雲間から朝の光が帯状に差し込み、雀たちがチュンチュン鳴きながら街路樹の枝の上で戯れていた。
勇磨は明理にひと言出かける旨を告げ、徒歩で駅まで向かうと、饐えた汗のにおいがする満員電車に乗り込む。
折角の休日の朝っぱらから何故こんなことをしているかというと、事は先ほど掛かってきた一本の電話に端を発する。
昨日の会議室の一件の後、彩花がこれまでに起こった一連の出来事をとある人物に伝えたところ、先方が自分と会って詳しい話を聞きたいといってきたらしい。だからといって、どうして待ち合わせの時間や場所を勇磨の許可なく勝手に決めてしまったのか抗議したが、そこはそれ。
彩花曰く、『勇磨くんは休日ダラダラしてばっかりなんだから、偶には空き時間を有効活用して民警らしいことをしてみたらいいんじゃない?』とのこと。
アンタが勝手に決めたんだから自分の頑張りにカウントできないだろとか、幾ら何でも休日の早朝に予定を入れるのは配慮に欠けるだろとか、言いたいことは山ほどあったが、決まってしまったものはもうどうしようもない。
彩花に不満を訴えたところで、先方の都合がこの時間しかつかなかった以上、彼女の意見が翻ることはない。そんなわけで、勇磨は仕方なく自分の楽しみを諦めてワンマン社長の指示に従っているのだ。
勇磨は電車を降りると、重い足を引きずって商店街の雑踏を横切り、一軒の店の前に立つ。場所は東京エリア第三区、高級感溢れる巨大な喫茶店の前だった。
──それにしても、あの人もこんな所を指定されてよくOK出したな……。
よくよく考えてみればウチの社長も元は財閥のお嬢様だったということを今さらながらに思い出す。一般市民の自分を平気で送り出してくれた彼女への軽い憎悪を覚えながら、勇磨はがっくりと肩を落として、入り口の扉を押し開けた。
1
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
慇懃に頭を下げつつ尋ねてくるウェイターに、待ち合わせです、と答えて勇磨が広い喫茶店内を見渡していると、すぐに奥まった窓際の席から無遠慮な大声が掛けられた。
「おーい桐谷くん、こっちこっち!」
上品なクラシック音楽の流れる空間に低くさざめいていた談笑が一瞬ピタリと止み、非難めいた視線が集中する。勇磨は首を縮め、足早に声の主に近づいた。着古したブルゾンにジーンズという出で立ちの勇磨は、上流階級マダムが八割を占める店内ではひどく場違いで、こんな所に呼び出した相手に対する怒りが改めて募ってくる。
これで相手が妙齢の美女というならまだ我慢できただろうが、生憎こちらにいま手を振っているのはスーツ姿の男だった。勇磨は苛立ちに任せてどすんと椅子に腰を落とす。
即座に横合いからウェイターがお冷やとお絞り、それにメニューを差し出した。本革張りと見えるそれを受け取ると、テーブルの向かいから陽気な声が飛ぶ。
「ここは僕が持つから、好きに選んでよ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
ぶっきらぼうに答えてメニューに視線を落とすと、恐ろしいことに最も廉価なものでも千二百円と、勇磨の月の生活費の二〇%近くが消し飛ぶ価格設定になっていた。
背筋に悪寒が走り、反射的にコーヒー一杯で済ませそうになるが、そこではたと気づく。目の前の男は超高給取りの官僚であり、支払いも交際費、つまり国民の血税によって行われるのだ。そこまで考えたところで馬鹿らしくなり、勇磨は平静を装って次々とオーダーしていった。
どうにか噛まずに言えたメニューの合計額は実に四千百円。儲からなかった月の勇磨ならこれだけで生活費をほぼ全額使い果たしてしまう計算になる。
「かしこまりました」
ウェイターが滑らかに退場し、勇磨はようやく一息ついて顔を上げた。
山盛りの生クリームの上にふんだんに金箔をまぶした巨大プリンをパクつく男の名は、渚島誠通。太い黒縁の眼鏡に飾り気のない髪型、国語の教師然とした生真面目そうな線の細い顔立ちは、とてもそうは見えないがこれで国家公務員のキャリア組なのだ。所属するのは総務省東京エリア行政評価局特別感染症対策課第二別室。通称『GV対策課』。
つまりこの男は、人類を脅かす世界最強のウィルス・ガストレアウィルスに立ち向かい、またその保菌者たる『呪われた子供たち』の監理を執り行う国側のエージェント……あるいはスケープゴートというわけだ。本人は事あるごとにトバされたと我が身を嘆いている。
その不遇な渚島氏はプリンの最後の一片を幸せそうに口に運ぶと、ようやく顔を上げて無邪気な笑顔をみせた。
「いやあ、ご足労願って悪かったね、勇磨くん」
「そう思うなら聖居の間近なんかに呼び出すなよ」
「君のところの社長さんには、しっかり許可を戴いたんだけどなぁ」
「あの人は仮にも財閥の元令嬢なんだぞ。俺みたいな一般市民なんかとは本来住む世界が違うことぐらい、ちょっと考えればわかるだろ」
「この店の生クリーム、絶品なんだよねぇ……。シュークリームも頼もうかな……」
メニューを見ながら真剣に悩んでいる渚島にうんざりしつつ眺めていると、彼が不意に視線をこちらに戻す。
「そうだ、明理ちゃんの体の調子はどうだい? 授業中は相変わらず退屈そうにしているけど、普段は元気にやってるかな?」
勇磨は柑橘系の芳香漂うお絞りで手を拭いながら、ため息混じりに返した。
「そりゃ、あいつの頭なら普通の小学生が習うことでわからないことは無いはずだからな。他の生徒と同じように授業受けたところで、つまらないのも無理ないだろ。それで、何だっけ? あー、元気だよ、おかげさまで。体内浸食率もたった六.二%で、先生も完全に安全域だって言ってた」
そう、この男は実は、IISOの職員としてイニシエーターのスカウトや民警志願者の受付、民警ペアの仲介を担当しており、そしてなにより、勇磨と明理、彩花と雛乃をそれぞれ引き会わせた張本人でもある。
よって勇磨が民警許可証を取ってからは、こうして会って話すことも少なくない。また、明理たちが通う青空教室の担任をボランティアで引き受けていることもあり、なにかと世話になっているのも事実である。
当初は勿論こちらは敬語を使っていたが、そのうちこの男が純粋な善意のみで自分に接触しているわけではないと悟るに及んで、自然とぞんざいな口の利き方になっている。
「先生……ね」
「……なんだよ?」
「いやね、勇磨くんの周りには素晴らしい女性が多いな、ということを改めて思っただけさ。明理ちゃんはシャチの因子の影響で凄まじい知能指数をもっているし、彩花くんは才色兼備の敏腕社長。さらにセルシアくんはあの可憐な容姿で世界でも指折りの天才というじゃないか。どうして君の周りには、あんなに素敵な女性ばかり集まっていくのかな? やっぱりなにか、仲良くなるコツでも知ってるのかい?」
気持ち前のめりになって訊いてくる渚島に、勇磨は顔の前で手を払って答える。
「集まるとかそんなんじゃなくて、ただの成り行きだよ。彩花さんは幼馴染みだからって一緒に仕事始めただけだし、明理や先生なんて、今でこそ打ち解けてるけど、最初は仕事上での付き合いだけだった。あと、なにか勘違いしてるらしいから言っとくが、俺たちは別に誰一人としてそういう関係じゃねぇからな?」
「なるほどなるほど。そうか、やはりもってる人間は、取り立てて努力しなくても自然に得をするものなんだね。死ぬほど勉強したのに東大には不合格だった僕なんかとは大違いだ」
何ひとつ理解していないらしいキャリア官僚殿は、何故か勝手に納得したように腕を組んでうんうんと頷いていた。
勇磨はそんな渚島を見ながら、この男のペースに乗せられてはならないと内心で自戒しつつ口を開く。
「それで、アンタは俺たちと違って相当儲かってんだろ? シュークリーム一個ぐらいで悩むなよ」
「あぁ、そうだね。……うーん、いや、やっぱりここは止めておくとしよう、国家予算のために」
そういってパタリとメニューを閉じた官僚に、勇磨は再びこれみよがしな溜め息をついてやる。
「じゃあそろそろ本題に入って貰えませんかね。社長から話はある程度聞いたんだろ? 何が知りたい?」
すると渚島は隣の椅子に置いたアタッシュケースに手を伸ばし、極薄のタブレット型端末を取り出しながら答える。
「いや、彩花くんから聞いたのは、昨日までに何があったかという大雑把な情報だけだ。君の方からも改めて、どんな事を見聞きしたのか聞かせてほしい」
その時、ウェイターが再び音もなく現れ、勇磨の前に注文された品を並べていく。
「以上でお揃いでしょうか」
勇磨が頷くと、ウェイターは恐ろしい金額が記載されているだろう伝票をテーブルの端に置いて消えた。
勇磨は鼻からひとつ息を吐くと、とりあえずコーヒーに口をつける。それから、先日倒したガストレアについて、その感染源がまだ見つかっていないこと、更に防衛省に呼び出され、そこに謎の仮面の男が出現したこと等、順を追って一つひとつ説明していった。
渚島はタブレットを眺めながら、顎をさすって唸る。
「なるほど、そんなことがねぇ……。ひとつずつ確認していこう。君は一昨日、ステージⅠのガストレアと交戦しこれを排除。しかしそれは感染者で、感染源の方はまだ見つかっていない。更にいうと、その感染源は少なくとももう一人以上は感染者を出していると考えられる……。ここまでは間違いないね?」
「あぁ。もう一人の感染者については昨日、防衛省に来てた民警の一人が『この間倒されたガストレア』って言ってた。
でも、一昨日の時点で民警サイトに載ってたガストレアの目撃報告は一件だけ。それが、俺たちが倒したガストレアのことだろうし、大方まだ倒されたガストレアが別にいたけど、サイトの公開状況が更新されてなかったってことだろ」
「そうか。……おや? しかし、そうすると変だな。勇磨くん、ガストレアとどこで交戦したか、もう一度言ってくれるかい?」
「……第二十三区だけど……?」
「ふむ、やっぱりおかしいね。これを見てくれ」
そういって、渚島は端末の画面を一八〇度回転させてテーブルに置く。見ると、たったいま話していた民警機関のウェブサイトが開かれていた。そこには、ガストレアとの交戦があった場所、目撃報告が出た場所を最大九十日間にわたって遡ることができる地図が……。
「…………え?」
勇磨は眉を潜めた。確かにそこにはガストレアとの交戦があったことを示すアイコンがひとつ表示されている。しかし、第二十三区がある位置から離れ過ぎているのだ。
「どうだい? アイコンの位置は第十八区。君がガストレアを倒した二十三区からは三キロ以上もの距離がある。そして、二十三区内のガストレアの目撃報告は無し。これは明らかに、表示ミスや報告漏れでは説明がつかないはずだ」
「どう、なってる……? こんな重大なミスを放置しておいて、政府の役人どもはなんで周囲一帯に警告のひとつも出してないんだよ!?」
思わず声を荒げそうになるのを必死に自制して詰め寄ると、渚島は慌てて両手を顔の前に上げ首を振る。
「いやいや、それを僕に言われても。僕は行政に直接口を出せる立場じゃないし、こう言っちゃなんだが、そもそも政府は避難警報なんかの強制手段はほとんど取ることがないから、僕らが声を上げたところでどうにかなる問題じゃない」
勇磨はどっかと椅子に座り直すと、緩くかぶりを振る。これだから権力者は嫌いなんだ。
「まぁいい、わかった。それに関してはなにか新しい情報が入ったら教えてくれ。──で? 他に気になることは?」
渚島はひとつ頷くと、タブレットを手許に引き戻し、続ける。
「うん、次に気になるのは、やはり防衛省に突然現れたという仮面の男についてだね。名前は蛭子影胤。君の話が確かなら、彼は防衛省にいた人間の中で、君の友人である蓮太郎くんとだけ面識があった、と」
「間違いないよ。蓮太郎は、奴を見た瞬間から様子が変だったし、影胤の方も蓮太郎にだけはやけに馴れ馴れしい口調だった。あいつが仕事中にどこかで影胤と出くわしてるのはほぼ確定してる」
「そして、影胤はこう言ったそうだね? 『追っていた肝心の奴はどこかに消えているし』と」
「あぁ、奴は蓮太郎と出会う前から、俺たちが探してる感染源を追っていたらしい。そのガストレアに、奴が求める何か重要な手がかりがあるはずだ」
それから、と勇磨は心の中で付け加える。影胤が口にした『七星の遺産』という単語。その実態は不明だが、感染源ガストレアの体内に巻き込まれているというそれが今回のキーアイテムであることを疑う余地はない。
「ところで勇磨くん、君は最近『ガストレア新法』という単語を耳にしたことがあるかな?」
渚島の問いかけに、勇磨はこの喫茶店までの道中で見かけた、街頭テレビのパネルに映し出されていた聖天子の厳しい表情を思い出しながら答える。
「あぁ、知ってるよ。『呪われた子供たち』の基本的人権の尊重を確約するって法律だろ?」
「その通り。一昔前まで彼女たちは、人知れず川で産んで目も開かない状態のまま水につけて殺すのが一般的だったし、なまじ再生能力なんてものがあるせいで、親からの過激な虐待の対象になりやすい。
ガストレアショック、なんて言葉もあるね。赤い眼を見るとショック症状を起こす戦争後後遺症だ。これを起こす親は、自分の子供の目もまともに見られないらしい」
こほん、という咳払いの音に隣を見ると、上流階級の初老の夫婦が物凄い目つきでこちらを睨んでいた。だが渚島は意外な豪胆さを発揮し、ぺこりと会釈しただけで話を続ける。
「そして『呪われた子供たち』は、遺伝型がガストレアウィルスに汚染されたせいで親子鑑定をしても肉親との血の繋がりを立証できない。そこから飛躍して、法的に人間か否かを問う声まであるんだ。大戦を経験した『奪われた世代』のほぼすべてが潜在的な『呪われた子供たち』差別主義者であるとも言えるこの状況下で、彼女たちの味方は非常に少ない。『ガストレア新法』とは、そんな彼女たちの境遇に理解ある聖天子様が、なんとかして救いの手を差し伸べようと、御自ら発案された法案なんだよ。
これは本当に素晴らしいことだと僕は思う。ガストレアが行った人類への侵略と、不幸にも胎内でそのウィルスに侵された子供たち。本来この二つは分けて考えられなければならない。戦争を知らない彼女たち『無垢の世代』は、紛れもない被害者なんだから」
熱弁を振るっていた渚島は、しかしそこで急に声のトーンを落とした。
「しかしね、やはりそれを良しとしない者が大勢いるんだ。中でもその代表者的な立ち位置にいるのが、聖天子付補佐官、天童菊之丞閣下。世襲制である聖天子の補佐官という、実質政治家の最高権力的ポストにつき、聖天子様に忠誠を誓う彼は、同時に極端な『呪われた子供たち』差別主義者でもある。
彼とはほとんど関わりのない部署に勤めている僕の耳にも、彼の良くない噂は嫌でも入ってくるぐらいだよ。なんでも聞いた話によれば、『呪われた子供たち』はおろか、その戦闘力の高さを有効活用するべく編み出された民警システムにでさえ、好意的な感情を抱いていないらしい」
「…………。……そんな話を俺にして、なんの意味があるっていうんだ?」
「いやなに、この辺りの話も一応、勇磨くんの耳に入れておけば、また新たな観点からも今回の一件を見直せるんじゃないかな、と思ってさ」
まったく悪びれることなくそう応えた渚島の無邪気な笑顔に、勇磨は遂に頭を抱えたくなった。
「結局、一番重要な部分を探るのは俺かよ。何か有力な考察でも聞けるのかと思ってわざわざ朝早くから出てきたってのに。俺はアンタのくだらない探偵ごっこに付き合うためにここに居るわけじゃないんだぞ」
「そこを解決することこそ、勇磨くんの仕事の一環じゃないか。勿論、後の事はタダでやってくれ、なんて甘えたことは言わないよ? さっき話に挙がった民警サイトの不自然な表示の件。あれについては、こちらで可能な限り原因究明した上で結果を報告させてもらおう。その代わり、君は感染源ガストレアの探索や、蛭子影胤の企みを阻止するために、引き続き頑張ってくれ」
2
喫茶店を後にした勇磨は、朝方とは別種の疲労を抱えながら清華大学附属病院の受付をパス。掃き清められた清潔な廊下をしばらく行くと、馴染みの地下への薄暗い階段を慎重に下っていった。
何を考えているのかイマイチ読めない高給官僚が寄越した情報によって新たに浮上した問題を解決するには、やはり専門家からの意見も仕入れておく必要がある。
やがて勇磨の靴の裏が緑色の陶製タイルを叩くカツンという音が響いた。ともすればインテリアにもみえる巨大な頭部をもったポール型監視カメラの間をすり抜けると、ドアの取っ手に手を掛ける。
扉を押し開け、顔を上げた──次の瞬間、室内にいた人物が弾かれたようにこちらを向いた。残像の顔の辺りに残る、仄かな赤い光。
同時に相手が向けてきたものの正体が銃口であることを直感で悟り、勇磨は咄嗟に扉の陰に飛び込む。続けて腰のワルサー拳銃を抜くと、遊底を引き発砲可能にして構えた。
「誰だテメェッ」
地下室内に向けて叫ぶ。しかし、そこで勇磨は相手が一切発砲してきていないことに気づいた。不審に思って耳を澄ませると、部屋の中から聞こえるのは何者かがバタバタと慌ただしく動き回る衣擦れの音。
最初に手だけを出して振ってみるが、反応なし。
次に首を伸ばしてそっと中を覗き込むと、先ほどの人物が右を向き、腰溜めにしたアサルトライフルのようなものを激しく左右に振っていた。
しかし、やはり発砲している様子はない。代わりに、微かに洩れ聞こえてくるのは──断続的な射撃のSE。
ようやく状況がなんとなく掴めてきた勇磨が一歩進み出ると、謎の人物は再びこちらを向き、銃を構えて引き金を引いた。それと同時に、銃口からではなく、相手の頭の方から再びの微かな射撃音。
落ち着いてよく観察してみると、謎の人物は清楚な印象を与えるパステルカラーのスカートとシャツの上に引きずるほど長い白衣という、見覚えしかない出で立ちをしていた。先ほど赤い光の尾を引いていた光源も、どうやらフルフェイスゴーグルのレンズが光っていただけらしい。
「…………。──先生?」
勇磨が気持ち大きめの声で呼びかけると、少しして相手の動きが止まり、目を凝らすように首を突き出す。というかその前にまずゴーグルを外せ。
「……あ、勇磨さん?」
案の定というべきか、聞き慣れた少女の声が自分を呼び、白衣の人物が頭に手をかけてゴーグルを外す。
「どうりで、さっきからやけに倒れにくくて騒がしい敵がいると思いましたよ」
その中から金髪ポニーテールの美少女の笑顔が覗いたところで、勇磨は改めて胸を撫で下ろした。
「ッたく、脅かすなよ。いきなり銃なんか向けられるもんだから、てっきり強盗にでも入られたかと……。──待て、いま何つった?」
「え? 勇磨さんをゲームの敵キャラと間違えて必死に撃ってました」
「撃つな。ていうか、そもそもゲームしてても敵と俺間違うかフツー?」
「間違いますよ。だって勇磨さん、あんまり敵と変わらないんですもん」
「は? どういう意味だよ?」
「だって勇磨じゃないですか、ユウマ」
「…………」
「──ユーエムエー」
「誰が未確認動物だ」
セルシアは心底楽しそうにケラケラと笑いながら、持っていたライフル型のコントローラーを机に置くと、傍らのゲーム機類を片付け始める。
見ると、壁には普段彼女が映画鑑賞に使っているスクリーンが掛けられ、そこにプロジェクターでゲームのタイトルがでかでかと映し出されていた。状況から察するに、どうやらガンシューティング系のゲームで遊んでいる最中だったらしい。
セルシアが脇に抱える、ただのフルフェイスゴーグルにしてはゴツいマスクも、恐らくVRモードを搭載したゲームのハードの一部だろう。まったく、人騒がせな医者がいたものだ。
勇磨はスツールに腰かけると呆れ返りながら、部屋の左側を埋める大判の本棚を見た。かつて世界最高の頭脳の右腕として働き、日本最高の頭脳である室戸菫教授とも問題なく議論を戦わせられる頭脳は、いまや映画と各種ゲーム漬けになって見る影もない。
室戸教授と親交がある蓮太郎の話では、彼女も『大変な変人なんていう言葉で片付くほど生やさしいもんじゃねー』らしいが、その彼女を知らない勇磨がこうしてセルシアを見ていると、比べようによっては下手をすればこちらの方が重症度合いが酷いのではないかという気さえしてくる。少なくとも普段の言動を見ている限りでは、それほどにIQが高いふうには絶対にみえない。
ちなみに、勇磨はセルシアから『四賢人』に関する概略の説明を一応受けてはいるが、細かい事情まで知っているわけではない。
セルシアと彼らが旧知の仲であること、中でも室戸教授と親しくしていたこと、そしてセルシアがグリューネワルト教授の右腕だったこと以上の情報は、話をもち出す度に上手くはぐらかされてしまい、聞けずにいるのだ。
なんでも、セルシア曰く、『まだ教える時じゃない』らしいが、そう言われると余計に知りたくなるというもの。
しかし勇磨もある程度は察しがついている。
すべての民警ペアにはIP序列──倒したガストレアの数や挙げた戦果によりIISOが規定、発行するランク付け──が必ず与えられるが、序列が上がっていけばそれに応じたレベルの機密情報アクセスキーも併せて与えられることになっているのだ。
セルシアがそうまでしてひた隠しにするということは、恐らく勇磨がもつ最低位のアクセスキーではまだ閲覧できない領域に、その『四賢人』という存在が多少なりとも関わっているのだろう。
それならば、勇磨がやるべき事はひとつ。いまよりもっと鍛錬を積んで序列の階梯を駆け上がり、真実に辿り着くための切符をこの手で掴み取るだけだ。
そこでセルシアがリモコンを操作するとスクリーンがするすると巻き取られていく。その後ろから現れた光景を見て、勇磨は思わず感嘆の声を上げた。黒板をはみ出して、壁にまでびっしりと難解な数式が並んでいる。
「先生、なんだそれ」
勇磨が問いかけると、セルシアはヘアゴムを外して頭を振り、髪を払いのけながら答える。
「今朝観てたドラマ映画が推理小説を原作にしてるんですが、主人公がクライマックスで、長い数式を勢いよく描いて事件の謎を解き明かすパフォーマンスをするんです。そこで描かれてる数式が気になったので、自分で再現してみたら、割と滅茶苦茶なところが多々あって……。これってもしかして番組制作会社に問い合わせたら、私の意見を参考に改良して貰えちゃったりしますかね?」
あくまでもまったく悪気なく瞳を輝かせているセルシアに、勇磨は苦笑した。
「いや、止めてやれよ……。ただでさえ細かく注目しないことを前提に作ってる部分だろうに、そんなとこにアンタがガチ意見なんか投げたら、クレーム対応係の胃に穴が空くぞ」
セルシアはクスクスと悪戯っぽく笑うと、ひと通りの片付けを終えたらしく自分の席に座る。
「さて、お待たせしました勇磨さん。今日はどうしましたか?」
「実は、俺達が一昨日倒してここに運び込まれてたガストレアについて相談がある。今朝、渚島さんに呼び出されて話してきたんだけど、そしたら幾らかヤバい事がわかったんだ」
勇磨が一旦言葉を切ると、セルシアは無言で先を促した。
「まず、あれは感染者だった。そして肝心の感染源──多分、同じくモデル・スパイダーの単因子だと思うけど、いまもまだ、どこからも殲滅報告どころか目撃報告すら出てないんだ。確認できるだけで既にもう一人は感染者が出てしまってるし、このままじゃ犠牲者が増える一方だ。一刻も早く殲滅したい。隠れてるとしたらどんな場所だと思う?」
「そーですねー」
セルシアは座っている椅子ごと回って遊び始める。
「勇磨さんはハエトリグモの特徴って知ってます?」
「特徴……まず、あの体色だろ? そしてジャンプして獲物を捕るのは有名だよな。徘徊性、だっけか」
「その通りです。でも、そのスケールが人間大になったからといって、元の通り何十倍もの跳躍力を示すものではありません。ノミのジャンプ力が人間換算で東京タワーほどもあるとかいいますが、そんなにノミの体が巨大になれば自分の体を支え切れませんし、皮膚呼吸すら満足にできなくなります。それが現実です。しかし──ガストレアウィルスはすべてを覆す。
生物がガストレアに変化する際、大きさに応じてまず、皮膚の硬度や体機能が向上します。だからガストレアはでかければでかいほど硬いし筋力も強靭です。しかも、ただ自分のコピーを作り出すのではなく、宿主の遺伝子特性を解析したうえで最適な形状に作り替えていきます。そして問題なのは、その速度。
ガストレアウィルスの浸食スピードは、地球上のあらゆる生物に比して規格外といえます。そして体内浸食率が五〇%を超えると人間の姿を保てなくなり、形象崩壊というプロセスを経て宿主はガストレアになります。また、その過程で本来得るはずのないオリジナルの能力を生み出す個体もあります。それが突然変異による進化の跳躍という奴なわけです。
随分と話が長くなってしまいましたが、見つかっていない感染源もなにかオリジナルの能力を得ているのかもしれませんね」
「……なんだろ……光学迷彩とか?」
「ん〜、もっと単純に、カメレオンみたいな擬態カムフラージュがありますね。花弁に擬態して獲物を捕るハナカマキリとか、海藻を集めて被るカニなんてのもいますし。
あーでも、さっきの話だと、政府側が感染者の数を正確に把握できてないんですよね? だったら、考えにくいですが最悪、光学迷彩の線も捨て切れなくなりますね。あくまで、その問題までガストレアの能力に起因すると仮定した場合の話ですが……」
勇磨が見ると、セルシアはいつしか顎に手を当てて思考の海に沈んでいる。普段は軽い口調で巫山戯てばかりいる彼女だが、こうして話したお陰で思考が大分まとまってきていた。やはりなんだかんだいって、この人は凄い。
「なるほど、擬態カムフラージュね……。マジの光学迷彩の可能性も考えとくとして、とりあえずその線で探ってみようと思う。じゃあ俺は行くよ、ありがとう先生」
セルシアはまだ何か言いたそうにしているが、マトモに付き合い始めると幾らでも話が逸れていきそうだということで勇磨が別れを告げると、当の少女は一拍遅れて顔を上げる。
「え? あぁ。また、いつでも来て下さいね」
「今度から、ドッキリ要素はナシでお願いしとくよ」