なのだけれどシンドローム   作:ドレモネード

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なのだけれどシンドローム ②

 

 

 夢を見ていた。

 それは確かだと思うのだけれど、どのような夢を見ていたのかまでは分からない。ただ、ひどく懐かしい夢を見ていたようだ。なんとなく、そんな気がした。だって、今の私は、目が覚めたことに対してとても後悔している。だから、その夢はきっと、やさしくてはかない過去にまつわる一幕に違いなかった。

 身体を起こすと、にぶい痛みが右の側頭部に走った。ぎゅっと目をつぶり、患部を指で押さえる。数秒ほどそうしていると、少しだけ痛みが和らいだ。

 口を半開きにして、大きく息を吸う。

 声を、出してみる。

「なの――」

 舌先が次の音を立てる前に、私は口を閉じた。歯列の内側に舌を閉じ込め、唇を固く引き結ぶ。私の意思に反してうずうずと動きたがっている舌が、どんな言葉を紡ぎだそうとしているのか、私は嫌という程に思い知らされていた。

 そして、やはり今日も、だめだった。不思議と、あまり悲しくはない。慣れとは怖いものだ。

 私は、〝なのだけれど〟以外の言葉を喋ることができない。「おはよう」と言おうとすると「なのだけれど」と発音し、「ありがとう」と言おうとすれば「なのだけれど」と発音し、「雪ノ下雪乃」と言おうとしたあかつきには「なのだけれど」と発音してしまう。

 そんな奇怪な症状を発症したのは、二年前の三月、自身の卒業式直後でのことだった。「なのだけれど」と言い残して意識を失った私は、総合病院に救急搬送された。幸いにも大事には至らず、一命をとりとめた私が目を覚ますと、ベッドの傍らにいたのは比企谷くんと由比ヶ浜さん、そして姉さんだった。意識を回復させた私に、三人は一様に表情を明るくさせていた。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には、私の奇妙な症状が明らかになり、彼らの顔色はおしなべて青く変わった。

 それから私は、様々な病院で、何人もの医師からの診察を受けた。検査に次ぐ検査の末、私に下された診断は、原因不明の言語障害。どの病院へ行っても、医師は同じような渋面を浮かべて、重苦しい声で、私に検査結果を告げた。その度に私は、まるで自分の犯した罪を裁かれているような、後ろ暗い気持ちになった。医師に対して謝りたかったのかもしれない。こんな訳のわからない病状を訴えてしまってすみません、と。そんな私の隣で医師の話を聞く姉さんが、私以上に表情をゆがめていたのが、かなり衝撃的で印象的だった。

 私は当初、姉さんがそばにいるのは母親の命令あっての事だと思っていた。

 初めての診察及び検査を終えた時、私のスマホに母からの連絡があった。しかし私には会話を成立させることができないので、報告を行ったのは姉さんだった。次の診察の後も、その次も、母から私に連絡があった。受け答えは、姉さんがこなした。赴いた病院の数が五を超えた頃、母から私への連絡はなくなった。姉さんの元に報告を促す連絡が入っているようすもなかった。私は、母から見限られたのかもしれない。そう思った。

 でも、姉さんは、そばにいてくれた。

 発症して間もない頃や、幾度となく通院しても回復の見込みがないと思い知らされた時、私は精神的に不安定な状態に陥り、周りの人間を突き放すような行動に出た。ベッドの上で布団の中に潜り込み、誰からの声にも応じないという、今にして思えば我ながら幼稚な行為だった。でも声を荒げることさえできない私には、それくらいでしか強烈で明確な意思を示すことができなかった。私を放っておいて。こんな私に、あなたたちの貴重な時間を費やさないで。こんな私を、見ないで。そう伝えたつもりだった。

 でも、姉さんは、いつもそばにいた。

「わたしは、雪乃ちゃんのお姉ちゃんだから」

 何かあると、姉さんは決まってそう言っていた。「いつかまた、姉さんって呼んでよね」とも言っていた。よく笑っていた。感情を上手く表現できなくなった私の分まで、怒ってくれて、笑ってくれて、時には泣いてくれていた。まさかあの姉さんが、と驚愕すると同時に、とても嬉しく思った。それと同じくらい、むしろそれよりも深く、申し訳なくも思った。

 そんな経緯で、私は、間違いなく姉さんのおかげで、日常生活を送ることができている。

 姉さんの足かせとして、私は日々を生きながらえている。社会人である姉さんが稼いだお金で借りたマンションに共に住まわせてもらい、服を、食べ物を、そしていま私が座っているベッドを、その他あらゆるものを与えてもらっている。どう甘く考えても、私は手間のかかる寄生虫でしかなかった。

 そんな私が、私は嫌で嫌で仕方がない。

 しかし、どうしようもない。どうにもできない。どうすることもできないから、こうしているほかなかった。

 死にたいと思ったことが、今までに何度あるだろう──と思ったことさえ、もう数え切れないくらいにあった。それでも毎日をそれなりに生きているのだから、結局私は本気で死にたいと思ったことはないのだろう。いつも、そう結論づけている。

 ずきん、と鋭く頭が痛んだ。ぼうっとしていた脳が、虚を突かれるようにして働きだす。

 眠りから覚めて身体を起こしたものの、部屋の中は未だ暗闇につつまれており、締め切った厚手のカーテンからは光の気配を感じない。あまり頼りにならない体内時計が、現時刻は午前四時前後だと告げている。起床して活動を始めるのには早すぎるけれど、二度寝に身をゆだねるほどの眠気もなかった。

 手持ちぶさたな私は、夜目を効かせてベッドの隅に座っているぬいぐるみを手にとった。数あるぬいぐるみの中でも、私が最も触れる機会の多い子だ。この子の名前は、パンさん。ちなみに、この子は姉さんから買い与えられたものではない。比企谷くんから譲り受けたものだった。このパンさんが私の手元に来てから、もう四年近くになるだろうか。何度かのクリーニングを経て、その身は少しやつれ、色もだいぶくすんでいる。だからと言って、捨てようとはかけらも思わなかった。

 私は、愛着のあるパンさんの両脇を両手で持ち、自分と向かい合わせになるよう膝の上にのせる。綿が詰まった腕をぐにぐに握っていると、私のなかに潜むかたいなにかが、ほぐされていくようだった。

 気がすむまでのつもりでぐにぐにしつづけていると、パンさんが言った。

『お前、いつになったらまともに話せるようになるんだろうな』

「なのだけれど」

 そんなのわからないわよ、と私は言った。

『もう二年以上経つんだし、回復の兆しくらいあっても良いと思うんだが』

「なのだけれど」

 医者と同じようなことを言うのね、と私は言った。

『医者のような事を言えるってことは、つまり俺は医者のような存在ってことだな』

「なのだけれど」

 何を馬鹿なことを、あなたは生粋の文系人間じゃない、と私は言った。

『ほら、俺ってやればできる子やらない子を地で行く人間でもあるから、その気になれば理系科目もそれなりにやれる気がするんだよな』

「なのだけれど」

 だからと言って医者になれるとは限らないでしょう、と私は言った。

『まあ仮に理系が得意だったとしても、医者にはならんだろうな。大変そうだし』

「なのだけれど」

 あなたには患者の方がお似合いよね、と私は言った。

『うっせ、大きなお世話だ。ああ、でも美人ナースにはお世話されてえかも』

「なのだけれど」

『別にいいだろそのくらい。健全な男の本能だろ』

「なのだけれど」

『わかってるよ。俺を相手にしてくれる美人さんなんてそうそういねえってことは』

「なのだけれど」

『キャバクラなあ……なんかぼったくられそうで怖えわ』

「なのだけれど」

『あぁ、まぁ、そうだな……』

「なのだけれど」

『あぁ……』

「なのだけれど」

『…………』

「なのだけれど」

『………………』

「なのだけれど」

『……………………』

「なのだけれど」

『…………なのだけれど』

「なのだけれど」

『……なのだけれど』

「なのだけれど」

『なのだけれど』

「なのだけれど」

「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」「なのだけれど」

 ――ぶちっ。

 いやな感触とともに、不吉な音がした。

 時が、地球の自転が、止まったのかと思った。私のからだが生命活動をストップさせたのかと思った。息が止まったのかと思った。いや、止まっていた。呑んだ息が、吐き出せない。

 手元のぬいぐるみの腕が、もげていた。彼の右腕が、付け根の部分からごっそりもぎ取られていた。

 彼の中から、紅茶のような色をした液体が、じんわりと染み出し、どくどくと溢れ出す。

 彼の全身が、みるみるうちに赤黒く染められていく。傷口から、鮮烈な赤がとめどなく流れ出ていく。私の手が、毒々しい赤で塗りたくられていく。私の下半身が、布団が、ベッドのシーツが、赤い海に侵食されていく。

 じんわり、と。どくどく、と。

 彼の体液が、私の空間を波紋のように犯していく。

 あたりから、鉄の匂いがした。

 ――これは、血だ。

 なぜ、今、血の匂いがするのだろう?

 それは、彼の腕がもげたからだ。

 なぜ、彼の腕はもげたのだろう?

 それは、誰かの手によってもぎ取られたからだ。

 いったい誰が、もぎ取ったのだろう?

 ――私だ。

 私が、彼の片腕をもぎ取って、彼を苦しめているのだ。私が、彼を隻腕にしたのだ。私のせいだ。私のせいなのだ。

 彼の苦しむ姿なんて、私は見たくない。

 早く治療しなければ。早く右腕と身体を接合しなければ。

 彼が、出血多量で死んでしまう。

 私は、血を流し続ける彼の右肩に、血を流し続ける右腕の付け根を押し付ける。くっつけ。腕の付け根を肩に埋め込むように、めり込ませるように、力を入れて、――くっつけ。くっつけ。

 どぷっ、どぷっ、ぐじゅ、ぐじゅ、と、重なった傷口から、赤黒く泡立った液体が湧き出して、それが止まる気配はない。

 腕がくっつく気配もなかった。

 私が力を抜くと、ぽとりと彼の腕が肩からすべり落ちた。

 より一層濃い血があふれて、赤い私の下半身を、赤い布団を、赤いベッドのシーツを、闇のように黒く染めていく。

 ……あぁ、あぁ。

 だめだ。治らない。治せない。

 私のせいで片腕を失った彼が、なおも血を流しながら、虚ろな目で私を見上げている。

 彼の口が、頬が裂けるくらいに大きく開いた。

『お前のせいだ』

 彼の声が、脳に響いた。

『お前のせいだ』

 声で揺さぶられた脳が、どろどろに溶けていく。

『お前なんていなければ良かったのに』

 溶けて、崩れて、ぐずぐずになって、――溺れている。

『お前なんていなければ良かったのに』

 溺れながら私は、もがいた。息を吸い込んで、

「……なっ、の、だ……け……」

 ごめんなさい、と私は言った。

『死ねばいいのに』

 大量の水が口の中に飛び込んでくる。呼吸が満足にできない。ひび割れた吐息が喉を通って、すきま風のような音を立てた。

「…………な、」

 ごめんなさい、と私は言った。

『死ね』

「………………」

 ごめんなさい、と私は言った。

 

 

 □

 

 

 脳ではなく、頭が揺れている。頭だけでなく、肩までもが揺れていた。揺さぶられていた。

「――ッ!」

 耳元で声が聞こえる。

「――こきゅう!」

 ……呼吸?

 息を、吸ってみた。

 吸えなかった。おかしい。私は人間なのだから肺呼吸ができるはずだ。それなのに、息が吸えない。

 胸や腹が大きく波を打っている。痛い。気持ちが悪い。心臓がうるさい。どくどくどくんどくん、と過剰に収縮している。

 苦しい。息が苦しい。身体が燃えるように熱いのに、寒気がする。

「雪乃ちゃん、落ち着いて! 落ち着いてゆっくり息を吐いて!」

 あぁ、姉さんだ。

 背中があたたかい。姉さんが、私の背中をその柔らかい手のひらでさすっているんだ。

「雪乃ちゃん、落ち着いて、落ち着くだけでいいから……」

 姉さんの声は、やさしかった。

 私は、大きく息を吐いた。大きく息を吸いもした。何度も、何度も、呼吸をした。

 すると、ほんの少しだけ、楽になった。

 視界が徐々に鮮明になっていく。

 どうやら私は、ベッドではなく床の上にうずくまっているようだ。そばにある柔らかくてあたたかい気配は、姉さんのものだろう。

 私の左手には、黒くてもこもこした棒状のなにかが握られていた。

 そして私の目の前には、ひとつのぬいぐるみが転がっている。比企谷くんから譲り受けたパンさんだ。しかし、その身体には右腕がない。私が持っている棒状のそれが、パンさんの右腕だと直感した。

 息も絶え絶えに、私は自分の左手の中と目の前を確認する。

 どちらも、赤く濡れてはいなかった。

 

 

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