【月光の神】ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 作:クックダッセ
レフィーヤの過去を聞き終えた時、気づけば僕は泣いていた。
頬を伝うものを拭うことすら、しばらく思い出せなかった。
胸の奥が、鈍く、重く痛んでいた。
彼女はきっと、何度も悩んだのだろう。
何度も立ち止まり、何度も足掻き、それでもなお、自分の足で生きる理由を選び取ったのだ。
僕なんかより、ずっと大人だった。
僕なんかより、ずっと残酷な世界を知っていた。
「レフィーヤさん……」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「すいません、なんだか辛気臭い話をしちゃって……」
そう言ってレフィーヤさんは、瞳の端に滲んだ涙を指先でそっと拭った。
泣いた直後だというのに、もういつものように明るく振る舞おうとしている。
けれど、きっと。
きっと彼女は、炎龍を倒すその日まで───いや、倒したとしてもなお、この過去を完全に手放すことはできない。
だからこそ、僕は言わなければならない気がした。
「レフィーヤさん!」
「はい、なんでしょうか?」
「僕は……レフィーヤさんが炎龍を倒すところを、この目で見てみたいです」
言い切った瞬間、レフィーヤさんが目を見開いた。
本当は、それだけでよかったはずだった。
それだけ伝えられれば十分だったはずなのに、一度ほどけた言葉は、もう止まってくれなかった。
「だから……その、僕と一緒に強くなりませんか……って、何を言ってるんだ僕! 当たり前のことですよね!? ご、ごめんなさい! 変なこと言って!」
自分で言っておいて、自分で慌てる。
顔が熱い。耳まで熱い。たぶん今の僕は、見なくてもわかるくらい真っ赤だった。
するとレフィーヤさんは、一拍だけ目を丸くしたあと、堪えきれないように小さく笑った。
「……ふふっ。そんなことを言ってくれる人がいて、嬉しいです。ラキアには、そういう人はいませんでしたから」
「そ、そうなんですか……」
レフィーヤさんは一呼吸おいて口を開いた。
「だから───あなたみたいな人と出会えて、よかったです」
眩しい、と僕は思った。
その笑顔があまりに澄んでいて、一瞬だけ言葉を失った。
目が腐っていた、と彼女は言った。
かつて鏡の中にいた、絶望に沈んだ少女の話をした。
けれど、もし本当にそんな少女がいたのだとしても、今、僕の目の前にいるレフィーヤさんからは、もうほとんど想像がつかない。
いや、違う。
きっとその暗さごと越えてきたからこそ、今の光がこんなにも眩しく見えるのだ。
彼女の目標は、炎龍を倒すこと。
では、その先はどうするのだろう。
すべてを果たしたあと、彼女はラキアへ帰るのだろうか。
そんなことを考えてしまった時だった。
「それと」と、レフィーヤさんが言葉を継いだ。
「同じ
たったそれだけのことなのに、なぜだろう。
急に距離が近づいた気がして、妙に緊張する。
「……わかった。レフィーヤ」
「はい。よろしくお願いします、ベル」
そのやり取りはほんの短いものだったのに、不思議と胸の奥に残った。
名前で呼ぶということは、思っていた以上に、相手を近くへ招き入れる行為なのかもしれなかった。
******
ダンジョン探索にも、少しずつ慣れてきていた。
レフィーヤがいることで、これまでなら手こずっていた相手も、ずいぶん安定して倒せるようになった。
それだけじゃない。
彼女の戦い方は、見ているだけでも勉強になる。
剣を振る時の重心移動。
踏み込みの浅深。
敵との間合いの詰め方。
どれも僕とは比べものにならないほど洗練されていて、彼女が積み重ねてきた時間の長さを、戦いのたびに思い知らされる。
「剣の振り方は、そっちじゃなくて、こういう動きのほうがいいです。ああ、違いますベル。もっと脇を閉めて……そうです、そんな感じ」
レフィーヤの声が背中から飛ぶ。
僕はアルテミスの剣を握り直し、目の前のウォーシャドウへと踏み込んだ。
「っ……!」
振り下ろされた影の腕を、半歩だけ身をずらしてかわす。
風を裂くような一撃が頬のすぐ脇を通り過ぎ、遅れて冷たい汗が背を伝った。
僕は右足で床を強く踏みしめ、その反動で一気に懐へ潜り込む。
アルテミスの剣を下から斜めに跳ね上げるように振るうと、銀光の軌跡が影の胴を切り裂いた。
「ベル、下がって!」
レフィーヤの鋭い声。
反射的に後ろへ跳ぶのと、澄み切った詠唱の終わりが重なる。
「【アルクス・レイ】!」
凛と張った声とともに、眩い光が奔った。
一直線に放たれた光条は、薄暗い通路を白く塗り潰しながらウォーシャドウを呑み込み、その影そのものを灼き切る。
断末魔すら許さぬ一閃。
輪郭を失ったモンスターは、霧散するように崩れ、最後には紫紺の魔石だけを残して消えた。
これが、レフィーヤの持つ唯一の攻撃魔法。
敵の数が多少多い時や、僕が前に立って時間を稼げる時に使ってくれる。
並行詠唱はまだ練習中らしいけれど、それでも十分すぎるほど強力だった。
「今のは踏み込みが少し深すぎましたから、すぐ引ける位置がいいです」
「う、うん……やっぱり見抜かれてる……」
「見ればわかります。ベル、正面から行きすぎる癖がありますから」
「うっ……」
「でも、さっきの入り方は悪くなかったです。前よりずっとよくなってますよ」
褒められた。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ浮き立つ。
単純だと自分でも思う。でも、嬉しいものは嬉しい。
その後も僕たちは何度かモンスターと遭遇した。
連携というには、まだぎこちないかもしれない。
それでも、僕が前で抑え、レフィーヤが見て、支える。その形は少しずつ噛み合い始めていた。
戦うたびにわかる。
一人で必死に剣を振っていた時とは、まるで違う。
背中を預けられる相手がいる。
自分の未熟さを指摘してくれる相手がいる。
そして何より、同じ先を見て歩いてくれる相手がいる。
それが、こんなにも心強いなんて思わなかった。
「ふう……そろそろ切り上げて、アルテミス様のところへ戻りましょうか。お腹も空きましたし」
「うん」
地上では、もう日が落ちかけている頃合いだ。
僕たちは7階層から地上への帰路についた。
探索を終えた冒険者たちが、武具の軋む音を鳴らしながら、ぞろぞろと地上へ戻っていく。
夕刻のダンジョン出口には、独特の熱気とざわめきが満ちていた。
けれど、そのざわめきの中で、僕とレフィーヤが目にしたものは、あまりに異質だった。
───檻だ。
しかも、一つじゃない。
いくつもの鉄檻が通路脇に並べられ、その内部ではモンスターたちが荒々しく身体をぶつけ、鉄格子をがんがんと鳴らしていた。
本来なら、ダンジョンの外へ持ち出されること自体がありえない存在。
それが、閉じ込められ、運ばれている。
あまりに異様だった。
「レフィーヤ、あれ何かわかる?」
「し、知りませんよ。ベルのほうが長くオラリオにいるんですから、私が聞く台詞でしょう!」
「うっ……それを言われると……」
僕の方が長いって言っても、まだ一ヶ月も経ってないんだけど……。
喉の奥でそんな言い訳を転がしながらも、視線はどうしても檻から外せなかった。
結局、僕たちは檻の中で蠢くモンスターたちに薄気味悪さを覚えながら、そのまま地上へ帰還した。
帰ったら、神様に聞いてみよう。
******
神様は仕事を終えたあと、汗を流すために浴場へ向かい、そのあいだに僕たちは
夕食を済ませたころに、風呂上がりの神様をつかまえて、僕はさっきダンジョンの帰り道で目にした光景について尋ねた。
「あれは、
「「
僕とレフィーヤの声が、ぴたりと重なる。
神様は濡れた髪をタオルでやさしく拭いていた。
湯上がりのせいか、白い頬にはほんのりと紅が差していて、寝間着姿のせいもあって、いつもの仕事着や神衣の時よりもずっと無防備に見える。
その姿に、思わず視線が引き寄せられた。
濡れた髪先。
火照りの残る頬。
すこしだけ緩んだ表情。
だ、駄目だ!
神様に向かって何を考えているんだ僕は!?
相手は神様だぞ!?
「【ガネーシャ・ファミリア】主催のお祭りだ。モンスターを調教する姿を見せる催しだ」
「モンスターを調教……なるほど。それで檻に入れて地上まで運んでいたんですね」
レフィーヤが顎に指先を添え、納得したように小さくうなずく。
「私も下界に降りてまだ日が浅いから、詳しいことまでは知らない。だが、屋台もたくさん出るそうだぞ」
「屋台ですか!僕、オラリオに来てからお祭りって初めてなので、楽しみです!」
思わず身を乗り出してしまう。
田舎で聞いたことのある話とは比べものにならないくらい、オラリオの祭りはきっと大きくて、派手で、眩しいに違いない。
僕は未知の催しへの期待が膨らんでいくのを止められなかった。
「もう行く気満々なんですか、ベルは……まあ、私も楽しみじゃないと言えば嘘になりますけど」
レフィーヤはそう言ったあと、なぜか急にもじもじとし始めた。
頬がうっすら赤い。
視線は下へ落ちているのに、ときどきこちらをうかがうように揺れている。
落ち着かないように指先を絡めてはほどき、どこか言いづらそうに唇を動かしていた。
そんな様子を見ていると、こっちまで落ち着かなくなってくるからやめて!?
「その……ベルが誘ってくれるなら、一緒に回るのもやぶさかではないというか、なんというか……」
こ、これは!
もしかして、正式なお誘い待ちってやつなんだろうか。
お祖父ちゃんの言っていた“でーと”というやつなんだろうか。
いや、違うかもしれない。
でも、もし違わなかったらどうしよう。
というか、考えたせいで余計に緊張してきた。
「え、えっと……なら、僕と一緒に回ってくれませんか?」
言った瞬間、自分の顔が一気に熱くなるのがわかった。
たぶん今の僕は、さっきよりもっと真っ赤だ。
そんな顔を見られたくなくて、思わず俯く。
「……しょ、しょうがないですね。断る理由もないですし!」
レフィーヤは少しだけ唇を尖らせながら、それでもちゃんと僕の誘いに応えてくれた。
その声も、どこか照れくさそうで、だけど嫌そうではなくて。
胸の奥が、ふわりと浮いた。
「あー、私もその日は暇でなー。うん、暇だな。バイトも休みだし、暇で死んでしまうかもしれない。どうするかな。暇だしな!」
どこまでもわざとらしい声が、真正面から飛んできた。
食卓にどかりと腰を下ろした神様が、こちらをちらちら見ながら大声で独り言を言っている。
……独り言、だよね?
いや、どう見ても違う?
「え、えっと……なら、神様も一緒に行きますか?」
「なら?なら、だと?」
「うわ、めんどくさ……この人」
僕の言葉に神様がむっとし、レフィーヤがぼそりと本音を漏らした。
次の瞬間、神様の手がすっと伸び、レフィーヤの頬を横に引っ張った。
「レフィーヤが言うな!というか、いつの間に名前で呼ぶようになったんだ!」
「おふぁひふぁみりあなんですから、とうぜんじゃないですか!」
頬を引っ張られたままの抗議は、ひどく聞き取りづらかった。
レフィーヤは神様の手を掴み、これ以上引っぱられないよう必死に抵抗している。
このままでは収まりそうにない。
そう思った僕は、意を決して神様へ向き直った。
「神様。僕と一緒に、お祭りを回ってくれませんか?」
その言葉に、神様はようやくレフィーヤの頬から手を放した。
逃れたレフィーヤが赤くなった頬をさすっている横で、神様は小さく笑い、僕の手を取る。
「ああ。一緒に回ろう」
その笑顔は、まぶしかった。
どこか太陽を思わせる、明るくて、真っ直ぐな笑み。
人を惹きつけるのに、押しつけがましくない。
ただそこにあるだけで、自然と目を奪われてしまうような光。
胸が、どくりと鳴る。
やっぱり神様は魅力的だ。
怒ると怖いし、勢いもあるし、時々すごく強引なのに。
それでも、こんなふうに笑う時だけは、何もかもが綺麗に見えてしまう。
「だがな、ベル」
神様は僕の手を離し、食卓をだんっと叩いた。
食器がかすかに跳ね、空気がひやりと張る。
「まず主神である私を誘うのが当然ではないのか?なぜ二人だけで回ろうとしていた」
「ひっ!?ご、ごめんなさいぃ!?」
笑顔ではあった。
けれど、目がまったく笑っていなかった。
た、たしかに僕が悪い。
神様が最優先なのは当然だし、同じ
「私が勝手に除外されているのは、寂しいぞ、ベル」
「か、神様……」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛む。
少しだけ、わかった気がした。
神様は、いつも格好いいだけの人じゃない。
凛々しくて、頼もしくて、堂々としていて、僕を導いてくれる眩しい存在。
けれどその反面、とても女の子らしいところもある。
甘いものが好きで。
可愛いものが好きで。
こうして拗ねたりもする。
そんな反面があるからこそ、こんなにも目が離せないのかもしれなかった。
「ごめんなさい、神様。決して誘いたくなかったわけじゃないんです。いつも忙しそうだから、何か予定があるのかなって思って……それで、少し誘いづらくて」
「それでも、強引に誘ってくれたら、私はすごく嬉しいと思う……特にベルにならな」
「か、神様……」
「ベル……」
気づけば、僕たちはお互いの顔を見つめ合っていた。
距離が、近い。
神様の瞳の色が、こんなにもはっきり見える。
湯上がりの甘い匂いが、ふわりと鼻先をくすぐる。
心臓の音がうるさい。
「ちょっと!二人だけの世界に入らないでください!!私も
ばんっと食卓を叩く音で、僕ははっと我に返った。
レフィーヤが頬を膨らませながら、じとっとこちらを睨んでいる。
神様も「す、すまない!」と慌てて身を引いた。
急に気まずくなってしまい、しばらく変な沈黙が流れる。
その沈黙をどうにか誤魔化すように、僕は無理やり別の話題を探し始めた。
******
都市が騒いでいた。
比喩ではない。
本当に、オラリオそのものが大きく沸き立っていた。
石畳を埋め尽くす人、人、人。
いつもならダンジョンへ向かっているはずの冒険者たちすら、この日ばかりは足を止めて祭りへ身を投じていた。
屋台で腹を満たす者。
仲間と肩を並べて騒ぐ者。
稼ぎ時だとばかりに声を張り上げ、名物を売りさばく者。
誰も彼もが、この
そして、【ガネーシャ・ファミリア】の管理する闘技場では、調教されたモンスターたちによる見世物が行われる。
それがこの祭りの中心であり、毎年恒例の大目玉でもあるらしい。
そして僕───ベル・クラネルは、その祭りの熱に完全に呑まれていた。
「す、すごい……」
思わず漏れた声は、雑踏の中へあっさりと消える。
甘そうなお菓子が積まれた台。
見たこともない香辛料を振りかけた肉料理。
果物を煮詰めた蜜菓子。
大鍋でぐつぐつ煮込まれているスープ。
視界に入るものすべてが珍しくて、目が追いつかない。
いや、たぶん目だけじゃない。
耳も鼻も、何もかもが追いついていなかった。
完全に圧倒されている僕とは対照的に、神様はというと───
「ベル!あれはなんだ!?この料理はなんだ!?見ろ、あっちは串焼きだぞ!しかもこっちは甘そうな匂いがする!」
圧倒、というより興奮のほうが近い気がする。
愛する下界へ降り立ってから、初めて迎える大きな祭り。
しかも今日はせっかくの休みだ。
神様がこんなふうにはしゃぐのも、無理はないのかもしれない。
その横顔はきらきらしていて、見ているこっちまで少し嬉しくなる。
一方で、レフィーヤは比較的落ち着いていた。
ラキアでも祭りの類は何度も経験してきたのだろう。
周囲を見回しはするものの、僕みたいにいちいち足を止めて固まったり、神様みたいにひとつひとつへ大騒ぎしたりはしない。
きっと彼女がずっと故郷で平穏に暮らしていたなら、今ごろは僕と同じようにこの光景へ圧倒されていたのかもしれない。
「ベル!!レフィーヤ!!早く回ろう!せっかく私が休みをもらったのに、お店の前で立ちすくんでいたらもったいない!早く行こう!」
「うわわわわっっ!? か、神様、引っ張らないでくださいぃ!?」
返事をする間もなく、神様が僕の手をぐいっと引く。
というか近い、近いです神様!
「あっ!待ってください二人とも!!」
レフィーヤの慌てた声が後ろから飛んでくる。
けれど、祭りに完全に火がついてしまった神様は止まらない。
まるで新しいおもちゃを見つけた子どもみたいに目を輝かせながら、あちこちの屋台へ視線を移している。
そんなベルたちの様子を、【豊穣の女主人】の店先から眺めている者たちがいた。
腕を組み、というより腰に手を当てて、苦笑混じりにこちらを見ているミア。
その隣には、どこか羨ましそうに指先を口元へやるシル。
さらに、相変わらず涼しい顔を崩さないリューの姿もある。
「あの神は、働いている時はやたら威厳が高いんだけどね。こういう祭り行事には弱いのかい。この先もオラリオには祭り事があるんだ、ちゃんと働いてもらわないと困るんだがね」
呆れたようなミアの声に、シルがくすっと笑う。
「ミア母さん、あれはきっと興奮してるんですよ。ベルさんと一緒にいるから、たぶんとっても楽しいんです。私も同じ立場なら、あんなふうにはしゃいじゃいますよ」
「ならばシルも休みを取って行けばよかったではないですか。クラネルさんなら歓迎してくれるでしょう」
「バカ言ってんじゃないよ!」
即座にミアの怒声が飛んだ。
「これ以上あんたらが減ったら、誰が料理を届けるっていうんだい!あの神の代わりに、お前たちには倍働いてもらうよ!いいね!!」
有無を言わせぬ一喝。
それだけ言うと、ミアは踵を返し、ずかずかと厨房の中へ戻っていく。
シルは「はあっ」と大げさにため息をついて、しぶしぶ皿洗いへ戻った。
リューもまた、何も言わずシルの横へ回り、手伝いに入る。
******
「神様、食べすぎじゃないですか?」
「祭りなんだ、別にいいだろう。それに神は不変の存在だ。どれだけ食べても太ることはない。構わないだろう?」
「ほんと、神様って羨ましいです……」
祭りの喧騒から少しだけ離れた、人通りの薄い石畳の一角。
ベルたちは屋台でたくさん買い込んだ食べ物を抱え、ようやく腰を落ち着けていた。
もっとも、たくさん買ったの大半は、ほとんどアルテミスの手によるものなのだ。
アルテミスはイカ焼きを片手に、もう片方の手には甘い香りのするクレープを持ち、その傍らにはジャガ丸くんの包みまで置いてある。
食べ終えた串や包み紙の数を見る限り、すでに相当な量を平らげたあとだった。
それでもアルテミスは、まるで何事もない顔で次のひと口を運んでいる。
祭りの屋台らしい匂いに囲まれたその光景は、微笑ましいといえるだろう。
レフィーヤはアルテミスから分けてもらったクレープを、小さく頬張っていた。
口いっぱいに広がる甘さに、ほんの少しだけ目を丸くしている。
「……美味しいです」
ぽつりとこぼしたその一言に、僕は思わず笑いそうになる。
さっきまで祭りの喧騒に呑まれまいと気を張っていたのに、甘いものひとつで少しだけ表情が緩むあたり、やっぱり年相応の女の子なんだとベルは思った。
───次の瞬間だった。
空気が切り裂かれるような鋭さで、アルテミスの雰囲気が変わった。
さっきまで屋台料理を楽しんでいた神様が、何の前触れもなく腰の短剣へ手を伸ばす。
「神様……?」
アルテミスが刃先を向けた先。
それは、
ベルとレフィーヤはぎょっとして、その先へ視線を走らせる。
石壁に挟まれた狭い道。
陽の届きにくい薄暗がり。
奥へ行くほど黒を深めるその路地には、今は誰の姿も見えない。
ただ、じっとりとした暗がりが、口を開けるように続いているだけだった。
何もいない。
そう思った。
そう思ったはずなのに。
「ベル、レフィーヤ。この先にモンスターがいるぞ」
「!?」
二人の肩がびくりと揺れた。
予想もしていなかった言葉だった。
ここはダンジョンではない。
祭りの最中、無数の市民が行き交う迷宮都市の地上だ。
そんな場所にモンスターがいるなど、到底あっていい話ではない。
「ほ、本当にモンスターだったんですか?」
レフィーヤが恐る恐る問い返す。
アルテミスは小さくうなずいた。
ダイダロス通り。
その名を持つ区域は、民家が立ち並ぶ居住区の一角でありながら、異様な構造で知られている。
広大で、複雑で、そして入り組んでいる。
細道は折り重なるように続き、曲がり角は視界を断ち、慣れぬ者はすぐに方角を見失う。
まるで地上に築かれた
そう呼ばれても不思議ではない場所だった。
「この先は民家がある。
アルテミスは路地の先から目を離さぬまま、冷静に状況を切り分けていく。
「冒険者をギルドが秘密裏に動かしているのか。それとも、ギルドさえまだ気づいていないのか。まったく……ガネーシャは何をしている」
もしこのことが祭りの中心部へ広まれば、人々は一斉に逃げ惑うだろう。
ただでさえ混み合う
人波はたちまち暴力へ変わり、転倒し、押し潰され、モンスターとは無関係の負傷者さえ大量に出かねない。
まだ騒ぎにはなっていない。
ならば、今のうちに止めるしかない。
アルテミスが二人を振り返る。
「ベル、レフィーヤ。お前たちは戦える者たちだ。ならば、お前たちは市民を守ることができる」
その言葉は、確認であると同時に問いでもあった。
「───お前たちは、どうする?」
返答に迷いはなかった。
ベルの表情が引き締まる。
レフィーヤもまた、先ほどまでの柔らかい空気を打ち消すように、瞳へ強い意志を宿していた。
「「当然やります!」」
声が、重なる。
その答えに、アルテミスは満足そうに口元を綻ばせた。
先ほどまで祭りではしゃいでいた神のものではない。
眷属の覚悟を確かめた主神の笑みだった。
******
「随分と進みましたね」
ベルたちは、すでにダイダロス通りの奥へと踏み込んでいた。
祭りの喧騒は、もはや遠い。
つい先ほどまで耳を満たしていた歓声や呼び込みの声も、細く薄れた残響のようにしか届かない。
壁と壁に挟まれた空は細く切り取られ、陽の光さえ地上へ届きにくい。
祭りの最中だというのに、この場所だけが都市から切り離されたような不気味さを帯びていた。
警戒を強めたまま進んだその先。
路地が不意に開け、三人は小さな広場へと出た。
地面を突き破って生えたそれは、広場の石畳を押し割り、まるで大樹のごとき威容で鎮座している。
───そしてそれはいた。
そこに根を張るようにそびえていたのは、食人花だった。
地面を突き破って生えたソレは、広場の石畳を押し割り、まるで大樹のごとき威容で鎮座していた。
下から上までざっと七
黄緑色の長躯はぬめるような光沢を帯び、茎とも幹ともつかぬその胴体は異様なまでに太い。
巨大な花弁は肉厚で、開いた口腔のように何重にも重なり、その中心には獣の骨さえ砕けそうな鋭い牙列めいた器官が並んでいた。
そして、その怪花の口元には、白い体毛を持つモンスター【シルバー・バック】の上半身が、無残な形で呑み込まれていた。
筋骨逞しいはずのシルバー・バックが、まるで獲物として捕食されている。
咀嚼され、引き裂かれ、血肉を啜られ、紫黒い体液と生臭い匂いが広場に立ちこめ、祭りの甘い香りを完全に塗り潰していた。
「モンスターが、共食い……!?」
レフィーヤの声が、震える。
モンスターがモンスターを喰う。
そんな光景は、少なくともベルもレフィーヤも見たことがなかった。
「うっ……」
胃の腑を掴まれるような嫌悪感に、ベルの喉が引きつる。
だが、目を逸らす暇さえない。
食人花が、新たな獲物の存在に気づいたのだ。
ぬらり、と。
左右から伸びた触手が持ち上がる。
それは植物の蔓というより、意志を持つ蛇のようだった。
「ベル!レフィーヤ!来るぞ!!」
アルテミスの声が、鋭く広場を裂く。
「神様!?」
「アルテミス様!?」
ベルとレフィーヤが目を見開く。
アルテミスはすでに短剣を抜き、細身の刃を油断なく構えていた。
全知全能の神であろうと、下界では
その肉体は、ただの人間と変わらない。
戦場に立てば、傷つき、倒れうる存在だ。
だからこそ、二人の声には焦りが滲んだ。
だが、その一瞬の躊躇すら、敵は待たない。
食人花の触手が、風を裂いた。
「こんのおおおおおおおおおおおッッ!!」
ベルが地を蹴る。
『アルテミスの剣』を両手で握り込み、アルテミスを狙って打ち込まれた触手へ、横合いから渾身の一撃を叩き込んだ。
刃がぶつかった瞬間、甲高い衝突音が弾ける。
硬い。
いや、硬すぎた。
まるで濡れた鋼を斬ったかのような感触だった。
斬撃は確かに触手へ届いたが、肉を裂く手応えはない。
表皮を浅くえぐることすらできず、刃の衝撃だけが腕へと跳ね返ってくる。
「ぐっ──!」
ベルの両腕が痺れた。
それでも一撃の軌道をわずかに逸らすことには成功する。
触手はアルテミスの身体を直撃する寸前で角度を変え、横の石畳を叩きつけた。
轟音。
石片が弾け、地面に亀裂が走る。
まともに喰らえば、人の身体など一撃で潰れる。
そう理解した瞬間、ベルは痺れる腕を無視して再び前へ出た。
怯みながらも足を止めず、斬って、避けて、食らいつく
「【解き放つ一条の光、聖木の弓幹】」
レフィーヤが反射的に詠唱へ入る。
このままでは押し切られる。
ならば、せめて一撃。
その判断は間違っていなかった。
だが───
『!!』
食人花の反応が変わった。
ベルを狙っていた触手が、びくりと震え、明らかにレフィーヤのほうへ意識を向ける。
まるで魔法の気配に引き寄せられたかのように。
「レフィーヤ!!魔法を解け!!」
アルテミスの
「!?」
レフィーヤは息を呑み、反射的に詠唱を中断した。
その瞬間、触手の殺意が揺れる。
レフィーヤを狙っていたはずの先端が、より接近しているベルへと戻された。
「っ!」
ベルはとっさに後方へ飛び退く。
直後、触手が鼻先を掠めるように振り抜かれ、空気ごと薙いだ。
一歩遅れていれば、上半身ごと持っていかれていた。
「あいつは魔法に反応を示す!!
アルテミスが
「そ、そんな!?こんなモンスター相手、私たちじゃどうすることも……!」
彼女は剣士だ。
だが、それ以上に魔法の火力へ強い自負があった。
何かあれば、自分の魔法が戦局をひっくり返す。
そう信じてきた部分が確かにある。
だが、その切り札は封じられた。
使えば狙われる。
唱えれば仲間を危険に晒す。
並行詠唱さえ完成していれば。
魔法に頼らず斬り伏せる技量があれば。
もっと経験があれば。
足りないものはいくらでも思い浮かぶ。
だが、ないものを数えたところで、現実は変わらない。
けれど、そんなものは結局、ないものねだりでしかない。
レフィーヤは半人前だった。
この都市にいくらでもいる、脆く、未完成な冒険者の一人。
それが自分だ。
だが───その目の前には、そんな自分よりなお未熟な少年がいた。
ベルだった。
無様なほどに吹き飛ばされ、掠めただけの一撃で身体を揺らし、それでも立ち続けている。
(致命傷だけ、うまく躱してる……)
その無様なまでの足掻きの中に、レフィーヤは確かに見た。
ただの蛮勇ではない、何かを。
誰かに教えられたのだろう。
剣技ではなく。
必勝の術でもなく。
英雄とはどう振る舞うものか、その在り方を。
どれだけ傷ついても、守るべきものの前では退かないこと。
恐怖に呑まれてもなお、足を止めずに立つこと。
己が倒れるかもしれないその瞬間まで、誰かのために前へ出ること。
『英雄の作法』
きっとベルは、その言葉のすべてを理解しているわけではない。
教えた者の真意を、まだ完全には掴めていないのかもしれない。
それでも、その身には確かに刻まれていた。
「ああああああああああッッ!!」
ベルは吠えていた。
「…………ッッ!!負けたくない!!魔法がなんですか!あるもので戦うんだっ!」
レフィーヤは自らの頬を強く叩いた。
ぱしん、と乾いた音が響く。
揺れかけた意志を、無理やり叩き起こすように。
魔法が封じられたのなら、剣で戦うしかない。
未熟でも、半人前でも、ここで立たなければ何も始まらない。
レフィーヤが駆けた。
ベルの後を追うように、前へ。
だが、戦力差はあまりにも明白だった。
Lv.1のベル。
Lv.2のレフィーヤ。
しかもベルは神の恩恵を受けて間もない半人前であり、レフィーヤもまた実戦経験の不足を抱えている。
懐に入ることさえ許されない。
一撃ごとに死がぶら下がっている。
ベルは掠っただけの衝撃で吹き飛ばされ、石畳を転がる。
立ち上がろうとした脚が震え、膝が折れそうになる。
レフィーヤも剣を合わせるたびに腕を痺れさせ、間合いを詰めるたび死角からしなる蔓に追い払われる。
勝てない。
このままでは、蹂躙される。
アルテミスは歯を食いしばった。
細路地で感じ取った気配は、シルバー・バックのものだった。
それならば、ベルとレフィーヤでも十分に仕留められたはずだ。
だが、待ち受けていたのは新種のモンスター。
こんな異形を相手に、二人が勝てる道理はない。
アルテミスの眉が苦悩に歪む。
「どりあああああああッッ!!」
「「「!?」」」
轟声が、横合いから広場を貫いた。
次の瞬間。
食人花の巨体が、あり得ないほど大きく横へしなった。
衝撃で花弁がひしゃげ、幹が軋み、根元ごと吹き飛ばされる。
何が起こったのか、ベルたちが理解するより早く、その正体が視界へ飛び込んできた。
【ロキ・ファミリア】所属。
【
彼女は武器すら持たぬ拳ひとつで、七
「かっっったああああああッ!? 何これ!?」
ティオナは目に涙を浮かべながら、拳をぶんぶんと振っている。
吹き飛ばした本人が一番痛がっているという、あまりにも豪快で締まらない光景だった。
ベルも、レフィーヤも、アルテミスでさえも、しばし呆然とその姿を見つめるしかない。
「バカティオナ! 先に突っ込むんじゃないわよ!!」
鋭い
その直後、家屋の屋根を軽々と越え、空から一つの影が舞い降りた。
しなやかな長躯。引き締まった身体。圧倒的な
【
さらに、その隣へ静かに着地したのは、金の髪を揺らす少女――【
余計な言葉はない。
だが、その存在だけで戦場の空気が塗り替わる。
「…………でも、無事でよかった」
ぽつりと落とされたアイズの声は静かだった。
けれどその短い言葉が、今さらのようにベルたちへ安堵をもたらした。
【ロキ・ファミリア】幹部三人。
迷宮都市でも屈指の実力者たちが、今まさに彼らの前へ集結したのだった。