人魚の夏   作:ふーてんもどき

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エピローグ

 あれから何度目の夏が巡ったことだろう。

 修士課程にまで張り付き保っていた私のモラトリアムもとっくに終わりを迎えてしまった。社会の荒波になど揉まれたくない。人間なので陸で生きるべきだ、と主張してみたが周囲から猛烈な非難を浴びたために渋々就職をせざるを得なかった。何故一日の大半を労働に費やさねばならぬのか常日頃から疑問である。疑問に思いながらもつつがない日々をおくっているので、私は致し方なく働く。不貞腐れてもどうにもならないのは大学を卒業してから一ヶ月と経たずに思い知った。日がなクーラーの効いた部屋で寝そべるだけだった頃が懐かしく愛おしい。カムバック、怠惰で素敵な若い日々よ。

 そう思いながらも三食きちんと食べてたまに遊びに出向き麻雀などに興じる毎日に、私はそこそこ満足している。社会に真っ向から唾を吐くことは、もうなくなった。

 

 

 

 

 野田先輩は今どこで何をしているのか、詳しいことは知らない。

 あの花火大会の夜のあとに将棋サークル『ぬらりひょん』と一悶着あったが、彼はそれを乗り切り颯爽と旅に出てしまった。「世界は広い」などと言って一足飛びに国外へ行ってしまったその身軽さには改めて舌を巻いたものだ。大学はどうするのだ。

 将棋サークル『ぬらりひょん』と決着をつける際には当然のことながら私も巻き込まれた。野田先輩が向こうに間者を潜り込ませたり、あちらの過激派と呼ばれるグループが強行手段に打って出たりしてなかなかに大変な騒ぎであった。おかげで拉致されることにもすっかり慣れてしまった。下宿に謎のダッチワイフが贈られたり、サークルの部室に仕掛けを施してポルターガイスト現象を起こすなど壮絶な争いを繰り広げた末に、最後は野田先輩と部長との将棋によるデスマッチが行われた。決着はつかなかった。どちらも将棋のルールなど知らなかったのだ。

 そうした何やかんやで自由の身になった──もともと自由すぎたが──野田先輩は海の外へと見聞を広めに出かけた。たまに帰国してきたときに喫茶マーメイドで落ち合うこともあるが、ここ暫くは南米あたりで熱中していることがあるらしい。

 ついこの間送られてきた写真には、広大なコーヒー畑を背景に相も変わらぬ朗らかな笑みを浮かべた野田先輩が映っていた。彼は真っ黒に日焼けしていた。

 

 

 

 

 速水と飯島さんの二人とは、あまり関係が深くないので特別語るべきことはない。彼らも私と同様に将棋サークル『ぬらりひょん』との抗争に巻き込まれた経緯を持つ。そこで共同戦線を張り、飯島さんの食べっぷりが再び火を吹いたり、速水と結託して麻雀勝負でイカサマを行い返り討ちにされたりしたこともある。静謐の欠片もない、騒々しくも退屈しない思い出だ。

 しかし友人であるかと言えばそのあたりは怪しく、私が大学院に行くと共に会う機会はめっきり減った。彼らの鮎川さんについての記憶はほとんど薄れているらしく、そのため共通の話題も半減し、ますます疎遠になっていった。

 ただ最近になって、私の住まいの郵便受けに二人からの葉書が届いた。それは彼らの結婚式の招待状であった。

 あの二人が付き合いはじめた当初は長続きするものか、と思っていたのが気付いてみればゴールインしてしまっていた。人生とは分からないものである。

 以前の私であれば嫉妬に荒れ狂って即座に招待を断っていただろう。もしかすると勢い余って招待状を千切っていたかも。いや流石にそれはないと信じよう。信じたい。

 ならば今の私はどうかといえば、まあ、さっさと有給休暇の申請をしてきたと言えば分かっていただけるだろうか。

 

 

 

 

 夏の暑い日、私は当たり前のようにクーラーに頼る。未だに毛布を被るくらい部屋を冷やすのが好きだし、冷凍庫いっぱいに詰まった棒アイスを見るだけで心が踊る。

 しかしたまに窓を開け、生温い風を取り込むことがある。自然に吹く真夏の風はまるで涼しくないが、趣が違うものだ。私はそういう時、歳暮で大量にもらう蕎麦を啜りながら、風鈴の音に耳を傾けるのである。

 

 

 

 

 避暑というものを覚えた私は、時たま山奥へ出かける。小川がすぐそばに流れるキャンプ場だ。虫が多いし疲れるので泊まり込んだりはしないが、私はそこの川原に腰掛けて足を水に浸す。森に阻まれてキャンプ場の方からは人に見られない静謐な空間だ。そこにいると、私は子供の頃を思い出す。その辺を駆け回り、川魚を探した子供の頃のことを。

 釣りにきたわけでも泳ぎにきたわけでもない。クーラーボックスに入っているのは冷えた炭酸飲料だ。単に涼みにきたわけで、やることと言えば寝そべるか本を読んだりするくらいのものである。

 

 では何故、釣竿を持ってきたのか。

 無論、必要だからである。ともすれば最重要と言えるかもしれない。

 

 私は竿を伸ばし、台に立てる。風にあおられても倒れないようしっかりと石で固定する。川の方へ向かってしなる竿の先には、釣糸ではなく風鈴が吊るされている。川魚の絵が描かれた小ぶりの品だ。

 

 涼やかな風がそよいだ。風鈴の音が軽やかに鳴る。木の枝がさわさわと揺れて木漏れ日がちらつき、水面に反射して川が光った。

 すると川のなかに大きな影が見えてくる。それは人間ほどの大きさで、私の方へ近付き、ちゃぷりと水音を立てて岸辺へ上がってきた。

 

「やあ、久しぶり」

 

 私が手を上げて軽く挨拶すると、彼女は同じように「久しぶり」と言ってきた。まだ川のなかにある下半身は、気持ち良さそうに尾ひれを揺らしている。

 風鈴の音色が『私が来たよ』という合図だ。彼女からの贈り物が、このひっそりとした山奥で私たちを毎年のように引き合わせる。

 

「どうしたの、その格好」

 

 不意に彼女がそう言ってきた。私は大抵、彼女と会うときには白のワイシャツに黒いスラックスを着て行く。最初は気を引き締めるためにやっていたことだが、それが習慣になって今でもここを訪れるときはそういった少し固い格好をする。

 しかし今の私は適当なTシャツを着ていて、ズボンなど短パンである。彼女にはあまり見せたことの無いラフな格好だった。

 何度か通ったために気でも抜けていたのか。家を出てしばらくして気が付いたので今日はこのまま来てしまったのだ。

 間違えたのだと率直にそのまま伝えるのも野暮ったい気がして、私は返答に悩んだ。もう私もいい歳だ。どうせなら洒落た返事をしたい。 

 しばらく考えて、まだこちらを興味深そうに見ている鮎川さんに笑いかけ、私はこう言った。

 

「クールビズというやつだ」

 

 

 

 

おしまい




なんとか完結できました。読んでくださった方、本当にありがとうございました。
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