【月光の神】ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 作:クックダッセ
「あの子素晴らしいわね」
葡萄酒の杯を指先で弄びながら、女は玉座に身を預けていた。
肩口まで流れる銀髪は、月光を細く撚った糸のように淡く輝き、白磁めいた肌には一点の曇りもない。
その姿は、男の視線を奪うだけではない。女であってもなお、思わず見惚れずにはいられない、完成された美のかたちだった。
けれど、その美しさゆえにこそ、彼女の日々は退屈でもあった。
誰もが魅せられる。誰もが跪く。誰もが欲し、焦がれ、手を伸ばす。
そこに驚きはない。変化もない。心を動かされる余地すら、ほとんど残されてはいなかった。
だが、ようやく見つけたのだ。
その倦怠を破るに足る、ひとつの魂を。
白く、眩く、まだ何色にも染まりきっていない魂。
脆いほどに純粋で、それでいて、目を離せなくなる危うさを孕んだ少年。
女はゆるやかに微笑む。
フレイヤ。
美の女神。
「主神はアルテミス、ね。少々厄介ではあるけれど……」
杯を唇に運び、葡萄酒をひとくち含む。
深い紅が喉を滑り落ちていくのと同時に、その瞳には愉悦にも似た光が宿った。
「必ず、あの子は私がもらうわ」
その笑みは甘やかで、残酷だった。
拒絶という概念そのものを知らぬ者の、静かな確信がそこにはあった。
******
「うわああああッッ!!」
叫び声とともに、僕は跳ね起きた。
額にはじっとりと汗が滲んでいる。
肩で息をしながら、自分の身体を確かめるように腕を動かし、脚を曲げる。痛みはある。全身が鈍く軋み、筋肉の奥に疲労が沈んでいるのがわかった。けれど、動けないほどではない。むしろ、思っていたよりずっとましだった。
……助かったんだ。
その実感が、遅れて胸に落ちてくる。
確か僕は、《豊穣の女主人》を飛び出した。
悔しくて、情けなくて、どうしようもなくて、そのままダンジョンへ向かった。
それから――
記憶が曖昧だ。
「起きましたか!アルテミス様!起きましたよ!」
弾んだ声に顔を上げる。
目の前にいたのは、昨日話したばかりのエルフの少女――レフィーヤさんだった。
簡素な机、椅子、棚、寝具。地上の廃教会とは違う、僕たちが暮らしている地下の生活空間。
どうやら、ちゃんと帰ってこられたらしい。
けれど、どうやって?
僕は思い出そうと記憶を辿ろうとする。
******
見た目は影。全身がくまなく真っ黒である。十字の形の顔をしている影である。新米殺しと言われるモンスター。
ベルは短刀を引き抜き、ウォーシャドウと対峙する。
こんな場所で立ち止まっている場合じゃない。
ここで止まれば、何も変わらない、何も変えられない。
「ああああああああああッッッ!!」
叫びとともに、ベルは突撃した。
ウォーシャドウの腕がしなる。
長く伸びたその腕の先には、鉤爪のように鋭い指が並んでいた。あれにまともに触れれば、今のベルの身体など紙のように裂かれるだろう。
触れたら終わり。
それでも、ベルは踏み込む。
振り下ろされた腕を、ぎりぎりのところでしゃがんで躱す。
風圧が頭上を掠め、背筋が冷たくなる。
そのまま懐へ潜り込み、短刀を突き上げる。
手応え。
黒い影が歪み、断末魔もなく崩れた。
一体。
だが、それだけだった。
ベルは息を荒げながら顔を上げる。
視界の先には、まだ影がいる。
一体や二体ではない。十を超え、二十に届こうかという数のウォーシャドウが、暗がりの中で蠢いていた。
それでも、退くという選択肢だけは、どうしても胸の中に浮かばなかった。
「行きなさい!ベル・クラネル!」
声が飛んだ。
ベルが振り向く。
そこにいたのは、レフィーヤ・ウィリディスだった。
彼女は少し離れた場所に立ち、震える声で、それでもはっきりとベルの名を呼んでいた。
その瞳には涙が滲んでいる。
けれど、怯えだけではない。そこには、何かを信じるような熱があった。
勝て、と。
目の前の怪物に勝て、と。
彼女の叫びは、そう言っているように聞こえた。
ベルはモンスターへ向き直る。
短刀を握る手に、もう一度力を込める。
「はい!」
次の瞬間、地面を砕くように踏み込み、ベルの身体が爆ぜるように前へ出た。
******
「お願いですから手を出さないでください!」
「え?」
レフィーヤはベルから目を離さないまま、背後にいる二人へそう言った。
アイズの口から、戸惑いが零れる。
それも当然だった。
今の状況は、どう見てもベルが劣勢だ。
負ける可能性のほうが高い。
まして、相手は《ウォーシャドウ》の群れ。ベルはまだ駆け出しの冒険者にすぎない。
アイズもリヴェリアも、それを理解していた。
「見てわからないんですか!?」
レフィーヤの声が、思いのほか強く響く。
自分でも驚くほど、感情が前へ出ていた。
「あのヒューマンは、強くなりたくてここまで来てるんです。酒場での話を聞いた時、彼、悔しそうに唇を噛みしめてました」
レフィーヤはベルから目を離さなかった。
「たしかに、あの
アイズとリヴェリアは、黙ってベルを見る。
命を賭して戦う冒険者。
言葉にすればありふれている。だが、本当にそれをやれる者は多くない。
危なければ逃げる。死ぬかもしれないなら、生き残る可能性に縋る。
それが普通だ。むしろ、それでいい。
けれど今、目の前にいる少年は違った。
己を超えようとしている。
弱さを抱えたまま、それでも前へ進もうとしている。
彼が求めているものは、ただひとつ。
強さ。
強くなりたい。
誰かを守れるようになりたい。
そのために、今この瞬間を越えようとしている。
「……なんだかわかる気がするな」
ベルの死闘を見つめながら、アイズがぽつりと呟いた。
レフィーヤも、リヴェリアも、その横顔を見てわずかに目を見開く。
だが、リヴェリアだけはすぐに小さく笑い、踵を返した。
「帰るぞ、アイズ。彼は彼女に任せておけ。私たちの出る幕ではない」
「うん、そうだね。えっと……」
アイズはレフィーヤの名を呼ぼうとして、そこで言葉を止めた。
まだ名前を知らないことに気づいたのだろう。
レフィーヤはベルから目を逸らさないまま、答える。
「レフィーヤ・ウィリディスです、これから彼のファミリアに入る偉大な一員です」
その言葉には、照れよりも先に決意があった。
「そっか。じゃあ、彼のこと頼んだよ。レフィーヤさん」
「はい。任されました、アイズ・ヴァレンシュタインさん」
「こんのおおおおおおおおおッッッ!!」
アイズとリヴェリアが去っていく中、ベルはなおも怪物を倒し続けていた。
一歩ずつ、血と汗にまみれながら、それでも前へ進んでいく。
レフィーヤはただ、祈るような気持ちでその背を見つめていた。
勝ってほしい。
どうか、勝ってほしい。
その願いだけが、胸の中で何度も繰り返される。
******
「ずいぶんと長いお休みだったみたいだな、ベル」
「神様……」
部屋の奥から現れたアルテミス様は、いつもの服装ではなかった。
身に纏っているのは、あのドレスだ。
神様が少し無理をして買った、よそ行きの一着。
「どうだ、これでパーティーに呼ばれた時に困らないぞ!」と、得意げな顔で僕に見せてきたことを思い出す。
その時のことが脳裏に浮かんで、少しだけ胸の力が抜けた。
「いい報告が二つある」
アルテミス様はそう言って、指を二本立てる。
そのままこちらへ歩み寄ってくるので、僕はなぜだか少し落ち着かなくなって、慌てて布団から抜け出し、食卓の椅子へ座る。
アルテミス様は僕の正面の椅子に腰を下ろす。
「まずひとつ目だが、眷属が一人増えた」
「ええッッ!?」
あまりにも予想外の言葉に、僕は椅子ごとひっくり返りそうになった。
眷属が増えた?
僕たちのファミリアに?
本当に?
胸の奥が一気に熱くなる。嬉しさが、驚きより先に込み上げてきた。
「そこのレフィーヤという
僕は、はっとして隣を見る。
レフィーヤさん。
新しい仲間。
僕たちのファミリアの一員。
その事実が、じわじわと実感になって胸へ広がっていく。
アルテミス様が何か小さく呟いた気がした。
「女性の団員が増えてモヤモヤする」とか、そんなふうに聞こえたような気もするけれど、たぶん気のせいだ。たぶん。
僕は思わず、レフィーヤさんの手を取っていた。
「レフィーヤさん!これから、このファミリアを大きくしていきましょうね!」
「は、はい。あ、あの、手が……」
「ご、ごめんなさい!?」
慌てて手を離す。
自分でも顔が熱くなるのがわかった。
けれど、レフィーヤさんは怒ったわけではなかった。
むしろ、困ったように、それでいてどこか嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見て、僕の胸の奥にも、くすぐったいような温かさが広がった。
「おいベル、何赤面してるんだ!」
「は、はい!すいません!?」
「それにレフィーヤまで、なんで赤面してるんだ!」
「し、してません! してません!? アルテミス様も、悔しいからって八つ当たりしないでください!」
「く、悔しいって何がだ!私は別に、く、悔しくなんて……悔しくなんて!!」
たちまち、レフィーヤさんと神様の言い合いが始まった。
レフィーヤさんは普段の気弱そうな印象からは想像できないほど強い口調で言い返している。
一方のアルテミス様は、神様らしからぬ勢いで指を突きつけ、むきになって反論していた。
「くっ……あはははははッ!!」
思わず吹き出すと、二人はぴたりと言い合いを止め、揃って僕のほうを見た。
何を笑っているのか、とでも言いたげな顔だった。
僕は笑いを堪えきれないまま、二人に向き直る。
「僕たちのファミリアも、一歩前進したんだなって思って……すごく嬉しくて」
言葉にしながら、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「僕と神様だけだと、こんな言い合いもできないじゃないですか。たった一人増えただけなのに、こんなに変わるんだって思ったら……なんだか、嬉しくなっちゃったんです」
言い終えると、部屋の空気が少しだけ静かになった。
レフィーヤさんは目を伏せ、柔らかな笑みを浮かべながら小さく頷いている。
アルテミス様もまた、納得したように僕を見つめ返してきた。
「ああ、そうだな。私たち二人の時には考えられなかったことだ」
アルテミス様はそう言って、ゆっくりと微笑んだ。
「けれど、またいつか一人、また一人と増えて、前へ前へと進んでいくのだろう。こうしてファミリアは大きくなっていく」
その言葉とともに、神様は僕の手を取った。
包み込むような、やわらかな手つきだった。
「きっとこの先も、何かにぶつかることはある。苦しいことも、逃げ出したくなる時も、絶望することだってあるだろう、そんな時は、私を思い出してほしい」
僕の手を包んでいた両手のうち、左手がそっと離れる。
そして今度は、その手がレフィーヤさんの手を包み込んだ。
レフィーヤさんの肩が、わずかに震える。
その表情を見て、きっと彼女も今、同じことを実感したのだと思った。
同じファミリアの一員なのだ、と。
「私は、お前たちの帰りを待っている。だから必ず帰ってきてくれ。優しい子供たち」
「はい!神様!」
「はい!アルテミス様!」
声が重なる。
その響きが、狭い地下室の石壁にやわらかく反響した。
僕はその瞬間、ほんの少しだけ、本当の家族というものに触れた気がした。
血の繋がりではなく、けれど確かに心で結ばれたもの。
きっとこの先、僕がどれだけ長く生きても、この光景を忘れることはないだろう。
「そうだ。あと一つ、朗報なんだが...」
******
「ふーん。これがアルテミスの眷属ねぇ〜」
工房に入るなり、そんな声が飛んできた。
「あ、はい!ベル・クラネルと言います!あ、あの、僕のために武器を作ってくださってありがとうございます!」
慌てて頭を下げる。
するとヘファイストス様は、どこか面白がるように片眉を上げた。
「あぁ〜、それはもういいのよ。アルテミスから何度もお願いされたからね」
「ヘファイストス! あまりそのことを思い出させないでくれ!」
神様が顔を赤くして抗議する。
その様子に、ヘファイストス様はますます楽しそうだった。
工房の中には、鉄と油の匂いが満ちていた。
壁際には剣や槍、防具の類が整然と並び、薄暗い室内の中で鈍い光を返している。
けれど、ここは実際に鍛冶をする場所ではないらしい。
火床も竃も見当たらず、むしろ完成した品を見せるための部屋のように思えた。
「それで肝心の武器なんだけどね」
その一言に、僕は思わず喉を鳴らした。
ヘファイストス様は背後の机に置かれていた紫色の包みを持ち上げる。
大きさからして、剣だろうか。
いや、もしかしたら別の武器かもしれない。
そんな考えが頭の中を駆け巡るうちに、その包みは僕の手へと渡された。
ずしり、と重い。
その重みだけで、期待がさらに膨らむ。
「見てごらんなさい」
「はい」
僕は紫の包みを床に置き、自然と正座していた。
妙に背筋が伸びる。
包みを開く指先にまで緊張が宿るのがわかった。
布を解く。
現れたのは、刃から柄に至るまで漆黒に染まった一振りの剣だった。
黒い。
ただ黒いだけではない。
光を吸い込むような深い色合いの中に、刃の表面を走る細かな筋が見える。
それは傷ではなく、何か意図を持って刻まれた線のようだった。
「その剣はね、あなたと共に成長する武器なの」
「僕と一緒に……成長?」
「そう、あなたが強くなればなるほど、その武器も強くなるの。まあ鍛冶師からしたら邪道だけどね」
ヘファイストス様は肩をすくめて笑った。
けれど、その目には職人としての矜持と、少しの遊び心が同居しているように見えてしまった。
ふと視線を上げると、レフィーヤさんが少し緊張した面持ちで立っていた。
ヘファイストス様と目が合うたび、肩がこわばっている。
その様子が少し可笑しくて、僕は小さく笑ってしまった。
「ふーん、もう一人眷族できたのね、アルテミス」
「ああ、私の二人目の眷属レフィーヤ・ウィリディスだ」
「ってちょっと待って!その武器見せて!」
「え、あ、はい」
ヘファイストス様は急に身を乗り出し、レフィーヤさんの剣を受け取った。
鞘から抜かれたそれは、美しい銀色の光を放っていた。
柄には金の装飾が施され、どこか貴族の佩剣を思わせる気品がある。
僕の剣よりも細身で、軽やかな印象の一振りだった。
ヘファイストス様はそれを隅々まで見つめ、感心したように息を漏らす。
「これすごい業物ね、誰が使ったの?」
「誰、というのは私にもわからないんですけど……義父のものなんです。オラリオへ行くなら持って行けって。代々受け継がれてきたものらしいんですけど、私なんかが持っていていいのかなって、時々思うんです」
レフィーヤさんは苦笑してみせた。
けれど、その笑みの奥には、わずかな陰りがあったように感じた。
過去に触れる時の、言葉にしきれない感情の影。
ヘファイストス様は何も追及せず、静かに剣を返した。
レフィーヤさんはそれを受け取り、丁寧に鞘へ収める。
「ベル・クラネル、その武器の名前なんだけどね」
「あ、はい!」
僕は思わず身を乗り出した。
「『アルテミスの
「『アルテミスの
「その剣はちょっと特殊でね、武器を打つ時にアルテミスの血を混ぜてるの血を混ぜたからって、特別な武器になるわけじゃないのよ。でもアルテミスがどうしてもって聞かなくてね」
「だ、だって……ちょっとでもいいから、私の要素を入れたくて……」
神様は気まずそうに目を逸らしながら、そんなことを言う。
どういう顔をすればいいのかわからなかった。
嬉しい。
でも、少し恥ずかしい。
僕は手の中の剣を見下ろす。
漆黒の刃。
その奥に、よく見れば、淡い青の線が細く走っていた。
神々しいほどに静かな光だった。
それを見ていると、ただの武器には思えなくなってくる。
僕一人の剣じゃない。
僕と神様、二人で前へ進んでいくための剣なのだと、そんな気がした。
胸の内が、じんわりと温かくなる。
約束を果たすために。
英雄になるために。
僕はその剣を握りしめながら、胸の奥で静かに誓った。
******
工房を出たあと、僕たちはそのままホームへ戻った。
腰には、さっそく【アルテミスの剣】を下げている。
歩くたびに、その重みが確かな現実として身体に伝わってきた。
そこで僕は、前から気になっていたことを思い出した。
「レフィーヤさん」
「はい? 何でしょう?」
「前に《豊穣の女主人》で聞きそびれたこと、知りたいです」
そう言うと、レフィーヤさんは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「そうですね。聞いてくれますか?少し長くなりますよ」
レフィーヤさんが真剣な眼差しで食卓につく。
僕と神様も、その向かいに腰を下ろした。
そしてレフィーヤさんは、ゆっくりと口を開く。
「私はラキアにいたんです」
ベル・クラネル
Lv.1
力 : H 198→F 375 耐久 : F 368→E 442 器用 : H 176→F 301 敏捷 : F 396→D 521 魔力 : I 0
《魔法》
【】
《スキル》
【
・早熟する。
・
・夢見の丈により効果向上。