彼女に異変が起こったのは、卒業式の当日。それも式を終えて、慣れ親しんだ部室に別れを告げるため、部員である三人がそこに集まった時のことだった。
普段となんら変わりなく楚々とした所作で、無言で、静謐に、紅茶を人数分の容器に注いだ彼女は、おもむろに口を開いてこう言った。
「……なのだけれど」
ただ、そう言った。
その言葉を残して、彼女は倒れた。
――以来、彼女は、〝なのだけれど〟以外の言葉を発していない。
✿
サクッ。窓から朝日の差し込む静かなダイニングに、小気味のいい音が響いた。テーブルを挟んで向かいに座る姉さんが、きつね色に焼けたトーストという朝食の風景にふさわしい楽器を、おのれの歯で鳴らしている。
サクッ、二口目。原則として姉さんは、食パンは角から食べていくものだと決めているらしい。四つの角すべてを先にかじるのではなく、一つの角から隣の角へ、パンの耳を沿っていくような食べ方。ゆえに最後に残るのは、パンの中心部分だ。思えば子供の頃からそうだった。そんな食べ方をする姉さんを、母が「はしたないからやめなさい」としばしば注意していた記憶がある。私もよく姉の真似をしていたので、等しく注意されていた。
昔と変わらず黙々と一辺の耳を消し去った姉さんは、コーヒーを音も立てずにひとくち含む。マグカップを口元に傾けるその仕草が、感心や呆れを通り越して納得するほどに綺麗だった。彼女のことだから、些細な仕草ひとつ取っても隙はなく完璧であって当然。今更、新たな発見などあるはずがなく、ただ幾度となく目にしてきた日常がそこにあるだけだった。
「そろそろ前髪切ろっか」
何の脈絡もなく、姉さんが言った。その提言には、脈絡だけでなく主語までもがない。いったい誰が、誰の前髪を切るのだろう。
「ね、雪乃ちゃん」
姉さんが自身の前髪を指でつまみつつ、ふわりと微笑んでウインクした。その声音は同意を求めているように聞こえたのだけれど、何に同意を求められているのか分からない。
判然としないから頷けず、私は首をかしげる。
すると、目の前で黒いかたまりがゆらゆら揺れた。違う。これはかたまりではなく、線だ。幾本もの黒線。頭から眼前にまで垂れ下がる黒線たち。つまり、私の目にかかるほど伸びきった前髪だった。
前髪を指先で引っ張って、私は長さを確認する。いつの間にここまで伸びていたのかしら。こうなる前に、なぜ切っておかなかったのかしら。いくら外に出る機会が少ないからと、これでは些かズボラが過ぎるわね。
自省する私に、変わらず姉さんは優しげに微笑んでいた。
「ね? 私が切ってあげるから」
遅ればせながら私は、姉さんの発言の意図をここでようやく理解した。
私は首を縦に振って、意思を表す。
それを受けて姉さんが、より一層あたたかい笑みを浮かべた。
「じゃあ、まずは朝ごはんをしっかり食べないとね」
明るい姉さんの声に頷きを返して、私はトーストの角をかじった。バターのやわらかな香りが鼻に抜ける。浅く呼吸をするだけで、言いようのない幸せを感じた。
季節は春。天気は快晴。桜は満開。
今日は土曜日ということもあり、桜の名所は花見客で賑わうことだろう。人の少ないタイミングを見計らって、姉さんと見物にでも出かけてみようかしら。姉さんのことだから、おそらくは私が頼めば連れて行ってくれるはずだ。
四月三日。私が成人した日からちょうど三ヶ月後。土曜日。小鳥がさえずる春のうららかな日に。
私は、前髪を切った。
✿
草木も寝静まる夜。
ベッドの上で、私は寝つきの悪さに辟易としていた。目を閉じて、眠ろう眠ろうと繰り返し自分に言い聞かせるのだが、一向に眠れる気がしない。
一旦、寝るのを諦め、私は短く整えられた前髪に触れる。
前髪は、切り取られた時点で前髪ではなくなる。そのことに、私はきょう初めて気づいた。今朝まで私の前髪だったものは、姉さんの手によって速やかに処理された。当たり前のように捨てられた。習慣じみた動作でゴミ箱に前髪だったものを捨てる姉さんを見て、なぜ私は咎めたくなったのだろう。なぜ、やめて、と叫びたくなったのだろう。
その時は分からなかったが、今なら分かる。
切り取られて、切り捨てられて、前髪ではなく、ゴミとなる。あっても何の意味もなさない、廃棄物同然の代物。
まるでそれが、私のように思えたから。
まともに物を言えず、親から見放され、雪ノ下から切り離されたも同然な私など、そんな私など――
――いったい、誰が必要としてくれるのだろう?
✿
考えていた。
私は、彼に贈る言葉を延々と考えていた。何を言うべきか、そして、何を言わざるべきか。前日までに明確な答えが出ることはなく、脳裏に浮かぶせりふの取捨選択を、大事な卒業式の最中でさえ行い続けていた。
結局、思考の渦にどっぷり飲み込まれた私は、タイムリミットである部室への彼の到来までに、何ひとつとして適切な言葉を用意することはできなかった。すでに彼らしき人物の足音は聞こえてきている。たとえもう一日ほど猶予があったとしても、きっと間に合わせる事はできなかっただろう。
辞書が欲しい、と私は切に願った。知らない言葉の意味を調べるための一般的な辞書ではなく、この、私の今の気持ちをずばり適格に翻訳できて、意味から言葉を逆算できて──という、到底辞書とは言えないような辞書が欲しい。それが手元にあれば、何も迷うことはないのだから。
しかしそんな非現実的なもの、あるはずがなかった。
欲しいと願ったものが必ず手に入るとは限らないと、自身の人生経験や高校生活から理解できていたはずなのに、つい私は懇願してしまっている。彼に何を言い伝えればいいのか教えてくれ、と。
私はこめかみに手を当てて、自戒せよと己に言い聞かせる。それは私が考えて、悩んで、選んで、伝えなければいけない想いだ。他人の言葉を借りてはならない。
こんな時、あの明るい彼女なら「そのままの気持ちを伝えればいいんだよ」とでも助言してくれるのだろうか。でも、それは難しい。だって私には、私の〝そのままの気持ち〟を言い表すことができないから。他ならぬ自分の胸に抱いている想いなのに、私はそれを言葉として表現できる気が全くしなかった。
控えめに音を立てて、扉が開いた。廊下から、ひとりの男子生徒が入ってくる。
来てくれたのねと思うと同時に、来てしまったのねとも私は思った。
「うす」
低く覇気のない彼の挨拶は、代わり映えなど欠片もなくせいせいするほどいつも通りで、だからこそ耳にすると安心してしまう。それにしても〝うす〟って。〝きね〟とでも返答するべきなのかしら。まるで合言葉のようね。突然そう言ったところで、彼が私の意図を理解できるとは思えないけれど。
「こんにちは」
とりあえず私は、通常運転を心がけて返事をした。しかし、口の中からこぼれ出た声が、まるで干したての布団のように柔らかく温かいものに感じられて、これでは傍目からだと私が彼の来訪を待ちわびていたように見えるのでは、と懸念が生まれた。誰に主張するわけではないけれど、速やかに訂正の意を露わにせねば。すぐさま私は彼の後方、開いた扉の隙間から見える廊下に目を向けた。
「由比ヶ浜さんは、まだかしら」
意図したトーンの声が出て、私は軽く安堵する。たとえるなら、よく冷えたダージリンティーのような声。もちろんノンシュガー。
そんな私の声音の差異など気にも留めないようすで、彼は今も多くの人で賑わっているであろう体育館のある方向を、遠く見やる。
「あいつは、いろんな奴に捕まってるっぽいからな。写真でも撮りまくってるんだろ」
もちろん、卒業生やその後輩、教師、保護者たちでうごめく光景を、ここから目視できるわけはないのだけれど、たくさんの人に囲まれて笑顔を浮かべる彼女の姿は、容易くまぶたの裏に映すことができた。
「そうね、あなたと違って彼女には、人望というものが備わっているのだし」
「わざわざ俺をディスるのやめてくれませんかね。それを言うなら、俺よりも早く部室に来ていたお前の立場はどうなるんだよ」
「あら、あなたは、私が誰にも相手にされなかったとでも思っているのかしら? だとしたら心外ね。これでも私は、クラスメイトとの記念撮影を一通り済ませてからここに来たのだけれど」
「へえ、クラスメイトねえ」彼は薄ら笑いを浮かべた。「友達、じゃないのか」
その小馬鹿にするような物言いに、私は少しばかりイラついた。しかし売り言葉に買い言葉を放っては、相手の思うつぼだ。ここは努めて冷静に対処しなければ。
「……なにが言いたいのかしら」
「いーや、なんでも」
彼はまともに応答せず、定位置である椅子に腰を下ろした。今日は文庫本を携帯していないようで、彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を見つめて「にゅふ」と笑い声とは思えないくらい気味の悪い音を発した。その顔はニヤついている。これは、きもい。きもいという三文字の形容がぴったりの表情だった。
「気持ちの悪い顔と発声をしていないで、私の質問に答えなさい」
「ん、あぁ、うん……でゅふひ」
私がたしなめて命じるも、彼からよこされたのは、生返事と、聞く者に嫌悪感を与える笑い声のみ。
「にゅふひし」
まただ。本当に、聞くに堪えない。見るに堪えない。堪えられない。
「比企谷くん」
腸は煮え繰り返り始めているのに、私の口から出た声は冷めていた。
彼はピクリと小さく肩を震わせ、我に返ったような顔でこちらを向く。目が合った。その瞳は、頼りなく揺れている。まるで捕食される寸前の草食動物のようだ。まったく失礼な。あなたの目の前にいるのは肉食動物などではなく、きっと聖母のごとき笑みを浮かべた私だというのに。
別に怖がらせるような意図はないのだ。しかし、私の脳はひとりでに声を出せと指令してくる。
「あなたの耳は飾り物なの? 飾り物でなくとも、中に邪魔な老廃物でも詰まっているのかしら。よかったら私が耳掃除してあげるわよ。耳かきでも綿棒でもなく、直径五センチ前後のダイナマイトを突っ込んであげる」
「怖い。怖いからやめて。声も雰囲気もだけど、なにより発言内容が恐ろしいわよ雪ノ下さん。ダイナマイトて。こんなちっちゃな穴に、そんな太いの入りませんよ……」
動揺したのか、彼の口調は安定していない。「俺、今なんか妙なこと口走ったか?」と続いた彼のつぶやきを、私の耳が捉えた。妙なこととは、なにかしら。耳という小さな穴に太いダイナマイトを挿し入れるという、グロテスク極まりない発言の何が妙だというのだろう。……グロテスクな時点で普通じゃないわね。
思索しながら、じぃっと彼を見つめていると、「なんでもねえよ気にすんな」と若干の焦りを伴った反応が返ってきた。怪しい。
その焦りの原因は何なのか問おうと口を開きかけたところで、廊下からパタパタと忙しない足音が聞こえてきた。音は徐々に大きくなっていく。彼女がやってくる。ということはつまり、部員が揃う。よって、飲み物を用意しなければならない。
「紅茶を淹れるわ」
言って、私は立ち上がる。
「……おう」
間を置いて、彼が応えた。
わざわざ宣言する必要は無かったという事に、私は彼の返事を受けてから気がついた。普段は、前置きをせずにさっさと紅茶を淹れるのだけど、どうして今日、私は『紅茶を淹れるわ』と告げたのだろう。いちいち気にし過ぎなのかもしれないが、自分の発した言葉なだけにどうも引っかかる。二年間変わらなかったルーティーンを、私が今日になって崩した理由。それは、
――最後だから、だろうか。
いや、待て。
本当に、これまで私は『紅茶を淹れるわ』と前置きしたことがないのだろうか。過去に何回かは、無意識のうちに言っていたのではないだろうか。
それ以前に、なぜこんな些細な事柄に、私は頭を悩ませているのだろうか。やはり、
――最後だから、なのだろうか。
「やっはろー! ごめんいろいろあって遅くなっちゃった!」
勢いよくドアが開き、慌ただしく彼女が入室した。
せかせかと定位置に向かう彼女は、片手に卒業証書の入った筒を握っており、よほど急いでここに来たのか息を切らしている。こういう彼女の少しばかり落ち着きに欠ける面は、やっはろーという独特な挨拶と同じで、私が二年間そばで見てきた日常の一端だった。
「こんにちは。私たちも今来たところだし、そう気にしなくていいわよ」
言って、私は回れ右。数歩先には、備品の電気ポットと各々が持ち寄った茶器がある。窓の外では、太陽が眩しくきらめき、空は青く澄み渡り、私たち卒業生の門出を祝福しているようだった。
「え、ヒッキーなにニヤニヤしてんの。ごめんだけど言うね、正直ちょっとキモい」
「うっせ。別にいいだろニヤついても」
「ニヤニヤしてるのは否定しないんだ……」
紅茶の準備をする私の背後で、二人はいつもと変わらぬ会話に興じているようだ。いつもと変わらぬ声音で。
「ヒッキー、なに見てんの?」
「おい、あんま近寄んな」
「え、なにこの写真。さいちゃんとヒッキーめっちゃ笑顔なんだけど」
「……さっき撮ったんだよ」
「それで早速待ち受けにしてるんだ……」
「戸塚のかわいさが俺を狂わせるんだから仕方ない」
「仕方ないんだ……まぁヒッキーだし、確かに仕方ないのかも。……ん、この端に見切れてるのって、いろはちゃん?」
「あぁ、まぁ、そうだな」
「せっかく一緒に撮ったのに切り取られるなんて、いろはちゃんかわいそう……」
「こいつなぁ、今日撮った写真の八割には写ってるから、あんまりありがたみがないというか、レア度低いっつーか」
「ふーん……ちょっと写真見せてもらってもいい?」
「ん、……まぁいいか、──ほれ」
「へえ、ヒッキーにしてはたくさん写真撮ったんだね。うわ、えぇ……確かにいろはちゃんばっかり。ヒッキー、どんだけいろはちゃんのこと好きなの」
「べっ、別にあいつのことなんてなんとも思ってねーし?」
「……」
「……」
「…………」
「いや、そこで黙らないでくれる? なんか怖いから。それに今のは冗談だから。一色の写真が妙に多いのは、俺の行く先々になぜか一色が出没しまくっただけだから」
「はぁ……わかってる。わかってるよもう……」
「それならいいが」
「いろはちゃんがヒッキー大好きすぎるってことでしょ」
「さては全然わかってねえなお前」
二人の声は、どんなジャンルの音楽よりも私に安らぎを与えてくれる至上の音楽だった。それはもう猫の鳴き声と同等以上に。しかし今日に限っては、彼らの声に、私はどこか物寂しさめいた風情を感じていた。聞いているだけで、ゆるく胸を締め付けられるような感覚がして、少し息苦しい。
そろそろ頃合いかしら。
私は、温めておいたティーカップを、マグカップを、そして湯呑みを一列に並べた。それら三つの容器に、綺麗に色が出た適温の紅茶を注いでいく。立ちのぼる湯気が、私の頬にまでは届くことなく、ふっと空気中に消えた。
――最後だ。
この場所で、これらの容器に、温かい紅茶を注ぎ込むのは、これで最後だ。
明日以降、私たちは本校の生徒でなくなると同時に、奉仕部の部員でもなくなる。よって、部室に置いていた私物を撤去しなければならない。ティーカップを、マグカップを、そして湯呑みを持って帰らなければならない。
だからこれが、今、湯呑みに吸い込まれていった一滴の赤いしずくが、私には終わりの始まりを告げる一滴に思えてならない。紅茶を全員が飲み干し、話題に尽きれば、この空間にいる必要性を失う。ここから出ていかなければなくなる。
いっそ、ティーカップの中身をこぼして、紅茶を淹れなおしてしまおうか、と思いもした。
思うだけで、私はそうしなかった。いつも通りを心がけて、むしろいつもよりも細心の注意を払って、一連の作業をこなした。
あとは、紅茶を彼らに渡すだけだ。
そうして、部活は始まる。最後の、部活が始まる。終わりが、始まってしまう。
――時が止まればいいのに。
ふと、そう願った気がした。
私の背後では、二人が穏やかに会話を交わしている。彼女の子どもの足音のような声と、彼の冬眠から目覚めたばかりの熊のような声が、ゆるやかに行ったり来たりを続けている。それを聞いていると、土手でキャッチボールをする親子の姿が、脳裏に浮かんだ。二人の間を順調に行き交っていたボールが、不意に、破裂して消えた。親子は、きょとんとした顔で驚いていたが、曖昧に笑いあって、やがてグローブを外した手をつなぎ、どこかへ歩き始めた。きっと、家路を辿っているのだろう。息子は父親に、「どうしてボールは破われたんだろう?」と尋ねる。父親はこう答えた。「さあ、なぜだろう?」と。
私は思った。「そのボールを破ったのは、そして今から破裂させるのは、私だ」と。
永遠に続くのでは、と思うほどに続いている彼らのキャッチボールを終わらせるのは、他の誰でもなく、私だ。
私が紅茶を手渡せば、彼らの会話は終わり、同時に最後の部活が始まる。
裏を返せば、私が紅茶を手渡さなければ、彼らの会話は終わることなく延々と続き、最後の部活が始まることもない。
だが、そんなことは有り得ない。
終わりの瞬間は、私が望まなくても、時が進むたびに向こうから近づいてきて、音もなくタイムリミットを宣告する。
私がどう熱心に願おうが、どうみっともなく足掻こうが、三人の終わりは確定していた。
「……」
さて。
何を、言えばいいのだろう。
何を、伝えればいいのだろう。
この心の中にある、どれを、どんな風に表現すれば、正解なのだろう。
どうすれば、いいのだろう。
「……」
いつの間にか二人の声が止んでいた事に、気がついた。
二人の視線が私に向かっている事にも、気がついた。
何か、言わなければいけない。
でも、何を、言えばいいのだろう。
わからない。
理解できなかった。
自分の心情が、言葉として浮かんでこなかった。
それでも私は、何かを伝えようと、口を開いた。
喉の奥から、声がせり上がってきた。舌が動いたことに、舌が動いてから、気づいた。制御できなかった。
どうやら私は言っていたらしい。
「……なのだけれど」
そう、発音したらしい。耳に入り込んできたそれは、確かに私の声だった。
理解した瞬間、世界が暗転した。