ人混みに加わったり、誰かと待ち合わせるのか駅前の彫像の周りに烏合のごとく集まる。
過剰な人口による熱気と真夏の日差しが交わり、立っているだけで体力を著しく消耗する。まさに灼熱地獄である。
そんな中で二時間も立ち尽くしている私は、もはや干からびる寸前であった。
腕時計を見ると予定の時間まであと三十分もある。時間を確認してはゲンナリするという行為を、もう何回目か数えるのも億劫になるほど繰り返している。
すっかり温くなったペットボトルの麦茶を飲み、私は自分の愚かしさを呪った。何故、数時間も前から待とうとしたのだろう。
○
私は行列というものの尽くを嘲笑ってきた。食べ物ひとつに数時間と待ち呆けをくらう意味が分からず、行列に並ぶ人種は等しく愚かであると断じて止まない。奴らは時間というものの貴重さをまるで理解していないぞ、とテレビを眺めつつ家でぐうたらしながら思っていたものだ。
しかし今日、私は実感した。自分も同じ穴のムジナなのだと。
最初は十分前に着けばいいだろうと考えていた。普段の私からは考えられないほど常識的な判断だった。
しかしそこで「いや待てよ」と考えを改めた。鮎川さんは電話口で、口調こそ平淡だったものの夏祭りでの予定をとんとん拍子に立てていった。もしかすると彼女は今回のことをとても楽しみにしていて、二十分前には来るかもしれない。そうしたら私はもう十分早く行くべきではないか。だが鮎川さんはそれを見越してさらに十分早く来るのでは。ならば私は更に。それでも鮎川さんは或いは………………。
そして私は思考の隘路に陥った。しかも一方通行である。
このような『もしも』の堂々巡りの果て、三時間前に家を出るという結論に達したわけだ。紛れもなく暴挙であった。おかげで炎天下に長時間、それも無意味に晒されることとなり、私は押し花のように萎れた。しかも私は何を隠そうクールビズに真っ向から唾を吐く冷房信者であり、その軟弱さたるやモヤシも同然である。太陽はまさしく天敵だった。
屋内が大好きで肌は色白、体型もモヤシにそっくりだし、ひょっとして私は人間に変化したモヤシの妖怪ではなかろうか。そうとは知らず、今まで人間のふりをして過ごしてきたのかもしれぬ。なら父と母、弟はどうなるのだ。彼らも太陽を避ける宿命にあるモヤシ妖怪の一族だと言うのか。怖い。
ゆったりと流れてきた雲が日差しを遮り、束の間の日陰ができる。今にも茹だりそうだった脳ミソが冷静さを取り戻し、俺はいったい何を考えいたんだろうと阿保らしくなった。モヤシ妖怪ってなんだ。
顔を上げると、辺りには更に人が増えてきたようだった。電車が停まる度、駅舎から人々が波のように押し寄せて、ガヤガヤと祭りへ参加していく。
先程から私の隣に立っていた大学生らしき男がにわかにソワソワとし始め、周囲を忙しなく見渡している。間も無くして彼は顔を輝かせて、電車でやって来たらしい女性の元へ駆け寄っていった。朝顔の柄の浴衣を着ている女性は、男を見つけるとこれまた嬉しそうに笑い、二人は仲睦まじく手を繋いで河川敷へと歩いて行った。
なんと眩い光景だろうか。悔し涙を呑んで傍観するしかなかった私も、今日ばかりは彼らの側に立つのだと思うと震えるものがある。しかも鮎川さんはとびきり美しい。長い黒髪を纏め上げ、浴衣でも着た日には男という男の心を射止めまくってしまうに違いない。無論、真っ先に射止められるのは私である。ああ、今すぐにでも彼女が私のお相手なのだとそこら中で自慢したい。
そうやって楽しみが積もる反面、私は胸中に全く別の感情が渦巻いていることも自覚していた。
鮎川さんが正体不明の人物だと知ったのは、つい先日のことだ。私を弟子と呼んで憚らない野田先輩は、厄介だが信用できる情報筋である。場合によっては裏社会にも通じている彼がお手上げと言うのだから、鮎川さんの謎は凡人の私では察することなど不可能である。野田先輩曰く危険はないとのことだが、それで安心してはいられない。
大学生でもなければ社会人でもない。純粋な日本人の顔立ちで、日本語以外喋っているところを見たこともないが、彼女の来歴は一切分からない。
このような人物を相手にどんな話をすればいいのか。それが目下最重要の課題であった。喫茶マーメイドでの偶然の出会いから始まり、この夏で随分と近しくなったと思われたが、今ではすっかり自信がない。何を聞けばいいいのか、そもそも私は彼女の正体を知りたいのか。あれやこれやと考えて昨夜遅くまで鮎川さんとの会話をシミュレーションし、手紙でもしたためようかと便箋に向き合ってみたりもしたが私の不安は増大するばかりであった。
唯一の手掛かりは、私がよく見る夢だけだ。ただの夢にしてはあまりに鮮明な、鮎川さんに助けられる記憶。今回のデートで、あの夢をどうやって鮎川さんとの会話に繋げればいいのかということが、私の頭を最も悩ませるところである。
再び腕時計を確認すると、約束の時間まであと五分とない。いつの間にか考え事に没頭していたらしい。
もう少しで鮎川さんがやって来る。偶然の出会いではない。私とデートをするために!
否応なく心拍数が上がり、人混みを必死に見回す。私の通う大学の方面から電車が来て、その乗降口からホームヘぞろぞろと人が降りて来るのが見える。駅舎へ上がっていく人の群れから過たず彼女を見つけ出さんとして私は血眼になる。
鮎川さんはどのような格好をして来るだろうか。どうやら彼女は私と夏祭りに行くのを大変楽しみにしているようだし、本当に可愛らしい柄の浴衣を着ているかもしれない。さらに髪を結い上げて薄く化粧までされたら、私の節穴のような目では見つけられないのではないか。いや、むしろその美貌が目立って分かりやすいだろうか。
鮎川さんとの会話への不安も何処へやら、期待感が圧倒的に優勢となり、一層強く駅舎を睨んだ。今に、今に鮎川さんが昇降口の階段を降りてくる。「待った?」と聞かれれば、私は三時間待った疲労をおくびにも出さず「今来たところさ」と爽やかに言わねばならない。そうして彼女の手を握ろう。ごく自然にそっと握ろう。こればかりは人混みではぐれないようにするための仕方のない措置である。断じて下心によるものではない。落ち着け。私は紳士だ。
万事予定通りに運んでみせる。
「ひゃあ!」
総身を強ばらせていた私は、後ろからツンとつつかれて女のような悲鳴を上げた。何事かと振り向くと、そこには鮎川さんが立っていた。
「待たせた?」
そう聞かれるも、私は意味のある言葉を出せず首を横に振るのが精一杯であった。てっきり電車で来るものとばかり思っていたから大変驚いた。ついこの間も大学でこんな不意討ちを喰らったナア、と思い出す。
鮎川さんは相も変わらず涼しげな無表情である。私の恥態を見ても顔色一つ変えない。その鉄壁さはこれから祭りに赴くという時にあっても健在だった。
夏の暑い風に吹かれてはためくのは、白く長い裾。鮎川さんは浴衣などではなく、普段着のワンピースを着ている。感服するほどに徹頭徹尾いつも通りを貫いていた。
「行きましょうか」
「あ、はい」
私は促されるまま、彼女のあとに付いていく形となった。手など握れるはずもなかった。
○
鮎川さんがたこ焼きを食べたいということで、私たちは屋台の立ち並ぶ川沿いを歩いた。
たこ焼きが目当てと言いながら、鮎川さんは目につくものを何でもかんでも買い漁った。
焼きそば、フランクフルト、リンゴ飴、お好み焼き、チョコバナナ、イカ焼き、また焼きそば。
屋台をしらみ潰しに渡り歩くその勢いは破竹のごとし。ありとあらゆる食い物を平らげてしまわんばかりの迫力である。ふわふわの綿飴とガラス玉のようなアンズあめを両手に持つ鮎川さんは実に魅力的だが、その胃袋の底知れなさには畏怖するばかりだ。
私は焦った。どうにかして彼女を止めなればならない。なにせこの後に大食い大会が控えている。鮎川さんの食欲は頼もしい限りだが、このまま食い続けては勝負どころではなくなってしまう。
しかしここでも私の意気地無しは遺憾なく発揮される。鮎川さんは大食い大会のことなど何も知らない。私が伝えなかったからだ。面倒事を先伸ばしにし、伝えるべきタイミングを伺う体でいつの間にか機会を逸しているのが常である。鮎川さんが食えば食うほど「これから大食い大会に出てほしい」などとは言いづらくなる。こんなことなら昨日からお願いしておけば良かったと思うがもはや後の祭り、私は呆然として鮎川さんのグルメ活劇を見物する他なかった。
「あの、鮎川さん」
「なに?」
「…………とうもろこし美味しいですか」
「美味しいわ」
私はもう駄目かもしれない。
焼きとうもろこしを齧る鮎川さんを眺めながら「これがデートというものなのかしら」と私は思った。想像していた男女の逢瀬とはどこか違う。奥ゆかしい会話がない。甘酸っぱい気配がない。一向に二人の距離が縮まない。繊細微妙な駆け引きをしようにも、やきもきするのは私だけで鮎川さんはまるで意に介さないことは明白である。
何故、天衣無縫の彼女は私と夏祭りに行くことを了承したのだろうか。これではカップルどころではなく、爆食いする美女となぜかその後を付いていく男である。つまり男がいなくても成立する。奢ってほしいなんて話もないし、商店街の件よろしく、私は己の立ち位置を見失った。こんなことなら唾棄せずに恋愛指南書でも読んでおけばよかった。
たこ焼きを一つ買って、私も食べながら歩く。そうすれば乙女を執拗に追うストーカーの疑惑も薄れるだろうし、会話がなくても少しは間が持つ。気がする。
そうやって練り歩いていると川岸を結ぶ大橋の前までやって来た。花火を間近で見るにはうってつけの名所で、まだ夕刻だというのに橋の上はすでに人でごった返している。場所取りでもしているのか、川上側は特に混雑している。欄干にへばりつくようにして寄りかかっている人々からはテコでも動かぬという気迫が見て取れた。
西日を映して暖かい色が付き始めている川面を眺める。流れは穏やかに見えるが、随分と水嵩が増している。昨晩、大雨が降ったためだ。今日晴れてくれたのは有り難いが、この状況で花火を上げられるのだろうかと不安である。
この橋を渡って川下の方へ行けば大食い大会の会場がある。私は、これ以上鮎川さんが食べる前にさりげなくそこへ連れて行こうと考えた。
さりげなくというのが肝要である。用意された大量の飯と、勝負に挑む選手たちの熱気にあてられれば、鮎川さんなら自ずと参加を表明してくれるに違いない。そして伝えそびれていた私の落ち度は闇に葬られる。
脳裏に浮かんだ恥知らずの妙案について考えを巡らせていると、私の袖がくいくいと引っ張られた。鮎川さんだった。さっきまで食べまくっていたはずだが、今は何も手に持っていない。どうしたのだろうか。まさかお腹が一杯になったので帰ると言うのではないか。
それは色々な意味で困る。とても困る。具体的には、鮎川さんの素性を知る千載一遇の好機を逃した上に、野田先輩からは罰として弟子入りという名の社会的抹殺を受けてしまう。私が考え得る最悪の事態だ。
「あれ」
鮎川さんが指さした方を見ると、射的の屋台があった。一見して無表情のままの彼女の目は爛々と光っている。そういえばこの人は好奇心旺盛だったなあ、と商店街を一緒に歩いたときのことを思い出す。
私は鮎川さんの望むまま射的に挑んだ。二人分の金を払ってコルク銃を受け取る。初めてやるらしく、鮎川さんは銃をしげしげと眺め、使い方を店主から熱心に聞いたあと、私の横でどっしりと構えた。
ようやくデートらしくなってきたことに、私の萎みかけていた心は窒素を積めた風船のごとくパンパンに膨れ上がった。相変わらず振り回されている感は否めないが、花より団子の状態に終止符を打てたのは実に喜ばしいことである。
下段の小さい菓子類を狙う私とは反対に、鮎川さんは勝負師であった。よりにもよって一番上にある馬鹿デカいゲーム機を狙っている。あんなものにいくらコルクをぶつけたところでなしのつぶて、倒れるはずがない。物理法則に反する。
一瞬の張りつめた静寂の後、鮎川さんが満を持して引き金を引いた。景気のよい音と共に銃からコルクが発射され、ゲーム機の箱の中央を強かに穿った。
ゲーム機は微動だにしなかった。
○
私たちはそれからも的屋を巡った。輪投げ、ヨーヨー釣り、ゴムボールすくい、飴付きのくじ引き。少し風変わりなところでは如何にも手作りのボーリングもやっている。射的も店を変えていくつかやった。
鮎川さんの技巧は壊滅的であった。およそ成果らしい成果がない。ポイは瞬時に破れ、ヨーヨー釣りの釣り紙も水に濡れて呆気なく切れた。輪投げの輪っかを明後日の方向に投げて店主の脛を打ったりもした。射的においてはどうやっても特賞の品が落とせないので小さい的を狙ったところ、その尽くを外すといった具合である。
私はどこかで鮎川さんを完全無欠であらゆる物事をそつなくこなしてしまう人だと思っていたが、この小一時間でその先入観は覆った。
しかも彼女は失敗したとしてもめげることなく、次こそは絶対に上手くいく、といった根拠のない自信を滾らせているように見えた。私が射的で取った駄菓子を食べつつヨーヨーを弄びながら遊技に興じるその様子は、はしゃいでいる子供そのものである。まるで初めて祭りに来たみたいだった。
鮎川さんの興味は止まることを知らず、屋台から屋台へと渡り歩いていく。唯一やらなかったのは金魚すくいくらいなものだ。私が「やらないの」と聞くと鮎川さんは静かに頷いた。その横顔がどこかつまらなさそうだったのが印象的だった。
改めて財布を開いてみると、恐るべき散財をしていることに気付いた。ただでさえ払底気味の私の財布は、いまやミイラのように干からびてしまった。私よりもよっぽど散財しているはずの鮎川さんは大丈夫なのかと様子をうかがってみるが、堂々と闊歩する後ろ姿はそういった心配とは無縁のようであった。
いよいよ彼女が何者であるか分からなくなる。大学生でもなければ社会人でもなく、あまり関わり合いになりたくない業種の関係者でもない。しかし金はあるときた。野田先輩によるとバイトもしていないようだし、いったい何処から捻出しているのか是非とも問い質したいところである。
どういった切り口で聞くべきか考えている内に、屋台が疎らになり始めてきた。いつの間にか祭り会場の外れまで来てしまったらしい。何処からか太鼓の音が聞こえる。祭り囃子ではない。広い通りから脇道に逸れたところにある路地の奥まった方から聞こえてくる。逢魔ヶ時の薄暗さも相まって妖気にも似た怪しげな雰囲気が立ち込めている。
川との位置関係から、ここが大食い大会が開かれるという会場の近くだと分かった。そうなると怪しい音楽が聞こえてくるこの奥には。
「鮎川さん、こっちは…………」
勢い、私は鮎川さんを誘おうとした。しかし彼女はすでに歩を進めていた。勇ましいその背中には覚悟を決めた人間の風格が漂っている。まるでこれから戦いに臨む気合いの入りようである。
鮎川さんは元から大会のことを知っていたのだろうか。
○
狭い路地を抜けた先は空き地になっていた。そこには天幕がいくつか張られ、人だかりが出来ていた。大学生くらいの青年から、恰幅のいい壮年の男まで年齢層は幅広いが、ほとんどが男性であった。色気の欠片もない。汗と何やらこってりとした食べ物の臭いが入り雑じった熱気は、すぐそこの本祭のそれとは質が全く違う。なにせ祭りらしい騒音がない。人はたくさんいるのに、どの人もヒソヒソとしか喋らず、ある種図書館のような静けさがあった。そこにスピーカーから流れる太鼓の音が加わり実におどろおどろしい。『鯨飲馬食』や『一攫千金』と書かれた提灯の投げる明かりがより一層怪しさを増している。
一際大きな天幕の側には『決戦場』という幟が立っている。ここが大食い大会の会場であることにもはや疑う余地はなかった。
さしもの鮎川さんも男共の放つ異様な空気に威圧されてか足を止めている。我々は様子を見つつ、迂回するように会場の端を移動した。
「おおい、こっちだ」
すると私たちに声をかける者がいた。薄汚れた健康サンダルと『馬鹿』と書かれたまっ黄色のTシャツを着こなす年齢不詳の男。すなわち野田先輩であった。何故かサングラスとマスクを着用しており、つけ髭まで張り付けているのでしばらく誰だか分からなかった。
彼はこちらへ近寄ると「待ちかねたよ」と言った。
「どうしたんです。その格好は」
「変装だよ。お尋ね者というわけだ」
「はあ」
「もう今にも始まる。選手登録は私の方で済ませてある。さあ行った行った」
詳しい説明もそこそこに、野田先輩は鮎川さんを会場の中心へと追いやってしまった。彼女と引き剥がされた私は即時異議を申し立てた。
「待ってください。彼女にはまだ何も事情を話していないんです。なにもこんな唐突に」
「君の奥手も筋金入りだな。だが心配するな」
「いや、心配もなにも順序が」
「気にするなと言っている。ほら彼女を見てみなさい。そんな細かいことを差し挟ませない顔をしているじゃないか。外野がとやかく言うのは無粋というものだ」
野田先輩に言われて見ると、選手席の末端に座った鮎川さんの表情には些かの迷いもなかった。ことここに至って、私は彼女の同行者ではなくただの観衆になり下がった自分を知った。私は完全に蚊帳の外であった。
「それより君も金を賭けてきたらどうかね。倍率が凄いことになっているぞ」
すっかり忘れていた。私は諸々の疑問や不安を放擲して、運営のテントに駆け寄った。ホワイトボードに手書きのオッズ表を見ると、鮎川さんはダントツの大穴であった。財布の中身を確認すると、しわしわの野口英世が一枚出てきた。実に頼りない姿であるが、もし鮎川さんが勝てばこれがまとまった額になって返ってくる。それはとても魅惑的な皮算用であった。
しかし、一つ懸念がある。受付の男が「賭けるんですか」と聞いてきたが「ちょっと待ってください」と私は思い止まった。
ここへ来るまでに鮎川さんが大量の食事をしていたことが引っ掛かる。見た目には序の口といった顔をしているが、果たして今の胃の容量は如何ほどであろうか。まさか一品食べて「美味しかったです。ごちそうさま」などと言いだすのでは。鮎川さんに限ってそれはないだろうと思う反面、彼女ならば単なる食事目的で大食い大会の席に座る剛胆さを持っていても不思議はないと思えた。
悩みつつオッズ表を凝視していると、飯島という名前が目についた。ゼッケン番号七番とある。選手たちのいる方を見てみると、七番の席には速水の彼女である飯島さんがいた。出場するというのは本当だったのかと私は舌を巻く。しかも食欲の権化のようなむさ苦しい男たちに挟まれながら、彼女の態度はいかにも自信に満ちていた。
もう一度表を見直すと、飯島さんは鮎川さんに次いで倍率が高い。私は二人に手持ちの半分ずつを賭けた。
諸君、私は間違っているだろうか。本命の鮎川さんを応援する気持ちで全額注ぎ込むべきだったであろうか。浮気者、結局は金か、と私を罵るだろうか。
しかし考えてもみてほしい。
お金は大切である。
○
私が野田先輩の元へ戻ってから間もなく、選手紹介が始まった。
改めて見ると錚々たる顔ぶれである。ギラギラとした脂汗の光る巨漢ばかりで、その全員が勝利への執着に燃え気炎をあげている。優勝候補として名を挙げられた男はボールのような体型をしており、食べる前から息が荒い。彼に理性はあるのだろうか。
そんな男共の中にあって、肩を並べている二人の女性が異彩を放っている。鮎川さんはツンと澄ました顔で、飯島さんは隣の鮎川さんを気にしつつも誰かへ嬉しそうに手を振った。そちらを見ると、やはりと言うべきか速水もいた。いつもは騒がしい印象だが、大人しく控えめに手を振り返しているだけだ。
司会をしているのは一目で不摂生と分かる不気味な顔色の男だった。明らかに私よりも細身で、彼こそがモヤシ妖怪だと断ずるのもやむ無しである。しかしよくよく見ると私はその男のことを知っていた。なにせ学内でも広く知られる有名人だったのだ。
「彼は将棋サークル『ぬらりひょん』の部長だ。来年で二十五歳になるが就職などしたくないと未だに駄々をこねてこんな馬鹿をやっている」
「詳しいですね」
「古い知り合いだからね」
野田先輩は煙管をふかしながら言った。そういえば野田先輩がこの大食い大会に拘るのは、将棋サークルが関わっていると昨日聞いた。
「彼は私をサークルに連れ戻そうと言うのだよ」
「連れ戻す?」
「私の古巣だからね。まあ今となっては昔の話さ。しかし連中は今でも私なんかに固執する。部長の座に戻らなければ強行手段も辞さないと言ってきた。だからこの由緒正しい大食いでの決闘で雌雄を決するというわけだ」
「野田先輩が出なくていいのですか」
「こういうのは形式が大事だ。正しく言うなら代理決闘といったところだろう」
聞くところによると、野田先輩が交渉していた選手が倒れたのは将棋サークル『ぬらりひょん』によるものらしい。確たる証拠はないが、状況的に見て間違いないとのことだ。
その選手が倒れた経緯は、頼んでもいないピザが山のように届き、それを全部食ってしまったために腹を壊したとのことらしい。ちなみにピザの代金はネット決済であらかじめ払われていたという。
色々な意味で恐ろしすぎる。辛抱堪らず謎のピザを食ってしまうその人の食欲も恐ろしいが、自腹を切ってまでピザを注文するという欠陥だらけの作戦を実行した将棋サークルも恐ろしい。相手が食わなければ、大損こいてお仕舞いではないか。さすがは野田先輩の関係者である。変人しかないない。
将棋サークル『ぬらりひょん』と野田先輩、また彼の持つ手帳には並々ならぬ因縁があるに違いなく、しかし私は「これ以上聞いてはろくな目に遭わない」と勘を働かせて話を切った。彼らの不毛な騒動に巻き込まれるのはごめんである。私はこれ以上、貴重なモラトリアムを無意義に過ごしたくはない。
鮎川さん含め八人の選手紹介と、各人からの簡単な挨拶が済み、いよいよ料理が運ばれてきた。
私はたちは瞠目する。
たこ焼きであった。大量のたこ焼きであった。その偉容は圧巻と評する他ない。山と積まれた粉物の球体はたかが十数人が消費できる熱量を遥かに越えている。会場の端で救護テントが慌ただしく準備を進めていることから、例年の過酷さがしみじみと感じられた。
各選手にたこ焼きが取り分けられる。中身はタコだけでなくチーズや餅などもあると言っているが、あれだけの量を食うならその違いは皆無に等しいだろう。
我々一般人は富士山のごとく聳えるたこ焼きを見るだけで胃もたれを起こしそうだが、選手たちは皆、獣のように瞳を光らせている。本気であれを食うつもりなのか。正気ではない。
「制限時間は六十分です。それでは食べ始めてください」
顔色の悪い司会が言った。選手たちが「いただきます」と手を合わせたと同時、戦いの火蓋は切って落とされた。
それはまさに、飢餓地獄から解き放たれた亡者のごとしだった。
食べる食べる食べる。ただひたすらにがむしゃらに、親の仇でも討つように猛然と食べ進める。
先陣を切っているのは優勝候補のゼッケン一番だ。隣のボディービルダーのような男性が小ぢんまりとして見えるほどの巨怪は、その見た目に負けない食欲を持ち、たこ焼きを皿から直接喉へ流し込んでいる。運営本部にいる将棋サークルの面々が沸き立つ。彼こそが野田先輩を打倒するために将棋サークル『ぬらりひょん』が用意した刺客に違いない。爪楊枝すら使わない無作法ですらこの場においては許される。ちゃんと噛んでいるのか心配である。いや、噛んでいないだろう。
飯島さんも大した健闘ぶりだった。頬袋を作りながらせっせと口に詰め込む姿はギャルとかけ離れ、一人の選手としての風格があった。
しかし、やはりと言うべきか驚嘆するのは鮎川さんの活躍である。彼女は戦いの渦中にあって一人涼やかだった。たこ焼きの一つ一つを淡々と口に運ぶのだ。その作法は流麗で、一切の淀みがない。まるでたこ焼きを食べ続けるプログラミングをされたシステムのようだ。誰もが他の選手の動向を気にするなかで彼女だけが無我の境地にあった。
一皿十個のたこ焼きが幻のように消えていく。矢継ぎ早にお代わりが運ばれる光景はわんこそばもかくやという程である。
百個に差し掛かるくらいから、場に変調が現れ始めた。最初に白旗を挙げたのは筋肉質な好青年だ。青白い顔をして口に手を当てている。あの身体を育てるため食べる量に自信はあったのだろうが、化け物相手では分が悪かったようだ。彼に賭けていたらしい観客たちは悲嘆に暮れたり、或いは選手へ声援を送ったりしている。
それを皮切りに脱落者が出始めた。倒れた順に担架に乗せられ、手際よく救護テントの方まで運ばれていく。五番ゼッケンの中年が糸の切れた人形のように気絶し、残っているたこ焼きの上に突っ伏した。末席にいるまん丸に太った男は突然笑いだして仰向けに倒れたまま動かなくなった。せっせと担架で運ばれる。おそらく自分が食っているのがたこ焼きなのか、自分自身がたこ焼きなのか分からなくなってしまったのだろう。
たこ焼きは情け容赦なく新たに焼き上がる。際限はない。将棋サークル『ぬらりひょん』の財力はどこからくるのだろう。
「どうやってあれだけの物資を?」
「麻雀だ。私が教えた」
「えっ」
「大学界隈の雀荘はだいたい将棋サークルが介入している。ほら、君もよく行くだろう。あの商店街にある、喫茶店のすぐ側の」
「あそこもそうなのですか!」
「君は良いカモだと評判だよ」
私はもう二度とその店には行かないと決めた。負けた分を必死になって取り返そうとしていたのが阿呆みたいである。野田先輩も共謀していたのかとも考えたが、彼は私の借金を肩代わりしているし、何より将棋サークルとは絶縁に近い状態だという。
そういえば私は、あの偏屈な集団が看板通り将棋に勤しんでいるとは一度も聞いたことがなかった。いつも部室から聞こえる声は「ロン」だとか「ポン」だとか言っていた。その礎を築いたのが野田先輩だというなら、将棋サークル『ぬらりひょん』にとって野田という男の存在は無視できないものなのかもしれない。
「それより君、鮎川嬢とは上手くいったのか」
不意に鋭い質問が飛んできて、私は思わず目を反らした。それが何よりも雄弁な答えであった。野田先輩は深いため息をつく。
「いったいここに来るまで何をしていたんだね」
「い、良いではないですか!私には私の考えがあるのです。藪から棒を突っ込んでも蛇が出てきます。期が熟すのを待たなければ」
「いつまで待つつもりだね」
「それは…………あれです。この後の、そう、花火とか」
私が言外に無計画を吐露すると、野田先輩は肩をぽんぽんと叩いてきた。まるで馬鹿な弟子を慰めるような叩き方だった。
「君は底抜けの阿呆だな」
「阿呆でけっこうです」
「うむ。賢しいよりずっと良い。まあここまで来れば私が首を突っ込むものでもないのかな」
野田先輩の意味深な言葉に、私は首を傾げた。先輩は何か知っているのか。
聞こうとしたその時、司会の声が拡声器から響いてきた。
「さあ、現在三人が残っています。あと十五分、誰がより多く胃に収めるのか」
喋っているうちに戦いはいよいよ佳境に入ったらしかった。
残っているのは将棋サークルが用意した怪人、速水の彼女の飯島さん、そして鮎川さんの三名だった。
飯島さんはずいぶんと辛そうである。左右にいるライバルの動向をしきりに観察しながら、一個のたこ焼きを食うのもやっとという有り様だ。一番ゼッケンの巨漢も手が止まりかけている。最初の勢いはすっかり陰ってしまい、爪楊枝でちょいちょいとたこ焼きを弄くる様はしょんぼりと落ち込んだ熊のよう。
そんな中で鮎川さんだけが変わらず食べていた。恐るべきことに何も変わらないのである。食べる速さも、姿勢も、顔色も。たこ焼きが焼けたそばから口へひょいひょい運んでしまう。いつの間にか飯島さんや巨漢を大きく引き離している。まさしく人外の光景だった。
その様子を見た飯島さんたちは、二人同時に白旗を上げた。試合終了のゴングが鳴らされる。
鮎川さんはさも当然のように優勝をもぎ取ってしまった。
しばらく唖然とした空気が流れた会場に、拍手が疎らに響き始める。やがて割れんばかりの大音響となり、大穴の勝利に皆が沸き立った。運営本部のテントにいる将棋サークルの面々は地団駄を踏んで悔しがっている。それを腹の底から面白がるように、野田先輩はにっこり笑っていた。どうやら確執云々の話は本当だったらしい。私にはこれっぽっちも関係ないけれど。
スポットライトが一点に集中し、拍手喝采はさらに大きくなる。促されるまま立ち上がった鮎川さんに苦しそうな様子はない。平然とした顔で司会から花束と『キングオブ食いしん坊』と書かれたどことなく不名誉な襷をもらう。
鮎川さんは口についたソースをティッシュで拭い「ごちそうさまでした」と小さくお辞儀をする。彼女が口元を隠しながら満足そうに小さくげっぷしたのを、私は確かに見た。
○
「いやあ助かった。君は私の恩人だ」
「お礼の必要はありません」
表彰台から降りて我々の方へ戻ってきた鮎川さんを、野田先輩が称えた。先輩は小躍りしそうなほど上機嫌である。よほど将棋サークル『ぬらりひょん』との間にできた溝は深いと見える。
鮎川さんは優勝した。他の追随を許さぬ堂々の一位であった。他の選手が歩くこともままならない中で一人表彰台に立ち、司会から勝利の感想を聞かれた際に「美味しかったです」と言ったのは実に彼女らしかった。
「私はもう行くが、君たちはこれから花火でも見るのかな」
「え、えっと」
「はい。見ます」
私が口ごもる横で、鮎川さんはハッキリと答えた。果断である。男として立つ瀬のない私はいっそう身を縮めるばかりだ。
野田先輩は「そうかそうか」と何故か喜ばしいことのように頷く。
「では…………」
野田先輩がそう言いかけた時、遠くで一人の男が声を上げた。
「いたぞ、野田だ!」
我々三人が振り向くと数人の男性がこちらへ駆け寄ってきていた。運営本部からも続々と人が出てくる。将棋サークルの部長である司会の男が「捕まえろ!」と檄を飛ばす。
「こりゃいかん。君、あとは頼んだ」
野田先輩はそう言って私に紙切れを押し付けると、すたこら逃げ出してしまった。サンダルを履いているとは思えない速さだ。まるで脱兎である。よほど捕まりたくないらしい。
受け取った紙を見てみると、鮎川さんの名前とゼッケン番号と賭けた金額が書かれ、それから『ぬらりひょん』という文字の判子が押してあった。代わりに換金しておけということらしい。抜け目のない人である。
人混みを掻き分けてきた将棋サークルの面々は「あっちへ逃げたぞ」「追え追え」「今日こそ手打ちにしてくれる」と野田先輩の逃げた方へ走っていく。それとは別に、司会をやっていた男が私と鮎川さんの所へ来た。
「やあ、君はたしか野田の一番弟子だね」
「いいえ違います」
あまりに不名誉な覚えられ方をされていたため、私は考えるより先に否定した。
男、もとい将棋サークル『ぬらりひょん』の部長は、幽霊のように青白い顔にニヤニヤとした底意地の悪そうな笑いを浮かべている。その笑い方からは彼の性格が如実に見て取れ、また変な人に目をつけられてしまった、と私は暗澹たる気持ちになった。
「隠しても無駄だよ。我々の情報網を甘く見てはいけない。何より野田自身が君を弟子にとっていると公言している」
甚だ迷惑な話に私は呆れて何も言えなかった。まさか私の知らないところでそんなことになっているとは。野田先輩は学内でも有名な自由人である。そのあまりの奔放ぶりは学部学年を問わず勇名を馳せ、大抵の常識を備えた人は彼を徹底して避ける。そんな野田先輩の弟子だというデマを流されては、私が友人や恋人を作れなかったのも無理からぬ話だ。決して、私が口下手だったり、野田先輩の口車に乗って学生たちの恋路を邪魔して回ったからではないのだ。そうに違いない。
私が真理に気付いて憤然と考え込んでいるうちに、『ぬらりひょん』の部長の周りに人が集まり始めた。彼らは私と鮎川さんを囲むようにして並んでいる。
「そちらの優勝者の女性は誰か存じないが、野田が用意した助っ人で間違いあるまい」
「ま、待ってくれ。何をするつもりだ」
不穏な空気に、私は緊鮎川さんを庇うように彼女の前に立つ。
部長は緊張しきった私を「ふん」と鼻で笑い、サークルの部下たちに向かって指を鳴らした。
「連れていけ」
一斉に男共が私たちへ襲いかかってきた。私は反撃しようとするも細腕ではどうにもならず瞬く間に布団です巻きにされた。縄でぎゅっと縛られて「ぐえっ」と蛙が潰れたような声が漏れる。鮎川さんはというと全くの無抵抗で、男たちも手荒な真似はせず大事な骨董品を扱うかのように彼女をす巻きにしている。我々は二人して担架に乗せられ、将棋サークルの連中に運ばれていった。
何故こんなことになってしまったのか。これからどうなるのか。そして、私の輝かしい理想のデートは何処へ行ってしまったのか。す巻き状態の私は汗を拭うことも出来ぬまま、己の命運を呪うしかなかった。
ため息が、蒸し暑い空気に溶けて消えた。
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続く