蓮太郎が運び込まれた病院を後にした勇磨たちは、彩花への報告を済ませたあと、その足で清華大学附属病院へと向かった。
これから行く予定の施設について、佳澄には『とり急ぎ空きを確保してほしい』と伝えたが、その彼女とて施設の管理者権限を持っているわけではない。勇磨たちが予約を入れようと思ったら、まず佳澄を介して彼女の親友経由で交渉する必要があるのだ。
さらにその施設は自衛隊や特殊警察、民警、金持ちの趣味人に至るまで頻繁に利用しており、予約は一年先まで埋まっているとか。いかに緊急事態といえど、おいそれと借りることはできないのである。
故に勇磨は予約手続きの完了を待つ間、空いた時間でセルシアにある相談をしに行こうとしていた。
道中、ラクシオペアと合流すると、そのまま四人で大学病院の敷地内へ。受付を顔パスで通過し、急な階段をゆっくり下っていくと、扉を押し開けながら声を掛ける。
「先生ー、いるかー?」
その声に、正面の机でカルテかなにかを書いていた少女が顔を上げた。勇磨達を視認すると、束の間その身体が硬直する。次の瞬間椅子を跳ね飛ばし、こちらに向かって猛然と走り込んできた。
「おわぁッ」
それを見た勇磨は慌てて避ける。直後、走ってきた勢いそのままに放たれたセルシアの飛び蹴りが、背後に立っていたラクシオに命中した。
階段に倒れ込んだラクシオに馬乗りになると、セルシアは怒鳴りながら両の拳で殴りつける。
「いままでどこほっつき歩いてたんですかこンのクソ兄貴いいぃぁあァッ。毎度毎度、よく妹に何も言わず何週間も出かけられますねぇえ!? 兄ってのはねぇ、弟妹の面倒をみるのも仕事のうちなんですよおォッ。それでも私の兄さんやってる自覚あんのか堕落シオォコラアアァッッ」
「お、おい先生ちょっと落ち着けッ。お前ら、止めるの手伝ってくれッ」
明理がセルシアを引き剥がす間、勇磨は彼らの間に割り込むと、愛香と二人がかりでようやくラクシオの救出に成功した。
羽交い締めにしたセルシアのあまりの剣幕に、明理は引きつった笑みを浮かべているが、彼女と初対面になる愛香などは目を白黒させている。
勇磨は久々に見るセルシアの荒れ様に、呆れ返って盛大な溜め息をひとつ吐いた。
普段はお淑やかな雰囲気をまとって、いかにも大人しそうな顔をしているセルシアだが、どういうわけか兄・ラクシオのこととなると感情が制御できなくなるらしく、こうして顔を合わせるなり掴みかかっていくことも珍しくない。
ただひとつ誤算だったのは、ラクシオが東京エリアに帰ってきたことを彼女に知らせておらず、また勇磨も伝え忘れていたことで、彼女の怒りのボルテージが上がる理由を増やしてしまっていたことである。
因みに、先ほどセルシアが怒鳴り散らしていた内容は一見筋が通っているように聞こえるが、彼女の場合『妹の自分に心配をかけたこと』以前に『帰ったことを聞いていたら買い出しを頼めたのに』などといった勝手な言い分が含まれているため、残念ながら同情の余地はない。
勇磨は後ろ頭を掻きながら口を開く。
「悪ぃな、愛香。怖がらなくていいぞ……つっても、無理だよな……。この人はラクシオさんの妹で、ガストレア解剖医のセルシア・バルバトス教授だ」
するとセルシアは、先ほどの剣幕など感じさせない穏やかな微笑を浮かべて会釈した。恐ろしいことに、この数秒で髪や衣服の乱れまで元通りになっている。
愛香がカチコチに緊張した様子で一歩前に出た。
「中原愛香、です。この度ラクシオさんのイニシエーターになりました。よろしくお願いします」
礼儀正しく頭を下げる愛香に、セルシアは軽く目を見開いて応える。
「へぇ、そうなんですか。こちらこそ、兄をよろしくお願いしますね、愛香さん」
「あー、それから、さっきみたいに暴走するのはラクシオさんに対してだけだし、割とよくある事だから気にするな。難しいのはわかるが『慣れてくれ』としか言えない」
勇磨の言葉に、愛香は目を丸くしてこちらを見た。
「よくある? いつもこんな調子ってこと……?」
そこで立ちくらみがしたのか顔に手を当て数歩よろめくと、斜め後ろに立つポール型監視カメラの頭部にもう一方の手を突く。
その時、ガコッという音がして、監視カメラの巨大な頭部がずれ動いた。愛香は転びそうになりながら、慌ててカメラの位置を元に戻す。
転落の危険が無いことを確認し、胸を撫で下ろしたところで、勇磨たち四人分の視線を集めていることに気づいたらしい。頬を染め、咳払いしてから居住まいを正す。
「油断したわ。コレ、下のポールと繋がってるものとばかり思ってたけど、普通に取れるのね」
階段に叩きつけられたラクシオだったが、たいした怪我はなかったらしく、愛香に助け起こされるとすぐに勇磨たちの後をついてきた。
全員でスツールに腰かけると、正面に座るセルシアが口を開く。
「さて。今日は、私と愛香さんの顔合わせ……だけってことはないですよね、クソ兄貴もいますし。なにかありましたか?」
勇磨はセルシアの物言いに呆れつつも、更なる混迷を避けるべく、さっそく本題に入ることにする。
「そうなんだ。実は、相談したいことがあって」
それから勇磨はモデル・スパイダーの能力の真相、聖天子から依頼された任務の詳細と、その遂行の失敗までの経緯。そして現在東京エリアに迫りつつある『大絶滅』のシナリオと、蓮太郎が昏睡状態にある事などを洗いざらい語った。
セルシアは最初こそ「なるほど、ハンググライダーでしたか……」等と呑気な反応を返していたが、聖天子からの任務失敗の段に至ると、流石に沈痛な面持ちになって黙り込んでしまう。
少しの間をおいて、セルシアは視線を上げた。
「……それで、相談というのは……?」
組んだ手に視線を落としていた勇磨は鼻からひとつ息を吐くと、覚悟を決めてその瞳を見返す。
「あぁ。万が一に備えて、俺達で影胤をぶっ飛ばせるように対策を立てようと思ってる。そのうえで聞いてほしい」
一拍おいて、強張る口をどうにか動かした。
その言葉に、明理と愛香が目を剥いて勇磨を見る。ただ独り、ラクシオの表情だけは静かで、内心を推し測ることができない。
セルシアも軽く目を見開いたが、その双眸はすぐに剣呑な輝きと共に細められた。
結局この日、佳澄から件の訓練施設の都合がついたといった連絡は来なかった。
しかし、それも仕方ないことだと明理は思う。本来なら一年も先まで埋まっている予約を、一日やそこらで融通してくれという要求自体、土台無理な話だったのだ。
また、民警機関のウェブサイトの不可解な表示についても続報は無い。こちらはさしもの明理も専門外であるため考察が難しいが、仮にも政府の失態を暴こうというのだ。いかに渚島が優秀といえど、探れる情報にはどうしても限界があるのだろう。
そして最も気がかりだった蓮太郎の安否も、ついに連絡が来ることは無かった。
かくして東國民間警備会社の面々は、何の手掛かりも安心材料も得ることができぬまま、決戦の時を待つこととなる。──と、思われたのだが。
翌日。
早朝から鳴り響くスマホに叩き起こされた勇磨の口から、衝撃の情報が飛び出してきた。
一体いかなる手段を用いたのか、佳澄が訓練施設の空きを確保できたというのだ。
1
勇磨たちは先日と同様ラクシオに連絡を入れ、彼の車に乗り込むと目的地へ向けて出発した。
彩花たちにも電話で訓練の同行を提案したのだが、なんでも、今回の事件に携わる民警の代表者に限り、政府から再びの召集が掛けられたらしい。
よって現在、行動を共にしているのは、桐谷ペアとラクシオペアに、彩花と別れてこちらに加わった雛乃の五人ということになる。
目的地は、天童民間警備会社にも装備品を提供している巨大兵器会社『司馬重工』。その本社ビルである。
ラクシオがビルのエントランスに車を直付けすると、全員で下車。総ガラス張りの一階エントランスをくぐった。
警備員にまったく声を掛けられないのは、既に社内の人間には話が通っているからだろうか──などと漠然と考えていた勇磨は、そこで正面から歩いてきていた人物に気づいて軽い衝撃に見舞われる。
「ようこそ東國民間警備会社のみんな、司馬重工本社ビルへ。待っとったよ。しばらくぶりやねぇ」
妖艶な笑みを浮かべてそう切り出したのは、スーツ姿の職員が行き交う社内には甚だ似つかわしくない、明るい色の和服に袖を通した少女だった。
彼女こそここ、司馬重工の社長令嬢・司馬未織だ。
更につけ加えると、蓮太郎の通う勾田高校の同級生であり、なおかつ生徒会長まで務めているらしい。
「おや、これは社長令嬢様自らご丁寧に……」
律儀に頭を下げようとしたラクシオに、未織は苦笑と共にかぶりを振る。
「んもう、イヤやわぁラクシオさん。司馬と東國の仲やないの。ウチはみんなとちょっとでも早よ会いとうて出てきただけやで?」
今度の未織の発言に社交辞令的なニュアンスが含まれていないのは、勇磨も理解していた。
『司馬と東國の仲』といってしまうと少々語弊があるのだが、天童と東國、東國と鬼灯、そして鬼灯と司馬の家や会社には、それぞれ昔から強い繋がりがある。よって勇磨たちは佳澄を仲介して、こうして司馬重工にも色々と世話になっているというわけだ。
ちなみに、これほど回りくどい手を使ってまで司馬重工の支援を受ける理由は至極単純で、鬼灯重工には彼らほど充実した設備がないのだ。これは決して勇磨の主観による評価ではなく、佳澄も偶にこぼしているれっきとした実情である。
力関係をざっくり表現するなら、日本の兵器産業界の頂点に君臨するのが司馬重工、その僅か数歩後ろを歩むのが鬼灯重工といったところか。
だが鬼灯重工側にその残り数歩を覆すつもりは──佳澄曰く資金力的にも──全くないらしく、司馬重工とは商売敵でありながら良好な関係を築いている。
「じゃ、案内するから、みんなついてきてな」
踵を返して歩き出す未織の後に続いてエレベーターに乗り込むと、地下五階のボタンを押した。
「あ、そうそう」
やや窮屈なケージの扉が閉まってから程なくして、未織が再び口を開く。
「ウチ、この子のこと今日初めて見たんやけど、もしかしてラクシオさんの……?」
「うん、僕の新しいイニシエーターだ。ペアを組んでからはしばらく経ってるんだけど、東京エリアに帰ってきたのが先週だから、たしかに未織さんとは今回が初対面になるね」
「初めまして。モデル・アント、中原愛香よ」
未織は愛香の挨拶に手短に応えた後、視線を上げて遠くを眺めるように目を細めた。
「にしても、アリの因子なぁ。どんな能力見せてもらえるんか、いまから楽しみやわー」
楽しそうにクスクスと笑う彼女の言葉には、勇磨も同感だった。というのも、今朝から気になってはいたのだ。愛香はその背中に彼の闘神、伊熊将監の得物に勝るとも劣らぬ巨剣を差しているのである。
到着の音と共にケージの扉が開くと、勇磨は眼前に展開された思わぬ光景に片眉を上げた。
「ハァイ.いらっしゃい,みんな」
休憩スペースの一角に置かれた、ひと組のテーブルセット。そこに腰掛けていた金褐色の巻き毛の少女が振り返り、さも当然の如く明るい笑顔で、流暢な英語と共に手を振ってきたのだ。
「……なんで、お前までここにいるんだよ」
勇磨が呆然と呟くと、未織がスタスタと少女の近くまで歩いていき、悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらに向き直る。
「ま、サプライズゲストってやつやね。今回の訓練には、観客として同席することになっとる。さっきまでここでウチと喋っとってんけど、驚かせたかったから言わんかったんよ」
「別に観客が増えて困るようなモンじゃないんだし、いいよね〜。それとも……私が居ちゃ、ダメ?」
未織に続き口を開いた佳澄が、両頬に描いた三本のヒゲを萎れさせながら潤んだ瞳で見上げてくるので、勇磨は呆れ返りつつ首を横に振った。
「それじゃ始めよか。もし何か欲しい武器あったら、そこのロッカールームから好きに持っていってな」
未織の言葉に、愛香が意外そうな顔になる。
「何でも? 実弾まで使えるの?」
「実弾どころとちゃうよ? ここは世界でも特別高い性能を誇る仮想戦闘訓練施設。室内全体が特殊なゴムで出来とるから、各種爆薬まで使用可能や」
感嘆の吐息を漏らす愛香に、思わず口元を緩ませてから、勇磨は明るい声を出した。
「まず、順番決めようぜ。誰からいく?」
司馬重工本社ビル地下五階。『VR戦闘訓練施設』と呼ばれるこの施設は、縦横一キロにもおよぶ、広大なキューブ状空間だ。床と壁の境目すらわからない精白な室内にはチリひとつ無く、遥か頭上からの照明光が真っ白な空間に乱反射して、目を開けているのが辛いほど眩しい。だが、一度システムが作動すれば、この非現実感漂う空間は即座にその姿を一変させ、様々な地形や仮想敵をシミュレートする模擬戦場となる。
最初に名乗りを上げたのは、ラクシオだった。
挑んだステージの名前は『アンシビライズド』。鬱蒼としたジャングルのなか、自動小銃で武装した民兵型エネミーが四方八方から襲い来る、対ゲリラ戦に特化したステージだ。
しかし、普段から未踏査領域で仕事をこなす天童式戦闘術免許皆伝の秀才にとっては、むしろ得手とするシチュエーションだったのだろう。三十体あまりいた仮想敵を十五分ほどで全滅させ戻ってきたラクシオが「ああいう環境で対人戦をやるというのも新鮮な感覚だね。ちょうどいい運動になったよ」と微笑んだときには、勇磨も頬を引きつらせて笑うしかなかった。
続いて雛乃が『ウェイストランド』というステージで屋外戦闘力および明理に指摘されていた、攻撃時に掛け声をかけてしまう癖の改善。勇磨たちも来るべき激戦に備えて、実戦訓練に打ち込んだ。
明理が戻ってきたところで、ラクシオが口を開く。
「それじゃあ次は、いよいよ愛香の番だね。この施設の使い方はだいたい掴めたかな?」
「えぇ、問題ないと思うわ」
ひとつ頷くと、愛香は横手にカードリーダーのある扉を押し開けた。途端に視界に流し込まれたあまりの光量に腕を上げる。
前後左右もわからない広大な空間を歩いていくと、不意に周囲の景色がぐにゃりと歪み、一瞬立ちくらみがした後に見た光景は一八〇度様変わりしていた。
選んだステージの名前は『ルインズ』。見渡す限り廃墟が立ち並ぶ、住宅街での戦闘に重点を置いた構成らしい。
愛香は目を伏せ静かに能力を解放すると、背中からバスタードソードを下ろして前方を睨み据えた。
「──天童式戦闘術・三段。中原愛香──出るわ」
各々がひと通りの訓練を終えたあと、聖天子からの事前説明があるということで、勇磨たちは再び防衛省へ。その後訓練の途中で合流していた彩花の提案で、蓮太郎の見舞いに行くことになった。
病院へと向かう車中で、勇磨は助手席に座る愛香にそっと視線を注ぐ。
彼女の能力は、色んな意味で興味深いものだった。
案の定というべきか、基本はバスタードソードから強烈な斬撃を繰り出すのだが、そこに我流の格闘術を組み合わせることで、小回りが利かない大剣の弱点をカバーしているのである。
ラクシオに確認してみたところ、やはり愛香に格闘術を仕込んだのは彼だった。天童流は免許皆伝になると技の創出と伝授が許されるため、二人で過ごす間の修行も兼ねて手ほどきをしたらしい。それにしても、修行の開始から四半期余りで三段まで昇格したというのだから、その呑み込みと上達の速度には目を見張るものがある。
また、天童流は免許皆伝以外の者が技に独自のアレンジを加えることを禁じていたはずだが、それもラクシオに尋ねると「『愛香は『子供たち』だから、人間の枠には収まらない』といって助喜与師範を説き伏せたよ。勿論僕は愛香が人間と違うなんて、これっぽっちも思ってないけどね」という茶目っ気たっぷりの回答が返ってきた。
イニシエーターが武術を習得するとこうも飛躍的な戦闘力の向上が望めるのか……などと考えつつ、隣の相棒を見やると不機嫌そうな半眼で「なんですか?」と睨み上げられてしまった。
2
病院に到着すると、正面玄関に歩いていく二人組が見えた。勇磨は慌てて車を降り駆け足で追い縋る。
「あッ、おーい、二人とも!」
呼びかけに気付いた少女二人がこちらを振り返り、面食らったような顔になった。
「桐谷くん? それに、あなた達まで……。わざわざ皆でお見舞いに来てくれたの?」
微笑みを繕う木更の目元に涙の跡を見とがめて胸が痛む。どう説明したものかと悩んでいると、後ろから追いついてきた彩花がすかさず助け舟を出した。
「うん、会社は違っても、蓮太郎くんだって私たちの大切な仲間だもん。心配なのはみんな同じだよ」
不甲斐なさに思わず苦い表情になりつつ視線で謝意を送ると、彩花も困り顔で笑みを返してくる。
「そう……そうよね。……ありがとう」
「それで、蓮太郎さんの容態は?」
明理の質問に木更は口元に微かな笑みを浮かべた。だがその瞳には、依然として痛みの色が見える。
「えぇ、あれから手術はなんとか成功したわ。でも、まだ目は覚ましてないみたい」
「そうですか……」
明理が俯いてしまい、場に流れかけた暗いムードを払うように、ラクシオが口を開いた。
「ひとまず中に入って、様子を見にいってみようか」
その言葉に頷きあうと、全員で連れ立って蓮太郎が眠る病室を目指す。ここまでのやり取りの間、いつも元気一杯だった延珠が一言も発していない点については、努めて考えないようにした。
病院の廊下を半分ほどまで進んだ時、勇磨たちの耳に届いた音が沈滞した空気を吹き払った。
「──ッてぇぇぇぇぇ!!!」
フロア中に響き渡ったその絶叫に、全員でびくりとして立ち止まる。
「里見……くん……?」
先頭を歩いていた木更が呆然と呟いた直後、彼女と手を繋いでいた延珠が不意に駆け出した。
「あ、ちょっと延珠ちゃんッ」
木更の制止も聞かず、絶叫の発生源である個室の扉を開け放つや、助走をつけて飛び込んでいく。
直後──。
「れんたろぉぉぉぉぉッ!!!」
という抑え難い歓喜を孕んだ絶叫と、
「があああああッ!!!」
という苦悶の悲鳴がほぼ同時に響き渡り、廊下中を再度ビリビリと震わせた。
勇磨は未だ呆けた表情の木更と顔を見合わせると、思わず小走りになりながら個室の入口に近づく。
そっと中を覗き込むと、ベッドの上で上体を起こし困惑の表情を浮かべている少年の横で、延珠が立ったまま布団に突っ伏していた。
木更はふらりと一歩、よろめくように踏み出す。
「里見くん。…………。──おかえりなさい」
見上げると、ラクシオも笑って頷きを返した。
勇磨は、病室に入っていく木更の後に続くと、少年を見据えて精一杯の笑みをつくる。歯を食いしばっていないと、いまにも涙が零れそうだった。
「俺たちも居るぜ。ッたく、心配かけやがって」
不足分の椅子を看護師に出してもらい、全員が腰を落ち着けたところで、木更が持ってきていたリンゴを剝き始める。
蓮太郎は手ごろなサイズに切り分けられたそれを爪楊枝で口に運びながら、おもむろに問いかけた。
「俺はどれくらい寝てた?」
「丸一日と、三時間くらい。大手術だったわ。医者もさじを投げかけたそうよ。でも君は生きることを諦めなかった。偉いわ」
淀みなく木更がそう返すと、蓮太郎は頬を染め視線を逸らす。
それから二、三言交わし、木更がリンゴのおかわりを用意し始めたところで、いままで不機嫌そうに黙々とリンゴを咀嚼していた延珠のツインテールがピコンと跳ねた。
「そうだ蓮太郎! お主に見せたい物があるのだ! ちょっと家まで取りに行ってくる!」
「と、取りに行くって、今からか?」
蓮太郎は目を白黒させながら訊くが、延珠は得意げにフフンと笑って応える。
「心配するな、妾の脚ならばあっという間だ! ──ではな!」
延珠が嵐のような勢いで病室を飛び出していき、扉がバタンと閉められた。
「……そういうこと言ってるんじゃねぇよ……」
蓮太郎が呆れ顔で呟くと、木更が口元に手をやってクスクス笑う。
「延珠ちゃん、さっきまでとはまるで別人だわ。君が寝てる間、あの子、食事も睡眠も取らなかったのよ? なのに突然あんなに元気になるなんて……ちょっと可笑しくて……」
そういって笑う木更の目元にも小さな陰影がついていることに、蓮太郎も気づいたのだろう。虚を衝かれたような表情になって微かに唇を震わせると、伏し目がちに口を開いた。
「……俺は、どうやって助かったんだ……?」
その問いに、勇磨は表情を改めて切り出す。
「それは、俺から順を追って話すよ。実は俺と明理もあの時、お前らの近くにいたんだ。けど感染源の死体を見つける頃にはもう見失って、捜してる内にお前の銃が河の傍に落ちてるのを見つけた。だから、もしかしたらと思って下流に向かったんだ。そしたら途中で偶然木更さんと出会って……」
勇磨が説明する間、バッグを漁っていた木更が一挺の拳銃を取り出した。スライドストップが上がって弾を撃ち尽くした状態のXDだ。
彼女はそれをサイドテーブルに置くと、おもむろに語り出す。
「覚えてるかしら。伊熊……伊熊将監」
「!?」
蓮太郎がぎょっとして目を見開いた。
「あの時、延珠ちゃんが、ケース捜索に来ていた伊熊ペアと運よく遭遇して協力してもらったらしいの。私たちが着いたときには、もう君の応急処置も済ませてあった」
そこで一度言葉を切ると、木更は俯いて続ける。
「そして君が病院に運び込まれたとき、言われたわ。『結局足手まといのガキだったな』って」
蓮太郎は表情を曇らせて視線を逸らす。と、そこで木更は意を決したように話題を切り替えた。
「里見くん──蛭子影胤と遭遇したのね」
その名前を聞いた瞬間、蓮太郎の瞳が裂けんばかりに見開かれる。冷や汗が頬を伝って、布団を固く握りしめる彼の手に滴り落ちた。
その様子を木更が気遣わしげに眺めていると、いままで勇磨の隣でタイミングを見計らっていたらしい彩花が語り始める。
「さっき、聖天子側が彼らの情報を寄越したわ。プロモーター蛭子影胤。彼は十年前、政府系の病院から関係者を殺して脱走。戦後の混乱期のどさくさで名前を変えて民警をやっていたみたい。
彼の出す斥力フィールドは、対戦車ライフルの弾丸を弾いて、工事用クレーンの鉄球を止めるらしいわ。その要求スペックも、『ガストレアステージⅣの攻撃に耐えることが出来る絶対防御』。
イニシエーター蛭子小比奈。彼女はモデル・マンティス、つまりカマキリのガストレア因子をもつイニシエーターで、刃渡りがある程度ある刀剣を持たせると接近戦では無類の強さを誇るそうよ」
そこまでで木更が蓮太郎に視線を戻し、続きを引き取った。
「このペアは問題行動が多すぎてライセンス停止処分にされたけど、処分時のIP序列は……」
木更が言い淀むが、蓮太郎は動かず口を開く。
「……言ってくれ」
束の間、場の空気が張り詰める。勇磨たちも固唾を呑んで続く言葉を待った。
「……。──百三十四位」
勇磨の身体が強張り、寒気がして胃が重くなるのを感じる。見ると、さすがのラクシオも顔色をなくしていた。
二〇三一年現在、世界には二十四万組の民警の正規ペアが存在する。そして個人間の相性問題もあるが、IISOが与えたIP序列がほぼそのまま強さの基準と考えられている。故に序列二万番台の勇磨たちでも上位一〇%の内の一ペアでしかなく、まだまだ中堅の域を出ない。伊熊将監のように千番台、すなわち上位約〇.五%に食い込むペアになってようやく高位序列者と呼ばれ始めることになるのだ。
そこにきて敵の序列が百番台。並み居る強豪を押し退け上位〇.〇五%に位置づける超々高位序列者。
正気の沙汰ではない。
「そういやアンタ、会社に顔出さなかった間もずっと仕事してたんだよな? 序列は幾つ上がった?」
勇磨は思わず、隣に座る金髪の青年に問いかける。今の彼の表情から返答はわかり切っているのに、眼前の恐怖に当てられて思考が滞っていた。案の定というべきか、彼の向こう隣に座る愛香が自分を抱きながら睨みつけてくる。
「馬鹿いわないでッ。確かにウチの社内じゃ私たちが最強かもしれないけど、相手は百番台なのよ?」
ラクシオも深く俯くと低く嗄れた声を出した。そのかんばせは、深い絶望に彩られている。
「僕と愛香の序列は九百五十位だ。ここにいる皆の中では特に強いということにもなるだろう。それでも、敵がこれでは……。次元が違いすぎる」
「じゃあ、蓮太郎がこうして生きてるのも……?」
呆然と呟いた勇磨の言葉に、ラクシオは力なく首を振り、小声で応えた。
「あぁ、まず間違いなく、手加減されていた、ということだろうね……。もし影胤が本気だったら、蓮太郎くんは死んでいた」
勇磨が視線を戻すと、蓮太郎は布団をいっそう固く握り込み、震えを堪えている。
なおも木更の話は続いた。
「なぜ今まで隠していたのか、なぜ野放しにしていたのか聞いてみたわ。するとなんて言ったと思う?
『『新人類創造計画』は存在しない計画。ゆえに存在しない兵士は脱走できない』ですって。笑えたわ」
投げやりに言い放ち席を立つと、蓮太郎に背を向けたまま説明を再開する。
「蛭子影胤達は現在『七星の遺産』を奪ってモノリスの外『未踏査領域』に逃走。いま、政府主導で大規模な追撃作戦が──」
と、そこで木更の携帯が鳴った。着メロはラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
木更は二言三言話した後、自分の椅子に置いていたスタンドにスマホを立てる。
「里見くん、話があるそうよ」
着信名は、なんと『聖天子様』となっていた。ややもせず、思わず背筋が伸びるような凛とした声が聞こえてくる。
『もしもし里見さん、聞こえますか?』
「……ああ」
『今日の二十一時をもって、蛭子影胤追撃作戦が始まります。多数の民警が参加する史上最大の作戦です。病み上がりで申し訳ありませんが、あなたもこの作戦に──』
「俺が──俺がなんの役に立つ……ッ」
蓮太郎の言葉に木更が目を剥き、話を遮られた聖天子が沈黙した。
「……聞いてるんだろ、完敗だったんだ。手も足も出なかった。ましてや今回の作戦、蛭子ペアよりも上位の民警だって参加してるはずだ! だったら──!!」
『あなたがッ!!』
不意に聖天子が声を荒らげ、場に静寂が満ちる。
『……あなたが必要な理由は……里見さん自身が一番よくわかっているはずです……!』
蓮太郎は左手で頭を抱えて歯を食いしばると、押し殺した声を出した。
「……ッ。無理だ……ッ。俺には、できない……!!」
聖天子は束の間無言でいたが、やがて先刻から微妙にトーンを変えた声が流れる。
『では、あなたの友人が、大好きな人が、東京エリアに住むすべての市民たちが死ぬとしても、あなたは戦わないのですね?』
「何……?」
勇磨は雲行きが怪しくなっているのを悟り、手の平にかいた汗をズボンの生地で拭った。
『蛭子影胤を止めない限り、明日にはもうこの東京エリアは壊滅します。天童社長から聞いていないのですか?』
「どういう……ことだ……!?」
そこまでで勇磨はハッとして彩花に視線を向ける。今朝方、彼女たち民警の代表者は再び政府から召集が掛けられたと言っていた。まだ勇磨たち社員には伏せられている情報を、彼女たちは持っている。
勇磨の予想通り、彩花はなにかに耐えるように目を伏せていた。
『蛭子影胤は、奪い去った『七星の遺産』で呼び寄せるつもりなのです。世界を滅ぼした、あの災厄を』
全員が息を詰めて聖天子の言葉に聞き入っていた──その時、突如木更が動いた。まだ聖天子が話している最中だったにもかかわらず、断りもなくスマホをタップ、通話を終了させてしまう。
「木更……さん……?」
わけもわからず勇磨たちが見上げるなか、戸惑いの表情を浮かべる蓮太郎に力なく笑いかける。
「里見くん──ちょっと、風に当たらない?」
蓮太郎は、木更の提案に応じて制服に着替えると、そのまま二人で病室を出ていってしまった。
勇磨はそれを見送った後、表情を引き締めて彩花に向き直る。
「社長、ちゃんと本当の事を教えてくれ。アンタら、政府から何を聞かされた……?」
しばしの沈黙の後、彩花は軽く頷いた。
「うん、そうだよね。皆に関係すること……だもんね。私から、ちゃんと、説明しないと……」
すっと席を立つと、自分に言い聞かせるように弱々しく呟きながら窓際までゆっくり歩いていき、こちらに振り返る。
「……ッ。ステージⅤが来るわ」
その場にいたほぼ全員が、愕然と目を見開いた。
「嘘……だろ……」
掠れた声が漏れる。彩花は、ちらりと勇磨に視線を向け、続けた。
「ガストレアの完全体・ステージⅣを凌駕する、世界を滅ぼした十一体のガストレア、ステージⅤ。またの名を、ゾディアックガストレア。蛭子影胤の奪った『七星の遺産』は、そのうちの一体を呼び出せるなんらかの触媒なの」
そこで明理が堪らず声を上げる。
「そんな……。でも、あり得ませんッ。ステージⅤを人為的に呼び出すなんてこと、不可能です!」
「それが可能なの。私もその時初めて聞いたわ。この情報は蛭子影胤逃走時にマスコミ数社へリークされる寸前で報道管制が敷かれたんだけどね」
「でも、それはおかしいわ。ステージⅤが襲ってくるようなことになれば、最悪東京エリアに大絶滅が訪れる可能性もある。そんな報道をしたら市民は大パニックになる筈なのに、それで得をする人間がいるの?」
顎に手を当てて考え込んでいた愛香の問いに、彩花も頷きを返す。
「うん、政府内部に、混乱を引き起こそうとする不穏分子がいるのかもしれないね」
勇磨はその言葉に、ハッとして顔を上げた。
「そうだ社長、それについては俺からも一つ、話しておきたい事がある。昨日、アンタが俺に電話してくる前、佳澄と喋ってたって言ったの、覚えてるか?」
「え? あぁ、確かに、そんなこと言ってたよね」
「この間、渚島さんから聞いたんだが、民警サイトのガストレアの目撃情報がおかしいんだ」
「えッ?」
彩花が慌ててポケットからスマホを取り出し操作すると、眉を潜め「ホントだ、何これ……」と呟く。
「佳澄とは、主にその件について議論してたんだよ。そしてひとつの仮説に行き着いた。この事件、かなり複雑な裏があるかもしれねぇ。
俺たちが倒したガストレアとは別にもう一人、感染者が出てる。そのうえ、サイトにはその感染者の情報しか表示されていない。つまり──政府側が意図的に感染爆発の危機を隠蔽してた可能性があるんだ」
ラクシオが目を丸くした。
「そんな馬鹿な……ッ。いや、でも確かに、そう考えると辻褄が合うか……。ガストレアの討伐件数が一件だけなら、政府はIISOや各種メディアに対し『被害の拡大を未然に防いだ』という説明だけで押し通せる。実際の情報との食い違いが暴かれても、問題のガストレアがすでに倒されている以上、情報を改竄した責任を蛭子ペアに擦りつけてしまえばいい。そういうことだね?」
隣に立つ青年の翠色の瞳を見上げると、勇磨は重々しく頷く。
「あぁ。そしていま社長が言った不穏分子。そいつがサイトの改竄にも関わってる可能性は高い。まったく別の奴ってことも考えられるけど、エリア中を大混乱に陥れるような計画にそう何人も無関係の奴が関わってるなんて、それこそ洒落にならねぇしな」
正面に向き直ると、彩花も表情を引き締めた。
「わかった。じつはこの話、今朝民警の代表者だけで集まった時に木更とも喋ったの。また後で私から伝えておくわ」
その時、遠くからドタドタと大きな足音がして乱暴に病室の扉が開け放たれる。ウサギそっくりのツインテールを揺らせて飛び込んできたのは延珠だ。その背には赤いランドセルが背負われていた。
「蓮太郎、いま戻ったぞ! ──む?」
そう言って、延珠は室内をきょろきょろ見回した。そういえば何か見せたいものがあるといって、家まで取りに帰っていたのだったか。
「あー、おかえり、延珠」
勇磨が軽く手を挙げて挨拶を寄越すと、延珠は垂直にびしっと挙手する。
「うむ、ただいまだ、東國民間警備会社の皆。ところで、蓮太郎を知らぬか? ──あぁッ、木更もおらぬではないか! あの二人、妾の居ない間に隠れて何かいかがわしいことでもするつもりだな!? えぇい、こうしてはおれぬ。では皆、また今度なのだ!」
とても十歳の女児とは思えない言葉を一方的に捲し立てたあと、勇磨たちの話も聞かずに元来た道をドタバタと駆け戻っていった。
勇磨は思わず苦笑する。
「何だったんだよ、いまの……。──あッ、おぉい! 廊下は走るなよーッ」
「勇磨さん無理です、遅すぎます。それでは延珠さんには聞こえていません」
病室の入口から顔を出して叫ぶ勇磨に、明理が呆れ顔で応えたところで、彩花がクスクスと笑い出した。
「延珠ちゃん、いつも元気一杯だよね。だから、そこにいるだけで周りの雰囲気を明るくしてくれて……。本当に、蓮太郎くんが助かってよかった……」
そこで彩花は居住まいを正し、いつになくしかつめらしい顔で全員を見渡す。
「今回の戦いは、これまで以上に厳しいものになるでしょう。ですが、東京エリア存亡の危機である以上、退くわけにはいきません。今回は社員の安全を預かる者として、私も前線に参加します。──社長として命令します。影胤、小比奈ペアを撃破してガストレア・ステージⅤの召還を止めなさい」
その言葉に、全員が力強く頷いた。
3
午後八時三十分。
出発の前、勇磨たち東國民間警備会社の面々はセルシアのいる大学病院に立ち寄っていた。
こちらの顔を見るなり、セルシアは大判の買い物袋を次々と投げ渡してきた。勇磨と明理、彩花がたたらを踏みつつ受け取る。中を覗き込んでいると、視界の端で満面の笑みを浮かべるセルシアが腕を大きく振りかぶるのが見えたので、上体を傾けた。直後にゴシャッという音がして、ラクシオの顔面に買い物袋が叩きつけられる。
「皆さんのパトロンからです。おそらく必要なものは全部入っていると言っていました。あと兄さんには私から追加で各種抗生物質とその携帯注射器。それだけあれば足りますか?」
ラクシオに向けた言葉の部分だけテンションを落とした早口で告げるセルシアを尻目に、改めて袋の中身を確認してみる。
「すごいな……十分以上だ」
心の中で生徒会長に感謝しつつ、ベルトに装着するタイプのウェストポーチとホルスターをつけてポーチに必要な道具を詰め、ワルサーの銃身を消音器が取り付けできるものに換装。軽く跳んでみるが、そこまで重量の変化を感じない。
「装備重量の増加も必要最低限に抑えてありますね。これなら、近接戦の動作や機動力に支障が出る心配もなさそうです」
明理の言葉に顔を上げると、彩花も雛乃と顔を見合わせて笑いあっていた。どうやら内容物は各々で微妙に異なっているらしい。
鬼灯重工社長令嬢、鬼灯佳澄。本当に、自分たちのことをよくわかっている。
と、不意に勇磨の胸元になにかが差し出され、咄嗟に手を出して受け取った。中に真っ赤な薬液が入った小型の注射器が五本、鈴なりに連結されており、先端の針にはキャップがはめてある。
「これは勇磨さんへのプレゼントです。よければ受け取ってください」
「なんだこれ?」
「AGV試験薬、と言ったら伝わります?」
勇磨は瞠目して薬液を覗き込んだ。
「使えるのか!? ていうかアンタ、そもそもどうやって作ったんだよ?」
セルシアは、前髪を指先でくるくると巻きながら、肩をすくめて答える。
「まぁ、基礎的な調製方法は菫さんに研究資料を見せて頂いたことがあるので、そこから。もちろん完成には至っていませんが、同じものを作る程度なら私にもできます」
勇磨はその言葉に納得しつつ、改めて手元の薬液をまじまじと見つめた。
AGV試験薬。室戸菫が開発したこの薬品──正式名称アンチ・ガストレアウィルス試験薬は本来、ガストレアウィルスの増殖を停止させるはずだった。イニシエーターが注射を義務づけられている浸食抑制剤も近い効果をもつが、あくまで『抑制』であり『抑止』ではない。そこに目をつけた菫の努力の結晶、というところだろう。
だがその試みは失敗に終わり、代わりにガストレア遺伝子を利用して、超人的な回復力を生み出すという効果を得ることになった。
二〇%という超高確率で使用者がガストレア化する副作用さえ無ければ、菫は今頃、教科書に名前が載るほどの有名人になっていただろう。
その菫のノウハウを記憶力のみでコピーしてみせたと宣った目の前の幼き天才解剖医は、しかし誇るでもなく寂しげな笑みを浮かべる。
「わかっているとは思いますが、それはあくまで最終手段ですからね? AGV試験薬は諸刃の剣。この薬を使えば、勇磨さんはヒトとしての生を終えることになるかもしれない。いくら勇磨さんが死の危険と隣り合わせの民警だといっても、そんなお別れは私も御免です」
勇磨は、決意を込めた瞳でセルシアをまっすぐ見据えると、大きく一つ頷いた。
「ああ、きっと生きて帰ってみせるよ。約束する」
午後八時五十分。
指定された仮設空港に勇磨達が向かうと、そこには既に数十ペアもの民警たちが行き交い、ひっきりなしにヘリが着陸と離陸を繰り返して戦場に赴く人間たちを送り出していた。
何気なく勇磨が視線を巡らせていると、人混みの中に黒服の少年とウサギ耳に似たツインテールの少女の二人組を見とがめる。声をかけようと息を吸い込んだその時、彼らの正面からズカズカと歩いてきた巨漢の厚い胸板が立ち塞がった。
「よう、役立たずの足手まといが。いまさらなにしに来やがった」
少年に声を掛けたのは、誰あろう伊熊将監だ。
奇しくも防衛省で目撃した一幕と酷似した状況に、勇磨がハラハラしつつ見守っていると、やがて黒服の少年──蓮太郎が口を開く。
「……アンタ──俺を助けてくれたんだってな。ありがとう、借りができたな」
思いがけない言葉に、将監は束の間毒気を抜かれたように瞬きした。しかしすぐ眉間にシワを寄せると、少年の鼻先に頭突きせんばかりに顔を近づける。
「足手まといってわかってんなら、さっさと帰り──ッ!!」
「──それはできねえ」
肉迫する三白眼の威圧にも臆することなく「それはできねぇんだ、悪い」と続ける蓮太郎に、将監の後ろにいた長袖のワンピースにスパッツの少女が呆然と目を見開いた。延珠は誇らしげにおすまししている。
「くッ、てッめ……ッ」
「将監さん」
額に青筋を立てて激発寸前のドクロスカーフの男を引き止めたのは、夏世だった。
「ああ!?」
「そろそろ出発の時間です」
夏世はそういって、未だ怒り心頭の将監の手を取ると、半ば強制的に引っ張っていく。
「チッ! おいテメェッ! 今度足引っ張りやがったらテメェから殺すからな、覚悟しとけよ! ぜってぇ逃がさねぇからな!! 聞いてんのか!!」
蓮太郎に指先を突きつけ将監が喚き散らす中、夏世はちらりと蓮太郎を振り返り、微笑みかけた。蓮太郎の方もそれに気づき、笑みを返す。
なおも喧しく「この役立たずのクソガキがあぁ!!」と捨て台詞を吐いていた将監の巨躯も、ほどなく雑踏に紛れて見えなくなった。
「なんだあの女、蓮太郎に色目を使いおって!」
いきり立つ延珠に蓮太郎が苦笑していると、そこで延珠がこちらに気づいた。繋いだ手を引き、蓮太郎に合図を送る。
蓮太郎はハッとした表情になると、バツが悪そうに視線を逸らし、頬をぽりぽりと掻いた。
そこで、ふとあることを思いつき、勇磨はにやりと笑う。すぐに笑みを引っ込め真面目な表情をつくり、勢いよく右腕を振り上げると、蓮太郎がぎょっとして視線をこちらに戻した。
なにをするつもりかと眺める仲間の視線を尻目に、高々と掲げた右手の親指を立てると、目線の高さまで降ろしてから、歯を見せてニッと笑う。
ここまでの一連のジェスチャーで、蓮太郎も勇磨の意図を汲んだようだった。照れくさそうに笑うと、彼も親指を立て返してくる。
桐谷勇磨と里見蓮太郎は、お互いに民間警備会社に所属するプロモーターであり高校生。死と隣り合わせの職業に就いた以上、いつどんな状況で死神の長い腕に捕まるかわからない。それならば、下手な言葉掛けで未練が増すリスクを冒すより、手振りによってその想いを示す方が無難。
故に勇磨は立てた親指に激励のメッセージを込めて突き出した。『死ぬんじゃないぞ』と。
そしてメッセージを受け取ったのであろう蓮太郎も似通った仕草でそれに応える。『そっちこそな』と。
奇妙な運命の導きで幾多の共通点をもって同じ戦場に立つ、無二の戦友へ告げる一時の別れは、それだけで事足りた。
そこで勇磨は、隣の少女がダンスにもみえる珍妙な動きをしていることに気づく。
「なにやってんだ、明理?」
すると明理は、錨マークが付いた鍔付き帽の下から困り顔を覗かせた。
「あ、いえ。勇磨さんたちを見習って、私からも延珠さんになにか激励を……と思ったんですが、清々しいくらいに伝わりませんでした」
肩を落とす相棒に、思わず吹き出す。
「あはは、そりゃ延珠にはこういうのはまだ早かったってことだよ。そうがっかりすんな」
彼女の頭を帽子の上からポンポンと叩く勇磨の言葉に、彩花も笑みこぼれた。
「そうだよ、明理ちゃん。大切なのは、みんなで無事に、生きてこの戦いを乗り切ることなんだから。一緒に頑張ろ」