【月光の神】ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか   作:クックダッセ

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だから、ベル・クラネルは英雄に憧れる。

 

僕が魔法を授かってから、一週間が経った。

 

今、僕はオラリオの城壁の上で、リリさんの指導を受けていた。

高い石壁の上を、乾いた風が吹き抜けていく。

朝の光はまだやわらかいはずなのに、訓練のせいで僕の体はもう火がついたみたいに熱い。

握った剣の柄は汗でじっとりと湿っていて、腕も足も悲鳴を上げていた。

 

「振りが甘い。得物を振るう時は、常に必殺でありなさい」

「剣を使うなら、距離(リーチ)を生かしなさい」

「速度をもっと上げなさい。ベルの取り柄は速度です」

 

鋭い言葉が、容赦なく飛んでくる。

過酷指導(スパルタ)すぎる……!

 

いや、村にいた頃の鍛錬だって厳しかったけど、これは別の意味でキツい。

逃げ道を全部ふさがれながら、「もっとやれるでしょう」と真顔で言われてる感じだ。

 

でも、リリさんの教え方がすごく上手かった。

どこが悪いのか、どう直せばいいのか、ひとつひとつが明確にしてくれた。

もちろん、レフィーヤの教え方も丁寧でわかりやすかったけど、申し訳ないけど、比べる相手が悪い。

 

幾つもの戦場を駆け抜けてきた人の言葉には、重みがあった。

理屈だけじゃない。生き残るために磨かれた技術が、そのまま言葉になっている。

そんなリリさんに、こうして直々に師範してもらえる。

それがどれだけ恵まれたことなのか、僕は身をもって理解した。

 

「私は小人族(パルゥム)です。だから、人一倍努力しなければいけなかった」

 

訓練がひと区切りつき、僕たちは一度休憩を取ることになった。

僕はその場にへたり込みそうになるのをなんとかこらえ、石壁にもたれながら水筒の水を流し込む。

 

ぬるくなった水なのに、喉を通るだけで生き返るようだった。

隣では、リリさんが城壁の外を見つめていた。

 

都市の外。遠くまで広がる大地。

その横顔は静かで、けれどただ景色を眺めているようには見えなかった。

まるで、自分の歩いてきた道を、そこに重ねて見ているみたいだった。

 

「フィアナ騎士団は知っていますか?」

「もちろん知っています!」

 

思わず、声が強くなる。

 

フィアナ騎士団。

古代。

今よりずっと種族差別が強かった時代。

特に小人族(パルゥム)なんて、蔑まれる者の象徴みたいに扱われていた。

そんな時代に、小人族(パルゥム)だけで結成された騎士団が、大穴へ至るために『前へ』と道を切り拓いた───そんな勇気の英雄譚だ。

 

「私は、女神フィアナに憧れていたの」

 

リリさんはそう言って、少しだけ悲しそうに目を細めた。

 

その細い肩に、身の丈には不釣り合いなほど大きな白銀の槍が担がれている。陽の光を受けて、槍身が白くきらめいた。

 

「父と母が、フィアナ騎士団の話を何度も聞かせてくれたわ。小人族(パルゥム)でも、こんなすごいことを成し遂げられる人たちがいるんだって。……そのたびに、胸が躍った」

「……はい」

「けれどね。女神フィアナはいなかった」

 

その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。

 

小人族(パルゥム)は、女神フィアナの存在を信じていた。

崇め、祈り、希望を託していた。

 

でも、神様たちが下界に降りてきた時、その中にフィアナ様という女神はいなかった。

信じていた光が、どこにもいなかった。

 

「だから、私が(フィアナ)になるって決めたの」

(フィアナ)に……」

 

思わず、その言葉を繰り返していた。

リリさんは、僕の方を見て笑った。

その笑顔は穏やかで、けど燃えてるように感じた。

 

でも、オラリオにはフィン・ディムナさんがいる。

小人族(パルゥム)にとって、誰よりも光に近い英雄。

あの人の名を知らない小人族(パルゥム)はいないだろう。

 

「ベルが今思い浮かべたような、一族の再建を掲げる男性がいるわね」

「……えっ!?」

「私は彼を超えるわ」

「えっ。でも、目的は一緒なんじゃ……」

 

なんで僕の心を読めたのかは置いておいて……

 

僕は思わず聞き返した。

同じものを目指しているなら、力を合わせた方がいいんじゃないか。

そう思ったから。

 

けれどリリさんは、少しも迷わなかった。

 

「協力するのは、きっと悪いことじゃないわ。でもね、ベル。私、負けたくないの。彼に」

 

その言葉と一緒に、リリさんは笑った。

快晴の空から降り注ぐ陽射しが、リリさんの体をまぶしく照らす。

目元は隠れて見えない。

 

それでも、その笑顔がどれだけ強いものなのかは、はっきり伝わってきた。

たしかに今の名声なら、フィン・ディムナさんの方が上かもしれない。

 

でも、それは“今”の話だ。

いつかじゃない。

近い未来、本当に追い抜いてしまうかもしれない。

そんな予感を、僕は不思議とはっきり感じていた。

 

きっとこれは、ただの憧れじゃない。

リリさんの中にあるのは、同じ高みを見上げる者だけが抱ける、強烈な好敵手(ライバル)意識なんだ。

 

「では、一週間訓練を続けてきて、死なない程度にはなりました」

「……へ?」

 

ぽかんとした僕の目の前で、白銀の槍の穂先がすっと持ち上がる。

 

嫌な予感がした。

頬を汗が伝う。

いや、さっきからずっと汗だくだけど、今流れたそれだけは明らかに種類が違った。

背筋をぞわっと這い下りていく、そんな汗。

 

リリさんはにこにこと笑いながら、早く構えなさい、とでも言うように僕を見る。

 

ぼ、僕、休憩してたよね……?

震える指で、僕は『アルテミスの剣』を構えた。

 

「では、逝きますよ」

「ちょっと言い方が違うような!! ……って、アアアアアアアッ!?」

 

───これ以上は思い出したくない。

リリさんは剣術に対する言葉責めと、物理的な責めを完璧に両立してきた。

 

その結果、僕の体は文字通りぼろぼろになった。

 

******

 

「ふっ───!!」

 

鋭く息を吐き、僕は『アルテミスの剣』を振り抜いた。

刃がモンスターの胴を深く裂き、次の瞬間、魔石ごと断ち割る。

砕けた破片が飛び散り、灰となって崩れるその姿を横目に、僕はすぐさま次へ踏み込んだ。

 

現在、9階層。

僕は一人でダンジョンを探索していた。

久しぶりのダンジョン。

石の匂い、湿った空気、遠くで反響する足音。

肌にまとわりつくような緊張感。

ここに戻ってくると、僕は自分が冒険者なんだってことを、嫌でも思い出す。

 

探索については、リリさんからきつく言われていた。

10階層以下には、絶対に一人(ソロ)で潜らないこと。

 

……というか、リリさん、オラリオに来たばかりなのに、いつの間にそんなにダンジョンについて調べたんだろう。

 

『まだすべてではありませんが、下層くらいの知識なら八割ほど把握しています』とか言っていたけど、いや、知識量でも僕負けてるの!?

 

しかも今回の探索は訓練ではなく、休息らしい。

『休息として、ダンジョン探索をしてみなさい』そう言われた。

いや、ダンジョンで休息というのがよくわからないけど……

 

そんなことを考えていた、その時だった。

四方八方の通路からモンスターが生まれ落ちた音がした。

現れたのはキラーアント。

数えるだけで八体。

 

前方の一体が、鋭い鉤爪を振りかざして飛びかかってきた。

僕は後方へ跳んでそれをかわす。

視界の端で、別の個体が左右から回り込もうとしているのが見えた。

 

「【光よ(ルクス)】」

 

瞬間、僕の体を光が包み込んだ。

全身が軽くなる。

視界が澄み、反応が一段も二段も速くなる。

 

着地と同時に、僕は一番近いキラーアントの背後へ滑り込んだ。

無防備にさらされた背へ、ためらわず剣を突き込む。

硬い殻を砕き、魔石を貫く手応えが腕に伝わった。

 

そのまま剣を引き抜き、振り向きざまに横薙ぎ。

すぐ隣に迫っていた別のキラーアントの胴を一閃で断ち切る。

 

自分でも驚くくらい、体が動く。

今まで教わった知識。

新しい魔法。

 

そしてリリさんに教わった技術。

それが全てを一つにしていた。

前に見えるモンスターを、一体ずつ、確実に倒していくたびに、それがはっきりわかった。

 

───ああ、そういうことだったんだ。

リリさんが僕をダンジョンへ向かわせたのは、ただ感覚を鈍らせないためじゃない。

自分が積み上げたものを、自分の手で実感させるためだったんだ。

 

戦いが終わる。

最後の一体が灰になって崩れ、周囲に静けさが戻った。

僕は浅く息を吐き、剣先を下ろす。

けれど、そこで胸の奥に小さな違和感が引っかかった。

……静かすぎる。

そのまま先へ進むと、やがて広い広間(ルーム)へ出た。

 

天井は高く、空気がひんやりとしていた。

モンスターの気配がない。

さっき戦った群れ以降、妙なくらい何もいない。

 

おかしい。

そう思った次の瞬間だった。

 

重い音が響いた。

足音だ。

今度は床そのものが震えた。いや、この広間(ルーム)全体が、小さくうなっているみたいだった。

 

僕は喉を鳴らし、袖で額の汗をぬぐう。

けれど、ぬぐったはずの汗がまたにじむ。

気持ち悪いくらい、掌も首筋も濡れていた。

 

そして、それは姿を現した。

 

「ミノタウロス……」

 

思わず、声が漏れる。

赤かった。

あまりにも赤い。

まるで返り血を何度も浴びて、それが体に染みついたみたいな真紅(あか)

 

普通のミノタウロスとは、ひと目でわかるほど違っていた。

しかもそいつは、大剣を引きずっていた。

冒険者から奪ったのか、天然武器(ネイチャーウェポン)ではなかった。

 

僕の身長よりも大きい、無骨で巨大な剣。

石床をガガガッと削りながら進むその姿は、怪物というより、災害そのものに見えた。

 

『ブモオオオオオオオオオッ!!』

 

咆哮が、広間(ルーム)を揺らす。

 

空気がびりびりと震え、鼓膜が震えた。

恐怖が、一気に頭を埋め尽くそうとした。

だけどその前に、僕の手は無意識に腰の鞘へ触れていた。

 

その中から───神様が、「大丈夫」と囁いた気がした。

たぶん幻聴だ。

きっと僕の妄想だ。

でも、今の僕には、それがどんな魔法よりありがたかった。

 

胸の奥に灯った小さな火が、折れかけた心をぎりぎりで支えてくれる。

 

考えろ。

逃げることはできる。

今の僕なら、魔法もある、そしてリリさんから教わった技術もある。

ここから離脱して、途中にモンスターがいても切り抜けられるはずだ。

 

でも───他の人は?

その瞬間、脳裏に浮かんだ。

さっき見かけた、出血した腕を押さえながら逃げていた冒険者の姿。

 

リリさんの修行で、何度も叩き込まれた。

視野を広げろ。自分だけを見るな。周囲を見ろ。状況を読め。

 

もし、今ここで僕が逃げたら。

このミノタウロスは、きっと血の跡を辿る。負傷した冒険者を見つけて、殺す。

 

そして、その先は?

9階層に現れたミノタウロスなんて、ほかの冒険者にとっても脅威でしかない。

誰かが止めなきゃいけない。

誰かが時間を稼がないといけない。

 

「あああああああああっ!!」

 

僕の雄叫びが、開戦の狼煙になった。

 

心臓が潰れそうなくらい鳴っている。足は震えている。怖い。怖くてたまらない。

それでも、僕は走った。

赤い怪物へ向かって、まっすぐに。

 

******

 

「で、結局心配なのね、アーデは!」

「心配です……ベルが可愛すぎて、他の冒険者に食べられないか」

「心配ってそこですか!?」

 

アリーゼ、リリ、レフィーヤが軽口を叩き合いながらも、その足取りに淀みはなかった。

 

9階層。

薄暗い通路を、三つの影が駆けるように進んでいく。

その中を、アリーゼ、リリルカ、レフィーヤの三人は、まるで地上の平原でも歩くかのように闊歩していた。

 

現れたモンスターは、軽々と屠られる。

飛びかかったモンスターはアリーゼの一閃で首を飛ばされ、死角から忍び寄ったキラーアントでさえ、リリルカの白銀の槍に魔石ごと穿たれ、断末魔すら残せず灰へと変わった。

 

九階層に、Lv.5、Lv.5、Lv.2。

常識で考えれば、超究極超過編成(ハイパーウルトラオーバー)もいいところだ。

低層に放り込むには過剰も過剰、むしろ災害に近い。

 

だが、ベル・クラネルを探すという一点において、その編成は妥当だった。

 

そもそもベルを単独で送り出した張本人はリリルカである。

にもかかわらず、結局こうして自らダンジョンへ潜っているあたり、本人の言い分と行動が噛み合っていないのは明白だった。

 

ベルがいるとすれば、どうせ10階層へ足を踏み入れる直前───ぎりぎりの9階層。その読みがあったからこそ、彼女たちは迷いなく9階層にいた。

 

「そういえば、リリさんとアリーゼさんは【ロキ・ファミリア】に入ってないんですか?今日は【ロキ・ファミリア】の遠征があるって聞きましたけど」

 

レフィーヤが剣を握り直しながら問いかける。

前方から現れたモンスターの群れをアリーゼが一瞬で滅ぼしたあと振り向いた。

 

「そうなの!レフィーヤ聞いてよ~。アーデがまだ入る時じゃないって、何故か止めるのよ!」

「探索系ファミリアはいくらでもあるでしょう。そんなに早く決める必要はないと言ってるだけですよ」

「でも、私の目的は知ってるでしょ、アーデ」 「……」

 

アリーゼの言葉に、リリは答えなかった。

 

直後だった。

後方から、複数の足音がした。

 

規則的で、重く、それでいて隙がない。

熟練の集団特有の足音だった。

 

三人が振り返るよりも早く、その一団は暗がりの奥から姿を現す。

 

先頭に立つのは、小人族(パルゥム)の槍使い。

勇者(ブレイバー)】───フィン・ディムナ。

その隣には、深緑の髪を揺らす王族然とした妖精族(エルフ)

【九魔姫】───リヴェリア・リヨス・アールヴ。

さらに、黄金の髪を淡く揺らす【剣姫】───アイズ・ヴァレンシュタイン。

 

ティオネ・ヒリュテ、ティオナ・ヒリュテの双子姉妹。

そして、牙を剥く獣のような気配を纏うベート・ローガ。

【ロキ・ファミリア】

遠征中の主力部隊、その一角だった。

 

「お、おい……。お前ら、【ロキ・ファミリア】だよな……」

「いえ、私たちは【ロキ・ファミリア】ではないんですけど」

「失礼。僕たちが【ロキ・ファミリア】だけど、何か用かい?」

「チッ」

 

前方から別の冒険者、深手を負い、血を滴らせた冒険者が、息も絶え絶えにリリへ声をかける。

 

だが、その間へするりと割って入ったのはフィンだった。

 

リリは即座に面倒の匂いを嗅ぎ取っていた。撤退できるならそうしたかったが、すでに遅い。

舌打ちは、判断の遅れではなく、機会を失ったことへの苛立ちだった。

 

「この奥の居間(ルーム)で、ミノタウロスに襲われてるガキがいたんだ……」

「ミノタウロス? 9階層に現れたのかい?」

「ちょっと待ってください。その子供の容姿を教えてください」

 

フィンの言葉を遮るように、リリが一歩前へ出る。

 

レフィーヤとアリーゼも、何かを感じたのか、顔をこわばらせていた。

対する【ロキ・ファミリア】側も、その反応に一歩引く。

ただ一人、ベートだけは露骨に面倒くさそうな顔をしていたが。

 

「白髪……白髪のガキだ。俺は、そいつが戦ってるのを横目に逃げてきた。それ以上は見てねぇ」

 

冒険者は俯いていた。

逃げたことへの後悔か、それとも自分の不甲斐なさへの羞恥か。

唇を噛み締め、血と汗に濡れた顔を上げられずにいる。

その答えを聞いた瞬間、空気が弾けた。

 

神速だった。

リリは冒険者が指した道へ、ためらいなく駆け出していた。

 

白銀の槍を翻し、石床を蹴る。小さな背中が閃光のように迷宮へ飛び込む。

レフィーヤとアリーゼも即座に続いた。

そして、その背を見たアイズもまた、ほとんど反射のように走り出す。

 

「おい! アイズ、どこに行くんだ!」

「ちょっと、あんた達!」

 

叫ぶ声すら置き去りにして、さらにベート、ヒリュテ姉妹も駆け出した。

 

最前を走るリリルカの槍が、白き輝きを放つ。

白銀の穂先からあふれた光は、地を這う影のように石床を滑り、分岐路の先を指し示していく。

 

それは、彼女のスキル─── 光縁道標(ルミナス・アリアドネ)

己が望む行く先(ルート)を、槍の光が道標として示す。

対象が場所であれ、人であれ、その“目的地”として認識したものへ最短で繋がる導線を照らし出す力。

ただし、その道が安全かどうかまでは考慮しておらず、最短距離を照らす。

 

リリルカは迷わなかった。

今、この迷宮で最も危険な道こそが、ベル・クラネルへ至る最短距離だったからだ。

だが───

 

「止まれ」

「……私、急いでいるのですが。退いてくれませんか?」

 

通路の先。

道標(アリアドネ)を遮るように、一人の武人が立っていた。

 

その姿は、あまりにも巨大だった。

M(メトル)を優に超える体躯が、迷宮の通路を半ば塞ぐように聳えている。

全身を覆う筋肉は鎧のように分厚く、呼吸ひとつで空気そのものが押し返されるような圧があった。

 

頭部には、猪人特有の耳。

無骨な巨躯に宿るのは、獣の凶暴さではなく、鍛え抜かれた戦士だけが持つ重圧。

 

名を知らずとも、ただ立っているだけで理解できる。

この男は、強い。圧倒的に。

 

「【猛者】!?なんでこんなところに!」

「【猛者】って、あの【猛者】!?オラリオ唯一のLv.7の!?」

 

レフィーヤとアリーゼが息を呑む。

 

【猛者】オッタル。

【フレイヤ・ファミリア】団長。

オラリオ唯一のLv.7。

最強の冒険者、その筆頭に名を挙げられる存在。

 

リリにとっても、その名は知っている。

七年前の大抗争。

 

リリはあの大抗争の渦中で、【ゼウス・ファミリア】を単独撃破した最強の武人を知っていた。

 

忘れようがない。

目の前の男は、個として戦場の流れを捻じ曲げる怪物だ。

 

「貴方がここで私たちを止める理由は、ないんじゃないですか?」

「……手合わせ願おう」

「……殺すぞ、猪野郎。その道を譲れって言ってんだ。頭についてるその耳は飾りか?耳にも筋肉が詰まって、聞こえねえのか?」

 

ついにリリルカの堪忍袋の緒が切れる。

 

次の瞬間、リリルカは地を蹴っていた。

白銀の槍が唸りを上げ、オッタルの懐を裂かんと奔る。

 

同時に、アリーゼが炎のような勢いで踏み込み、レフィーヤも魔法と牽制を織り交ぜて死角を狙う。

だが───。

 

(強い……!)

(びくともしない!)

(私のことなんて、気にも留めてない……!!)

 

二撃。

たった二度の応酬で、結果は出た。

 

リリルカは一撃目の薙ぎ払いで元の位置へ叩き戻され、アリーゼとレフィーヤはまとめて、それ以上後方へ吹き飛ばされる。

 

踏み込みの勢いも、技の鋭さも、連携も悪くなかった。

それでも通じない。通じる以前の問題だった。

 

三人でこの男を攻略する。

その前提自体が成り立たない。

 

リリの顔が、苦々しく歪む。

その時だった。

風が吹いた。

 

「邪魔、しないで!」

「ヌッ……」

「「「「今!!」」」」

 

アイズだった。

風を纏った斬撃が、オッタルの注意を一瞬だけ逸らす。

そのわずかな間隙を、リリたちは逃さない。

 

四人は一気にオッタルの脇を駆け抜けた。

当然、オッタルも見逃さない。

追撃の一撃が、通路を砕きかねない勢いで放たれる。

 

「テメェ!誰に剣向けてやがる!!」

 

それを真正面から受け止めたのはベートだった。

火花が散る。

獣じみた舌打ちと共に、彼は地を削りながら踏みとどまる。

さらにヒリュテ姉妹も到着し、足止めの輪へ加わる。

 

その隙に、リリたちはさらに奥へ───ベルのいるはずの場所へと駆けていく。

 

******

 

英雄とは───功績である。

 

とある聖女は、常にそう考えていた。

過程など、どうでもいい。

どれほど血に塗れようと、どれほど手段が歪もうと、最後に結果を残した者こそが英雄なのだと。

 

彼女は今なお、そう信じている。

 

だから救った。

モンスターに襲われ、壊滅しかけた町を。

だから屠った。

都市外に巣食う凶悪な怪物どもを。

だから殺した。

闇派閥(イヴィルス)と呼ばれる害虫どもを、容赦なく。

 

すべてを救えたわけではない。

 

救えなかった町がある。

取り逃したモンスターがいる。

手を伸ばしてなお、届かなかった命がある。

 

それでも彼女は、立ち止まらなかった。

一を救うか、百を救うか。

その天秤を突きつけられた時、リリルカ・アーデは迷わず後者を選んだ。

救えなかった一に、心の中で謝罪しながら。

 

切り捨てた現実を忘れぬまま、それでも百を救う方へ進んだ。

 

だから救った。

だから屠った。

だから、殺し続けた。

 

そうして生まれたのが、人々から聖女、あるいは女神と称えられる存在───【救済聖女(マキア・セイント)】リリルカ・アーデである。

 

過程がどれだけ歪んでいても構わない。

救えたのなら、それは英雄だ。

一を救えなくとも、百を救えばいい。

百を切り捨ててでも、千を助けるべき時がある。

 

別に、一を見捨てたいわけではない。

だが、捨てなければならない選択を迫られた時、彼女は躊躇しない。

慈悲の有無ではなく、必要だから選ぶ。

涙の有無ではなく、結果のために切り捨てる。

 

それが彼女の信じる英雄であり、

それが彼女の求める(フィアナ)だった。

 

───なのに。

胸の奥で、何かが軋む。

 

ああ、と。

小さな聖女は胸のうちで、誰にも聞こえぬように吐き出した。

 

───これが、私の望んだ英雄。

 

───これが、私の目指す(フィアナ)

 

******

 

「ッ……が、あぁっ!」

 

ミノタウロスの大剣が、真正面から僕の剣に叩きつけられた。

 

次の瞬間、僕の体は吹き飛ばされていた。

視界がぐるんと回った。

背中から石壁に激突し、鈍い衝撃が全身を貫いた。肺の中の空気が一瞬で押し出される。

息ができない、声も出ない。

ただ喉の奥で、潰れたような呻きだけが漏れた。

 

血が、ぽたりと落ちた。

口の端からこぼれたそれが、床に赤い染みを作る。

背中が熱い。

身体中が悲鳴をあげていた。

もうどこが痛いのかもわからない。

 

ミノタウロスは、傷ひとつ負っていなかった。

 

深紅の巨体。

返り血に濡れたみたいな赤黒い毛並み。

僕の身長より大きな大剣を片手で引きずりながら、怪物はゆっくりと近づいてくる。

 

一歩。

また一歩。

石床を踏みしめるたび、広間(ルーム)が揺れる。

その足音は、まるで死そのものが形を持って迫ってきているみたいだった。

 

僕は震える腕を床につく。

起きなければいけないのに、身体が言うことをきかない。

脚に力を込めても、膝が笑うだけで動かない。

 

まずい。

このままじゃ、本当に死ぬ。

怪物の影が、じりじりと僕を覆っていく。

 

───その時だった。

 

「ベル、よくやったわ」

 

声がした。

 

無様に倒れ伏した僕を庇うように、リリさんが立っていた。

白銀の槍を閃かせ、ミノタウロスの前へと躍り出る。

その背中は小さい。

僕よりもずっと小柄だ。

なのに、今はその背中が、信じられないくらい大きく見えた。

 

リリさんは振り返って、笑った。

 

まるで「よく頑張りました」とでも言うみたいに。

 

それから、槍を地面に突き立てる。

金属音が、短く鋭く響いた。

その動作ひとつに、はっきりとした意思がこもっている。

 

───ここから先は、触れさせない。

そう告げられた気がした。

 

また、僕は助けられるのか。

その考えが、頭の中に落ちた瞬間、胸の奥が冷たくなる。

 

あの時もそうだった。

ミノタウロスに殺されかけた時、アイズさんが助けてくれなければ、僕は死んでいた。

 

あの時もそうだった。

食人花に呑まれかけた時、【ロキ・ファミリア】が来なければ終わっていた。

 

あれも。

これも。

全部、僕が弱かったから。

 

僕に力が足りなかったから。

誰かが来てくれたから、今の僕がある。

 

じゃあ、いつなんだ。

いつ僕は、自分の足で立てるようになるんだ。

ずっと助けられて、守られて。

 

今だって、無様に床を転がっているだけだ。

 

 

───幼い頃に誓った約束は?

 

───お義母さんに誓った約束は?

 

───初めて神様に会った時に、一緒に誓った約束は?

 

全部、果たせない。

このままじゃ、何ひとつ届かない。

 

ベル・クラネルは、英雄になれない。

 

『ベル、さっさと救って帰って来い』

 

頭を撫でられて、去った故郷。

 

『ベル、英雄になろう。これから始めるんだ。私とベルの約束の物語(ファミリア・ミィス)を!』

 

あの満月の下で、誓った約束。

 

「違う……」

 

気づけば、声が漏れていた。

 

「……ベル?」

 

リリさんが、わずかに目を見開く。

 

僕は、その腕を掴んでいた。

体はまだ悲鳴を上げている。

立つな、もう無理だと、全身が叫んでいる。

 

でも、それ以上に、胸の奥が熱かった。

熱い。

息が苦しいのに、心臓は燃えるみたいに脈打っている。

血が沸騰しているようだった。

 

「ここで倒れて……運命を全部任せるなんて……違う」

「!!」

 

約束したんだ。

もう歩くことすら苦痛なはずなのに、椅子に座って、何でもないみたいな顔をしていたあの人と。

 

約束したんだ。

月の光を受けて、誰よりも綺麗に微笑んでくれたあの人と。

 

その約束を果たすために、僕は───!!

 

「決めたんだ……!英雄になるって!誓ったんだ!英雄になるって!」

 

叫んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 

深紅のミノタウロスは、そんな僕を見ていた。

まるで歓迎しているみたいに。死地へもう一度踏み込んでくる獲物を、楽しそうに待っているみたいに。

 

僕は立ち上がる。

ふらつく足で、それでも前へ出る。

リリさんを追い越して、一歩前へ。

 

小人族(パルゥム)にはね、一番大切にしていることがあるの。ベルも困ったら思い出してね』

 

いつかの鍛錬で、リリさんが言っていた言葉が蘇る。

 

前へ進もう。

もう、後ろを振り返る必要なんてない。

 

前へ進もう。

約束を果たすために。

 

一歩。

砕けそうな脚を、前へ。

 

一歩。

今にも折れそうな心を、前へ。

 

『冒険者は冒険しちゃいけないの、分かった? ベル君』

 

ごめんなさい、エイナさん。

僕は、これからあなたの言いつけを破ります。

 

今日、ベル・クラネルは前へ進む。

 

約束を果たすために。

英雄になるために。

今日、僕は初めて───冒険をする。

 

******

 

「リリさん!なんで止めてくれなかったんですか!」

「彼を止める資格は、私にはありません。英雄への切符は、誰にでも平等にあるのです」

「けど!無茶と無謀は全く違うわ!」

 

レフィーヤとアリーゼが、リリルカへ詰め寄る。

二人の視線の先では、深紅の怪物と白髪の少年が闘争していた。

だが、問い詰められてなお、リリは一度たりともベル・クラネルから目を離さず、その戦いを見つめ続けていた。

 

止めなかったのではない。

止められなかったのだ。

 

あの瞬間、彼女は見てしまった。

血に塗れ、膝を折り、今にも砕け散りそうでありながら、それでもなお前へ進もうとする、あの眩しすぎる光を。

 

リリルカ・アーデには持ち得ない、英雄へ至るための純粋な輝き。

それを前にして、彼女は槍を向けることができなかった。

 

「やあ、初めましてというべきかな。【救済聖女(マキア・セイント)】と【太陽の花(プロミネンス・ハーネル)】で合ってるかい?」

 

状況を確認すべく、【ロキ・ファミリア】の面々が歩み寄る。

柔らかな笑みを浮かべながらも、フィン・ディムナの碧眼は鋭く戦況を見据えていた。

 

それでも、リリルカは応じない。

応じる暇すらないのだ。

彼女の視界に映るのは、ただ一人の少年だけだった。

 

「おい、あいつってアイズに助けられたトマト野郎か!?ハハハッ!傑作だな!」

「黙ってろ、犬風情が。殺されたいのか」

「アァ!?」

「あの子、Lv.1なんでしょ?絶対やられちゃうよ」

 

ベートが嘲笑い、ティオナが残酷なほど率直な現実を口にする。

それは熟練の冒険者として当然の判断だった。

冒険者になってまだ一月半。

しかも相手はミノタウロス、それも異常種じみた深紅の怪物。

常識で考えれば、勝敗は初めから決している。

 

「ンー……でも、状況は少し違いそうだよ」

「……おい、どうなってやがる」

 

「ああああああああああっ!!」

『ブモオオオオオオオオオッ!!』

 

次の瞬間、戦況が爆ぜた。

 

鮮血が舞う。

怪物の大剣が轟音と共に石床へ叩きつけられ、誰もいない地面を砕き割る。

飛び散った破片が火花のように弾け、粉塵が白く舞い上がった。

 

その死の間隙を、ベル・クラネルは駆け抜ける。

深紅の怪物の股下へ滑走(スライディング)で潜り込み、すれ違いざま、脛へ鋭い斬撃を走らせる。

肉を裂き、硬い皮膚をこそぎ、確かな傷を刻む。

ミノタウロスが咆哮し、反射的に大剣を薙ぎ払う。

 

だがベルはまともに受けない。

剣身を斜めに合わせ、衝撃を殺しきらぬまま受け流し、その反動を利用して反転する。

そして、反撃(カウンター)

 

白い閃光を引いて走る刃が、怪物の腕を裂いた。

 

「なっ……あの子、Lv.1じゃなかったの!?」

「……あの少年は、本当に駆け出し冒険者だったのか?」

「ひと月前、ただの新米として僕たちの目には映っていた。英雄への階段を駆け上がるように、少年は怪物と対峙している」

「何が起こってやがる……」

「冒険。彼の、冒険」

 

ティオナが目を見開き、リヴェリアが低く呟き、フィンが静かにその姿を見定める。

ベートの声音には苛立ちと困惑が混じり、アイズだけは金色の瞳を瞬きもせず戦場へ向けていた。

 

ひと月前。

そこにいたのは、どこにでもいるような白髪の新米冒険者だった。

剣を握る手も危うく、足運びも未熟で、危なっかしいほどに真っ直ぐなだけの少年。

 

ベル・クラネルに、卓越した剣才があったわけではない。

災禍の怪物にさえ、才能(センス)がないと嘲られたほどだ。

 

だが、たった一つだけ。

彼女も認めざるを得ないものがあった。

 

真っ直ぐさだ。

どこまでも透き通っていた。

折れず、屈せず、泥にまみれてもなお光を目指す、不屈の意志。

 

「ていうか、あの魔法何!? アイズと同じ付与魔法(エンチャント)!?」

 

ティオネが叫ぶ。

 

ベルの体を包んでいるのは、白き光。

光が彼の脚を押し、腕を導き、呼吸すら後押しする。振るう斬撃は先程よりも重く、踏み込みは先程よりも速い。

 

白き光が、怪物の振り下ろしを紙一重で躱し、白き光が、怪物の腕を、脚を、胸を抉っていく。

 

「私が修行をつけていた時は、ベルの魔法はまだ出力が全然足りない状態でした」

「でも見てよ、アーデ。今のあれ、すごい付与魔法(エンチャント)になってるわよ!?」

「……精霊が、叫んでる」

「どういう意味?レフィーヤ」

「精霊が……無理やり、ベルの体に光を流し込んでる。負けるなって、叫んでる……!」

 

レフィーヤの声は震えていた。

精霊と契約した彼女だからこそわかる。

あれは単なる魔法出力の上昇ではない。

ベル・クラネルという器が壊れないぎりぎりを見計らって、光が、意志を持つように彼を押し上げているのだ。

 

無理やりに。

限界を超えさせるように。

死なない程度に、だが確実に、その身を燃やしながら。

 

誰の目にも明らかだった。

あんな使い方を続ければ、精神疲弊(マインドダウン)は避けられない。

 

ならば決着は近い。

 

次の一撃で、終わらせなければならない。

ベルも、それを理解していた。

 

破邪の一撃は使用不可。

平行詠唱も、今の彼には不可能だ。

そもそも残された精神力(マインド)が足りない。

 

だから、少年は別の一撃を選ぶ。

破邪に代わる、月光の一撃。

 

ベルは能動(チャージ)を開始する。

握られた『アルテミスの剣』から、澄んだ鈴の音が鳴り響いた。

 

ちりん、と。

それは戦場には不似合いなほど清らかな鈴の音だった。

 

ベルは今あるすべてを、その剣へ注ぎ込む。

すべてを、刃の一点へ。

本来、光を拒むような漆黒の刃が、収束する魔力に侵されるように変貌していく。

 

黒は薄れ、白銀へ。

月光を削り出したかのような神々しい輝きが、剣身に宿る。

 

対するミノタウロスもまた、本能で理解していた。

この一撃は危険だと。

怪物は拳を地へ叩きつけるように踏み込み、猛牛のごとき低い姿勢を取る。

二本の強靭な角を前へ突き出し、全身全霊でその一撃を受け潰す構え。

真正面から、月光を叩き潰すという意思を示した。

 

「あああああああああああっっ!!」

『ブモオオオオオオオオオッッ!!』

 

次の瞬間、その静止を突き破って、両者が激突する。

 

白と紅。

少年と怪物。

 

衝突した一点から、光と衝撃が爆ぜた。

空気が裂ける。

石床がひび割れる。

 

「馬鹿が……」

「若い……」

 

ベートが吐き捨て、リヴェリアが細く息を漏らす。

 

この場にいる誰もがわかっていた。

選ぶべきではない選択だったと。

 

真正面から怪物の膂力へ挑むなど、熟練の戦士ほど避ける愚策だ。

 

ただ一人。

リリルカ・アーデだけは、その姿を見ていた。

夕陽に染まる城壁で、彼女は少年へひとつの心得を授けていた。

 

『ベルに、私のとっておきの必殺技を教えましょう』

 

それは剣技ではない。

技術ですらない。

最弱と呼ばれた種族、小人族(パルゥム)

神々が地上に降りる以前から、弱き者として蔑まれ、踏みにじられてきた小さき民。

 

ではなぜ、そんな小人族(パルゥム)からフィアナ騎士団という英雄譚が生まれたのか。

答えは単純だった。

前へ出たのだ。

誰よりも小さな体で。

誰よりも踏み潰されやすい弱さを抱えてなお、最前列へ立ったのだ。

 

英雄譚には、こう記されている。

───ああ、誰よりも小さき身体で先陣を切る勇気ある種族。

───恐ろしい怪物が立ち塞がろうとも、その小さき身体は進むことをやめない。

 

だからこそ、前へ。

恐れながらも前へ。

すべてを乗せて、ただ前へ。

 

人はそれを───勇気と呼ぶ。

 

(全ての筋力を、右足に込めて押し出す!)

 

白き光と共に、想いが押し込まれる。

 

幼い頃から抱き続けた英雄への憧れ。

もう長くはない者との約束。

女神と交わした誓い。

 

「ああああああああっっ!!」

『───!?』

 

勝敗を分けたのは、技巧ではない。

最後の最後で刃を押し込んだのは、想いの強さだった。

 

強靭な角が、砕ける。

鈍く、嫌な音を立てて。

怪物の誇る角が、白き一撃に耐えきれず砕散した。

 

ベルはそのまま怪物の頭上へ跳ね上がる。

そこへ、怪物の背に少年は剣を突き立てた。

 

「【光よ(ルクス)】っ!!」

 

白光が爆ぜた。

月光を極限まで圧縮し、一気に解き放ったような一撃。

 

深紅のミノタウロスの上半身が、閃光に呑み込まれ、そのまま消し飛ぶ。

残されたのは、舞い落ちる灰。

そして、勝者を祝福するかのように降り注ぐ、白き光だけだった。

 

ベル・クラネルは、その場に崩れ落ちる。

糸が切れた人形のように、静かに。

まるで死んだように動かず、ただ祝福の光の中で気を失っていた。

 

「ベル!!」

 

真っ先に駆け寄ったのはレフィーヤだった。

膝をつき、倒れたベルの頭をそっと抱き上げ、自分の膝へ乗せる。

 

震える指が少年の頬に触れ、涙がぽろぽろと零れ落ちた。

 

「ベル、ベル……っ、ベル!」

 

まるで泣きじゃくる子供のように、彼の名を何度も呼ぶ。

 

そして、この場にいた誰もが、彼の冒険を目に焼き付けていた。

 

全身の血が沸き立つような熱を。

とうに忘れかけていた、胸を灼くような高揚を。

 

冒険者であることの意味を。

 

「……アーデ。私、決めたわ。彼のファミリアに入る」

「……やっとですか。私は元から、彼に夢中(ぞっこん)です」

 

アリーゼは、レフィーヤに抱えられるベルを見つめていた。

欲しかった宝物をようやく見つけた子供のように、その瞳を輝かせて。

 

リリは、そんな彼女に笑って返す。

視線はやはり、ベルから離れない。

 

「彼は、なんて名前なの?」

 

一歩前へ出たアイズが、静かに問う。

その声音は淡々としていたが、そこには確かな興味があった。

 

けれど二人は、互いの顔を見なかった。

ただ同じように、一人の少年を見つめながら。

 

「ベル。ベル・クラネル」

 

この場にいる誰一人、その名を忘れることはないだろう。

 

深紅の怪物へ挑み、傷だらけで立ち向かい、勝利をもぎ取った白髪の少年の名を。

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