なのだけれどシンドローム   作:ドレモネード

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なのだけれどシンドローム ③

 

 

 目を開いて身体を起こすと、まばゆい光が私の瞳をピンポイントに焼いた。睡眠から目覚めた人間を、太陽が手荒く歓迎してくれている。今年の夏も、お日様はピカピカ輝いて私たちをうんざりさせてくれるつもりなのだろう。できればちょっとくらいは手加減して欲しい。

 視線の先では、白いレースのカーテンが陽を受けて、床に黒い影を作っている。はて。今は朝なのか、それとも昼なのか。当てにならない体内時計は、だんまりを決め込んでいる。

 右を向くと、姉さんがスツールに腰掛けてうつむいていた。否、うつむいているのではなく、顎を引いて自身の手元を注視しているようだ。姉さんが手にしているのは、白と黒を主とした色使いのぬいぐるみ。目にした瞬間に、それは彼から貰ったパンさんだと察した。姉さんは膝に座らせたパンさんを片手で支え、もう片方の手で銀色の針をつまんでいた。その針は、お尻に白くて細長い尾を引かせている。

 姉さんの手によって、針がパンさんの右腕の付け根に突き刺さり内部に侵入したかと思うと、次の瞬間には、また針がパンさんの脇を突き破って脱出する。その一連の作業の繰り返しにより、ぱっくり開いていたパンさんの脇が縫合されていく。白い糸が、パンさんの身体の一部になっていく。

 着々と進む処置のようすを、私は特に何を思うでもなく眺めていると、ふいに姉さんが手を止め、顔を上げた。

「あ、雪乃ちゃん、おはよう」

「……」

 かけられた挨拶に、私は首を縦に振って応える。

「体調は、どう?」

 という質問を受けて、私は右側頭部を手で抑えてみる。痛みはなく、頭以外のどの箇所にも特に違和感はなかったので、問題ないとの意味を込めて、私は頷いた。

「……」

「そっか、とりあえず一安心かな」

 姉さんは気の抜けたような笑みを浮かべると、パンさんをベッドの傍にあるローテーブルに置き、代わりにそこからホワイトボードと水性のマジックペンを手に取った。

「はい、雪乃ちゃん」

 姉さんから差し出されたそれらを、私は頷きつつ受け取る。

 そして私は、太ももの上に載せたホワイトボードに、水性ペンの筆先を滑らせていく。たった六文字の平仮名を書くのに、そう時間はかからない。伝えたい言葉はすぐに書き終わった。版面を姉さんに見せるために、私はホワイトボードを立てる。

『ごめんなさい』

 いつもと変わらぬ私からの声なき謝罪を受けて、姉さんは、いつものように曖昧な表情でこう言った。

「謝らなくていいのに」

 そしてこうも続ける。

「雪乃ちゃんは、何も悪くないんだから」

「……」

「気にしなくていいよ。わたしは、わたしがやりたいことをやってるだけだから」

「……」

 反射的に言い返すことのできない私は、黙りこくるしかない。これも、いつものことだった。言いたいことは山ほどある。私が悪くないはずなんてないだの、なぜ姉さんは私に優しく接してくれるのだの、放ってくれていいのにだの、とにかくいろいろと。でも私は、言えないし、伝えない。伝えたところで姉さんから返ってくるのは、優しくて私にとって耳障りの良い言葉ばかりだと分かりきっているから。万が一にでも厳しい言葉が返ってきたとしたら、私は耐えられないと思うから。壊れ物に触れるような優しい扱いはされたくないし、かといってぞんざいに扱われるのも嫌だった。

 だから私は、糸の切れたマリオネットのようにこうべを垂れて、姉さんが部屋から出て行くのを待つ。

「……」

 いくらかの沈黙をおいて、姉さんが立ち上がった。少しだけ、私の心が軽くなる。

 しかし、姉さんは歩き出さない。妙に思って顔を上げると、じっと私を見下ろす真摯な目がふたつあった。

「ごめんね、雪乃ちゃん」

 姉さんの口から発せられたのは、謝罪の意思しか感じられない言葉だった。何事か、と思った。嫌な予感に襲われながらも、私は姉さんの顔から目をそらさなかった。

 その艶めく唇が、かすかに動く。

「来週、お花見に行けないかも」

「……な?」

 無意識のうちにポカンと開いていた私の口から、〝え?〟という感情が漏れる。

「今度の土曜日から関西の方に行かないといけなくて、仕事で三日間」

 心の底から申し訳なさそうに姉さんは語る。

「せっかく雪乃ちゃんがお花見行きたいって言ったのに……、ごめんね?」

「……」

 私は横に首を振り、クリーナーで真っさらにしたホワイトボードに文字を書く。

『気にしなくていいから』

 無音のセリフを見て、何を思ったのだろう。姉さんは、芝居がかった仕草で手を打った。

「そうだ、お母さんに頼んでみようか」

「……」

 首を振った。もちろん、横に。

「そこまで嫌がらなくても……」

『断られるに決まってる』

 呆れたように笑う姉さんに、私は迷いのない筆致で書いた文字列を見せつける。

「そんなことはないと思うけど……」

「……」

 何を言っているのだろうかこの姉は。私に対する態度の軟化の原因は、もしや脳内にお花畑が広がり始めたからなのでは。

「うわ、久しぶりに雪乃ちゃんに睨まれちゃったよ」

 姉さんが苦笑する。

『冗談のつもり?』

「いや、本気」

 私の問いを受けても、あくまで姉さんは笑みを崩さない。

「たぶん、いや確実に、雪乃ちゃんがお母さんに会いたいって伝えてくれれば、お母さんは本当に会いに来ると思うよ」

「……」

「あーもう、そんなに睨まなくてもいいでしょ。わかったから。お母さんには何も言わないから」

 苦笑の苦味成分を呆れに変えて、姉さんは肩をすくめた。

『余計なことはしないで』

 そう書いてから、どの口がほざいているんだろう、いや、どの手が書いているんだろう、という思いが念頭に浮かんだ。すぐに消そうとした。けれど、私がなんらかの文字を新らしく書いたことに気づいていた姉さんがホワイトボードを覗き込み、また、薄く笑った。

「うん、わかってる、わかってるから心配しなくていいよ」

 知ったような顔で──私の心境などすべて見通した全知全能の神のような顔で、姉さんは二度三度と頷く。瞬間、身体が沸騰した。全身から汗が吹き出るのがわかる。顔の筋肉が強張り、頭蓋骨はきしみ、ペンを握る右手に不必要な力が入る。腕が生まれたての子鹿の脚のように震え、視界はチカチカと点滅した。歯茎に痛みが走るほど、歯を食いしばっていた。頭が、頭が、頭が、痛い。

 ──あなたに、私の、何がわかるというの?

 開けた口からは、声は出ない。陸に上がった魚みたいに情けなく閉口と開口を繰り返すだけで、鳴き声のひとつすら出てこない。そのくせ、顎が痛んだ。

「なっ──」

 ようやく出てきた声は、私の意図とはまったく関係のない音だった。

 嫌になる。熱されていた私の身体が、急速に冷めていく。

 怪訝そうに私を窺う姉さんの瞳に映っている存在は、果たして人間なのだろうか。喋れなくなった私は、人間として成り立っているのだろうか。私には、わからない。姉さんは私を、妹の形をした人形として見ているのではないだろうか。やはり私には、わからなかった。

「お母さんの代わりと言ってはなんだけど、来週はガハマちゃんと比企谷くんが来るって連絡が入ってたから。お花見は、二人と行ったらいいんじゃないかな」

「……」

 私は小さく頷く。その動作によって傾いた頭が、首から転げ落ちてしまいそうな気がした。

 由比ヶ浜さん。比企谷くん。

 彼女は、彼は、今の私のことをどう思っているのだろう。

 考えたくもなかった。

 

 

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