【月光の神】ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 作:クックダッセ
「俺がガネーシャだ!!!!!!」
耳がびりっとするくらい大きな声だった。
オラリオの外へ続く街道にまで響きそうな勢いで叫ばれて、僕は思わず肩を跳ねさせる。
隣ではレフィーヤも、びくっとして耳を押さえていた。
「うるさい。騒がしいぞ、ガネーシャ」
神様が、呆れたように眉をひそめる。
すると、さっきまであんなに堂々としていたガネーシャ様が、しゅん、と目に見えてしぼんだ。
「俺がガネーシャだ……」
今度はびっくりするくらい小さい声だった。
その落差のせいか、なんだか少しかわいそうに見えてしまう。
僕たちはオラリオの検問を抜けて、しばらく街道を歩いたところでその二人と合流していた。
ガネーシャ様の後ろには、眷属のシャクティさんがいつものきっちりした様子で控えている。
朝の空気はまだ少しひんやりしていて、オラリオの巨大な城壁を振り返ると、これから本当に遠くへ行くんだという実感が少しずつ湧いてきた。
「馬車を用意したぞ! なぜなら俺がガネーシャだからだ!! しかもこの馬車はガネーシャのように速い!!」
さっきのしょんぼりはどこへ行ったのか、ガネーシャ様はもう完全に復活して胸を張っていた。
指差した先には、しっかりした作りの馬車が止まっている。荷台には旅用の荷物もきちんと積まれていて、馬も二頭、毛並みのいい立派な馬だった。
「この馬なら、一週間ほどで着くと思われます、アルテミス様」
シャクティさんが落ち着いた声で補足する。
「ああ、ありがとう、シャクティ。ベル、レフィーヤ、行くぞ」
「は、はい!」
僕たちはガネーシャ様とシャクティさんにお礼を言って、馬車へ乗り込んだ。
ちなみに手綱を握るのはレフィーヤだ。
どうやら乗馬の心得があるらしく、てきぱきと準備を整えている。
たぶん神様もできるんだろうけど、レフィーヤが「さすがに神様に運転はさせられないです……」って、ちょっと必死な顔で言っていたのが印象に残っている。
確かに、神様に御者をやらせて、僕たちが後ろで座ってるだけっていうのは、なんというか……すごく罰当たりな気がする。
そんなことを思っているうちに、馬車がゆっくりと動き出した。
石畳を離れ、街道へ出る。
車輪が土を踏み、馬の蹄が一定の音を刻むたびに、オラリオが少しずつ遠ざかっていく。
僕は馬車の窓から顔を出して、だんだん小さくなっていく街を見つめた。
英雄譚にしか出てこないような場所へ、今から自分が向かうんだ。
そう思うだけで、胸の奥がくすぐったくなるみたいに熱くなる。
不安がないわけじゃない。
危険な試練があるって、神様はちゃんと言っていた。
でも、それ以上にわくわくしてしまう自分がいた。
******
一週間。
谷を越え、森を越え、途中で何度も
『フィサーナの森』
この森はとにかく深かった。
木々は空を覆うくらい高く伸びていて、枝葉は何重にも重なり合っている。
昼間なのに、森の奥は薄暗い。
なのに不気味、という感じとは少し違っていた。
小さな鳥が枝を渡り、獣の気配が草むらをかすめる。
細い川がさらさらと音を立てて流れていて、湿った土と青い草の匂いが鼻をくすぐった。
人の手がほとんど入っていないんだろう。
周辺の村の人たちですら近づかないって言われている森らしく、獣道みたいなものはあっても、人が踏み固めた跡はほとんど見当たらなかった。
一度入れば迷う。
だから誰も近づかない。
そんな噂があるのも、なんだか分かる気がした。
この森の奥へ奥へ進んでいけば、本当に帰れなくなってしまいそうな気配がある。
「ここだ、私に類する精霊が住み着いている祠だ」
神様が指差した先を見た瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
森の奥、木々の隙間にその祠はあり、青白く光っていた。
昼の森の中にあるはずなのに、まるで夜の月明かりだけを切り取って置いたみたいに、静かで、冷たくて、綺麗な光だった。
小さな祠、というよりは古い遺跡に近い。
長い時間をそこに座り続けていたみたいに、ひっそりとしていて、でも近づくだけで空気が変わるのが分かる。
ただ、奥へ続くはずの入口は、重そうな扉で固く閉ざされていた。
「……すごい」
レフィーヤが声が、小さく漏れていた。
神様はその扉の前へ進み出る。
そして目を閉じ、そっと手をかざした。
次の瞬間、アルテミス様の身体から蒼白い光が溢れ出す。
その光───神威に反応するように、扉がかすかに震える。
やがて、長い眠りから目を覚ますみたいに、ゆっくりと動き始めた。
扉が完全に開くと、神様がこちらを振り向いた。
「どんな試練が待ち受けているか、私にも分からない」
静かな声だった。
でも、その言葉の重さで、僕もレフィーヤも自然と背筋を伸ばす。
「きっと厳しい試練が待っているだろう。けれど折れないでほしい。どんな辛い試練があっても、転んでもいい。倒れてもいい。けど折れないでくれ」
僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「立ち上がって、先を見据えるんだ。自分が何を成し遂げたいのか。何に至りたいのか」
その言葉は、まっすぐ胸に落ちてきた。
強くなりたい。
英雄になりたい。
僕はその思いを改めて胸に刻み込んだ。
******
中へ足を踏み入れた瞬間、僕はまた息を呑んだ。
洞窟。
たしかに見た目は洞窟に近い。
けれど、ただの洞窟じゃない。
壁も床も、薄く青白い光を放っていた。
松明なんていらない。
どころか、火を持ち込むのが場違いに思えるくらい、この空間そのものが静かな光に満ちている。
ただ、ひどく神秘的だった。
精霊の力が、この場所全体に染み渡っているんだろうか。
そんなふうに考えないと説明できないくらい、この祠の中は普通じゃなかった。
誰も来たことがない。
いや、来ることすら許されなかった場所。
そんな場所を、今、僕たち三人だけが歩いている。
そう思うだけで、胸の奥がざわざわした。
レフィーヤもきょろきょろと辺りを見回していて、やっぱり少し不安そうだった。
でも、珍しいものを前にした時の好奇心も隠しきれていない。
神様はというと、懐かしそうに辺りを見ていた。
珍しい、というよりは、遠い記憶に触れているような顔だった。
しばらく進むと、道が二つに分かれていた。
目の前にはまっすぐ進む道はない。
右か左か。
どちらかを選ぶしかないみたいだった。
「神様、これって───」
どっちへ行けばいいんですか。
そう聞こうとした、その瞬間だった。
祠全体を満たしていた青白い光が、急に強くなる。
思わず目を細めた。
『『ようこそ、私たちの精霊の祠へ』』
声がした。
二つ。
どちらも女の人の声だった。
透き通っていて、綺麗で、耳に届いた瞬間にぞくっとするくらい神聖なのに、どこか親しみもある、不思議な声。
まるで、本当に女神様が話しかけてきたみたいだった。
『アルテミス様の恩恵を授かっているようですね。ならば試練を受けることを許しましょう』
『これから貴方たちが挑む試練は生半可なものではありません』
『覚悟して臨むことをおすすめします』
『一人は左へ』
『『もう一人は右へ』』
そこで、ぴたりと声が止まる。
……あれ?
『ちょっと今の
『はぁ!?違うわよ!私が道案内をしました後に、一緒に“汝らに加護が在らんことを”って言うって決めたじゃない!』
『それは千年前に貴方が勝手に決めたことなのだわ!私は五百年前に変えましょうって言ったのだわ!』
「「あ、ハハハ……」」
思わずレフィーヤと乾いた笑いが漏れた。
見えていない。
精霊の姿はどこにも見えない。
なのに、なぜか頭の中にははっきり浮かんでしまう。
綺麗な女の人が二人、指を差し合って、本気で言い争っている姿が。
神秘的だった空気が、かなり崩れた。
僕とレフィーヤは苦笑いするしかなかったけど、神様は違った。
横を見ると、アルテミス様は無言だった。
無言なんだけど、なんというか……すごく怒る寸前って感じだった。
『で、では!そこの白髪の兎みたいな子は左へどうぞ!!』
『じゃ、じゃあ!私はこの可愛いエルフの子をもらうわね!右へ!右へどうぞわ!!!!』
『『だからアルテミス様!怒らないでください!!!謝りますから!ごめんなさい!!!』』
見事なくらい声が揃っていた。
仲がいいのか悪いのか、ほんとに分からない。
でもひとつだけ分かるのは、神様の怖さは精霊も人類も同じらしい……
「……では、私はここで待っていればいいのか?ルナ、ロナ」
神様が少し低い声でそう言う。
どうやら今の声の主たちは、ルナとシルフっていう名前らしい。
『待っていても、どちらかについて来ても構いません。けれど、手出しはしてはいけません。ここはロナも同意見だと思います』
『ええ、そこはルナと同意見です。アルテミス様がどれだけ子どもたちを愛しているのかは知っていますけれど、手出しした場合、私たちはもう二度と手を貸すことはないと思ってください』
その声は、さっきまでの言い合いが嘘みたいに真剣だった。
『『これは彼ら、彼女ら、子どもたちが紡ぐ物語。時代の英雄は、
英雄になるのは、僕たち。
神様や精霊じゃない。
迷って、悩んで、傷ついて、それでも自分で選んで進んでいくのは僕たちだとそう言った。
神様はもう分かっていたみたいだった。
その横顔は、怒っているというより、覚悟を決めた顔に見えた。
「分かっている。私は手出ししないことを誓おう」
『それなら安心です。ではアルテミス様。ここで待ちますか? それともついて来ますか?』
「当然ついていく。私の子どもたちの行方を、この目で見る」
神様は迷いなくそう言った。
試練は僕たちが越えなきゃいけない。
神様は助けてくれない。
左の道に足を向ける。
僕はそっと拳を握って、青白い光の差す左の道を見つめた。
英雄譚の中みたいな旅は、まだ始まったばかりだった。
******
「よく来たわね。まずは貴方の名を聞きましょうか」
「は、はい! 私はレフィーヤ・ウィリディスと言います! よろしくお願いします!!」
緊張からか、レフィーヤの声は少し上ずっていた。
それでも、目の前に立つ存在から視線を逸らさず、きちんと名乗り切ったのは彼女らしい真面目さだった。
「私はロナよ。じゃあ、レフィーヤ。試練について説明するわ!」
ベルと別れた後、レフィーヤは右の道を進んでいた。
青白い光に満たされた通路は静まり返っていて、自分の足音だけがやけに大きく響く。
壁も床も、精霊の気配そのものが染み込んでいるかのように淡く発光しており、松明の火など必要ない。
それどころか、人工の火を持ち込むことさえこの空間には似つかわしくないように思えた。
やがて通路は開けた場所へと繋がる。
そこは、まるでダンジョンの空洞をそのまま
天井は高く、壁面は滑らかな石肌を覗かせ、足元には薄く白んだ光の紋様が走っている。
ひやりと澄んだ空気の中に、どこか懐かしい花の香りがかすかに混じっていた。
その中央に、一人の女性が立っていた。
真紅の髪は腰まで流れ、まるで夕焼けをそのまま糸にしたように鮮やかだ。
白いドレスは一切の装飾を必要としないほど気高く、その身を包むだけで神秘そのものを形にしたようだった。
美しい───その一言では足りない。
人の姿ではあるのだが、彼女が人ではないことは一目で分かった。
そこにいるだけで空気が変わる。
空間が彼女を中心に静まっている。
「私が行う試験は、『今に至ること』よ!」
ロナはそう告げて、意味深に微笑んだ。
その言葉の意味を、レフィーヤはすぐには理解できなかった。
だが、その微笑みに悪意はない。
むしろ、試す者としての厳しさと、どこか見守るような優しさが同居していた。
だからこそ、エルフの少女はごくりと唾を飲み込む。
逃げるわけにはいかない。
自分がどうして今ここに立っているのか、その答えをこの試練の中で問われるのだと、直感で悟ったからだった。
******
「こちらも始めましょうか。では、まずは名前を」
「べ、ベル・クラネルです!」
レフィーヤと別れ、左の道を進んだベルもまた、通路の先に広がる空間へと辿り着いていた。
その場もまた、精霊の祠の一部でありながら、どこか異質な静寂に包まれていた。
青白い薄明かりが漂う空間は冷たくもなく、温かくもない。
ただ静かで、深く、何かを待ち受けているようだった。
「ベルね。私はルナ。よろしく。では試験を始める前に、アルテミス様は私の後ろに」
「ああ」
アルテミスは短く応じると、ベルのすぐ傍から離れ、ルナの背後へ歩み寄った。
やはり主神として、気がかりは大きかった。
レフィーヤも冒険者になって日は浅いとはいえ、魔導士としての訓練も素養もある。
戦闘の心得も、ベルよりは長く積んできた。
だがベルは違う。
本当に、ついこの前まで普通の少年だったのだ。
戦いも、死地も、冒険者としての覚悟も、今まさに覚えている途中にある。
まあでも、何やらベルの背景には何か異様な人物が鍛え上げたようなものを、アルテミスは感じてはいるが……
まあそれを含めても、アルテミスにとって最も案じるべきはベルだと判断した。
ルナと名乗った女性は、ロナとは対照的な姿をしていた。
真っ黒な長い髪を一つにまとめ、夜を映したような艶を帯びている。
黒いドレスは闇を纏ったようでありながら、美しかった。
夜空の静けさや、月の裏側の厳かな気配を思わせる、美しい装いだった。
ロナが陽なら、ルナは夜。
同じ精霊でありながら、その在り方は見事なまでに対を成していた。
「私が貴方に課す試練は、『英雄とは何か』です」
その言葉は、静かに落とされた。
けれど、ベルにとっては何よりも重かった。
英雄。
それは彼が憧れ続けてきたもの。
いつか届きたいと願い、今も目指しているもの。
だからこそ、簡単に答えてはいけない問いなのだと、本能で理解した。
******
そして、試練は始まる。
一人の少年と、一人の少女。
二人はそれぞれ、精霊の導きのもとで静かに瞼を閉じた。
抗う間もないほど穏やかに、けれど確実に、意識が沈んでいく。
音が遠のき、気配が薄れ、世界の輪郭がほどけていく。
それは眠りに似ていた。
誰の声も届かない夢の中。
そこに映し出されるのは、精霊たちが課す試練。
少年の夢は、ダンジョンへ。
少女の夢は、懐かしい故郷へ。
夢でありながら、夢ではない。
試練を越えれば力となる。
だが、越えられなければ───永遠に、夢の中を彷徨い続ける。
救いのない、甘い牢獄の中を。
青白い光に満たされた祠の奥で、アルテミスはその様子を見つめていた。
アルテミスは、たった二人だけの眷属を思い浮かべた。
あの少女がどんな夢を見るのか。
何を試され、何に傷つくのか。
主神として、その安否を祈らずにはいられない。
その
白髪の少年は、静かに深く、試練の内側へ落ちていく。
それがただの試験ではなく、彼の『英雄』という願いそのものを問うものになるのだと、アルテミスは分かっていた。
だからこそ、見届ける。
手出しはできない。
救いの手を差し伸べることも許されない。
それでもなお、見守ることだけはやめない。
子どもたちが紡ぐ物語を。
英雄へと至る、その一歩を。
精霊の祠は静かだった。
だがその静寂の奥では、二つの試練が、確かに幕を開けていた。