未踏査領域で見つけた防御陣地の中で、里見蓮太郎は一人の少女と並んで焚火に当たっていた。
落ち着いた色の長袖のワンピースにスパッツ。未踏査領域の地獄におよそ似つかわしくない装いの彼女の名は、千寿夏世というらしい。序列千五百八十四位の闘神、伊熊将監のイニシエーターだ。
事の発端は、一時間ほど前に遡る。
ヘリで広範な森の中に投下された蓮太郎と延珠は、何度かガストレアとの遭遇を回避しつつ、順調に行軍を進めていた。
だが、そこを突如発生した重低音に襲われる。
音の正体に気づき蓮太郎が歯噛みしたのも束の間、ステージⅣのガストレアに捕捉され、命からがら追跡を振り切ってこのトーチカに辿り着いた。蓮太郎たちよりも先に来ていた夏世が負傷していたため手当てをしてやることになり、延珠は敵の接近を警戒して歩哨に立たせている。
それから二、三言交わし、爆発物を使ったのが夏世だとわかって問い詰めると、彼女は罠にかかったのだと語った。
蓮太郎たちと同様に深い森の中に降りた伊熊ペアがしばらく進むと、森の奥で短く点滅する青いパターンライトを発見。他の民警だと思った彼らは、不用意に近づいてしまったらしい。
少し考えればあんな薄青い鬼火みたいな色のライトなんて、誰も使ってないことはわかったはずなのに。そういって、夏世は小さくなっていった。
そこからのことは、もはや語るまでもない。夏世が咄嗟に使った手榴弾の炸裂音で起き出したガストレアたちに追われているうちに将監とはぐれ、夏世は腕を噛まれる大怪我を負う羽目になったのである。
伊熊ペアを襲ったガストレアは、腐臭を放っていたという夏世の話から、恐らくラン科の植物とホタルが混ざった動植混合ガストレアだろうと蓮太郎は当たりをつけていた。
しかし、驚嘆すべきはその個体の巧緻極まる戦術である。
ホタルの中には、他のホタルの発光パターンを真似て、近寄ってきたホタルを捕食する肉食性の種も存在する。またラン科の植物には羽虫をおびき寄せる腐臭を放って花粉を運んでもらう種があると聞く。
つまり今回は人間が近寄ってきそうな発光パターンを作り出し、さらには人間を誘い込むにおいまで合成していたということになる。おそらく、そこまで特殊進化した個体だとステージⅢというところだろう。
幸い夏世が注入された体液はごく少量で、大勢にも影響はなさそうとのことで、いまはこうして彼女の傷の回復を待つことにしている。
1
蓮太郎の真剣な分析を受けて『生物オタク』という評価をくれた少女に「仕事に有利な知識を使ってなにが悪い」と食ってかかると「悪くなんてないですよ」と初めて少し楽しげに眼を細めた。
「私、少しだけ羨ましいです、延珠さんのことが」
視線を焚火に落とした夏世に、蓮太郎は極力さりげない風を装って口を開く。
「……お前は、伊熊将監みてぇなプロモーターといて楽し……」
「──イニシエーターは、殺すための道具です。是非などありません」
その返答に、防衛省で対峙した将監とのやり取りが脳裏に再生された。
『道具……?』
『ああ? 決まってんだろ──イニシエーターだよ』
「違う!!」
叫ぶと同時に、蓮太郎は思わず立ち上がる。
「お前も、延珠も……道具なんかじゃねぇ。道具……なんかじゃ……ッ」
夏世は黙ってこちらを見上げていたが、やがて俯き気味に口を開いた。
「……里見さんは、人を殺したことがありますか?」
「えっ……?」
見ると、夏世は乾いた瞳で続ける。
「私はあります」
蓮太郎は一瞬、なにかの聞き間違いかと思った。
「……人を……人をッ、殺したのかッ!?」
「なぜ怒るのですか? 覚えていますよね、この事件の発端となったモデルスパイダー、岡島純明」
「!!」
「彼のように人間からガストレアになり、私たち民警によって殺される例はいくらでもあります。そのとき人々の心に浮かぶ言葉は『退治』『駆除』。でもわかっているはずです。それは紛れもなく『人殺し』だと」
「……ッ」
「それでも、私たちの仕事はガストレアを殺すこと。そして持ち主の命令は絶対です。それがたとえ『人』を殺すことであれ、私は道具として従うだけです」
「……お前は、それでなんとも思わないのか?」
「思って解決するならば」
カッと怒りが脊髄を貫き、気付けば蓮太郎は夏世に掴みかかっていた。
「ッ……。一度……延珠がプロモーター崩れの犯罪者を殺しかけたことがある……。延珠はそいつの手術中ずっと塞ぎ込んでたし、助かったと聞いた時は一日中喜んで見舞いにまで行ったんだ。
延珠は『殺しの道具』なんかじゃねぇ。人間であり俺の『家族』だ! お前だって──」
「里見さん──それは綺麗事です。本当に家族なら、本当に大切なら、戦闘でも矢面に立たせることなく、東京エリアで帰りを待たせるべきなのではありませんか……?」
夏世の言葉が呼び水となって、先刻の出来事が脳裏をよぎる。
ドラゴンのようなガストレアに捕捉され、勝ち目がないと踏んだ蓮太郎は、逃走手段として延珠の機動力を借りることをごく自然に選択していた。
俺は…………間違っているのか?
咄嗟に返す言葉が見つからず、蓮太郎は拳を握る。
だが、夏世はそんな蓮太郎の逡巡に待ったをかけるように、右手を蓮太郎の眼前に突き出してきた。
「──でも、私は里見さんの言ってくれたこと、否定したくありません。幾らでも反論できます。幾らでも理屈を並べられます。でも、あなたは間違っていないと思える。
瞳を見ればわかります。あなたは強い人です。でも自信を持てずにいる。もっと信じてください。あなたのことを。その瞳に、強い光が灯るように。
──あなたは、正しいんです」
あらゆる感情を放棄したような夏世の視線は、いつしか優しいものに変わっていた。
と、手を下ろした夏世が遠慮がちに「あの……」と続ける。
「そろそろ起き上がっても、いいですか?」
そこでようやく自分が彼女を押し倒すような体勢になっていたことに気づき、蓮太郎は頬が紅潮するのを感じながら身を起こした。
なにか飲みませんか、と言って夏世は自分の荷の中から湯沸かしを取り出すと、インスタントコーヒーを沸かし始める。
やがて、マグカップが手渡されると、夏世も自分のカップにスプーンを突っ込んでかき混ぜた。
「お前は……いまの世界をどう思ってる」
夏世はコーヒーを一口すすってから口を開く。
「……。私にとってはいまが『普通』ですから。そういう里見さんはどうなんですか?」
「……ひどい世界さ。ガストレア大戦前じゃ考えられなかった。でも、この十年間でちゃんと復興を遂げて──」
「本当にそれは、健全な復興なんでしょうか」
なぜだか夏世の発言にどきりとした。
「どうしてそんな……」
「私は大戦を知らない『無垢の世代』です。しかし子供を目の前でむさぼり食われ、恋人を醜い化け物へと変貌させられた『奪われた世代』の胸には、剝きだしの憎悪が見え隠れしているように思えます」
夏世は立ち上がると、トーチカの窓に歩み寄りつつ続ける。
「里見さんの言う十年の復興の間にも、ただ殺戮能力に特化した武器が大量に開発されました。そしてここに、そのなかでも最強最悪と謳われた兵器がいまでも天と地を結んでいます。それが──『天の梯子』。
ガストレア大戦が生んだ、人類の敗戦を見守りし、超兵器です」
夏世が指さす方を見上げると、薄くかかった雲の中に走る梯子状の構造物が見えた。
「……これは氷山の一角にすぎません。里見さんも『新人類創造計画』は聞いたことがありますよね?
『呪われた子供たち』の戦闘能力の高さに気づいて、立ち消えてしまった計画だそうですが──かつてバラニウム合金の力を使って、最強の兵士を作ろうとした実験があったようです。大戦前の日本では考えられない人体実験までも、行われていたと聞きます」
蓮太郎が話に聞き入っていると、夏世は蓮太郎の目の前を横切って元いた位置に腰を下ろす。
「……まあ、後者は蛭子影胤を見るまで都市伝説かと思っていましたが」
「力に……あんな力に頼るのは……卑怯者のすることだ……ッ」
「里見さん?」
蓮太郎はなんと言って良いものかわからずコーヒーに口をつけて誤魔化した。
その時、夏世の傍らに置かれた黒い受話器のようなものからノイズと共に野太い男のうなり声が聞こえてきて、はっとする。
どうやら無線機らしい。夏世が飛びついてつまみを回すと音が鮮明になっていき、やがてそれは忘れたくとも忘れられない男の声になる。
『き……ろよ。オイ! 生きてんだったら返事しろよ!』
夏世が目配せをした。喋るな、ということだろう。蓮太郎は黙って頷く。確かに彼に、自分と夏世が一緒にいる理由を説明するのは骨が折れそうだった。
「将監さん? 音信不通だったので心配してました。ご無事でなによりです」
『たりめぇだろ! んなことより夏世、いいニュースがある』
「ニュース?」
『ああ。──仮面野郎を見つけたぜ』
蓮太郎と夏世は顔を見合わせる。
「どこでですか?」
ポケットから掴み出した地図を地面に広げ、将監が告げたポイントを探すと、すぐに見つかった。海辺の市街地か、近い。
『いま、近くにいた民警を集めて突入の準備をしてるところだ。ホントは出し抜いてやりてぇところだが、まぁ仮にも序列が上の相手だしな。荒れてた手柄の話もようやくまとまった。仲良く山分けだとよ、面白くねぇ話だ。お前もぶらついてねぇで早く来やがれ。──まぁ……お前が来る頃には、終わってるかもしれねぇがな』
夏世の返答も聞かずに無線は切られた。確かに将監の後ろで、蛮声や笑い声が聞こえていた。襲撃計画が進みつつあるというのは本当だろう。
夏世は早速荷物を畳み始める。
「にしても将監が連携……想像できねぇな」
「なに言ってるんですか里見さん。将監さんは脳味噌まで筋肉でできているうえ堪え性がないのでそもそもバックアップなんてできません。連携とは名ばかりの、ただのリンチになるのが関の山でしょう。そして未だに戦闘職のシェアを私たちに取られたのをひがんでいたりと、考え方が旧態依然としていて困るんですよねあの人は」
あまりにも歯に衣着せぬ物言いに蓮太郎は呆れ返りながら、そこでふと、まだ一つ、大事なことを尋ねていないことに気づいた。
「そういえば、将監が前衛なら、お前は後衛だよな。今更だけどお前はなんのイニシエーターなんだ?」
「……まぁそれは追々ということで。とりあえずいまは──」
荷物をまとめて肩から提げた夏世はそういって勢いよく焚火を踏み消す。
「行くのか?」
「えぇ、あんな人でも、一応ペアなので。里見さんはどうします? 延珠さんを危険な目にあわせたくないなら……」
その問いに蓮太郎はトーチカから二十メートルほど離れた場所に立つ相棒の小さな背中を見遣った。だがすぐに視線を夏世の方に戻すと、緩く口角を吊りあげてみせる。
「……。いや、行くよ。なんせ、序列千番台のイニシエーターが一緒だからな」
「……あまり買いかぶらないでください」
言いながらも、夏世はまんざらでもなさそうに口元に微かな笑みを浮かべた。
一方その頃──
東國民間警備会社の面々もまた、防御陣地から出て渚島から告げられたポイントを目指していた。焚火に当たっていた間は誰も歩哨に立っていなかったので、夜の森はひどく暗く感じる。よって現在はあえて隊列を崩し、明理の反響定位と愛香の嗅覚を頼りに進んでいた。
直近の海辺の市街地、とはいったものの、そこまでには少しばかり距離がある。勇磨たちが休息を取ったトーチカの周囲にはただ森が広がるばかりで、目的の街まで目立った人工物が無いのだ。
途中、何度かガストレアと遭遇したが、ステージⅠ程度であれば、メンバーに和穏まで加わった一行の敵ではない。ステージⅡ以上の個体も目視する前に明理たちが次々と捕捉し、無用な戦闘を回避。
そうして歩くこと数十分。森を抜けて開けた場所に出た。首を巡らせると緩くカーブを描く海岸線の先、複雑な形状に張り出した恐らく港町と思われるシルエットが小さく確認できる。その中に一点だけ、明かりの灯った建物。あそこか。
「まだまだ距離があるね。渚島さんの話だと民警たちはもうかなりの数が集まり始めてるみたいだったし、私たちもできるだけ急ごう」
彩花の言葉に勇磨も首肯を返しながら、改めて眦を鋭くした。奇襲をかけるというからには夜討ち朝駆けが基本だろう。あと二時間もすれば夜が明ける。作戦開始前に合流できるか否かは微妙なところだった。
勇磨たちは一旦森に戻り、伸び放題になった下草を掻き分けて進む。どこから見ているとも知れない飛行ガストレアに捕捉される可能性を少しでも抑えるために必要な処置だろうという判断だった。
方角を見失わないようにライトでコンパスを照らしつつ進むと、やがて完全に視界が開ける。目の前の森までは目算で二百メートルほど。遠回りをする余裕はないが、直進したところでガストレアたちが見逃してくれる保証もない。
勇磨はクソ、と毒づく。
「社長、迷ってる時間はねぇぞ。ここを突っ切るしかないだろ」
彩花は勇磨の言葉に、深呼吸して一歩踏み出した。その時「待ってください」という声が掛かる。
見ると、隣に立つ相棒が瞳を細めて前方を見据えていた。
「明理?」
「あれは、まさか……」
呟きながら、ラクシオから奪い取ったままになっていたライトのスイッチ蓋をひねる。
その時、光の環が切り取った辺りの草むらでがさりとなにかが動いた。ややもせず、その中から小さな影が飛び出してくる。
最初に見えたのは、二つの深紅い瞳だった。それが一人の少女だと気づいて、勇磨は思わず息を呑む。
必死の形相で走ってきた彼女もこちらに気づくと、勇磨たちの五メートル手前で立ち止まった。
暗い色のミリタリージャケットにショートパンツ。さらさらの焦げ茶色の髪は無造作なショートだが、額の両側で結わえた細い房がアクセントになっている。荒い息をつきながら、セルフレームの眼鏡の奥でネコ科の動物を思わせる双眸を軽く見開いていた。
「君は……」
見覚えのある顔に、勇磨が呆然と口を開きかけた、その直後。
「──みんな、逃げてッ!」
逃げる。それが、少女の出した答えだった。
確かに彼らは強い。それは防衛省で将監に向かっていった彼の態度からも薄々感じていた。しかしそれもあくまで少女の常識で測り得る範囲内での強さだ。
彼らを連れて引き返したところで、死の体現者たるあの魔人たちを相手になにができる? ここで戻れば今度こそ逃げられない。よしんばいいところまで食い下がれたとして、死んでしまったらおしまいなのだ。それでは先ほどの襲撃作戦の二の舞いになる。そして今度こそ、奴らを止める手段が無くなってしまう。
ならばいっそのこと全員で撤退し、一刻も早く本部に戻って救援を要請した方が合理的だ。多少の時間は掛かっても、確実に十分な戦力を確保できる。
以上の思いを込めた叫びに、だが案の定というべきか、彼らは面食らったようだった。
「ちょッ、ちょっと待ってくれ。逃げろってどういうことだ? 悪ぃけど、いちから説明してくれるか?」
少年の言葉に、逸る気持ちを抑えるように胸に手を当て、深呼吸する。ひと息で調息を終えると、改めて顔を上げた。
「あなた達とは防衛省で一回顔を合わせてるし、まずは自己紹介からね。私は鏑矢弥由紀。三ヶ島ロイヤルガーダー所属のイニシエーターよ。……いえ、元、というべきでしょうね。だって、私にはもうペアを組む人がいないんだから」
「ペアがいないって、まさか……ッ」
少年がなにかを言いかけたところで、傍らの相棒と思しき少女が彼の脇腹を肘で小突く。
全員で簡単な自己紹介を交わしてから、改めて少女──明理が尋ねた。
「弥由紀さんも奇襲に参加していたんですね。それでペアがいない、というのはどういう意味です?」
その問いで改めて湧き上がってきた恐怖と絶望感を飲み下し、弥由紀は震える吐息をつく。
「作戦は失敗したわ。集まった民警は私たちを含めて十四組と一人。大まかに接近戦部隊と中・遠距離部隊の二つのチームに分かれて、まず接近戦部隊の人たちが一斉に突入したんだけど……あいつらには歯が立たなかった。そのあと私たちも立ち向かったけど、多分いまごろにはもう……」
目を伏せて首を振ると、一同の表情にも絶望の色が浮かんだ。彩花が両手で口元を覆う。
「なんてこと……ッ」
「それじゃあ、どうやってここまで……?」
雛乃の問いに、強張る口をどうにか動かした。
「私たちペアは最初、二手に別れて離れた位置に隠れてたんだけど、戦いが始まって二分ぐらいで無線機の通信が切れたの。その時点で私は逃げ出した。ここにいたらみんな殺される。それだけは絶対に避けないとって思ったから」
顔を上げ、もう一度全員の顔を視線でなぞる。
「だからお願い、私と一緒に逃げてッ。本部に戻って応援を呼ぶの。あいつらを止める方法なんて、私にはもうそれぐらいしか思いつかない……」
俯いた弥由紀の言葉に、勇磨たちは困惑して互いに顔を見合わせた。確かに、彼女の意見にも一理ある。奇襲が失敗したならば一度引き返し、他の民警の応援を待つのが得策だろう。
だが、弥由紀の予想通り民警チームが全滅していた場合、影胤を阻むものは何も無くなってしまったことになる。
いまから応援を呼びに戻って、間に合うのか。
「状況は把握しました。ですが、もう引き返している余裕はなさそうですよ」
勇磨が逡巡していると、傍らの明理がそんなことを言い出した。
「じゃあ、どうするっていうの!? この場の全員で立ち向かったって、そう易々と勝てる相手じゃ──」
「──いえ、そういうことではなく」
噛みつくようにまくし立てる弥由紀の言葉を軽く手を上げて制する。見ると、彼女は横手の森の奥の方を静かに見つめていた。
東國民間警備会社の面々が、弥由紀との邂逅を果たした、その少し前──
まだ市街地から遠く離れた深い森の中を、一組の民警ペアが進んでいた。
黒エナメルの多い服に身を包んだ少女・片桐弓月は左右に分けて結った金髪をバリバリと掻く。
「ねぇ兄貴ぃ、この森いつ終わるの?」
すると前を行く、フィールドジャケットを羽織った長身の男性が生い茂る枝葉をかき分けつつ応えた。
「そうカリカリすんなよ、マイスウィート。仕方ねぇだろ? オレっちたちが任された場所が街から離れてたんだからよ」
言いながら男性・片桐玉樹が飴色のサングラスごしに振り返ると、弓月は苛立ちの中にも不安を滲ませた表情でこちらを見上げてくる。
「わかってるけどさぁ……間に合うの、これ?」
その問いに、玉樹も渋い顔で森の向こうを見た。
「どうだかな……。確かにもう誰かが影胤を見つけててもおかしくねぇ頃合いだ。もしオレっちの読み通り奴らが街にいるんなら、急がねぇとな」
俯いてしまった妹に思わず笑みこぼれると、玉樹は彼女の頭髪をくしゃくしゃと掻きまぜる。
「心配すんな。地形はこの通り滅茶苦茶だがコンパスは問題なく使えるし、迷うことはねぇ」
ニッと笑ってみせると、弓月は微笑とともに小さく頷いた。
それからしばらく歩くと、やがて森が途切れ、見晴らしの良い平野部に出る。三日月型に湾曲した湾の先、遠く対岸に一点だけ明かりが小さく確認できた。
玉樹は思わず苦い表情になって悪態をつく。
「シィット、こりゃ相当距離あるな。あそこまで行くには随分と骨が折れそうだ。……なぁ弓月、海の上を跳んで渡るとか、できるか?」
弓月はモデル・スパイダー、即ちクモの因子を体内に宿したイニシエーターだ。彼女には両手の指先から不可視の糸を出し、自分の動いた空間に張り巡らせるテリトリー作成能力がある。
それを考慮に入れたうえでの駄目元の問いかけに、弓月は案の定というべきか、信じられないという声を上げた。
「はぁ? そんなことできるわけないじゃん。なに言ってんの兄貴?」
「だよなぁ……」
「バカなこと言ってないでさぁ、早いとこ先を──」
しかし、そこで不意に動きを止めると、視線をさっと街の方に振る。
「? どうした?」
見ると、弓月は緊張した面持ちで口を開いた。
「……兄貴、多分いまの、銃声だ」
「……ッ。お前、この距離で聞こえたのか?」
「聞こえたっていうか、一瞬空気が震えたから……」
その返答に玉樹は納得する。網を張るクモは獲物がかかったことを糸の振動で感知すると聞く。
「じゃあ戦いはもう始まっちまったってことか。ならいまから慌ててもどうにもならねぇな」
「兄貴?」
玉樹は踵を返すと、森の方に向き直った。
「ちょっと考えりゃ簡単な話だったんだ。未踏査領域でドンパチやれば、その音を聞きつけたガストレアが必ず集まってくる。オレっちたちの敵は、この作戦が始まった瞬間から影胤だけじゃなかったってことだ」
「なるほどね」
それだけで委細承知したらしい弓月が隣に来る。
「あのクソファッキンな仮面野郎には一発キツいのをこの手で入れてやりたかったんだがな……」
玉樹が胸の高さで両拳を握ると、手甲に埋め込んだ動力ユニットが起動。怒り狂ったハチのうなりに似た回転音をまき散らし始める。
玉樹が使う武器は、バラニウム製の回転ノコギリ。手甲とコンバットブーツに小型化した動力ユニットを埋め込み、打撃と同時に標的の肉を削り取るものだ。
「腹ぁ括れよ、マイスウィート! ここが正念場だ。向こうの連中が影胤に勝つかどうかは賭けでしかねぇが、こうなった以上オレっちたちはこっちに集中だ。寄ってくるガストレアはここで残らず仕留める!」
弓月も力強く頷くと、大地を踏みしめて力を解放。瞳が真っ赤に赤熱する。
やがて、森から様々な鳴き声が聞こえてきた。弓月が腰を落としながら静かに口を開く。
「あたしは逃げ出す奴が出ないように罠張ってくる。兄貴はここでガストレアを押さえ込んでて。仕込みが済んだらあたしもすぐ戻るから」
「おう、気をつけろよ」
「わかってる」
不敵に笑うと弓月は膝をたわめて思い切りバネの力を溜め、跳躍。樹冠を大きく越えて森の中へと消えていった。
2
午前四時。
延珠を呼び戻して、三人でトーチカを出た。
ぬくぬくと焚火に当たっていた蓮太郎たちより、外で長時間見張りに立っていた延珠の方が遥かに夜目が利いたので、先頭に立たせることにする。
しばらく歩くと周囲をぐるりと森に囲まれた小高い丘に出た。眼下には不気味なほど静まりかえった街が広がっている。息を吸い込むと、鼻孔に運ばれてくる潮の匂い。
三日月型に湾曲した湾には漁船や小型のボートなどが無数に係留されている。小さな街だ。大戦前も過疎化に悩まされていたのではないだろうか。
「ここに……影胤が……」
蓮太郎が呟いていると、背後で屈み込んでいた夏世が静かに口を開いた。
「この高台、つい先ほどまで野営を組んでいた形跡があります。将監さんたちはもう街に降りたようですね」
「よし、じゃあ俺たちも──」
「……里見さん、延珠さん──静かに」
夏世が口元に人差し指を当てた──次の瞬間、闇を切り裂く乾いた破裂音が聞こえて、蓮太郎はぎょっとして振り向く。
「銃声!? 始まったのか!?」
「蓮太郎ッ、あそこだ!」
延珠が指さした先、一箇所だけ明かりの灯る協会と思しき白い建物周辺から、銃声と高い剣戟音が断続的に響いていた。
「くそッ! 夏世ッ、静かにってのはこのことだったのか!?」
「いいえ──別件です」
夏世がこちらに背を向け立ち上がると、蓮太郎たちが歩いてきた道から、四本足の獣が弾丸のような速度で飛び出してくる。
宙高く身を躍らせたのはシカのガストレアだった。上半身の皮膚の至る所を突き破って角が生えている。
力を解放して正面からそれを迎え撃つ夏世の判断は、至って冷静だった。
「左前、一歩半」
短くそう呟きながら左前方に軽く踏み出すと、凶悪なシルエットをもつガストレアの突進を最小限の動作で回避。
「「な……ッ!?」」
しかし、まだガストレアも諦めてはいない。地面を抉りながら四つの蹄で制動をかけ反転すると、今度は夏世の背中めがけて突っ込んでくる。
蓮太郎たちは慌てて両手をデタラメに振り回し合図を送るが、それでも夏世は動じていなかった。
「急な反転により距離計れず、右前足着地時──バランスを、崩す」
あわやガストレアの角が夏世に届かんとしたとき、不意にその体が傾いだと思ったら、突進の勢いもそのままにこちら側に向けて吹き飛んでくる。夏世はそれを屈んでくぐると、まだ空中にあるシカの鼻先にショットガンの銃口を据えた。
「なんで……ガストレアの動きがわかるのだ?」
「考えるんです」
呆然と発せられた延珠の問いに答えながら、夏世は間髪容れず引き金を引く。
だが、事態はそこで終わらなかった。
発砲音が響き渡るのと同時に、彼女の背後の森から大小二体のガストレアが飛びかかってくる。
「危ねぇッ!」
蓮太郎は今度こそ矢も楯も堪らず駆けだすが、夏世は余裕の笑みを消してはいなかった。
「そのための──『力』ですから」
直後に起こったことは常識の埒外の現象だった。
蓮太郎の眼前で巨大ななにかが高速で跳ね上がる。かと思うや、ガストレアの小山のような巨体が突如としてさいの目状に切り刻まれ、重い震動を立てて崩れ落ちたのだ。
あまりの出来事に、蓮太郎と延珠は二人揃って口をあんぐり開けたまま固まってしまった。
「バラニウム製のワイヤートラップです。ある程度の重量がかかれば発動するようにしておきました。平野に出るところを狙っていたのでしょう。大型のガストレアは狭い森の中では速度が出ませんから」
「お主……ッ」
夏世は、悠然とショットガンの遊底を引いて排莢しながらこちらに向き直り、厳かに告げる。
「私は──モデル・ドルフィン。イルカの因子を持つイニシエーターです」
その様子を呆然と眺めながら、蓮太郎は知らず笑みこぼれていた。
「なるほど、イルカのイニシエーターか……。どうりで知的な物言いをする子どもだと思ったよ。俺はてっきりシカ……」
「──里見さん」
「?」
「グズグズしないで、早く港へ向かってください」
再び背を向けて発せられたその言葉に、表情を引き締める。
「……お前はどうするんだよ」
話している間にも夏世は背嚢を下ろすとありったけの予備弾倉を地面に並べ始めた。
「ここに残ります」
「は?」
「里見さんには聞こえないんですか? ここで誰かが食い止めない限り──勝っても負けても全滅しますよ」
彼女の台詞が終わると同時に、今し方抜けてきた森から高い鳴き声や低い唸り声が聞こえてきた。街から聞こえてきた銃声で目を覚ましたガストレアが様々な周波数帯で仲間と交信しているのだ。
森を向いたまま「だから早く……」と続ける夏世に、だが蓮太郎はわずかな黙考の後、拳を握ると彼女の隣に進み出た。
「里見さん……?」
「向こうには将監の他にも同序列、もしくはそれ以上のペアだっているはずだ。それならいっそ、俺もここを守って──」
突如、なにか白いものが猛烈なスピードで頬に炸裂し、蓮太郎は動きを止める。
蓮太郎に平手打ちを浴びせた少女は、静かな怒りの眼差しでこちらを見上げていた。
「里見さんは未踏査領域に何をしに来たのですか? 仲間ごっこですか? もし、将監さんたちが負けたらどうします? 三人でここを守っていた、それでどうなるんです?
私一人よりもあなたたちのほうが戦力になると判断したからこそ、私が残るんです。いまできうる限りの最善手を打ってください、民警ならば!」
「だからお前をほっとけっていうのかよ!?」
蓮太郎は叫び返すが、夏世の瞳に宿った強い意志は微塵も揺らがない。
「将監さんならそうします。私はあの人の道具です。あの人のために戦い、あの人のために死ねるんです。そしてあの人も振り返ることなく新しい相棒と組み戦い続けるはずです」
蓮太郎は歯を食いしばり、喉から声を絞り出す。
「なんでだ。お前は普通の人間として……生きていきたいって思わねぇのか……? お前がそう考えるようになったのはどうしてだ。将監のせいなのか?
もし……そうだとしたら……すまねぇ……。──俺は将監を、許せねぇ……ッ」
夏世は踵を返すと、ショットガンを拾い上げながら穏やかな調子で応えた。
「……あなたはそれでいいんです。でも、ひとつ勘違いしているようですね。私だってここで死ぬ気はありませんし、そう命令も受けていません。様子をみて適当なところで切り上げますよ。
里見さんにとっては不愉快な人かもしれませんが、もしよかったら──将監さんのこと、頼みます」
「蓮太郎」
街までの斜面を駆け降りていると、蓮太郎の傍らでウサギのように跳ねる延珠が、珍しく真剣な面持ちで視線を前方に据えたまま口を開く。
「妾は、蓮太郎の相棒でよかったと、思っているぞ」
「……。あぁ……」
もう、街は目と鼻の先だった。
街に入ってからは、蓮太郎は建物の影を縫うように進んだ。家屋や小さなビルが原形を留めているところをみると、ここの住人はガストレアに襲われる前に早々に街を捨て東京に逃げ込んだのだろう。
原形を留めてはいるが、完全に、というわけではない。通常、暖房が使われなくなった住宅は、寒暖差の影響をモロに受けて、膨張収縮を繰り返した壁がぼろぼろになってしまう。併せてこの街に関しては潮風が基材を腐食させるので、より事態は深刻といえる。
朽ち果てた街を見ながら、蓮太郎は人工的な環境の弱さをまざまざと感じた。
無数に係留されたボートも錆だらけで、漁船に至っては幽霊船と見紛うばかりの奇々怪々な有様に変じている。風が吹くたびに、闇色に塗られたシルエットがギッと耳障りな音を立てた。
「延珠、もう少しで目的地だ。気ぃ抜くなよ」
「わ、わかってる!」
徐々に、銃声がした付近に近づいてきた。蓮太郎の心臓がばくばくと拍動する。レーダーのように敏感になった肌は、風が吹くたびにチクチクした。
──それにしてもおかしい。さっきから物音ひとつ聞こえない。影胤を倒したのなら、誰かが勝鬨くらい上げるんじゃないか。なぜ、こんなにも静かなんだ。
邪魔になった消音器を外し、右手にXD拳銃、左手にライトを持つ。腕を交差させて、手の甲同士を密着させるが、ライトはまだつけない。出会い頭にライトの光を叩きつければ、相手の視界を奪いながら一方的に銃撃できるからだ。ハリースと呼ばれる近接戦闘用銃撃テクニックである。
「──……夏世……か?」
その時、蓮太郎たちの行く手からドシャッという音がして、危うく発砲しそうになった。
「遅ぇぞ……。どこ、ほっつき歩いてやがっ……た」
声の主・伊熊将監は、重い足取りでふらつきながらも、こちらに向かってまっすぐ歩み寄ってくる。延珠が明るい顔になって蓮太郎を見た。
「ということは──ッ」
「ああ、民警が、蛭子影胤に勝っ──」
しかし、正面に視線を戻した蓮太郎の言葉はそこで途切れる。将監の背には、折れた巨剣が突き刺さっていたのだ。
「「!?」」
ハッとした延珠が辺りを見回すと、闇の中から通りにぶちまけられた地獄絵図が浮かび上がってくる。
一番近いものは、ほんの数メートル先にあった。
切り離されたイニシエーターの頭部は、顔に驚愕を張り付けたままこちらを見つめている。
その奥に点々と転がる死体の状態は、様々だった。下半身のないもの、上半身のないもの。元々は一人の人間だったものもあるのだろう。
腕や脚を切断されたものもある。その隙間には銃を握ったままの腕や、誰のものともつかない肉塊が転がっていた。
彼らの身体に刀や槍が突き立っている一方で、折り重なって倒れるプロモーターやイニシエーターの方は速やかに銃殺されている。
その中には、防衛省で見た顔もちらほらあった。
「なんだ……ッ。一体これはなんなのだ、蓮太郎!」
目を見開いたまま凍りつく蓮太郎の姿や、喘ぐ延珠の言葉を意に介する風もなく、将監は続ける。
「おい夏世……聞いてんのか……。さっさと俺の剣……持ってこい……」
──将監……ッ。
「蓮太郎!」
不意に横合いから掛けられた声にそちらを見ると、延珠が砕けた巨剣の柄側を両手で抱えていた。
「へッ……。随分軽く……感じるな」
愛剣が折れていることに気づいた様子もなく、将監は傷だらけの手を差し伸べてくる。
「おら……お前が遅れッから目も耳もイカれちまったんだ……。とっととあの仮面野郎のとこまで……連れていきやがれ……」
虚ろな瞳で喉の奥から荒い喘鳴を漏らしながらも、将監は続けた。
「次は……負けねぇ……ッ」
顔や腕を始め体の至るところに負った切り傷から血を流しながら声を絞り出す将監を直視できず、蓮太郎はぎゅっと目をつぶって俯く。
──無茶だ……! いくらお前でも、もう……ッ。
だがその時、差し出されたままだった将監の手の指を、小さな手がそっと握った。
──!? 延珠……!?
延珠は何も言わず、決意の籠もった眼差しで将監の手を引いていく。
澄み渡る満天の星空のもと、血の海と化した路面を踏みしめる緩慢な足音だけが響く。そんな中、ドクロスカーフの下から発せられた切れ切れの声が、 海風に乗って蓮太郎の耳に届いた。
「やっぱり……戦いってのはいいな……。俺、みてぇな腕力しか、能のねぇヤツでも、唯一、自分の存在を感じられる……。
──お前も……そうだろ……? 夏世」
その一言を聞いた瞬間、蓮太郎の思考が束の間漂白され、直後に眦が裂けんばかりに見開かれる。
「俺たちは……戦いから、離れれば離れる……ほど、痛ぇ目を見る……。叶いっこねぇ夢を語れば……語るほど……辛ぇ思いをするんだ……ッ」
将監の言葉が呼び水となって、先日の出来事が思い起こされる。
影胤の卑劣な策により『呪われた子供たち』であることを暴露された延珠は、通っていた小学校の退学を余儀なくされた。
同級生から恐怖や嫌悪の視線を向けられ、化け物と罵られ、最後には信じていた親友にさえ、周囲が延珠の仲間と見做すことを恐れて目を背けられた。
「だったら黙って俺に、使われてろ……。その間……その時間だけが……お前の存在を、正当化する……。
……夏世。……俺、たちは──」
正しいんだ。
不意に将監が膝をつき、手から滑り落ちた金属塊がアスファルトを跳ねる騒々しい音が響き渡る。
もう、二度と動き出すことはなかった。
その半身に続いて、持ち主をも永遠に喪った巨剣の柄部分が、路面の上で淋しげに身動ぎする。規則的なガランガランという音は虚ろな響きで通りを満たし、やがて消えていった。
蓮太郎は拳を握りしめると、食いしばった歯の隙間から震える声を絞り出す。
「わかってたんだ……。アンタは全部……ッ、わかってたんだ……ッ!!」
「蓮太郎」
すると傍らに倒れ伏した将監を複雑な表情で見下ろしていた延珠が、こちらに背を向けたまま俯き気味に口を開いた。
「夏世に、謝らなければならないな……」
『里見さんにとっては不愉快な人かもしれませんが、もしよかったら──将監さんのこと、頼みます』
「あぁ……謝るよ。許してもらえるまで、何度もッ、何度でもだ! だけどッ」
顔を上げ、決然と正面を見据える。
「その前に、やらなきゃなんねぇことがある」
延珠も、静かな声でそれに応えた。
「わかってる」
「──最後の、戦いだ」
寄せては返す波の鼓。
そのペアは桟橋の先端に佇み、海面を眺めていた。
ワインレッドの燕尾服に袖を通したシルクハットの怪人は、右手を胸の高さまで持ち上げるとおもむろに語り出す。
「初めて会ったころから、どうにも気になっていたんだ。君はいつも私の心のどこかに必ずいる。なぜだ? 私は強さを求め、また強い者を求める。
いままでの圧倒的な敗北、圧倒的な恐怖を体験した君が、私のこの気持ちに答えられるなにかを、持っているというのか?」
そこでシルクハットのつばに手をかけると、燕尾服の長い裾を翻してこちらに向き直った。
「──教えてくれないか、里見くん」
大量の手練れを迎撃、全滅させた後だというのに、その体にはかすり傷一つない。
同じく手傷を負った形跡のない黒ワンピースの少女は、つまらなさそうな顔でその言葉を聞いていた。
しかし、蓮太郎の隣で灼熱色の瞳に敵意を漲らせる延珠の姿を認めると、すぐさま獰猛な笑みを浮かべて腰に差した二刀の鞘を払う。
「影胤……ケースは、どこだ……ッ!」
生ぬるい風が肌を撫でていく。月を背にして、蛭子影胤は鷹揚に手を広げた。
「幕は近い。決着を、つけよう!!」
3
蓮太郎が死闘に身を投じた、その少し前──
勾田公立大学の本校舎から三百メートルほど離れたところに建つ大学病院。
その北側、ひとけの少ない廊下の突き当たりには、床を四角く切り取った穴がある。
かなりの急角度でついた階段を降り、悪魔のバストアップが刻まれた扉をくぐれば、そこは法医学教室の室長が暮らす地下室だ。
その法医学教室室長にしてガストレア解剖医・室戸菫は独りノートPCに向かい、研究資料の整理をしていた。
その時、背後からノックの音が聞こえる。
手を止めて見ると、伏し目がちな黒いセーラー服の少女が所在なさげに片腕を抱えて歩いてきていた。
「おやおや、今日はいかがされましたか? ──天童社長」
席を立った菫が、コーヒー豆をコーヒーサーバーに突っ込みスイッチを入れると、ミルを挽くガリガリという音が響き始める。
そんななかで木更は、引きずるほど長い白衣の背に向けて訥々と語り出した。
「先生、その節は……お世話になりました」
「……その節、ね。世話なんて焼いた覚えはないな。自分の復讐のためにメスを持ったことはあるがね」
「それでも……ッ。先生のお陰で、里見くんは生きています。ありがとう……ございます」
「…………どうした、木更。今日はやけにしおらしいじゃないか」
少しの間をおいて、思いがけず発せられた穏やかな声に、木更がふと顔を上げる──ところを見計らったように振り向いた菫の口角は、彼女が全力で木更たちをからかうとき特有の角度に吊り上がっていた。
「──そんなんじゃ、蓮太郎くんがル◯ンダイブしてくるぞ?」
「しません! 里見くんはそんなこと!」
頬を真っ赤にして叫ぶ木更を尻目に、なおも菫が「そうかなぁ? いざとなったらしてもおかしくなさそうだけどなぁ」などと呟いていると、木更の語調は再び弱々しいものになっていく。
「私……止められなかったんです。里見……くんの事……」
見ると、木更は悄然と項垂れていた。菫は、鼻から小さくひとつ息を吐くと、ソーサーに載せたコーヒーカップを彼女の前のテーブルにそっと差し出す。
「木更。……止めても行ったさ」
「〜〜〜……ッ。でもッ。あのとき私を庇いさえしなければ──」
「──あのとき手術なんてしなければ」
後付けの取っ手をつけた耐熱ビーカーからコーヒーをひと口啜り、菫は続けた。
「彼は言ってたよ。『あの日から一度だって恨んだことなんてない』とな。木更。私はその言葉を、彼を──信じたいんだ……」
午前四時五分。
生ぬるい風が蓮太郎の肌を撫でていく。空気が張り詰め、呼吸することに罪深さすら感じる。
汗ばむほどの闘気に、息苦しさに襲われネクタイをむしり取るとブーツの底で土をにじった。天童式戦闘術『百載無窮の構え』。天地は永久無限の存在であることを意味する攻防一体の型。
「構えろ延珠」
「わかってる」
既に戦闘態勢に入っていた延珠が静かに答えると、敵も応じるように構えた。影胤が、二挺のフルオートカスタムベレッタを抜くと大型スタビライザーに格納した銃剣ユニットを展開し両翼を広げ、小比奈も二本の小太刀を六時を指すように上下に構える。直角交差した銃と剣は、月光を乱反射しながら死の十字架を形作り、死にゆく者にあまねく神威を刻みつける。
「準備はいいかい、小比奈?」
「はいパパ」
二人揃って正面を向いたまま短い問答を終えると、影胤は再びこちらに語りかけてきた。
「さあ里見くん、物語は最終局面に入った。お互い、盛大にいこう」
チリチリという断続的なスパーク音とともに、俯き気味に両腕を広げた燕尾服の全身を青白い燐光が包み始める。
「──『マキシマム・ペイン』」
突如、影胤を取り巻く燐光が球状に膨張。恐ろしい勢いで全員が立っていた桟橋を半分ほども粉々に破壊し、蓮太郎たちに殺到する。
すかさず延珠が蓮太郎の腕をとると、後方に大きく跳躍した。視界が狭まるほどの強烈な加速度に、歯を食いしばる。
しかし、攻撃は二段構えだった。
瞳に赤い残像の尾を引きながら、黒いワンピースの少女が弾丸の速度で視界に迫る。
延珠があわてて蓮太郎と靴の裏を合わせ、お互いを足場にして蹴り離すと、瞬刻前まで蓮太郎たちがいた空間をなにかが擦過した。延珠の靴底に仕込まれた重りを小比奈の剣閃が掠めたのか、バラニウム同士が擦れ合う甲高い金属音が響く。
「延珠!」
「蓮太郎!」
空中で切り離された蓮太郎たちは反射的にお互いへと手を伸ばすが体勢を立て直せるはずもなく、すぐに石畳が回転しながら近づいてきた。
脳が高速で演算し、ほんの束の間時間の流れを遅く感じる。空中で後転すると首尾よく足が下に向いた。直後に石畳が襲いかかってくる。
内臓まで響く震動に蓮太郎が顔をしかめながら立ち上がると、ほどなくして濛々と立ち込める砂塵の中に異様な長身のシルエットが浮かびあがった。
「やれやれ、小比奈はどうしても君のペアと遊びたいらしい。困った子だ」
昏い気を放ちながら仮面を押さえて白煙の帳をかき分け悠然と歩いてくる影胤を油断なく見据えながら、蓮太郎は静かに口を開いた。
「……いますぐ……いますぐ『七星の遺産』とやらをぶち壊せば、ステージⅤの召還を止められるの──」
「──不可能だ」
両手を後ろ手に組んだ姿勢から右腕だけをこちらにまっすぐ伸ばし、愛銃『サイケデリック・ゴスペル』を照準する。
「私が立ちはだかっている」
同時に蓮太郎もXD拳銃をドロウして影胤に向けると、決然と睨んだ。
「だったらぶっ飛ばして通るまでだ」
午前四時十分。
里見蓮太郎と蛭子影胤の対峙を八百メートルの高空から静かに見下ろす電子の眼があった。
東京エリア第一区にある日本国家安全保障会議では、偵察飛行している無人機に備わる各種データ送信技術が、ほぼリアルタイムで映像を会議室のモニターに表示させている。
作戦本部である会議室内には、死のような静けさが降りていた。
長机に腰掛けた内閣官房長官や防衛大臣が気まずげにちらちらとお互いの顔を盗み見ている。
つい先ほど、十四組と一人、計二十九人もの民警の社員が総出で蛭子影胤に挑みかかり返り討ちにされた映像を見たばかりだ。
長机の上座に着いたJNSC議長・聖天子は、真剣な瞳でモニターを見据えながら口を開く。
「現在、付近に他の民警は?」
近場にいた渚島の後輩、矢矧が素早くノートPCを叩くと即答した。
「一番近くにいるペアでも、到着に一時間以上かかるかと思われます」
そのやり取りを受けて、渚島も自身のノートPCの画面に視線を落とす。
液晶画面には東京湾沿岸の平面地図が映し出され、その上にGPSの反応を示す輝点が点々と表示されていた。
現在交戦中の二組の民警ペアからおよそ一.五キロ離れた小さな平地に固まる複数の点。そこから海岸線沿いにさらに数百メートルおいて二つの点がある。
単純計算では、一時間どころか三十分もあれば充分到達可能な距離だが、当然そうは問屋が卸さない。
未踏査領域での活動はいかなる場合も音を立てないことが鉄則である。加えて、影胤の奇襲が決行されたいま、戦闘音で目を覚ましたガストレアたちが音源へ向けて四方八方から集まってきているに違いない。
決戦の舞台となった港町を目指している民警たちはそうしたガストレアの目をかい潜り、または倒しつつ進まねばならないのだ。
どんなに上手く事が運んでも、少なくともその倍は時間が掛かるだろう。
そして、問題はそれだけに留まらない。
渚島が地図上の輝点をクリックすると画面が急激に拡大されて、やがて一組の民警ペアが映し出される。続けてキーボードを叩くと、映像がトリミングされ、彼らの顔に焦点が当てられた。
登録された顔のパターンと民警サイトの名簿リストの照合が完了し、ややもせず写真がポップアップ。
片桐民間警備会社。小さい事務所を兄妹で経営しているペアで、ハチャメチャなパンクファッションに身を包んではいるが、これで千八百九十位の高位序列者らしい。
タブを閉じると、今度は一箇所に固まっている複数の点付近をクリックする。
拡大された画面を一瞥し、渚島は思わず内心で笑みこぼれた。経歴を確認するまでもない。よく見知った顔ぶれは誰あろう、東國彩花社長率いる東國民間警備会社の面々だ。
しかし彼らが一様に押し寄せるガストレアたちとの激戦の渦中にいることを思い出し、すぐに表情を引き締める。
そう。ガストレアたちは人間が立てる音に集まってくる。そして現在まさにその標的の筆頭となっているのが、他でもない里見ペアと蛭子ペアだ。
この作戦は蛭子影胤の討伐が主な目的だが、それは敵が彼らだけであることと同義ではない。ガストレアの波が彼らに届いたが最後、作戦は足下から瓦解し、『大絶滅』の未来が確約されてしまう。
いまこの瞬間、津波のように押し寄せる夥しい数のガストレアを食い止める彼らこそ、東京エリアを守る最後の砦なのだ。
──あとは頼んだぞ、勇磨くん。
矢矧の返答に、副議長の菊之丞が立ったまま傍らの聖天子の顔を覗き込んだ。
「聖天子様、このままでは……」
聖天子は正面の巨大なモニターを見つめたまま暫し黙考している様子だったが、やがて口を開くと会議室に澄んだ声が流れる。
「まだ……希望はあります。──そうでしょう、天童社長?」
最後の言葉と同時、いきなり彼女の背後の扉が外側から押し開けられ、黒いセーラー服の少女が入室してきた。菊之丞が愕然と目を見開く。
「木更……ッ!?」
「この戦いはもはや、里見・藍原ペアにかかっているといっても過言ではありません。二人の上司にあたる天童社長には、この会議に出席する義務があります」
「しかしッ」
室内をスタスタと歩いてきた木更は、空いた席に腰かけようとしたところで、ふと顔を上げると菊之丞の方を見遣り、可愛いらしい笑顔をつくった。
「ご機嫌麗しゅう、天童閣下」
「……ッ」
「……では、早速ですが天童社長。本題に入る前に、まずはご連絡頂いた件について詳しい説明を聞かせてもらえますか?」
列席者たちが顔を見合わせるなか、重々しく頷いた木更はスッと立ち上がる。肩で風を切りながら部屋の中ほどまで進み出ると、居並ぶ面々に一枚のペラ紙を突きつけた。
紙には一つのサークルが引かれており、その外側に寄せ書きのように直筆の名前と判が押してある。
聖天子は思わず息を呑んだ。傘連判だ。確か古く昔、百姓一揆の固い団結を約束すると同時に首謀者を隠すために放射状に署名したものだ。
周囲の視線はごく自然に、その無数の名前のうちの一人──防衛大臣に向けられる。他の高官たちは青い顔で彼の近くから後退りしていった。
「ご機嫌麗しゅう、轡田大臣」
「こ、これはなんの冗談だ!」
「あなたの部下がこんな面白いものを持っていましてね。連判状に書かれている通りです。あなたが蛭子影胤の背後で暗躍した依頼人ということです。そして彼に『七星の遺産』を盗み出させ、テロに関する一連の情報をマスコミにリークしようとした」
「そ、そんな馬鹿な……」
木更は顎に手を当て、わざとらしく首を傾げる。
「それにしても直筆で傘連判なんて、随分古風なことをなさるんですね。おかげでこの計画に荷担した人間が一斉検挙できそうで手間が省けましたが」
聖天子が合図を送ると、菊之丞は巌のような相貌で冷ややかに防衛大臣を見た。
「連れていけ」
「そ、そんな……。天童閣下ぁッ。私はッ──私はああああああッ!」
護衛官が両脇を抱えると、哀願し泣きわめく轡田を会議室の外に引きずっていく。
閉まる扉が大臣の訴えを無慈悲に退け、木更が自分の席に戻ったところで、聖天子はふと隣から立ち上る凄まじい殺気に気づいた。
「木更よ……よくもここに顔を出せたな」
怒気を露にしかけた菊之丞に、木更は泰然と微笑みを返す。
「お久しぶりですね、天童閣下」
「地獄より舞い戻ってきたか、復讐鬼よ」
「私は枕元で這い回るゴキブリを駆除しただけです。ここに居合わせたのは単なる偶然にすぎません。気の回しすぎではございませんか?」
「よくもそのような戯れ言を……」
木更の瞳が冷たい輝きを放ちながら細められる。
「──すべての『天童』は死ななければなりません、天童閣下」
「き、貴様……」
とても祖父と孫の会話には聞こえなかった。二人の関係をある程度知っているだけに聖天子も生きた心地がしない。
「二人ともその辺で。では、私から改めて状況の説明をさせて頂きます。天童社長、先ほど十四組と一人の民警が蛭子影胤に挑み返り討ちにあいました。いずれも里見ペアより格上の民警たちです。里見ペアの勝率は……いかほどと見ますか?」
その問いに会議室がにわかに色めき立つ中、木更は感情を交えない冷たい瞳で顎に手を当てる。
「三〇%ほどかと……」
高官の一人が無言で頭を抱え、全員が苦々しい顔になった。だが、束の間室内に降りかけた重い空気を、すぐに続いた木更の鈴の音のような声が吹き払う。
「……ですが、私は……信じています。──彼は必ず『勝ち』ます」
官房長官が小馬鹿にしたように腹を揺すった。
「天童社長、自分の抱えている社員を信じたい気持ちはわからないでもない。だがね、向こうにはあの『新人類創造計画』の生き残りがいるんだぞ!? 三〇%の勝率すらキミの願望でしか──」
「たしかに──みなさんの思う里見蓮太郎では、そうでしょうね」
「……………………は?」
木更が菫のいる大学病院を訪れたのと同じ頃──
断続的な銃声に獣たちの悲鳴が被さる。
東國民間警備会社の面々は、森から次々と飛び出してくるガストレアを危なげなく捌き続けていた。
弾切れしたワルサー拳銃を下ろすと、勇磨は正面の森を油断なく見据えながら弾倉を交換する。
一同は、今し方明理から自分たちが置かれた状況の説明を受けたところだった。
「なるほどな。つまり俺たちは増援を呼ぶにしても、まず森のガストレアを片づけなきゃいけないってことか」
寄り添う明理も前を向いたままひとつ頷く。
「はい。そしてこのガストレアたちが目指すのは街で戦う民警たちです。私たちがここで押さえなければ、勝っても負けても全滅。また、一匹でも逃がして内地への侵入を許せば、感染爆発により東京エリアは明日にでも壊滅します」
「シビアだな……」
勇磨が思わず頬を引きつらせたその時、近場の茂みから再び一体のガストレアが突っ込んできた。肉食獣にしては丸い瞳にライオンほどもある巨体。オオカミだ。
勇磨は明理と二人して左右に飛び退くと、その場で一回転。唸りを上げて踊りかかるオオカミとすれ違いざま、その脇腹目がけて右手の剣を振り抜いた。
バラニウムブラックの刀身がオオカミの無防備な腹を抉り、短い悲鳴と血飛沫が上がる。
一方、明理は素早くガストレアの正面に回り込み、うずくまりながらも勇磨を威嚇するオオカミに向けてMP7の引き金を引き絞った。
短機関銃のフルオート射撃が、ガストレアの巨体のあちこちに小さな黒い穴を穿つ。明理はそのまま肉薄すると怯んだオオカミの下顎を蹴り上げ、ガラ空きになった胸部にミドルキックを叩き込んだ。
二百キロはくだらない巨体が地面と並行に吹っ飛ぶと、背後にいたイノシシを巻き込み崩れ落ちる。オオカミの横腹をガストレアの巨大な牙が貫通し、末期の痙攣すらも残さず絶命した。
突進を妨害されたイノシシは苛立たしげにその死体を振り払い起き上がりかけていたが、突如そこにギロチンもかくやという重い斬撃が走り、イノシシの動きが停止する。
ガストレアの頭上から降り注いだ愛香が地面に軽くめり込んだ巨剣を引き戻すと、一拍遅れて重い震動とともにイノシシの首が落ちた。
「──でも、本当にこのままでいいの?」
見ると、やや離れた位置に立つ弥由紀が不安そうな顔で続ける。
「私が言った通り民警チームが全滅していたら、影胤を止められる人は一人もいなくなったことになるわ。ここを動くのが無理でも、せめて本部にこの事を報告するべきなんじゃ……」
「いや、その必要はないと思うな」
そう返したのは、ラクシオだった。
「実は君と会う少し前、政府関係者の後援者から連絡を受けてね。作戦に参加しているすべての民警の位置情報をGPSで追跡しているらしい。でも、それだけじゃ詳しい戦局は知りようがないからね。おそらくはドローンかなにかも使って、こちらの状況を逐一確認しているんだろう。
つまり、もし民警チームが全滅していたら、政府もすぐに次の手を打っているはずさ」
人差し指を真上に向けて穏やかな微笑みを浮かべたラクシオに続き、勇磨も口を開く。
「それにな、弥由紀。さっき『影胤を止められる奴がもう一人もいない』って言ったよな?」
「え? えぇ、だってそうでしょ? 近くにいた民警たち全員で集まって駄目だったんだし、他にあいつらをどうにかできる人がそう都合よくいるわけ……」
「ところが、そうでもないんだな」
「「「……?」」」
事情を知らない弥由紀、和穏、愛香が三人で互いに顔を見合わせる中、勇磨は不敵に笑ってみせた。
「──いるんだよ、一人だけ。このピンチをひっくり返せる奴が」
蓮太郎が激しく尻もちをつくと、老朽化した堤防のブロックが砕けて辺りに散らばる。
蛭子影胤は、蓮太郎から取り上げたXD拳銃を手の中でポンポンと投げ上げながら、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「フン……。あの身のほど知らずの民警たちといい、君といい、本当に期待はずれだよ」
座り込んだ蓮太郎は喉から荒い喘鳴を漏らしながらも、懸命に挑戦的な笑みをつくる。
「そりゃ……悪かったな……」
「私は私のなかの声を信じて、君を待ち続けた。私を倒そうとする無数の敵のなかからたった一人だけ……君だけを待ち続けたというのに──これだ」
影胤は蓮太郎の前に銃を放り捨てるとシルクハットの位置を直しながら踵を返した。
「もう飽きた。君は弱い。そこで東京エリアの終焉を見届けていたまえ」
「……。……ッ。──待てよ……」
遠ざかる燕尾服の背を睨みながら歯を食いしばり、蓮太郎は再び立ち上がる。
「弱いさ、俺は弱い……。だからみんなが後悔した。だから、信じなくなった……。だから……ッ」
「……いったい、何のことを言っているんだ……里見くん」
顔を伏せたまま繰言のように呟く蓮太郎を、影胤は不思議そうな瞳で眺めていた。
「官房長官、詳細は省きますが十年前、里見くんが天童の家に引き取られてすぐの頃、私の家に野良ガストレアが侵入して、私の父と母を食い殺しました。私はそのときのストレスで持病の糖尿病が悪化。腎臓の機能がほぼ停止しています」
唐突な木更の言葉に官房長官は話の流れを見失い、困り果てたような顔になる。
「た、確かに不幸な話だとは思うが、それがいったい──」
「そのとき私を庇った里見くんは、右手右脚、そして左目を──失ったのです」
「失っ……た? どッ、どういうことかね天童社長。彼はどう見ても五体満足にしか……」
長官が狼狽を露にしかけた、その時だった。
『──そんなに褒めるな。照れるだろ?』
モニターからそんな声がしたと思うや、突如画面に白衣の女性のにやにや笑いが大写しになる。
不健康なほどに青白い肌。伸び放題の前髪で目元が半分隠れているが、よく見れば凄まじい美人である。
『ごきげんよう、諸君』
組んだ手に顎を落としたガストレア研究医・室戸菫がそういったところで、官房長官が泡を食ったように立ち上がると、愕然と目を見開いた。
「貴様……ッ、室戸ッ!?」
「室戸医師、さっそくですが例のものを」
『ははあ、聖天子様の仰せのままに』
ざわめきが広がるなか、落ち着き払った聖天子の声に、菫は芝居がかった調子でお辞儀の仕草をする。
直後、会議室内のすべてのモニターと端末の画面が切り替わり、ひとつの研究資料が表示された。
「……これはッ、まさか……ッ!!!?」
「十年前、里見くんは室戸医師に命を救われました。そしていま、このデータが手元にある意味……ご理解いただけましたか?」
「ああ……なんということだ……ッ」
挑戦的な瞳で見返す木更の言葉に、机に手を突いた官房長官は忘我の表情で絞り出す。その顔には、深い恐怖が張りついていた。
「──彼も、そうなのかッ!!」
ギィン、という音と共に二挺の銃が打ち合わされ、反動で双方が靴跡を引きながら吹き飛ばされる。
「里見くん……君は……」
「影胤」
「!」
なにかを言いかけた影胤の言葉を遮ると、蓮太郎は地面に突いた右腕を掴む手に力を込めて、眼前に立つ宿敵を必死の形相で睨み据えた。
「てめぇは……俺が止める……。どんな手を、使ってでも……ッ!」
束の間動きを止めた影胤だったが、すぐに喉の奥で笑い声を漏らし始めると、鷹揚に手を広げる。
「クックックックック。君はできもしない理想を掲げるタイプじゃないと思っていたが、どうやら思い違いだったようだ。どんな手を使ってでも……? ならば見せてみたまえ。この! 私に!」
「ッ!」
「君にはもううんざりだよ里見くん。そうやって叶わぬ理想と永遠の後悔を抱えて、死にたまえ」
影胤は、愛銃『スパンキング・ソドミー』の撃鉄を親指で起こすと、ことさらにゆっくり照準した。銃口の奥に底なしの深淵が見える。
「君は本当に、弱かった」
こちらを射貫く瞳がスッと細められ、殺意を放射。直後に容赦なく引き金が引き絞られる。
トリガーと連動したトリガーバーを起点に、撃鉄が振り子の如く振られ、ブリーチブロック内に収まった撃針が薬莢底部を打撃。発砲炎とともに、必殺の銃弾が螺旋回転を描きながら吐き出された。
──その時、脳裏に優しい少女の声が木霊する。
信じてください。
その瞳に、強い光が──灯るように。
それが呼び水となったように緊張が去り、蓮太郎の体からふっと力が抜けた。
小さな右手を眼前に突き出してきた少女の微笑に、蓮太郎もそっと笑って囁く。
「信じてみるよ」
蓮太郎が勢いよく顔を上げると、視野が広がり色味が鮮明になっていた。左眼に仕込まれた義眼が視神経と直結したことで、三次元的に物体を捉えられるようになったのだ。
義眼に内蔵されたグラフェン・トランジスタ仕様のナノ・コアプロセッサが起動、演算開始。黒目内部に幾何学的な模様が浮かび上がり、高速で回転。鼻の奥がツンとして口の中に極彩色の味が広がっていく。
「うおおおおおおおおおおおおッ!!」
雄叫びを上げながら体を起こしざま、蓮太郎は迫りくるバラニウム弾に向けて右手を突き出す。
空気を逆巻く弾丸が蓮太郎の掌に正面から激突した──直後、澄んだ破砕音とともに押し潰された。そのまま拳を握り、弾丸を掴み取る。
果たして影胤は目を見開いて固まっていた。
「蛭子影胤……、てめぇに礼儀を通す義理はねぇが、俺も名乗るぞ」
強烈な衝撃力を押し返した反動で、蓮太郎の右手には亀裂が生じていた。それは瞬く間に掌、前腕へと広がっていく。のみならず、地を踏みしめる右脚も、可塑性エストラマーやシリコンなどで構成された人工皮膚が反り返りながら剝落、足下に溜まっていく。
「元陸上自衛隊東部方面隊第七八七機械化特殊部隊──『新人類創造計画』里見蓮太郎」
やがて蓮太郎の右腕の下から真っ黒い腕が現れた。右脚も股から先を覆う光沢のあるブラッククロームが覗き、逆トゲのように突き出した空気穴が、自律的にバクバクと蠕動運動を始める。
「里見さんの義肢と義眼に使われている金属は超バラニウム。無重力下でバラニウムをベースにレアメタルとコモンメタル十数種を掛け合わせた、バラニウムを数倍する硬度と融点をもつ次世代合金です。
蛭子影胤の所属していたセクション十六の戦術思想は『ガストレアステージⅣの攻撃を止められる絶対防御』。これに対し里見さんが所属していたセクション二十二の戦術思想はその真逆です。
腕に十発、脚に十五発仕込んだカートリッジの推進力を以て超人的な攻撃力を生み出す──『ガストレアステージⅣの装殻を破壊できる絶対攻撃』。すなわち、彼は──蛭子影胤を倒せる、唯一の人類なのです」
蓮太郎の姿を映し出すモニターを背にして、会議室内に聖天子の澄んだ声が、厳かに響き渡った。