そろそろ起きなければまずい気がする。時計を見ずともわかる。おそらく今は、普段の起床時間をゆうに超える時刻なのだろう。あてにならない体内時計が、ジリリリとけたたましくベルを鳴らし続けている。
姉さんは昨日から仕事で関西に行っているため、寝坊した私を起こす人間はここにはいない。朝ごはんもない。至極当たり前の事だが、自分のご飯は自分で賄わなければならない。
少々気合を入れて、私は起き上がった。
「おう、起きたか」
比企谷くんが、いた。
「……なのだけれど」
なんであなたがここにいるの、という驚愕に満ちた思考が口から漏れる。寝起きの姿を見られて恥ずかしいという感情は、不思議となかった。
逆に彼の方はいくらか居心地の悪さを感じているらしく、目線を私と合わせないようにあちらこちらへと飛ばしていた。
そんな彼を尻目に、私はベッド傍のローテーブルからホワイトボードを手に取った。
『忙しいのではなかったの?』
私の今日の第一声ならぬ第一筆を見て、比企谷くんは「あぁ」と吐息のような声を発した。なぜか目をあらぬ方向にそらしながら。
「まぁ、用事は済んだしな。そんで、お前の姉ちゃんが、暇なら是非に顔を出してくれって言うし、昨日は由比ヶ浜のやつがここに来たみたいだし。俺だけ来ないのも、あれだしな」
彼が喋っている最中に書いた文字を、私は見せる。
『無理して来なくていいのに』
「無理はしてねえよ」
即答された。しかも私の目をしかと見た上での即答だった。
「俺が来たくて来てるんだから」
どこかの誰かの心臓が、数ミリ跳ねる。
気づけば私は逃げるように目をそらし、ホワイトボードにクリーナーを何往復もなぞらせていた。文字はすっかり消えており、真っ白な版面が私をあざ笑うかのように輝いている。きらきら、と。ぴかぴか、と。
よくわからないが、心が浮き足立っている。
私は水性ペンのキャップを開けた。
「……」
だが、言葉が出てこない。
今、私は何を書いて、何を彼に伝えようとしたのだろう。
わからない。
わからないのであれば、別の話題を考えて捻出しなければならない。
ちらり、と彼を見やる。やはりと言ってはなんだが、彼はそわそわと落ち着きがなく、まさに挙動不審といったようすだった。何か、後ろめたいことがあるのだろうか。たとえば、私に対して隠し事をしているだとか、あるいはその隠し事をたった今打ち明けようとしているだとか……。
隠し事だなんて、嫌な表現をしてしまう自分自身に嫌気がさす。
ローテーブルに座るパンさんからの視線が痛い。その無機質な瞳は、ありのままの私を映す鏡のようで、視界に入れておくのはなんだか辛かった。
比企谷くんは、私の知っている彼と、私の知らない彼で構成されている。そしてその割合は、後者の方が多い。高校時代よりも、その割合は大きな差が生まれていて、今の私が彼について知っていることは極めて少ないと言わざるを得なかった。大学での交友関係や近況について、私が聞けば彼は快くとまではいかないが渋々教えてくれる気がする。でも、聞けない。私には、今の彼に干渉する資格がないのだから。
その事実が、私の心をきつくしばる。
彼は、これから忙しくなり、ここに来ることが減っていくらしい。きっと彼はそれを伝えようとしているのではないだろうか。そうであってほしい。そんな、他愛もない報告であってほしい。否、何も言わないでほしい。これまで通りでいてほしい。定期的に顔を見せてほしい。なんの価値もない私を、不干渉と干渉の間で、ずっと見ていてほしい。あわれみでいいから、生ぬるい愛情を、永遠に浴びせかけてほしい。
でも私は、伝えられない。伝えられないから、伝えようとしないから、こうして情けなく願っている。世界のどこかできらめく流れ星に、願い続けている。
ムーッ、ムーッ。バイブ音。ムーッ、ムーッ。長い。これはメールやSNSの通知ではない。電話が私にかかってくることはまずないから、これは比企谷くんのスマホが鳴っているのだろう。
ポケットからスマホを取り出した彼が画面を一瞥して、気まずげな表情を浮かべて私をうかがった。
ムーッ、ムーッ。
電話をかけてきたのは、誰なのだろう。本来であれば忙しい彼のことだ、無理してここへやってきたせいで、東京の方でなにか不都合が生じたのではないだろうか。そのせいで、今後彼はさらに忙しくなってしまうのではないだろうか。それ以前に用事というのは丸っきり嘘で、実は彼にはすでに恋人ができていて、放って置かれてへそを曲げた彼女が電話をかけてきたのでは──
ムーッ、ムーッ。
私の脳内で、マイナス思考が雪だるま式に膨らんでいく。
ムーッ、ムーッ。一向に、電話が止む気配はない。
彼は、立ち上がった。
その顔は、苦々しかった。
……あぁ、なんだか、だめだ。
彼が、口を開く。
「ちょっと電話出てくる」
彼が、私に背を向けた。その後ろ姿は、私が知っているはずの後ろ姿とはなんだか違って見えた。私の知らない彼が、私を置きざりにして、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。目の前がぼやける。
「……いかないで」
ぼやけた世界の中で、ひどく弱々しい声が聞こえた。
それはどこか聞き覚えのある声で、しかしそれにしては妙にノイズめいた声に思えた。
直感した。
これは、私の、声だ。
「……いっしょに、いて、ほしい、ずっと」
腑に落ちた。ああ、これが私は言いたかったんだ。あの時からずっと。卒業式の日から、ずっと。このことを伝えたくて、あの日の私は悩んでいたんだ。
ムーッ、ム……音が止んだ。
「雪ノ下、お前……」
私に負けず劣らず震えた彼の声が、かすかに聞こえる。
見たくて仕方がない彼の表情は、視界が霞んでいるせいでよく見えない。どうやら私は泣いているらしかった。
涙が止まらなくて、何が起こっているのかもよくわからなくて、とりあえず私は、胸から込み上げてくる熱いものをすべて垂れ流しにし続けるしかなかった。
扉が開く音がする。
誰かが部屋に入ってきた途端、崩れ落ちた。「雪乃ちゃん……」という感極まった声が聞こえる。姉さんだった。
また誰かが入ってきて、すぐに私の体に衝撃が走る。勢いよく抱きついてきた彼女が、私の首元に顔を埋めてすすり泣いている。由比ヶ浜さんだった。
もう一人、誰かが入ってきた。耳にスマートフォンを当てている。着物姿の女性──母さんだった。
「……どういう、こと?」
驚きのあまり、さすがに涙の勢いが弱まっていた。
私がそう言うと、母さんは澄まし顔のまま、泣き崩れた姉さんを一瞥。
「……陽乃さん」
「おがあざんがぜづめいじで」
涙声の返答に、母さんは困ったように微かに眉を寄せた。それは母にしては珍しい、生身の人間らしい表情で、私の涙は完全に引っ込んでいた。
「……比企谷さん」
「……いや、俺の出る幕じゃないでしょうよ」
「雪乃さんがこうなった要因は、あなたによるところが多いと認識しているのですが」
「いま、そういうこと言ってる場合ですかね……」
甚だ信じられないが、たったいま母さんは比企谷くんに助けを求めたようだ。というより、こうスムーズに会話ができる間柄だっただろうか、この二人は。
「……みんなで、考えたの」
耳元で、涙に濡れた声がした。
「あたしとヒッキーと、陽乃さんでね、ゆきのんのためにどうにかしたいって、ゆきのんママに伝えたら、ゆきのんママも、やっぱりどうにかしたいってずっと思ってたらしくて、それで……」
「一芝居、打ったと?」
不意に声途切らせた由比ヶ浜さんの後を私が継ぐと、母さんと比企谷くんが重々しく頷いた。つまり、今日の比企谷くんのよそよそしい態度はすべて演技で、彼のもとへかかってきた電話も母さんからの発信だったというわけ…………。
「してやられた、というわけね」
そう努めて明るく言うと、心の中にかかっていた霧が瞬く間に晴れていくような、そんな清々しさを感じることができた。こんな気分は、いつ以来だろうか。
「それにしても、なぜ母さんが……」
はっきりと訊くのはすこし恥ずかしくて、語尾をぼかしてしまう。
すると、いつの間にか立ち上がっていた姉さんが満面の笑みで、私の疑問を先読みして答える。
「やっぱり不思議に思うよね」
ちらり、と姉さんが母さんの出方をうかがうも、依然澄まし顔の母さんは微動だにしない。
「わたしも訊いたんだよ。というか、私は訊く必要なかったけどね。ずっとわかってたから。お母さんが雪乃ちゃんのこと、ずっと気にかけてるって──ああ、お母さん、しれっと出て行こうとしないで」
しずしずとした動きで退室しようとしていた母さんの腕を、姉さんが捕まえて引き止める。
「雪乃ちゃんが病院に行くたびに、お母さん、わたしを呼び出して検査結果やら近況やら報告させてたし。会うたびに『雪乃さんは最近どうしてますか?』って訊いてくるし、まあこれは元からなんだけど。それでわたし、試しに訊いてみたんだ。なんでそこまで気にするの?って」
「陽乃さん……」
咎めるような母の声を、姉は意に介さず続けた。
「そしたらすっごい真顔で即答したの。『私は、あの子の母親なんですから当然でしょう』って」
心底、意外だった。どう反応していいのかわからない。
姉さんはなおも続ける。母さんは私に背を向けたまま、黙りこくっている。
「じゃあなんで直接会わないの?って続けざまに聞いたら、『あの子は、私に会いたくはないようだから』って……。我が親ながら思ったよ、だめだこりゃって。まあ、今回は、わたしと比企谷くんと、ガハマちゃんとで引き連れてきたわけだけど」
姉さんがふっと力を抜いて呆れ笑いを浮かべたのが仇となったのだろう、その隙に、母さんが姉の緩やかな拘束を振りほどいて部屋から出て行った。
姉さんが大仰に肩をすくめる。
「……だめだ、この親」
「同意するわ」
「雪乃ちゃんが言えたことじゃないでしょ」
「えっ」
「なに意外そうな顔してんの。ハッキリ言っちゃうけど、コミュ症は雪乃ちゃんも大概でしょ。二年間も家族だけじゃなく、友達にも迷惑かけて……」
「ともだち……」
「なに嬉しそうな顔してんの」
「ゆうじん……」
「だめだこりゃ」
「あの、俺、帰っていいすか」
「あぁ、もちろんだめだよ。これから引っ越し作業を手伝ってもらわなきゃいけないから」
「引っ越し? それって誰の」
「雪乃ちゃんに決まってるでしょ」
「えぇ……ちなみにどこへ?」
「東京の、一人で住むには広すぎる上にちょっとお高すぎる某マンション」
「えぇ……、いや、えぇ……大丈夫なんすか、それ」
「大丈夫大丈夫、雪乃ちゃんはもともと一人暮らししてたし、なによりいつまでも姉の世話になるのは本人も嫌でしょ」
「それなら、まぁ……」
「あ、ちなみに、そこには比企谷くんも住まわせることになってます」
「はあ⁉︎」
「同棲です」
「あああ!?」
「決定事項です」
「なにそれ聞いてないんですけど……」
「だって言ってなかったし」
「由比ヶ浜もなんか言ってくれよ」
「あ、あたしも一緒に住む!」
「えぇ……」
「もちろんOK!」
「えぇ…………」
「私もそれで構わないわ」
「雪ノ下お前、聞いてたのか。てかそれでいいのか。つーか、はぁ、もういいわ……」
「ねえ、比企谷くん」
「ん?」
「さっき言った私のお願い、叶えてくれる?」
彼は一瞬、面食らったように目をしばたたかせたが、私の言葉の意味するところを理解したのか、いつかの彼らしく、もういつのことだか思い出せないくらい昔のことだろうけれど、それでも彼らしく、自然にぎこちなく笑った。
「善処する」
(おしまい)
ありがとうございました。
今後もちまちまと過去作を投稿する予定です。