私たちは、雑踏の一部だ。
涼しくもなく生ぬるくもない風が、満開の桜並木を通り抜けていく。いくらかの花びらが散って、新たにアスファルトを彩る点描となった。黒いキャンバスに降り立った桃色を、人々の足が踏み荒らしていく。
風が吹いた。枝から飛び立った花びらが、私たちの目の前に着地。何も気づいていない彼女が、それを踏んだ。
彼女は言った。
「やっぱり桜は綺麗だね。花って他にもいっぱいあるけど、あたしは桜が一番好きかも」
私たちの頭上で咲き誇っている桜を見あげる彼女──由比ヶ浜さんの横顔は、やわらかな日光を溜め込んで光合成でもしているかのように生気で溢れている。
「ゆきのんは、どう?」
その春の太陽のような顔が、こちらを向く。まぶしい。彼女から放たれた光が、私の肌の表面を薄く焼いた。
歩みは止めずに私は、肩にかけているトートバッグからホワイトボードを取り出して、水性ペンで返事を書き示す。
『私も好き』
「そっかぁ」
由比ヶ浜さんは、屈託なく笑った。まさに喜色満面といった表情だ。彼女にとって、私との意見の合致という些細な出来事は、それほど喜ばしいことなのだろうか。
「きょう、晴れて良かったね」
そんな彼女の言葉に違わず、今日の天気は本当に良い。燦々と輝く太陽と雲ひとつない青空が見下ろす千葉の大地は、早朝は少し冷え込んだものの、日が昇るにつれて徐々に気温が上昇し、正午を過ぎたばかりの今現在、一般人が活動するには何のストレスもない環境となっている。花粉症に悩まされている人には、厳しいコンディションかもしれないけれど。
「人も多くて、賑やかだし」
桜の季節に天気は良好とくれば、桜の名所に人が集まりやすいのは自明の理といったところで、私たちが赴いた公園は幅広い年齢層の花見客でごった返していた。ゆったりとした足取りで寄り添い歩く老夫婦、一眼レフを手にあちらこちらへ足を向ける男性、親の注意もなんのそので走り回る子供とその家族、ブルーシートの上で桜そっちのけで飲み食いしている騒がしい団体、みんながみんな、十人十色の身体から幸福な桜色のオーラを発しているようにさえ見えた。
「ヒッキーも来られたら、もっと良かったんだけどね……」
でもこの場に、彼はいない。由比ヶ浜さん曰く、彼は姉さんに来訪予定の連絡を入れた直後にどうしても外せない用事が入ったらしく、今日は東京の大学の方にいるらしい。何をしているのかまでは聞いていないけれど、きっといま彼は、彼自身の人生にとって糧となる何かを得ているのだろう。私に会いにくるよりも、よっぽど有意義であるに違いない。由比ヶ浜さんにも言えることだけれど、貴重な休日を使って東京から私の住む千葉へ行くには、もちろん交通費や時間がかかる。確実に彼らは、この二年間、私に会いにくることでお金と時間を浪費していた。
「ヒッキーね、今日だけじゃなくて、これからも結構忙しくなるんだって」
「……」
私は声もなく頷いた。
由比ヶ浜さんの発言が現実のものとなれば、比企谷くんが私のもとへやって来る頻度が次第に落ちていくのだろう。現に、罹患初期だった二年前は彼らの来訪が少なくとも週に一度はあったのだが、ここ最近は月に二度というのが大半だ。とはいえ、どちらか片方が欠けて一方のみで私と会うことになったのは、今日が初めてだった。これから、こういうケースは増えていくのだろう。特に、最近の彼はどうやら忙しいらしい。私の世話にかまけている暇などないのだ。本来であれば、彼女も。
だから、良いことだ。彼らの顔を見る機会が減るのは、つまり彼らの生活が充実していることの証左なのだから、私は喜ぶべきなのだ。断じて、悲しんではならない。
「ゆきのん、どうかした?」
思いの外、近くから声がして驚いた。
いつの間にかうつむいていたらしい私の顔を、やや覗き込むようにして身体を傾けている由比ヶ浜さんに、私は即答するべく首を横に振る。なんでもないから気にしないで、と伝えるために。しかし、首の筋肉が固まっているのかその他に何か原因があるのか、私はいまいち上手く首を振れなかった。もどかしい。まるで壊れかけの扇風機にでもなったかのような気分だ。首を振って否定する、という単純な動作すら出来なくなったとあっては、いよいよ私は人形じみてきている。人形は、人間とは違って意思や感情を持たない。そのことに限っては、ほんの少し羨ましく思えた。
「……ゆきのん、大丈夫?」
じわじわと由比ヶ浜さんの顔色が曇ってきている。不要な心配をかけてはならない。
『大丈夫』
そう書いたボードを私が見せると、ようやく彼女は表情を和らげてくれた。
でも、何が大丈夫なのだろう。自分が書いたセリフ代わりの言葉であるはずなのに、その三文字はあまり腑に落ちなかった。
「ちょっと休憩しようか」
ほどなくして出た由比ヶ浜さんの提案に、私は頷いて同意する。
「それじゃあ……」辺りを見回した彼女は、無人のベンチに目を留める。「ゆきのん、あそこで待ってて。あたし飲み物買ってくるから。あ、お茶とかでいいんだよね?」
もう一度私は頷いて、指定されたベンチのもとへ歩く。桜の木陰に覆われた木製のベンチは、賑々しい公園の中にありながらどこか物寂しさを私に感じさせた。いや、周りが賑やかであるからこそ、そのひっそりとした佇まいが際立って寂しげに見えるのかもしれない。
大人が三人ほど座れる大きさのベンチの上には、桜の花びらがまばらに載っていた。それらを手で撫で払ってベンチの右隅にまとめ、私は左隅に腰を下ろす。陽に当たっていないからか、ひんやりとした木の質感がお尻に伝わった。
肩の力を抜く。すると、残り少ない体力までもが抜けていくような感覚がした。
木陰を隔てた向こう側に、由比ヶ浜さんの姿が見える。彼女の足取りは軽い。他の花見客と比べるとそれがよくわかる。これだけ人の多いなか、すぐに彼女を見つけられた自分の目が、なんだか少し誇らしかった。
もしも春を具現化するとしたら、彼女のような存在が生まれるのだろうか。なんとなく、そう思った。見た人を安心させるような柔らかい笑み。持って生まれた少し幼さを感じさせる顔立ち。女の子らしい服装に、女の子らしい言動。人の顔色を過剰に窺いがちなところは、まるで冬眠から覚めておっかなびっくり這い出てくる動物たちのよう。冬と夏という極端な季節をつなぎとめる役割も、空気を読む能力に長けた彼女であれば担えるはずだ。具現化と言ってしまうとあまりに突飛かもしれないけれど、彼女に似合う季節を挙げるのであれば、私は迷いなく春を挙げる。そう断言できてしまうほどに、私の中での彼女の印象はどこか春めいていた。名前からして冬一色の私とは大違いだ。
「お待たせ」
足早に戻ってきた由比ヶ浜さんの両手には、それぞれペットボトルのお茶が一本ずつ握られていた。
それをみとめた私は、あらかじめ用意していた数枚の硬貨を彼女に手渡す。以前の彼女は、こういうケースで『お金はいらないよ。奢りのつもりだから』と固辞していたのだが、今はそんな素振りをみじんも見せない。問答無用でお金を押し付ける私とのやり取りの末に彼女が折れるという、予想される無駄な一幕を未然に防いでいるのだろう。
「百六十円、お預かりしまーす。こちら商品の方、冷たくなっておりますのでお気をつけてお飲みくださーい」
素直にお金を受け取った由比ヶ浜さんから、お茶とお茶目な言葉をいただいた。
『ありがとう』
百六十円とともに用意していたホワイトボードを見せると、彼女はにこやかに「どういたしまして」と返した。
そして彼女は座る――前に、ベンチの右隅に積もっていた桜の花びらを、さっと手で払い落とした。私の手からもペットボトルのキャップが滑り落ちる。
「あ、ゆきのん、落ちたよ」
幸いにもキャップは地面に転がり落ちることなく、ベンチの上に静止した。
それを拾って、由比ヶ浜さんは腰を下ろす。ベンチの右隅に。
『ありがとう』
と、書かれたままのホワイトボードを私は指差す。「どうたしまして」の返答。
二人して、ほぼ同じタイミングでお茶をひとくち含んだ。ほのかな苦味とかすかな甘味が流れ込んでくる。美味しいとも不味いとも思わない。ただの安価な緑茶だ。
「こうやって外で飲むと、普通のお茶でも結構おいしく感じるもんだね」
「……」
私は曖昧に頷く。由比ヶ浜さんがそう言った後にお茶をもう一口飲むと、なんだか少し味が良くなった気がした。何がどうよくなったのかは、判然としないけれど。
「お風呂上がりのビールの良さは、まだあたしにはわかんないけど」
「……」
私も分からない。なんせ、まだビールをまともに飲んだことすらないのだから。由比ヶ浜さんたち普通の二十歳の人と比較して、私にはそういった大人らしい経験が不足しているのを自覚している。ただ、あまり羨ましいとは思わない。飲酒、喫煙、ギャンブル、車の運転、そして労働。これらが、私とは別世界に住む人間の習慣であるように感じてしまう。日中は車で通勤して働き、夜はお酒を嗜んで眠る、という生活を送る自分の姿を鮮明に思い浮かべられない。二年以上前の私なら、喋れなくなる前の私なら、そんな想像をできたのだろうか。
目の前に何かが落ちてきて、我に帰る。
膝の上に、一枚の花びら。指先でつまむと、その薄さがよく感じとれた。
「散った桜って、私みたい」
聞こえてきたその言葉が、まさか彼女によるものだなんて思えなくて、私は勢いよく横に顔を向けた。
由比ヶ浜さんは、感慨深そうに桜の木を見上げていた。
「憶えてる? 去年、ゆきのんが言ったんだよ」
「……」
瞬間的に思い出したというより、もやのかかっていた記憶が徐々に鮮明になっていくような感覚。
「去年は確か、もっと桜が散ってて、その辺の道とかが桜のじゅうたんみたいになってたんだよね」
彼女の声が、私の記憶に積もっていたほこりを、やさしく払っていく。あの頃の私は、今以上に家に引きこもりがちだった。通院以外の目的で外出することはなかったように思う。そんな私を半ば強引に外へ連れ出したのが、他ならぬ由比ヶ浜さんだった。彼女に連れられて、私は桜の花びらで敷きつめられたアスファルトを歩いたのだ。
「で、このベンチに私とゆきのんは座ってた」
「……」
言われて気がついた。確かに、あの時もここに座っていたはずだ。
「それで、ゆきのんは言ったよね。散った桜が私みたいだって」
「……」
正確には言ったのではなく、書いたのだけれど。でも、その時の気持ちはたやすく思い出せる。私の前髪だったものを姉さんが捨てる光景が、フラッシュバックした。
「あの時はさ、あたしにはよくわかんなかったんだよね、正直言うと」
「……」
「散っちゃって、いろんな人に踏まれる桜の花びらが、ゆきのんみたいだなんて、全然思えなかったから」
彼女は口元を綻ばせる。
「まだあたしは大学三回生だけどさ、高校生の時よりかは、世間とか常識とか、何が大事で何が大事じゃないのかとか、必要か不必要かとか、少しわかるようになったと思う」
「……」
「あたしにとって、桜っていうのは綺麗に咲いてる花のことで、まあ散ってる時も綺麗だなーとは思うよ。でも、地面に落ちた花びらまでは、綺麗だとは思わないんだよね」
「……」
「でも、ゆきのんは違うんでしょ? 咲いていても、散っていても、落ちていても、桜は桜。落ちた桜を踏むことに、ちょっと遠慮しちゃう。たぶんヒッキーもそんな風に考えそうな気がする。だけどね――」
由比ヶ浜さんは、ちょうど手のひらに落ちてきた一枚の花びらを、なんのためらいもなくちぎった。
「あたしは、そうは思えないんだよね」
「……」
「うまく説明するのはちょっと難しいんだけど、なんだろ……大事に思えないというか大切じゃないというか、うーん……」
眉根を寄せて悩んでいた彼女は、とうとう考えるのを諦めてしまったようで、力なく笑って背もたれに体を預けた。
「とにかくね、散って踏まれる桜がゆきのんみたいだなんて、思えない。だって、あたしにとって、ゆきのんは大事な人だから」
彼女はおもむろに人差し指を立てた。頭上を指し示しているのだろう。
私は、空を見上げた。満開の桜と、青空が視界いっぱいに広がっている。花びらが数枚、風に吹かれてひらひらと舞った。
「どちらかと言うと、ゆきのんは咲いてる桜だよ。しかも、絶対に散らないし、絶対に枯れない桜。だから、地に落ちて人に踏まれる事もないの。どう? すごいでしょ」
そう言って、彼女は誇らしげに笑った。
それはまるで、春のような笑みだった。
次回、最終話になります。