人魚の夏   作:ふーてんもどき

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三章 後編

 将棋サークル『ぬらりひょん』に人質として捕らえられた私は、住宅の屋根に囲まれた狭い夜空をぼんやりと眺めていた。夕焼けの時間は過ぎているが、町灯りのせいで見える星はせいぜい一等星くらいのものだ。あとは白んだ三日月だけの殺風景な空である。

 しばらく前に山間のキャンプ場でも鮎川さんと月を見たが、あの時のようなロマンチックさは欠片もなかった。なにせ我々は縄で縛られ、椅子に固定されてしまっている。

 大会広場の隅にある仮設の資材倉庫。その裏側の人目につかないスペースに私たちは拉致された。後ろ手に縛られた縄は固く、手首に食い込んだりはしないがどうにも逃げられそうにない。

 見張りの男が一人いる。真面目に監視はせず、私たちに背を向けてパイプ椅子に腰かけ携帯を弄っている。どうやら私たち程度では逃げられないとタカをくくっているらしい。全くもってその通りである。二、三回交渉してみたが暖簾に腕押しだった。

 私は先刻、す巻きにされてここへ運ばれる際にも『ぬらりひょん』の部長へ猛抗議した。

 

「なぜ俺たちを捕まえるのですか」

「決まっているだろう。野田を誘い出すためだよ。いわゆる人質というやつさ。安心してくれて良い。我々はあくまで紳士的な組織だ。手荒な真似はしない」

「あなた方は間違っている。俺を人質にしても野田先輩はやって来ないぞ」

「いいや来る」

「来ないったら来ない。野田先輩は俺の身の安全などこれっぽっちも気にしないんだぞ」

「君ね、そんなこと自分で言ってて悲しくないの。奴は来るさ。十年来の付き合いがあるんだ。分かるんだよ、僕には」

「俺たちを解放しろ!然るのち賭け金を払ってくれ!」

「しつこいなあ君も。金はあとで用意してあげるから大人しくしててくれよ」

 

 無論、私の抗議が意味をなさなかったのは、監禁されている現状から容易に察しがつくだろう。

 どこでどう間違えればこうなるのか。現代日本で普通に暮らす限りは考えられない境遇に、私は大いに不満を抱かざるをえない。人生初のデートが無茶苦茶になってしまった。

 すぐ隣には、私と同じように拘束されている鮎川さんがいる。彼女の超然とした態度はこんな状況下でもまるで変わりなく、じっと夜の空を見つめている。無表情なので怒っているのか落ち込んでいるのかすら分からない。少なくとも焦りは見受けられなかった。拉致されているにも関わらず恐るべき剛胆さである。まさかこうした荒事に慣れているというわけではあるまいが。

 

「ねえ」

 

 鮎川さんから声をかけられた。

 唐突に話しかけられて、私は上擦った声で返事をする。

 

「ここから花火は見えるかしら」

「ど、どうだろう。方角はまあ、川の方だけど。屋根があるからね」

「そう」

 

 鮎川さんは空を見上げながら言う。彼女の目がわずかに細くなり、口元がきゅっと結ばれる。その微妙な表情の変化が、私の視線を釘付けにして離さない。

 

「なに?」

 

 話が途切れたあともそうやってじっと見ていたら、鮎川さんに気付かれた。一瞬焦ったが、彼女の口調には特に嫌悪感がなかった。なかったと信じたい。

 

「いや単に、鮎川さんが何を考えているのかと思って」

「…………花火を見たかったわ」

 

 意外な答えであった。まず返事をされたことが予想外だったが、そんな普通のことを考えているというのが私にはどうも信じがたかった。

 

「他には何か考えていた?」

 

 またも鮎川さんが聞いてきた。しかもどういう質問なのだ、それは。私の思考を洗いざらい知ろうとでも言うのか。婦女子にそう思われるのは名誉であり興奮するに吝かではないが、相手の思考を知りたいのは私の方である。まさか花火で頭がいっぱいということもあるまい。

 

「特別なことは何も……」

「言ってみて」

 

 今日の鮎川さんはどうしたわけか妙にぐいぐいと来る。何だろう心当たりがない。いや、無いと言えば嘘になるが、彼女の正体を密かに探ろうとしているなどと感じさせる場面があったようには思えなかった。私はまだそこまで行動に移せていない。

 考えた末、私はこれを一つの好機と捉えた。鮎川さんから会話に乗ってくれるならば、普段はしにくい話も出来るというものだ。それに今は話すこと以外にやれることもない。

 

「俺が昔、川で溺れたことがあるっていうのは話したっけ」

「ええ」

「その時のことをたまに夢でも見るんだ。ある女の人が助けてくれるんだけど、その人の顔が全然分からなかった。つい最近までは」

「最近、までは?」

 

 鮎川さんが聞き返す。

 私はせっかくの夏祭りが台無しになって投げやりになっていたのかもしれない。そうでなければ、口をついて出た言葉を切っ掛けに、彼女に対して踏み入った話など出来なかっただろうから。

 

「ちょっと話題を変えるけど、ついこの間、野田先輩から聞かされたことがある。鮎川さんの身辺についてだ」

「そう」

「あの人は阿呆なことばかりやっているけど、すごい情報屋ではあるんだよ。うちの大学にいる人のことなら知らないことはないんじゃないかな」

「そう」

「でも、君のことはなにも分からなかった」

 

 空気が張り詰めたような気がした。決定的な一言を口にした自覚があった。

 彼女の無言が気まずい。しかしここまで言っておいて、さすがの私も引き返すわけにはいかなかった。

 

「野田先輩も不思議がっていたよ。こんなことは初めてだって」

「…………」

「俺は君がどこの誰なのか、何をしていて何を考えているのか、全く知らないんだ。知りようもないから、どうしたものかって思ってたんだ。ここしばらく。特に、川で溺れる夢を頻繁に見るようになった最近は」

 

 言い終わり、二人の間に沈黙が流れる。私の言いたいことは終わった。あとは鮎川さんの返事を待つばかりだ。

 私たちはしばらく黙ったままだった。蝉の合唱が四方から響き、それに紛れて遠くの祭り囃子が聞こえる。予定ではそろそろ花火の打ち上げが始まる頃だろうか。鮎川さんは花火が見たいと言った。それが彼女の真意なのか。私にはまだ、分からない。

 やがて、鮎川さんは口を開いた。

 

「…………知りたい?」

 

 俯いていた私は弾かれたように彼女を見る。鮎川さんも私を見ていた。真っ直ぐに、射抜かんばかりにこちらを見つめている。

 どう返すべきか判断できず答えるのを躊躇っていたが、鮎川さんは私の返事を待たずに言った。

 

「私は知りたいわ」

 

 その一言は私に対してすさまじい威力を持っていた。話の流れから考えて、鮎川さんの言うところの「知りたい」というのは、私のことを知りたいという意味で間違いないだろう。

 つまり私は今、鮎川さんに告白されていると見て良いのか。「貴方のことを知りたいです」とはなんて大胆な告白だろう。照れ臭さと困惑がいっぺんに押し寄せて、私は唸ったり仰け反ったりしたい衝動に駆られた。

 そんな私の胸中を知ってか知らずか、鮎川さんは話を続ける。

 

「何でもそう。環境のこととか、人の暮らしのこととか、気持ちとか。知りたかったから大学の講義に出たし、サークルにも参加していた。だから今日、夏祭りにも来たわ」

 

 鮎川さんの話を聞き、私は早とちりをしていたことに気付いた。別に愛の告白ではなかった。恐るべきは拗らせた童貞の妄想力である。穴があったら入りたいし無ければ掘ってしまいたい。

 しかしそうした一喜一憂は隅に置いておくとして、鮎川さんの発言は意味深だった。普通に聞けば好奇心旺盛で勤勉なのだろうと思わなくもないが、私は彼女が普通の人間ではないことを知っている。何処の誰かは知らないけれど、普通でないということだけは知っている。

 そして話の流れからして、私が知っていることを鮎川さんも承知しているはずだ。その上でこうして話をするというのは、どういう意図があってのことなのだろうか。授業やサークルに参加していたなどと。人の暮らしに興味があるなどと。

 おそらく重要なことを、臆面もなくさらりと口にした鮎川さんの澄まし顔を見る。蒸し暑い微風に彼女の前髪がそよぐ。人としてどこもおかしな所がないのが、逆に私にはおかしなことのように感じられた。

 

「鮎川さん、君は…………」

 

 言いかけて、私は思わず悲鳴を上げそうになった。後ろから肩を叩かれたのだ。誰かと思って振り向こうにも、縛られているので背後を見れない。

 困惑し「誰だあ!」と叫ぼうとしたところで口に手を当てられる。忍び足で私の前に姿を現したのは速水であった。

 彼は中腰のまま私の背後から目の前に回り込み、自分の口に人差し指を立てて見せた。静かにしろということか。

 すぐ側の鮎川さんはというと、すでに縄を解かれている。私が俯き、思考に没頭している内に解放されていたのだ。私とは正反対に、落ち着き払い、くつろいでいるようにすら見える彼女の態度はこの事が予定調和だと言わんばかりであった。鮎川さんは速水が来るのを知っていたのだろうか。

 

「これはどういうことだ」

 

 拘束を解いてもらった私は掠れ声でそう聞いた。彼に助けられる理由が思い付かない。裏にどんな目論見があるのか想像がつかず、私は緊張に身を固める。

 

「別に。うちの連れが助けてやれってうるさいから」

「連れって、飯島さんのことか」

「前にゲーセンで助けてもらったからそのお礼だって、あいつが。あと今日は良い勝負ができたからってよ」

「その彼女は何処に?」

「食べ過ぎで寝込んでるよ」

 

 言いながら、速水は鮎川さんをちらりと見た。

 

「サークルの奴らはほとんど野田さんを追いかけていったみたいで、こっちは手薄だ。走れば逃げられる」

「速水、お前がここまでしてくれるなんて」

「いやまあ、俺も思うところがあるっつうか」

 

 会話をしつつも見張りに注意する。私たちを監視する責務があるはずの男はいまだにそっぽを向いて暇を潰しており、私は大いに緊張感を削がれた。速水の言う通り、ここから逃げ出すのはそう難しくないかもしれない。

 速水を殿にして私たちは歩き出した。なに食わぬ顔で監視の背後を通り過ぎる。振り向かれたので「やあ」と挨拶すると、覇気の欠片もない顔で「おう」と彼も片手を上げる。そして何事もなかったかのように携帯電話を弄るのに戻ってしまった。私はこんな連中に捕まって絶望していたのかと恥ずかしくなった。

 少し歩いたところで、後ろでガタガタと慌てた音がした。ようやく気付いたらしい。見張り役失格の男が何やら騒ぎ立てようとしたが、そこに速水が立ち塞がった。

 

「であえー!であえー!」

 

 速水に押さえられて前に出られない男は、何故か古風な言い回しで応援を呼んだ。私は思わず笑いそうになったが、事態は意外に切迫している。運営テントに残っていた将棋サークルの面々が飛び出してきたのだ。鬼気迫る形相で「ひっとらえろ」「手打ちにしてくれる」「ポンカンチー」などと穏やかでない。最後のは意味がわからない。

 

「逃げよう、鮎川さん!」

 

 私はとっさに鮎川さんの手をとって走り出した。「あっ」と彼女の声。柔らかな女性の手のひらの感触がしたが、そんなことを気にしている場合ではない。速水が必死の抵抗をしてくれている。

 人も疎らになっている大会の会場を抜け、川沿いの通りに出る。なんだか現世に戻ったような心地がした。しかしすぐ後ろからは悪鬼たちが私たちを捕まえに来ている。

 人を隠すなら人の中。花火はまだ始まる前で、大橋を中心にして集う観客の数は最高潮に達していると見える。屋台がほとんどないこちらの方にも、かなりの数がいる。常道としては間違っていない選択肢だろう。

 しかし考えてみれば、追われている野田先輩も同じように人混みに紛れようとするのではないか。そして将棋サークル『ぬらりひょん』のメンバーはその大半が野田先輩の追跡に駆り出されている。その中を突っ切るというのはむしろ危険ではないか、と私は思った。

 

「鮎川さん、こっちだ」

 

 彼女の手を引き、人混みとは反対の方向へ走る。振り向くと追っ手が何人か迫っているが、運動能力は私とどっこいどっこいらしい。いや、日がなタバコをふかし麻雀卓を囲んでいるせいか体力は私よりも劣る。一人はもう息が上がって見るも無惨であった。

 建物の影に駆け込み、角をじぐざぐに曲がる。出鱈目なようでいて自分が今いる位置を正確に思い描き、追手と鉢合わせることがないように動ける。この辺りの土地勘では負ける気がしない。小学生のころに探検と称して無闇にほっつき歩いた成果が今になって発揮されている。

 そうして追ってきている連中を撒いた頃には、私は息も絶え絶えだった。胃がひっくり返りそうな気分である。将棋サークルの連中がこぞって虚弱だったことは、不幸中の幸いとしか言いようがない。

 私のあとに付いてきていた鮎川さんはというと、肩で息をしているもののさして疲れた様子はなく軽い運動をしたかのようだった。夏が終わってもトレーニングはしよう、と私は心に固く誓った。

 用心深く橋を渡って向こう岸に移り、また身を隠す。周囲を見たところ将棋サークルの部員らしき者はいなかったが油断はできない。すぐにこの場を離れるべきだろう。屋台のある川沿いを避けて裏道を使えば駅まで安全に行ける。そうして鮎川さんを電車に乗せて見送れば、とりあえず今日は事なきを得る。これは敗走ではない。不幸な目に遭い、やむを得ず戦略的撤退をするのである。今回はここまで私にしてはよくやった。

 目標が決まり、いざ行かんと奮起し振り返ったところで、後ろにいた鮎川さんと目があった。

 

「どこに行くの?」

「駅だよ。屋台の前を歩くと『ぬらりひょん』の奴らに見つかるかもしれないから人気のない路地から行こう。鮎川さんは電車で来たんだろう」

 

 私が「行こうか」と言って促しても、鮎川さんは何やらまごまごとして動く様子がない。

 

「野田さんはどうするの?あの人もまだ追われているみたいだけど」

「あの人は自分でどうにかするさ。そもそもこの事態だって、あの人が蒔いた種じゃないか。俺たちが気にすることはないよ」

「あとお金を返してもらってないでしょ。私に賭けていた分、損しちゃうわ」

「それはまあ、後でどうにかするから。今日はこれ以上ゴタゴタに巻き込まれるのも勘弁だしね」

「でも…………」

 

 鮎川さんはどういうわけか渋る。一体どうしたのだろうと混乱しかける私を、彼女は上目遣いに見てきた。鮎川さんらしからぬ、不安気な顔だった。

 

「でも、まだ、花火を見ていないわ」

 

 それで私の心は決まった。さっき逃げている時、息が荒く頬も上気していた彼女の顔はどこか楽しげだったことを思い出す。鮎川さんはこの状況も楽しんでいるに違いなかった。

 普段は無口な彼女にここまで言われて、その願いを無下にすることは私にはできない。それに私だって、まだ今日成すべきことをしていない。話は途中のままだ。鮎川さんのことは、まだ何も分かっていないのだ。

 

「……こそこそ隠れながらになるけど。見つかったらまた追い回されてしまう」

「それでいいわ」

 

 今度は鮎川さんが私の手を取った。提灯の光で照らされた彼女の顔が、僅かに微笑んだように私は錯覚した。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

 鮎川さんが言った。

 

 

 

 

 間もなく花火が打ち上がる時間とあって、人の多さはピークに達していた。歩くにも一苦労するほどである。はぐれないように鮎川さんは私の肩を掴んでいる。

 私たちはまたしても屋台のある通りに戻り、人混みのなかを移動していた。目指すのは花火見物の特等席である大橋の上だ。どこか高いところに登って遠くから眺めるという案も出したが、鮎川さんたっての希望でこうなった。今はもう大変混んでいるだろうが、我々二人が入るくらいはなんとかなるはずだ。

 

「鮎川さん、団子とかはいいのか!?」

 

 周囲の喧騒に負けじと声を張る。しばらくして「大丈夫」と鮎川さんもやや大きめの声で返事をする。しばらく間があったことに、私はあえて言及しない。あれほど大量のたこ焼きを食ったあとで団子を食うかどうか悩む腹の空きがあるというのは未だに信じられない。いかに鮎川さん肯定派の代表である私といえども呆れる所が無いと言えば嘘になる。

 人の濁流に揉まれながら進んでいくと、橋の手前まで辿り着いた。将棋サークルの妨害に遭うことも覚悟していたが、流石に人がこう多くてはそれもなかった。此方からも、それらしい人影は見つけられていない。何にせよ邪魔される心配がないのは有難い。

 

「鮎川さん、これは少し厳しいかもしれないぞ」

「そう、ね」

 

 橋の手前まで来ると、我々はあまりの人の多さに圧倒された。寿司詰めとはまさにこのことといった光景で、老若男女が押し合い圧し合い、動くというか蠢くくらいしか出来ない有り様となっている。私や鮎川さんはおろか、子供ですら割り込むのは至難に思われた。

 

「あっちにしよう。少し空いてる」

 

 私は川下の河川敷を指さした。花火が打ち上がる所から橋を挟んで反対にあるため、他の場所より人が少ない。鮎川さんも異論はないようで、黙って私のあとを付いてきた。

 堤防の側面にある坂を下りて河川敷に立つ。橋が多少邪魔なように思われるが、花火の高さから考えれば問題はないだろう。

 そんなことを考えて上を見ていると、鮎川さんに裾を引かれた。「あそこが良いわ」と今度は彼女が指をさす。そこは橋のちょうど真下で、薄暗く人もほとんどいない。試しに行ってみると案外悪くなかった。空は見渡せるし、何より人がいないというのが大変良い。橋の上の喧騒も少し離れて聞けば風情があるように感じる。そんな場所に鮎川さんと二人きりでいるというのは、どうも面映ゆい気分だった。

 暗がりではあるが川の様子も分かる。水嵩が増してはいるが、流れはそれほど速くないように見えた。花火を打ち上げるのに支障はないようで、遠くの川面には船が何艘も出ている。本番までの予定時刻はあと十分ほど。私と鮎川さんは隣り合い、黙ったまま花火を待った。なかなか良い雰囲気である。将棋サークルから逃げ出す前にしていた会話の続きも気になる。私はあまりチラチラと鮎川さんを見ないよう気を付けつつ、どうにかして話を切り出すきっかけを作れないものかと思案した。

 

「ついに追い詰めたぞ!」

 

 唐突にそんな声が降ってきて、私は肩をびくりとさせた。隣を見ると鮎川さんも驚いた表情で上を見つめている。どうも橋から聞こえてくる騒ぎの感じが祭りのものとは違っている。私たちは顔を見合わせたあと、恐る恐る橋の下から出て様子を伺った。

 人がひしめく橋の上。その欄干に、一人の男が立っているのを我々は見た。『なんと』と言うべきか、それとも大方の予想通りというべきか、欄干に立つ男は野田先輩であった。

 もう少し移動して見えやすい所まで行くと、将棋サークル『ぬらりひょん』の連中が野田先輩を囲もうとしているのが見えた。その中にはサークルの部長もいて、部員や一般の方々に揉みくちゃにされながら「降りてこい」と叫んでいる。野田先輩は追い詰められながらも何故か悠々と腕を組んで仁王立ちしている。

 

「降りたら安全を保証してくれるのか。雀荘へ自由に出入りしても構わんのかね」

「身の程をわきまえろよ。要求できる立場か」

「なら嫌だね。私はここから花火を見物する」

「いいからさっさと降りてこい。川が増水しているから危険だぞ!」

「やだ」

 

 穏やかでない雰囲気だ。頑固な野田先輩は不安定な欄干から一向に降りようとしない。万一にも人を突き落としては事なので、将棋サークルの連中も手を出しあぐねている様子である。根気強く説得を続けていたらしい部長だったが、ついに堪忍袋の緒が切れかけてか、殊更声を大にして言った。

 

「こっちは人質を取っているんだ」

「なんだって?」

 

 野田先輩が話に耳を傾ける。当の人質である私はギクリとしたが、逃げ出したことはまだバレていなかったらしい。どうりで追手を撒いて以降、私たちを探し回る奴等がいなかったわけだ。

 

「君の一番弟子とかいう男だ。彼は今、運営本部のテントに監禁されている。まだ紳士的に対応しているが、君が素直に従わないなら彼には然るべき措置をとらざるを得ない。分かったらさっさとこっちへ来るんだ」

「ちなみに、その行為とは」

「地獄のエンドレスナイト将棋デスマッチだ」

「それはなんと恐ろしい」

「我々だって恐ろしい。将棋のルールなんてろくすっぽ知らないんだから。でも伝統的な刑罰だから仕方がない」

 

 ところどころ聞き取りづらいが、何だか私を酷い目に会わせようとしているということは分かった。野田先輩は先ほどまでの頑然な態度を変えて何やら迷っている。もしかして私の安否を心配してくれているのか。単純な私はちょっぴり感動した。

 よく目を凝らすと、一人の男が部長に近付き、何か耳打ちをしている。男は捕らえられた私たちを見張っていた部員だった。部長から「何ィ!?」と悲鳴に似た声が響いた。

 

「どうして逃がした」

「スマホをやっていまして」

「バカ野郎、お前は減俸だ!」

「そんなあ」

 

 どうやら私たちが脱走したことが今になって伝達されたらしい。裏家業っぽいことをしている『ぬらりひょん』だが、何処か間抜けたところのある奴らだ。

 などと思っていると、橋から身を乗り出して「あーっ」と部員に指をさされる。野田先輩も部長もこちらを向き、河川敷にいる私たちの存在に気付いた。

 

「あいつらだ。人質がいるぞ捕まえろ!」

「通してください、通してください」

「痛い!踏まないで!」

 

 見つかった私は急いで逃げようとしたが、将棋サークルは動こうにも人混みのせいで中々思うように進めなさそうだった。それと鮎川さんが密かに私の袖を掴み引き留めていたこともあって、私はもう少しここで騒ぎを見物しようかと考えた。

 野田先輩は首だけこちらに向けながら「やあ」と暢気そうに挨拶をしてきた。距離がやや遠いので、先輩も私も声を張る。

 

「花火を見に来たのかい」

「そうです。そこの人たちに捕まりましたが、何とか逃げ出して来ました」

「ははは。それなのにここに居るとは肝が座っているじゃないか。しかし見つかってしまったよ。逃げなくていいのか」

 

 私は鮎川さんの方を横目で見た。彼女は相も変わらぬ無表情だが、ここは退かないという意志が明確に見てとれた。

 

「大丈夫です。後のことは花火を見てからにします」

「そうかそうか。まあ、安心したよ。君達が人質にとられたと聞いてね。依頼が果たせなくなるのかと不安だったのだ」

「依頼?なんのことです」

 

 野田先輩の言葉に、何故か隣の鮎川さんが過敏に反応した。掴んでいた私の袖をぐいと引き、切羽詰まったような真剣な顔で何かを言いたげに「あの、私」と口をぱくぱくと動かした。

 

「鮎川さん?」

 

 私が言った瞬間だった。耳をつんざく轟音が響き渡った。

 花火の初弾が上がったのだ。目の端で捉えていた光に振り向けば、そこには儚く消えていく大輪の花があった。何かを言いかけていた鮎川さんも大きな花火の余韻に目を奪われている。もちろん一発だけではない。続々と次が打ち上がる。夏の夜空は一気に彩られ、人の声を掻き消すほどの音が止むことなく空気を震わせる。

 しかし我々は、その光景から目を離していた。なんと野田先輩が川に落ちかけているのだ。最初の花火の音で驚き、バランスを崩してしまったらしい。

 

「野田先輩!」

 

 私は叫んだ。野田先輩は「うわっとっと」と腕を振って体勢を戻そうとしているが、ついに足を欄干から踏み外してしまった。将棋サークルの部長が強引に人混みをかき分けて「野田っ」と手を伸ばしたが、寸でのところで間に合わなかった。野田先輩は背中から川に落ちていった。私たちの目の前で、暗い川に大きな水飛沫が上がった。

 橋の上が騒然となる。将棋サークルの連中が慌てて動いている。

 私は唖然としながらも、頭の片隅で思い出したことがあった。この川は一見穏やかなように見えても流れが速いのだ。それも雨で増水しているときなんかは特に危険である。今までに何回か、遊泳禁止の立て札を無視して遊んでいた人が溺死したというニュースを聞いたことがあった。

 その記憶が脳裏に過ったと同時、私は駆け出していた。走りながら上着や靴を脱ぎ捨てて半裸となる。

 

「鮎川さん、警察と救急車に連絡を!」

 

 そう言って、私は夜の川へと飛び込んだ。飛び込む瞬間に聞こえたのが花火の音だったか鮎川さんの声だったか、判別はつかなかった。

 

 

 

 

 夏といえど、川の水はかなり冷たい。だが思っていたほど川の流れは速くなかった。少なくとも、流れに真っ向から逆らおうとしなければなんとか泳げる。

 しかし全く気は休まらない。いつ聞いたのだったか、野田先輩はカナヅチらしいのだ。なんとしても助けなくてはいけない。

 出来るだけ自分が流されていかないよう気張りつつ、野田先輩が落ちたと思われる所から下って必死に探していると、手に布のようなものに当たった感触があった。それを思い切り掴んで身を寄せると大当たり、野田先輩だった。水中は暗くて目が効かないが触った感じで分かる。落ちたときに水を大量に飲んでしまったのか、引っ張ってもぐったりとして力がない。

 私は肩に彼の腕を回し、どうにか水面へ顔を出した。見ると思ったより随分流されてしまったようで、橋がだいぶ遠くに見える。焦燥感に駆られ、私はがむしゃらになって河川敷の方へ泳いだ。人を一人担いで泳ぐというのは、私が想像していたより遥かに尋常ではない行為だった。体力の消耗が著しい。流れを横にぶった切って行こうとしているので遅々として進まず、まともに息継ぎもできない。視界が狭くなり、肩にかかる野田先輩の重量をより一層重く感じる。

 しかし私は泳げていた。自分でも信じられないことだが、火事場の馬鹿力とでも言うべきか、とにかく私は少しずつ陸の方へと近付いていた。片手のひと掻きが、ばた足のひと押しが、下流に流されながらも私たちの体を浮かせて岸へと向かわせる。ここまで必死になったのはいつぶりだろう。それも誰かのために。切迫した状況にそぐわない考えが頭の片隅に浮かぶ。

 ある地点から川の流れが変わった。私は対応しきれず川岸から離される。

 焦った。非常に焦った。息継ぎのタイミングが乱れて水を飲んでしまった。やけくそになって必死にもがく。

 それが失敗だった。左足に激痛が走り、泳ぐに泳げなくなる。足が吊ったのだと理解するのにしばらくかかった。急に無理やり動かしすぎたのだ。準備運動なんてしている暇がなかったから。

 右足で水を蹴ってもまるで浮き上がれない。手も片方は先輩を担ぐために塞がっているので全くの無力だった。

 抵抗虚しく、私は沈んだ。野田先輩だけでも岸へ揚げたかったがそれも叶わなかった。疲労からか、体温が下がったからか、意識が遠退いていく。夜の川の中は闇に溶け込んだのかと思うほど真っ暗だ。暗く冷たい、底のない恐怖。子供の頃に感じたそれには覚えがあった。死の感覚だった。

 全くもって私は阿呆だ。考えが足りていない。運動不足の素人が、川で溺れた人間を助けようなどと。

 

『君はやるべき時にはやる男だから』

 

 野田先輩に言われたことがふと浮かんだ。いつのことだったか。あれは買い被られたなあと思う。私は単に向こう見ずなだけなのだ。だから肝心なことは何一つ成し得ない。結局、鮎川さんに対しても踏み込めないままだった。

 私はすっかり諦めた。足がまだ痛いことと、川に流されていくことだけが分かる。

 

 その感覚に、割り込むものがあった。私の体に触れたと思うやいなや、ぐいっと強い力で引っ張るのだ。流れに逆らっている。何者かが私と野田先輩を掴まえて、なんと川の急流に逆らって泳いでいるのだ。そうでなくては説明がつかない。

 混乱している内に私は放り投げられた。男一人の体重が川から飛び出して岸にうち上がる。「げほっげほっ、げえええっ」と自分では信じられない声が出た。肺が酸素を欲して過剰に働いている感じだ。間も無く、私のとなりに野田先輩も揚がってきた。彼は意識を失っているが、誰に胸を押されるでもなく肺の水を吐き出した。ひとまずは助かったと見ていいのだろう。

 それと、もう一人。野田先輩を引き揚げながら現れたその人を見て、私は驚愕するよりも安堵した。ああやっぱり、と思った。

 川を遡った向こうの空に花火が上がっている。彼女の顔がその光に照らされ、暗がりながら克明に私の目に映った。

 

「げほっ。あ、鮎川さん。やっぱり君は…………」

 

 私と野田先輩を助けてくれた人───鮎川さんは少し照れたように顔を背けた。白いワンピースはぐっしょりと濡れている。そして彼女の下半身から先、つまり腰から足にかけての部分がまるで魚の尾ひれのようだった。

 いや、『ようだった』と言うのは適切ではない。まさにそのものであった。

 滑らかな鱗が、街灯から投げられる光に薄くきらめく。その輪郭はきれいな流線形を描き、先端にある大きな二股のヒレが川に浸っている。

 蒸し暑い空気をさらうように、強い風が吹いた。首筋に張り付いていた鮎川さんの髪を吹きあげて、その下にある人には決してない呼吸器官を露にする。

 

「そんなに驚かないのね」

 

 鮎川さんが言った。声色は何一つ、先ほどまで私と祭りを巡っていた時と変わらない。しかしどこか雰囲気が違っているように思えた。

 私は努めて冷静であるよう心がけて答えた。

 

「色々、考えてはいたからね。特に今日は何度も変なことを聞いただろ」

「そうだったわね」

 

 何を思い出したのか、鮎川さんは柔らかな表情を浮かべて私を見た。無表情だが剣呑な感じが些かもないように見えたのは、私の勘違いだろうか。

 

「さっき私が言ったことは本当だから」

 

 唐突に鮎川さんはそう言った。

 

「え、何のこと?」

「知りたいって言ったでしょう。この二年間、とても面白かった」

 

 今度こそ私は驚愕した。鮎川さんの正体よりも、彼女がその口から素直な気持ちを言ったことの方がよほど衝撃的だったことには我ながら驚いた。一度も笑ったところなど見たことがないが、彼女は面白かったと言う。大学の講義に出ることも、サークル活動に勤しむことも、ふらりと町に出掛けて様々な物に見て触れるこおとも。

 しかしにわかには信じがたい。たったそれだけの理由で彼女が二年もの間、人間社会に紛れていたのだろうかと思わずにはいられなかった。

 

「納得いかない?」

 

 私がなにか言う前に鮎川さんに当てられてしまった。そんなに顔に出ていただろうか。或いは妖術の類いで心を読めていたりするのか。

 頷くと、鮎川さんは私の頭から爪先までをじっくり見て言った。

 

「人ってたった数年で変わるものね。ずっと気になってはいたけど、あの時の子があなただっていう確信が持てなかったから困っていたわ」

 

 そう言われて私の中にもようやく確信が生まれた。記述問題に正解の丸をつけられたような

気分だった。

 よく見る、幼い日のトラウマが映される夢。そこで溺れた私を助けてくれる人物が鮎川さんであったことは、最早疑いようのない事実だった。そして奇しくも十年近く経った今、私は再び同じように救われたのだ。

 

 

「あの日、あなたは山奥のキャンプの側にある川で遊んでいた。たぶん家族と来ていたのね。人間のことを学んだ今なら分かるわ。でも一人で川上の方まで行って、岩の上から足を滑らせて川に落ちてしまった。そうよね」

「…………まさか、二回も溺れているところを助けられるなんてな」

 

 頭が上がらないとはこのことだ。むず痒いのは、恥ずかしさと感謝が混ぜこぜになっているからだろう。

 

「違うわ」

 

 しかしどういうわけか、鮎川さんは私の言葉をきっぱりと否定した。

 

「助けられたのは私よ」

「え?」

「覚えていないのね、そこは。あなた、あの川で魚を探していたでしょう」

 

 そう言われても、幼い頃のことなのでピンと来ない。なんとなく『言われてみればそうだったかな』と思うくらいだ。

 助けたとはどういうことだろう。少なくとも私には人魚に助けられた記憶はあっても助けた覚えなどない。

 川魚を探していたらしいが、私はその時捕まえようとしていたのか。いや、そうだったら二度にわたって鮎川さんが私を助けてくれた辻褄が合わなくなる。

 

「分からないわよね。私はあの時、ただの魚の姿をしていたから。背中に深く刺さっていた釣り針を抜いてくれたのは、あなたなのよ」

「そう、だったか。ごめん。やっぱり覚えてないけど」

「いいの。その方がなんだか素敵だわ」

 

 鮎川さんはそう言って微笑んだ。出会ってから二年と数ヶ月。初めて見る彼女の笑顔は私が想像していたよりもずっと無邪気であり、穏やかなものだった。

 「あの時の子があなただって証拠は揃っていたけど、もし違ったらって不安だった」

 

 その確認のためにも今日の夏祭りに私と来たのだと鮎川さんは言う。恐るべき慎重さだ。

 しかしそんな彼女がこうして私の前に本当の姿を現したということは、何か確証を得たということに他ならない。そんな場面や会話があったのか、私にはとんと思い当たらなかった。 

 いつ確信したのかと聞くと、鮎川さんは「ついさっき」と答える。

 

「さっき?」

「川に飛び込んだ時よ。その人を助けるために躊躇いなく走ったところ見て確信したわ。ああ、この人なんだ、って」 

 

 そう言われて、私は頬に熱が上ってくるのを感じた。嬉しいやら恥ずかしいやらで謙遜の言葉も出てこない。私は赤くなっているであろう顔を背けて別の話題に逃げた。

 

「じゃあ、俺と同じ大学やサークルにいたのは偶然じゃない、と思ってもいいのだな」

「言わずもがなね」

 

 もしも二年前の新入生の時分に彼女の正体を知っていれば、私のキャンパスライフは花畑のように色合い豊かなものとなっていただろう。鮎川さんと何故か視線が合うことに憂うこともなく、むしろ彼女と仲睦まじくボランティア活動に精を出していたはずである。当然サークルも辞めずいつも皆の輪の中心におり、学内では謎の多いカップルとして話題を呼んだかもしれぬ。

 などと妄想を膨らませ、私はそこまでその有り得たかもしれない人生を欲していない自分に気付いた。いま目の前には鮎川さんがいて、二年越し、いや十年以上経ってようやく私にその隠すべき素顔を見せてくれている。自分でも説明のしようがないが、私はたったそれだけの事実に胸を満たされていたのだ。

 

「これからどうするんだい。まだ人間社会のことを学ぶのか」

 

 私が言外になんでも協力するという意思を込めて聞くと、鮎川さんは静かに首を振った。顔は微笑を浮かべたままだが、その端正な眉を曲げて寂しそうな表情になっていた。

 

「ここでお別れよ。あなたとも、この町とも」

「何故だ。今まで通りにすればいいじゃないか。俺は誰かに鮎川さんのことを喋ったりしないし、それに妖術かなにか分からないけど、鮎川さんは人から認識されづらくなることが出来るんだろう」

「何にでも制限はあるものよ。特にこういうのはね。鶴の恩返しっていうお話があるでしょ。一年くらい前に町の図書館で読んだの」

 

 鶴の恩返しというのは言い得て妙である。まだ食っちゃ寝をするだけで親に可愛がられていた幼い頃は数々の昔話を読み聞かせてもらっていた。鶴のみならず動物やお地蔵さんなどが人間に恩返しをする話は私にも馴染み深いものだ。あの手の物語は枚挙に暇がない。自分が知らないうちにその登場人物たちと同じ境遇にいたとは、奇妙な気持ちになる。

 こうして分かりやすい例を出されれば追及のしようも無い。正体がばれてしまったからには去らねばならない。そういうものなのだろう。

 私と鮎川さんは見つめ合った。名残惜しい気持ちを共有していると思ったのは気のせいではないはずだ。今までなら望むべくもないシチュエーションだが、何故か甘酸っぱい空気は些かもない。しかしそれで良かった。鮎川さんへの思いを恋の一文字で括るのは無粋であるように思われた。

 あと何を言おうか。私たちが迷っていると、気絶したままの野田先輩が「げほげほ」と盛大に咳をした。そろそろ起きてしまいそうだ。しかも川上の方の堤防からはたくさんの人が近付いてくる音がする。川に落ちた我々を探してのことだろう。

 もう私と鮎川さんに残された時間は幾ばくも無いようだった。

 

「花火きれいだったわね。最後に見れて良かった」

「うん、月も良かった。ボランティアサークルの打ち上げで、川原で見たやつ。あまりビールは得意じゃないけどあの時のは美味かった」

「商店街にはあれから何度か足を運んだのよ。喫茶店にも」

「俺もそうだ。だいぶんすれ違っていたわけだね、俺たちは」

「ええ。そうみたい」

 

 私と野田先輩を探して人々が近くまで来ている。鮎川さんは短いため息をついて言った。

 

「それじゃあ、さようなら。もう川で溺れないように」

「ああ。鮎川さんも達者でな」

 

 私がそう言うと同時、鮎川さんは身を翻して川に飛び込んだ。競泳の選手のように洗練された動作であった。彼女はその見事な尾ひれを使って急流をものともせず泳ぎだし、川を上りながら暗い水中にとっぷりと消えた。

 

 

 

 

 私が彼女の行ってしまった方を見つめ呆けていると、野田先輩が「ううむ」と呻いた。何度か咳き込みつつ、よろよろと上体を起こす。

 

「ここは…………」

「先輩、無事ですか」

「うーん。どうやら君に助けられたらしいな」

 

 礼を言おうとする野田先輩を遮り、私は言った。

 

「助けてくれたのは、鮎川さんです。俺たち二人とも彼女に助けられました」

 

 野田先輩は「そうか」とあまり驚かなかった。むしろ納得しているような風だった。

 

「して彼女はどこに」

「もう行っちゃいましたよ。たぶん、ずっと遠くに」

「なるほどなあ」

 

 私が川上を眺めながら言うと、野田先輩もつられるようにしてそちらを見た。

 ごうごうと川の流れる音がする。空に花火が打ち上がるたびに大気の震えが体に伝わる。土手の上に人が来たようで手分けしようという声がする。遠くの方からはサイレンも聞こえてきた。

 

「今だからこそ言うがら、実は君を騙していたんだ」

 

 突拍子もない野田先輩の言葉に私は振り向いた。

 

「何のことです?」

「ここ最近、君は鮎川嬢と頻繁に出会っただろう。君は偶然と思ったかもしれないが、あれは私が一枚噛んでいたんだ。鮎川嬢に君の行動を逐一報告していた。今回祭りに誘ったときに彼女が二つ返事で了承したのも、君の方から誘うことを我々二人で示し合わせていたからだ」

 

 私は愕然とした。野田先輩を通じて行動が筒抜けだった?

 それは一体いつ頃からなのか。何故そんなことをしていたのか。私と鮎川さんの関係に野田先輩はどの程度まで関与していたのか。

 疑問は次々に浮かんだが、思考がまとまらず言葉にはならなかった。先輩は私の意図を察してか話を続けた。

 

「まあ色々聞きたいことはあるだろう。断っておくが、私が好奇心でやったことではないよ。依頼があったんだ。鮎川嬢からね」

「依頼って……」

「なぜ正体不明の彼女から携帯電話の番号だけ知り得たと思う。本人から君にさりげなく伝えてほしいと言ってきたんだよ。連絡を取り合うのに必要だからとね。肝試しのときに君らを二人きりになるよう仕向けたのもそういうわけさ。喫茶マーメイドに君がいると伝えたのも私だ。全ては彼女が欲したことだ」

「じゃ、じゃあ知っていたのですか。鮎川さんの正体も」

 

 私が言うと、野田先輩は「いいや」と首を振る。

 

「安心しなさい。なぜ鮎川嬢が君に固執していたのかも私は知らない。なんとなく予想はつくがね。私は単に、君との仲を取り持つ依頼を受けたに過ぎないよ。彼女は焦っていたようだった。きっと君がサークルを辞めたからだな。繋がりが切れることを恐れて、行動に移したのだろう」

 

 逆に捉えると鮎川さんは二年もの間、私に何も言い出せなかったということか。正体がばれる危険性を考えてのことだろうけど、いくらなんでも慎重すぎる。私は自らを受け身の権化として類い稀な奥手ぶりを発揮してきたが、彼女も大概だったらしい。

 思わず笑みがこぼれた。何故だかすっきりとした気分だった。きっと鮎川さんも今、こんな憑き物の落ちたような心持ちで、生まれ故郷の上流を目指しているに違いない。

 ヒュルルと間延びした音が聞こえる。豪快な爆音と共に特大の花火が夜空に咲き誇り、夏祭りの最後を華々しく飾った。

 

 

 

 

夏のおしまい


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