【月光の神】ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 作:クックダッセ
僕が魔法を授かってから、一週間が経った。
今、僕はオラリオの城壁の上で、リリさんの指導を受けていた。
高い石壁の上を、乾いた風が吹き抜けていく。
朝の光はまだやわらかいはずなのに、訓練のせいで僕の体はもう火がついたみたいに熱い。
握った剣の柄は汗でじっとりと湿っていて、腕も足も悲鳴を上げていた。
「振りが甘い。得物を振るう時は、常に必殺でありなさい」
「剣を使うなら、
「速度をもっと上げなさい。ベルの取り柄は速度です」
鋭い言葉が、容赦なく飛んでくる。
いや、村にいた頃の鍛錬だって厳しかったけど、これは別の意味でキツい。
逃げ道を全部ふさがれながら、「もっとやれるでしょう」と真顔で言われてる感じだ。
でも、リリさんの教え方がすごく上手かった。
どこが悪いのか、どう直せばいいのか、ひとつひとつが明確にしてくれた。
もちろん、レフィーヤの教え方も丁寧でわかりやすかったけど、申し訳ないけど、比べる相手が悪い。
幾つもの戦場を駆け抜けてきた人の言葉には、重みがあった。
理屈だけじゃない。生き残るために磨かれた技術が、そのまま言葉になっている。
そんなリリさんに、こうして直々に師範してもらえる。
それがどれだけ恵まれたことなのか、僕は身をもって理解した。
「私は
訓練がひと区切りつき、僕たちは一度休憩を取ることになった。
僕はその場にへたり込みそうになるのをなんとかこらえ、石壁にもたれながら水筒の水を流し込む。
ぬるくなった水なのに、喉を通るだけで生き返るようだった。
隣では、リリさんが城壁の外を見つめていた。
都市の外。遠くまで広がる大地。
その横顔は静かで、けれどただ景色を眺めているようには見えなかった。
まるで、自分の歩いてきた道を、そこに重ねて見ているみたいだった。
「フィアナ騎士団は知っていますか?」
「もちろん知っています!」
思わず、声が強くなる。
フィアナ騎士団。
古代。
今よりずっと種族差別が強かった時代。
特に
そんな時代に、
「私は、女神フィアナに憧れていたの」
リリさんはそう言って、少しだけ悲しそうに目を細めた。
その細い肩に、身の丈には不釣り合いなほど大きな白銀の槍が担がれている。陽の光を受けて、槍身が白くきらめいた。
「父と母が、フィアナ騎士団の話を何度も聞かせてくれたわ。
「……はい」
「けれどね。女神フィアナはいなかった」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
崇め、祈り、希望を託していた。
でも、神様たちが下界に降りてきた時、その中にフィアナ様という女神はいなかった。
信じていた光が、どこにもいなかった。
「だから、私が
「
思わず、その言葉を繰り返していた。
リリさんは、僕の方を見て笑った。
その笑顔は穏やかで、けど燃えてるように感じた。
でも、オラリオにはフィン・ディムナさんがいる。
あの人の名を知らない
「ベルが今思い浮かべたような、一族の再建を掲げる男性がいるわね」
「……えっ!?」
「私は彼を超えるわ」
「えっ。でも、目的は一緒なんじゃ……」
なんで僕の心を読めたのかは置いておいて……
僕は思わず聞き返した。
同じものを目指しているなら、力を合わせた方がいいんじゃないか。
そう思ったから。
けれどリリさんは、少しも迷わなかった。
「協力するのは、きっと悪いことじゃないわ。でもね、ベル。私、負けたくないの。彼に」
その言葉と一緒に、リリさんは笑った。
快晴の空から降り注ぐ陽射しが、リリさんの体をまぶしく照らす。
目元は隠れて見えない。
それでも、その笑顔がどれだけ強いものなのかは、はっきり伝わってきた。
たしかに今の名声なら、フィン・ディムナさんの方が上かもしれない。
でも、それは“今”の話だ。
いつかじゃない。
近い未来、本当に追い抜いてしまうかもしれない。
そんな予感を、僕は不思議とはっきり感じていた。
きっとこれは、ただの憧れじゃない。
リリさんの中にあるのは、同じ高みを見上げる者だけが抱ける、強烈な
「では、一週間訓練を続けてきて、死なない程度にはなりました」
「……へ?」
ぽかんとした僕の目の前で、白銀の槍の穂先がすっと持ち上がる。
嫌な予感がした。
頬を汗が伝う。
いや、さっきからずっと汗だくだけど、今流れたそれだけは明らかに種類が違った。
背筋をぞわっと這い下りていく、そんな汗。
リリさんはにこにこと笑いながら、早く構えなさい、とでも言うように僕を見る。
ぼ、僕、休憩してたよね……?
震える指で、僕は『アルテミスの剣』を構えた。
「では、逝きますよ」
「ちょっと言い方が違うような!! ……って、アアアアアアアッ!?」
───これ以上は思い出したくない。
リリさんは剣術に対する言葉責めと、物理的な責めを完璧に両立してきた。
その結果、僕の体は文字通りぼろぼろになった。
******
「ふっ───!!」
鋭く息を吐き、僕は『アルテミスの剣』を振り抜いた。
刃がモンスターの胴を深く裂き、次の瞬間、魔石ごと断ち割る。
砕けた破片が飛び散り、灰となって崩れるその姿を横目に、僕はすぐさま次へ踏み込んだ。
現在、9階層。
僕は一人でダンジョンを探索していた。
久しぶりのダンジョン。
石の匂い、湿った空気、遠くで反響する足音。
肌にまとわりつくような緊張感。
ここに戻ってくると、僕は自分が冒険者なんだってことを、嫌でも思い出す。
探索については、リリさんからきつく言われていた。
10階層以下には、絶対に
……というか、リリさん、オラリオに来たばかりなのに、いつの間にそんなにダンジョンについて調べたんだろう。
『まだすべてではありませんが、下層くらいの知識なら八割ほど把握しています』とか言っていたけど、いや、知識量でも僕負けてるの!?
しかも今回の探索は訓練ではなく、休息らしい。
『休息として、ダンジョン探索をしてみなさい』そう言われた。
いや、ダンジョンで休息というのがよくわからないけど……
そんなことを考えていた、その時だった。
四方八方の通路からモンスターが生まれ落ちた音がした。
現れたのはキラーアント。
数えるだけで八体。
前方の一体が、鋭い鉤爪を振りかざして飛びかかってきた。
僕は後方へ跳んでそれをかわす。
視界の端で、別の個体が左右から回り込もうとしているのが見えた。
「【
瞬間、僕の体を光が包み込んだ。
全身が軽くなる。
視界が澄み、反応が一段も二段も速くなる。
着地と同時に、僕は一番近いキラーアントの背後へ滑り込んだ。
無防備にさらされた背へ、ためらわず剣を突き込む。
硬い殻を砕き、魔石を貫く手応えが腕に伝わった。
そのまま剣を引き抜き、振り向きざまに横薙ぎ。
すぐ隣に迫っていた別のキラーアントの胴を一閃で断ち切る。
自分でも驚くくらい、体が動く。
今まで教わった知識。
新しい魔法。
そしてリリさんに教わった技術。
それが全てを一つにしていた。
前に見えるモンスターを、一体ずつ、確実に倒していくたびに、それがはっきりわかった。
───ああ、そういうことだったんだ。
リリさんが僕をダンジョンへ向かわせたのは、ただ感覚を鈍らせないためじゃない。
自分が積み上げたものを、自分の手で実感させるためだったんだ。
戦いが終わる。
最後の一体が灰になって崩れ、周囲に静けさが戻った。
僕は浅く息を吐き、剣先を下ろす。
けれど、そこで胸の奥に小さな違和感が引っかかった。
……静かすぎる。
そのまま先へ進むと、やがて広い
天井は高く、空気がひんやりとしていた。
モンスターの気配がない。
さっき戦った群れ以降、妙なくらい何もいない。
おかしい。
そう思った次の瞬間だった。
重い音が響いた。
足音だ。
今度は床そのものが震えた。いや、この
僕は喉を鳴らし、袖で額の汗をぬぐう。
けれど、ぬぐったはずの汗がまたにじむ。
気持ち悪いくらい、掌も首筋も濡れていた。
そして、それは姿を現した。
「ミノタウロス……」
思わず、声が漏れる。
赤かった。
あまりにも赤い。
まるで返り血を何度も浴びて、それが体に染みついたみたいな
普通のミノタウロスとは、ひと目でわかるほど違っていた。
しかもそいつは、大剣を引きずっていた。
冒険者から奪ったのか、
僕の身長よりも大きい、無骨で巨大な剣。
石床をガガガッと削りながら進むその姿は、怪物というより、災害そのものに見えた。
『ブモオオオオオオオオオッ!!』
咆哮が、
空気がびりびりと震え、鼓膜が震えた。
恐怖が、一気に頭を埋め尽くそうとした。
だけどその前に、僕の手は無意識に腰の鞘へ触れていた。
その中から───神様が、「大丈夫」と囁いた気がした。
たぶん幻聴だ。
きっと僕の妄想だ。
でも、今の僕には、それがどんな魔法よりありがたかった。
胸の奥に灯った小さな火が、折れかけた心をぎりぎりで支えてくれる。
考えろ。
逃げることはできる。
今の僕なら、魔法もある、そしてリリさんから教わった技術もある。
ここから離脱して、途中にモンスターがいても切り抜けられるはずだ。
でも───他の人は?
その瞬間、脳裏に浮かんだ。
さっき見かけた、出血した腕を押さえながら逃げていた冒険者の姿。
リリさんの修行で、何度も叩き込まれた。
視野を広げろ。自分だけを見るな。周囲を見ろ。状況を読め。
もし、今ここで僕が逃げたら。
このミノタウロスは、きっと血の跡を辿る。負傷した冒険者を見つけて、殺す。
そして、その先は?
9階層に現れたミノタウロスなんて、ほかの冒険者にとっても脅威でしかない。
誰かが止めなきゃいけない。
誰かが時間を稼がないといけない。
「あああああああああっ!!」
僕の雄叫びが、開戦の狼煙になった。
心臓が潰れそうなくらい鳴っている。足は震えている。怖い。怖くてたまらない。
それでも、僕は走った。
赤い怪物へ向かって、まっすぐに。
******
「で、結局心配なのね、アーデは!」
「心配です……ベルが可愛すぎて、他の冒険者に食べられないか」
「心配ってそこですか!?」
アリーゼ、リリ、レフィーヤが軽口を叩き合いながらも、その足取りに淀みはなかった。
9階層。
薄暗い通路を、三つの影が駆けるように進んでいく。
その中を、アリーゼ、リリルカ、レフィーヤの三人は、まるで地上の平原でも歩くかのように闊歩していた。
現れたモンスターは、軽々と屠られる。
飛びかかったモンスターはアリーゼの一閃で首を飛ばされ、死角から忍び寄ったキラーアントでさえ、リリルカの白銀の槍に魔石ごと穿たれ、断末魔すら残せず灰へと変わった。
九階層に、Lv.5、Lv.5、Lv.2。
常識で考えれば、
低層に放り込むには過剰も過剰、むしろ災害に近い。
だが、ベル・クラネルを探すという一点において、その編成は妥当だった。
そもそもベルを単独で送り出した張本人はリリルカである。
にもかかわらず、結局こうして自らダンジョンへ潜っているあたり、本人の言い分と行動が噛み合っていないのは明白だった。
ベルがいるとすれば、どうせ10階層へ足を踏み入れる直前───ぎりぎりの9階層。その読みがあったからこそ、彼女たちは迷いなく9階層にいた。
「そういえば、リリさんとアリーゼさんは【ロキ・ファミリア】に入ってないんですか?今日は【ロキ・ファミリア】の遠征があるって聞きましたけど」
レフィーヤが剣を握り直しながら問いかける。
前方から現れたモンスターの群れをアリーゼが一瞬で滅ぼしたあと振り向いた。
「そうなの!レフィーヤ聞いてよ~。アーデがまだ入る時じゃないって、何故か止めるのよ!」
「探索系ファミリアはいくらでもあるでしょう。そんなに早く決める必要はないと言ってるだけですよ」
「でも、私の目的は知ってるでしょ、アーデ」 「……」
アリーゼの言葉に、リリは答えなかった。
直後だった。
後方から、複数の足音がした。
規則的で、重く、それでいて隙がない。
熟練の集団特有の足音だった。
三人が振り返るよりも早く、その一団は暗がりの奥から姿を現す。
先頭に立つのは、
【
その隣には、深緑の髪を揺らす王族然とした
【九魔姫】───リヴェリア・リヨス・アールヴ。
さらに、黄金の髪を淡く揺らす【剣姫】───アイズ・ヴァレンシュタイン。
ティオネ・ヒリュテ、ティオナ・ヒリュテの双子姉妹。
そして、牙を剥く獣のような気配を纏うベート・ローガ。
【ロキ・ファミリア】
遠征中の主力部隊、その一角だった。
「お、おい……。お前ら、【ロキ・ファミリア】だよな……」
「いえ、私たちは【ロキ・ファミリア】ではないんですけど」
「失礼。僕たちが【ロキ・ファミリア】だけど、何か用かい?」
「チッ」
前方から別の冒険者、深手を負い、血を滴らせた冒険者が、息も絶え絶えにリリへ声をかける。
だが、その間へするりと割って入ったのはフィンだった。
リリは即座に面倒の匂いを嗅ぎ取っていた。撤退できるならそうしたかったが、すでに遅い。
舌打ちは、判断の遅れではなく、機会を失ったことへの苛立ちだった。
「この奥の
「ミノタウロス? 9階層に現れたのかい?」
「ちょっと待ってください。その子供の容姿を教えてください」
フィンの言葉を遮るように、リリが一歩前へ出る。
レフィーヤとアリーゼも、何かを感じたのか、顔をこわばらせていた。
対する【ロキ・ファミリア】側も、その反応に一歩引く。
ただ一人、ベートだけは露骨に面倒くさそうな顔をしていたが。
「白髪……白髪のガキだ。俺は、そいつが戦ってるのを横目に逃げてきた。それ以上は見てねぇ」
冒険者は俯いていた。
逃げたことへの後悔か、それとも自分の不甲斐なさへの羞恥か。
唇を噛み締め、血と汗に濡れた顔を上げられずにいる。
その答えを聞いた瞬間、空気が弾けた。
神速だった。
リリは冒険者が指した道へ、ためらいなく駆け出していた。
白銀の槍を翻し、石床を蹴る。小さな背中が閃光のように迷宮へ飛び込む。
レフィーヤとアリーゼも即座に続いた。
そして、その背を見たアイズもまた、ほとんど反射のように走り出す。
「おい! アイズ、どこに行くんだ!」
「ちょっと、あんた達!」
叫ぶ声すら置き去りにして、さらにベート、ヒリュテ姉妹も駆け出した。
最前を走るリリルカの槍が、白き輝きを放つ。
白銀の穂先からあふれた光は、地を這う影のように石床を滑り、分岐路の先を指し示していく。
それは、彼女のスキル───
己が望む
対象が場所であれ、人であれ、その“目的地”として認識したものへ最短で繋がる導線を照らし出す力。
ただし、その道が安全かどうかまでは考慮しておらず、最短距離を照らす。
リリルカは迷わなかった。
今、この迷宮で最も危険な道こそが、ベル・クラネルへ至る最短距離だったからだ。
だが───
「止まれ」
「……私、急いでいるのですが。退いてくれませんか?」
通路の先。
その姿は、あまりにも巨大だった。
二
全身を覆う筋肉は鎧のように分厚く、呼吸ひとつで空気そのものが押し返されるような圧があった。
頭部には、猪人特有の耳。
無骨な巨躯に宿るのは、獣の凶暴さではなく、鍛え抜かれた戦士だけが持つ重圧。
名を知らずとも、ただ立っているだけで理解できる。
この男は、強い。圧倒的に。
「【猛者】!?なんでこんなところに!」
「【猛者】って、あの【猛者】!?オラリオ唯一のLv.7の!?」
レフィーヤとアリーゼが息を呑む。
【猛者】オッタル。
【フレイヤ・ファミリア】団長。
オラリオ唯一のLv.7。
最強の冒険者、その筆頭に名を挙げられる存在。
リリにとっても、その名は知っている。
七年前の大抗争。
リリはあの大抗争の渦中で、【ゼウス・ファミリア】を単独撃破した最強の武人を知っていた。
忘れようがない。
目の前の男は、個として戦場の流れを捻じ曲げる怪物だ。
「貴方がここで私たちを止める理由は、ないんじゃないですか?」
「……手合わせ願おう」
「……殺すぞ、猪野郎。その道を譲れって言ってんだ。頭についてるその耳は飾りか?耳にも筋肉が詰まって、聞こえねえのか?」
ついにリリルカの堪忍袋の緒が切れる。
次の瞬間、リリルカは地を蹴っていた。
白銀の槍が唸りを上げ、オッタルの懐を裂かんと奔る。
同時に、アリーゼが炎のような勢いで踏み込み、レフィーヤも魔法と牽制を織り交ぜて死角を狙う。
だが───。
(強い……!)
(びくともしない!)
(私のことなんて、気にも留めてない……!!)
二撃。
たった二度の応酬で、結果は出た。
リリルカは一撃目の薙ぎ払いで元の位置へ叩き戻され、アリーゼとレフィーヤはまとめて、それ以上後方へ吹き飛ばされる。
踏み込みの勢いも、技の鋭さも、連携も悪くなかった。
それでも通じない。通じる以前の問題だった。
三人でこの男を攻略する。
その前提自体が成り立たない。
リリの顔が、苦々しく歪む。
その時だった。
風が吹いた。
「邪魔、しないで!」
「ヌッ……」
「「「「今!!」」」」
アイズだった。
風を纏った斬撃が、オッタルの注意を一瞬だけ逸らす。
そのわずかな間隙を、リリたちは逃さない。
四人は一気にオッタルの脇を駆け抜けた。
当然、オッタルも見逃さない。
追撃の一撃が、通路を砕きかねない勢いで放たれる。
「テメェ!誰に剣向けてやがる!!」
それを真正面から受け止めたのはベートだった。
火花が散る。
獣じみた舌打ちと共に、彼は地を削りながら踏みとどまる。
さらにヒリュテ姉妹も到着し、足止めの輪へ加わる。
その隙に、リリたちはさらに奥へ───ベルのいるはずの場所へと駆けていく。
******
英雄とは───功績である。
とある聖女は、常にそう考えていた。
過程など、どうでもいい。
どれほど血に塗れようと、どれほど手段が歪もうと、最後に結果を残した者こそが英雄なのだと。
彼女は今なお、そう信じている。
だから救った。
モンスターに襲われ、壊滅しかけた町を。
だから屠った。
都市外に巣食う凶悪な怪物どもを。
だから殺した。
すべてを救えたわけではない。
救えなかった町がある。
取り逃したモンスターがいる。
手を伸ばしてなお、届かなかった命がある。
それでも彼女は、立ち止まらなかった。
一を救うか、百を救うか。
その天秤を突きつけられた時、リリルカ・アーデは迷わず後者を選んだ。
救えなかった一に、心の中で謝罪しながら。
切り捨てた現実を忘れぬまま、それでも百を救う方へ進んだ。
だから救った。
だから屠った。
だから、殺し続けた。
そうして生まれたのが、人々から聖女、あるいは女神と称えられる存在───【
過程がどれだけ歪んでいても構わない。
救えたのなら、それは英雄だ。
一を救えなくとも、百を救えばいい。
百を切り捨ててでも、千を助けるべき時がある。
別に、一を見捨てたいわけではない。
だが、捨てなければならない選択を迫られた時、彼女は躊躇しない。
慈悲の有無ではなく、必要だから選ぶ。
涙の有無ではなく、結果のために切り捨てる。
それが彼女の信じる英雄であり、
それが彼女の求める
───なのに。
胸の奥で、何かが軋む。
ああ、と。
小さな聖女は胸のうちで、誰にも聞こえぬように吐き出した。
───これが、私の望んだ英雄。
───これが、私の目指す
******
「ッ……が、あぁっ!」
ミノタウロスの大剣が、真正面から僕の剣に叩きつけられた。
次の瞬間、僕の体は吹き飛ばされていた。
視界がぐるんと回った。
背中から石壁に激突し、鈍い衝撃が全身を貫いた。肺の中の空気が一瞬で押し出される。
息ができない、声も出ない。
ただ喉の奥で、潰れたような呻きだけが漏れた。
血が、ぽたりと落ちた。
口の端からこぼれたそれが、床に赤い染みを作る。
背中が熱い。
身体中が悲鳴をあげていた。
もうどこが痛いのかもわからない。
ミノタウロスは、傷ひとつ負っていなかった。
深紅の巨体。
返り血に濡れたみたいな赤黒い毛並み。
僕の身長より大きな大剣を片手で引きずりながら、怪物はゆっくりと近づいてくる。
一歩。
また一歩。
石床を踏みしめるたび、
その足音は、まるで死そのものが形を持って迫ってきているみたいだった。
僕は震える腕を床につく。
起きなければいけないのに、身体が言うことをきかない。
脚に力を込めても、膝が笑うだけで動かない。
まずい。
このままじゃ、本当に死ぬ。
怪物の影が、じりじりと僕を覆っていく。
───その時だった。
「ベル、よくやったわ」
声がした。
無様に倒れ伏した僕を庇うように、リリさんが立っていた。
白銀の槍を閃かせ、ミノタウロスの前へと躍り出る。
その背中は小さい。
僕よりもずっと小柄だ。
なのに、今はその背中が、信じられないくらい大きく見えた。
リリさんは振り返って、笑った。
まるで「よく頑張りました」とでも言うみたいに。
それから、槍を地面に突き立てる。
金属音が、短く鋭く響いた。
その動作ひとつに、はっきりとした意思がこもっている。
───ここから先は、触れさせない。
そう告げられた気がした。
また、僕は助けられるのか。
その考えが、頭の中に落ちた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
あの時もそうだった。
ミノタウロスに殺されかけた時、アイズさんが助けてくれなければ、僕は死んでいた。
あの時もそうだった。
食人花に呑まれかけた時、【ロキ・ファミリア】が来なければ終わっていた。
あれも。
これも。
全部、僕が弱かったから。
僕に力が足りなかったから。
誰かが来てくれたから、今の僕がある。
じゃあ、いつなんだ。
いつ僕は、自分の足で立てるようになるんだ。
ずっと助けられて、守られて。
今だって、無様に床を転がっているだけだ。
───幼い頃に誓った約束は?
───お義母さんに誓った約束は?
───初めて神様に会った時に、一緒に誓った約束は?
全部、果たせない。
このままじゃ、何ひとつ届かない。
ベル・クラネルは、英雄になれない。
『ベル、さっさと救って帰って来い』
頭を撫でられて、去った故郷。
『ベル、英雄になろう。これから始めるんだ。私とベルの
あの満月の下で、誓った約束。
「違う……」
気づけば、声が漏れていた。
「……ベル?」
リリさんが、わずかに目を見開く。
僕は、その腕を掴んでいた。
体はまだ悲鳴を上げている。
立つな、もう無理だと、全身が叫んでいる。
でも、それ以上に、胸の奥が熱かった。
熱い。
息が苦しいのに、心臓は燃えるみたいに脈打っている。
血が沸騰しているようだった。
「ここで倒れて……運命を全部任せるなんて……違う」
「!!」
約束したんだ。
もう歩くことすら苦痛なはずなのに、椅子に座って、何でもないみたいな顔をしていたあの人と。
約束したんだ。
月の光を受けて、誰よりも綺麗に微笑んでくれたあの人と。
その約束を果たすために、僕は───!!
「決めたんだ……!英雄になるって!誓ったんだ!英雄になるって!」
叫んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
深紅のミノタウロスは、そんな僕を見ていた。
まるで歓迎しているみたいに。死地へもう一度踏み込んでくる獲物を、楽しそうに待っているみたいに。
僕は立ち上がる。
ふらつく足で、それでも前へ出る。
リリさんを追い越して、一歩前へ。
『
いつかの鍛錬で、リリさんが言っていた言葉が蘇る。
前へ進もう。
もう、後ろを振り返る必要なんてない。
前へ進もう。
約束を果たすために。
一歩。
砕けそうな脚を、前へ。
一歩。
今にも折れそうな心を、前へ。
『冒険者は冒険しちゃいけないの、分かった? ベル君』
ごめんなさい、エイナさん。
僕は、これからあなたの言いつけを破ります。
今日、ベル・クラネルは前へ進む。
約束を果たすために。
英雄になるために。
今日、僕は初めて───冒険をする。
******
「リリさん!なんで止めてくれなかったんですか!」
「彼を止める資格は、私にはありません。英雄への切符は、誰にでも平等にあるのです」
「けど!無茶と無謀は全く違うわ!」
レフィーヤとアリーゼが、リリルカへ詰め寄る。
二人の視線の先では、深紅の怪物と白髪の少年が闘争していた。
だが、問い詰められてなお、リリは一度たりともベル・クラネルから目を離さず、その戦いを見つめ続けていた。
止めなかったのではない。
止められなかったのだ。
あの瞬間、彼女は見てしまった。
血に塗れ、膝を折り、今にも砕け散りそうでありながら、それでもなお前へ進もうとする、あの眩しすぎる光を。
リリルカ・アーデには持ち得ない、英雄へ至るための純粋な輝き。
それを前にして、彼女は槍を向けることができなかった。
「やあ、初めましてというべきかな。【
状況を確認すべく、【ロキ・ファミリア】の面々が歩み寄る。
柔らかな笑みを浮かべながらも、フィン・ディムナの碧眼は鋭く戦況を見据えていた。
それでも、リリルカは応じない。
応じる暇すらないのだ。
彼女の視界に映るのは、ただ一人の少年だけだった。
「おい、あいつってアイズに助けられたトマト野郎か!?ハハハッ!傑作だな!」
「黙ってろ、犬風情が。殺されたいのか」
「アァ!?」
「あの子、Lv.1なんでしょ?絶対やられちゃうよ」
ベートが嘲笑い、ティオナが残酷なほど率直な現実を口にする。
それは熟練の冒険者として当然の判断だった。
冒険者になってまだ一月半。
しかも相手はミノタウロス、それも異常種じみた深紅の怪物。
常識で考えれば、勝敗は初めから決している。
「ンー……でも、状況は少し違いそうだよ」
「……おい、どうなってやがる」
「ああああああああああっ!!」
『ブモオオオオオオオオオッ!!』
次の瞬間、戦況が爆ぜた。
鮮血が舞う。
怪物の大剣が轟音と共に石床へ叩きつけられ、誰もいない地面を砕き割る。
飛び散った破片が火花のように弾け、粉塵が白く舞い上がった。
その死の間隙を、ベル・クラネルは駆け抜ける。
深紅の怪物の股下へ
肉を裂き、硬い皮膚をこそぎ、確かな傷を刻む。
ミノタウロスが咆哮し、反射的に大剣を薙ぎ払う。
だがベルはまともに受けない。
剣身を斜めに合わせ、衝撃を殺しきらぬまま受け流し、その反動を利用して反転する。
そして、
白い閃光を引いて走る刃が、怪物の腕を裂いた。
「なっ……あの子、Lv.1じゃなかったの!?」
「……あの少年は、本当に駆け出し冒険者だったのか?」
「ひと月前、ただの新米として僕たちの目には映っていた。英雄への階段を駆け上がるように、少年は怪物と対峙している」
「何が起こってやがる……」
「冒険。彼の、冒険」
ティオナが目を見開き、リヴェリアが低く呟き、フィンが静かにその姿を見定める。
ベートの声音には苛立ちと困惑が混じり、アイズだけは金色の瞳を瞬きもせず戦場へ向けていた。
ひと月前。
そこにいたのは、どこにでもいるような白髪の新米冒険者だった。
剣を握る手も危うく、足運びも未熟で、危なっかしいほどに真っ直ぐなだけの少年。
ベル・クラネルに、卓越した剣才があったわけではない。
災禍の怪物にさえ、
だが、たった一つだけ。
彼女も認めざるを得ないものがあった。
真っ直ぐさだ。
どこまでも透き通っていた。
折れず、屈せず、泥にまみれてもなお光を目指す、不屈の意志。
「ていうか、あの魔法何!? アイズと同じ
ティオネが叫ぶ。
ベルの体を包んでいるのは、白き光。
光が彼の脚を押し、腕を導き、呼吸すら後押しする。振るう斬撃は先程よりも重く、踏み込みは先程よりも速い。
白き光が、怪物の振り下ろしを紙一重で躱し、白き光が、怪物の腕を、脚を、胸を抉っていく。
「私が修行をつけていた時は、ベルの魔法はまだ出力が全然足りない状態でした」
「でも見てよ、アーデ。今のあれ、すごい
「……精霊が、叫んでる」
「どういう意味?レフィーヤ」
「精霊が……無理やり、ベルの体に光を流し込んでる。負けるなって、叫んでる……!」
レフィーヤの声は震えていた。
精霊と契約した彼女だからこそわかる。
あれは単なる魔法出力の上昇ではない。
ベル・クラネルという器が壊れないぎりぎりを見計らって、光が、意志を持つように彼を押し上げているのだ。
無理やりに。
限界を超えさせるように。
死なない程度に、だが確実に、その身を燃やしながら。
誰の目にも明らかだった。
あんな使い方を続ければ、
ならば決着は近い。
次の一撃で、終わらせなければならない。
ベルも、それを理解していた。
破邪の一撃は使用不可。
平行詠唱も、今の彼には不可能だ。
そもそも残された
だから、少年は別の一撃を選ぶ。
破邪に代わる、月光の一撃。
ベルは
握られた『アルテミスの剣』から、澄んだ鈴の音が鳴り響いた。
ちりん、と。
それは戦場には不似合いなほど清らかな鈴の音だった。
ベルは今あるすべてを、その剣へ注ぎ込む。
すべてを、刃の一点へ。
本来、光を拒むような漆黒の刃が、収束する魔力に侵されるように変貌していく。
黒は薄れ、白銀へ。
月光を削り出したかのような神々しい輝きが、剣身に宿る。
対するミノタウロスもまた、本能で理解していた。
この一撃は危険だと。
怪物は拳を地へ叩きつけるように踏み込み、猛牛のごとき低い姿勢を取る。
二本の強靭な角を前へ突き出し、全身全霊でその一撃を受け潰す構え。
真正面から、月光を叩き潰すという意思を示した。
「あああああああああああっっ!!」
『ブモオオオオオオオオオッッ!!』
次の瞬間、その静止を突き破って、両者が激突する。
白と紅。
少年と怪物。
衝突した一点から、光と衝撃が爆ぜた。
空気が裂ける。
石床がひび割れる。
「馬鹿が……」
「若い……」
ベートが吐き捨て、リヴェリアが細く息を漏らす。
この場にいる誰もがわかっていた。
選ぶべきではない選択だったと。
真正面から怪物の膂力へ挑むなど、熟練の戦士ほど避ける愚策だ。
ただ一人。
リリルカ・アーデだけは、その姿を見ていた。
夕陽に染まる城壁で、彼女は少年へひとつの心得を授けていた。
『ベルに、私のとっておきの必殺技を教えましょう』
それは剣技ではない。
技術ですらない。
最弱と呼ばれた種族、
神々が地上に降りる以前から、弱き者として蔑まれ、踏みにじられてきた小さき民。
ではなぜ、そんな
答えは単純だった。
前へ出たのだ。
誰よりも小さな体で。
誰よりも踏み潰されやすい弱さを抱えてなお、最前列へ立ったのだ。
英雄譚には、こう記されている。
───ああ、誰よりも小さき身体で先陣を切る勇気ある種族。
───恐ろしい怪物が立ち塞がろうとも、その小さき身体は進むことをやめない。
だからこそ、前へ。
恐れながらも前へ。
すべてを乗せて、ただ前へ。
人はそれを───勇気と呼ぶ。
(全ての筋力を、右足に込めて押し出す!)
白き光と共に、想いが押し込まれる。
幼い頃から抱き続けた英雄への憧れ。
もう長くはない者との約束。
女神と交わした誓い。
「ああああああああっっ!!」
『───!?』
勝敗を分けたのは、技巧ではない。
最後の最後で刃を押し込んだのは、想いの強さだった。
強靭な角が、砕ける。
鈍く、嫌な音を立てて。
怪物の誇る角が、白き一撃に耐えきれず砕散した。
ベルはそのまま怪物の頭上へ跳ね上がる。
そこへ、怪物の背に少年は剣を突き立てた。
「【
白光が爆ぜた。
月光を極限まで圧縮し、一気に解き放ったような一撃。
深紅のミノタウロスの上半身が、閃光に呑み込まれ、そのまま消し飛ぶ。
残されたのは、舞い落ちる灰。
そして、勝者を祝福するかのように降り注ぐ、白き光だけだった。
ベル・クラネルは、その場に崩れ落ちる。
糸が切れた人形のように、静かに。
まるで死んだように動かず、ただ祝福の光の中で気を失っていた。
「ベル!!」
真っ先に駆け寄ったのはレフィーヤだった。
膝をつき、倒れたベルの頭をそっと抱き上げ、自分の膝へ乗せる。
震える指が少年の頬に触れ、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「ベル、ベル……っ、ベル!」
まるで泣きじゃくる子供のように、彼の名を何度も呼ぶ。
そして、この場にいた誰もが、彼の冒険を目に焼き付けていた。
全身の血が沸き立つような熱を。
とうに忘れかけていた、胸を灼くような高揚を。
冒険者であることの意味を。
「……アーデ。私、決めたわ。彼のファミリアに入る」
「……やっとですか。私は元から、彼に
アリーゼは、レフィーヤに抱えられるベルを見つめていた。
欲しかった宝物をようやく見つけた子供のように、その瞳を輝かせて。
リリは、そんな彼女に笑って返す。
視線はやはり、ベルから離れない。
「彼は、なんて名前なの?」
一歩前へ出たアイズが、静かに問う。
その声音は淡々としていたが、そこには確かな興味があった。
けれど二人は、互いの顔を見なかった。
ただ同じように、一人の少年を見つめながら。
「ベル。ベル・クラネル」
この場にいる誰一人、その名を忘れることはないだろう。
深紅の怪物へ挑み、傷だらけで立ち向かい、勝利をもぎ取った白髪の少年の名を。