立花響に救われた少女がヒーローを目指すお話   作:月夜 のかに

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EPISODE9 誰がために 前編

 

 ――私、符坂詩織という人間は、この世界との間に壁を持っている。私は、私とこの世界との間には見えない壁が存在しているかのような疎外感を感じていたのである。

 それは違う世界を生きているかのような感覚であった。父と母は研究者。研究一辺倒で、私の事は二の次というような親である。両親からすれば、手の掛からない子という認識だったのだろうか。いや、今に思えば歯牙にもかけない存在だったのかもしれない。

 私はそんな両親に少しでも振り向いて貰おうと、必死だった。今に思えばそれは自分の立場を更に悪くするだけの事だったのだが、幼い私はそんな事を知る由もない。

 両親からすれば、なんでも一人でこなせるしっかりした娘、程度の認識だったのだろう。気付けば私に残ったのは「天才」というレッテルだけであった。

 

「天才少女」

「――あの符坂さんの家のご令嬢さんなんでしょう? こんなに小さいのに立派ねぇ。やっぱり頭の出来が違うのかしら」

「詩織ちゃん、なんでもできるんだね」

「符坂さんはしっかりしていて助かる」

「――詩織ちゃんって……大人の人みたい」

 

 気がつけば、そこには壁があった。

 一番振り向いて欲しかった家族と私を隔てていた壁を叩き続けて、その壁を壊す事を諦めた時、私は初めて自分の周りの景色に目を向けた。私はその時初めて知ったのである。

 壁は私の四方全てを取り囲んでいたのだ。それは社会と私を隔絶する見えない壁である。両親との壁とはまた別種の、「天才」というレッテルが生み出した隔たりである。

 これを取り去る方法は簡単だ。レッテルを捨ててしまえばいい。他人が付けた評価など、それにそぐわない行動を起こせば簡単に覆る不安定なものだ。

 しかし、私はそのレッテルを捨てる勇気すら持てなかった。皆との間には確かに壁があったのは確かだが、それは皆が符坂詩織を完璧超人として見ているからである。

 皆の目には「天才の符坂詩織」が映っていて、私もそう振舞っている。誰かから嫌われているという事もなかった。皆が「完璧な私」を見ている以上、完璧である事が符坂詩織の存在証明であった。

 それ故に、私は「天才の符坂詩織」ですら無くなってしまった時が、怖くて怖くて仕方がなかったのだ。

 鍍金(メッキ)が剥がれた後に残るのは、何者でもない、空っぽの符坂詩織であったモノと、鍍金だけを見てきた周囲の人々からの拒絶だけである事を知っていたからである。

 私はいつだって、人の心というものに怯えていた。何せ、私はそれと真正面から触れ合ったことが無かったのだから。拒絶される()()()()()()という、確証もない不安が、私には何より恐ろしかったのである。

 

 そんな私に変化を与えたのは、彼女との出会いだった。

 

「神代……天音といいます」

 

 消え入りそうな声でそう名乗った彼女を一目見た時、一瞬呼吸が止まった。この出会いは運命だ、とさえ思えたのである。

 ――見つけた。

 初めて出会った。私と同じ、皆と同じ世界を生きていないヒト。彼女の瞳を見れば分かる。彼女の瞳は皆の方へと向けられているようで――いや、視線は(しっか)りとこちらを捉えているのだが、彼女が視界に映しているのは私達では無いのだと、私にははっきりと分かった。

 その瞬間から、私は彼女に夢中だった。生まれて初めて他人に目を奪われた。この感情を初恋と呼ぶことを知ったのは、まだ先の事である。

 これが符坂詩織と神代天音の出会い。

 それから私は彼女と友達になる為、もとい、彼女を自分だけのものにする為に、まるで私だけが世界で唯一彼女の味方であるかのような脚色を行う訳だ。

 結局、臆病な私は、初めて恋をした相手にすら面等向かって正面から向き合う事が出来なかったのである。

 その事に私はいつしか罪悪感を覚えるようになった。彼女が私を肯定してくれた瞬間、ようやく自分がしてきた事が彼女の信頼を裏切る行為だと言う事を自覚した。

 しかし、自分と本音で語り合い、初めて自分に心を開いてくれた天音に対して、罪悪感以上に安堵し、悦楽している自分も居た。その二つの感情はぐちゃぐちゃと混ざり合い、心を滅茶苦茶に掻き回す。

 身勝手な欲望と良心を天秤にかけ、思い悩む日々は続いた。しかし、その天秤はある日を境に一方へと傾く事になった。

 

 事の発端は些細な反抗心。この年頃の子供には良くある話だ。一般的な反抗期とよばれるものである。しかし、今まで人によく見られようと必死だった私が、となれば話は別だ。

 現に、私自身が自分の行動に驚いていたのだから。

 私は生まれて初めて両親の言葉に逆らい、絶対に入るなと言いつけられてきた地下室へと忍び込んだ。そこは両親の研究室である。不気味な文様のようなものが壁に描かれているのが見える。そんな異様な実験室に、ポツンと、余りにも不似合いな物体が置かれているのが目に留まった。

 ――不思議な装飾が施された、黒く光沢を放つ小ぶりの喇叭(ラッパ)である。

 

 ――喇叭が、鳴った。

 いや、それを鳴らしているのは私だ。まるで吸い寄せられたかのように、気づけば私はそれに唇を軽く当てると、軽く息を吹き込んでいた。

 喇叭の音が頭の中に響く度に、グラグラと視界が歪み朦朧とする意識。混濁する脳内へと、フラッシュバックするかのように映像が浮かぶ。――そう、それはまるで前世の記憶でも思い出したかのような。

 知らない景色。

 知らないコトバ。

 そして、知らない知識。

 しかし、私はそれを()っている。これは、この()()()記憶。そして、()の記憶だ。流れ込んで来るのは、先史文明の巫女としての記憶と意識。今までの自分とは全く異なった『個』が、己の中へと混ざり、溶け合う。

 リィンカーネーション。かつて先史文明のフィーネと呼ばれる巫女が行った魂の上書きである。

 

「詩織……お前、何をやっているんだ」

 

 背後からの声に首を撚り振り返ると、唖然とした顔で立つ父の姿があった。

 

「何って……私は、ただお父様に私の事を見て欲しくて」

 

「お前は物わかりのいい優秀な娘だと、思っていたんだがな……。そもそも私は、お前の為を思って」

 

「私が()()()()の世界に触れないように、私を遠ざけてた?」

 

 父は一瞬目を見開いて見せたが、軽く目を閉じ「そうだ」と続けた。

 

「私は物わかりなんて良くないよ。ただ私は、私を見て欲しかっただけ……」

 

 薄々は勘づいていた。両親は他の人たちとも、それに私とも違う世界に住んでいて、そこはこの世界の闇の部分であるという事を。

 少なくとも両親は、私をそこに触れさせたくないという思いがあったということを。

 しかしその結果、私は独りぼっちになった。「普通の世界」に私一人放り出されてしまったのだから。私が生きたかったのはこんな世界じゃない。こんな世界、望んでいない。

 

「でもね、分かっちゃったの」

 

 それは喇叭の記憶に触れ、たどり着いた一つの結論。

 

「間違ってるのは世界の方なんだって。こんな世界に合わせる必要なんて、最初からなかったんだ」

 

 誰かが頭に囁きかける。もしかしたら、それは私の心の中の悪魔だろうか。だとすれば、きっと既に心の中の天使は悪魔に殺されてしまったのだろう。

 今まで散々、良心の呵責に思い悩んでいたというのに、今この瞬間、それは何処かへ消え去ってしまっていたのだから。

 悪魔は私に囁く。

 ――喇叭を鳴らせ。そうすれば、何もかもが思い通りだ。私を取り囲む壁の外側を引っくり返してやれ。全部自分のものにすればいいじゃないか。

 初めから、そうしたかったんだろ? 

 どんな事をしてでも、あの子を独り占めしたかったんだろ? 

 なら、喇叭を鳴らせ。

 

「お父様、私、初めて好きな人が出来たの。その子、私の事を友達って言ってくれたの。あの子だけが私の事を見てくれるの」

 

「詩織……何の話をしている……? それより、なんでお前がソレを持っている。まさか、お前が起動させたのか」

 

 父は私の手に握られている喇叭を見て、驚いたような表情で私に語りかける。彼はこれが何なのか、理解していたのだろうか。これはただの鍵の一つでしかないというのに。

 しかし、そんな事はもうどうでもいい事だった。彼への興味はもう全く削がれていたのだから。

 

「だからね、もうお父様は要らないなって」

 

「お前は……本当に詩織なのか……?」

 

 ――喇叭が、鳴った。

 私はその日、悪魔の囁きに乗ったのである。目の前には、かつて父だった死体が転がっていた。存外、何も感じないものだ。あれだけ特別に感じていた『血の繋がり』というのも、結局この程度のものだったのだと感じる。

「私は詩織だよ。――でも、お父様がこんな私を詩織じゃないと言うのなら」

 私は父の目にはどう映っていたのだろう。化け物にでも見えたのだろうか。ならば私は、化け物でも構わない。

「『ヴィーデ』とでも名乗ろうか。貴方の娘は、今ここで死んだ」

 

 

「ヴィーデも眠るのね。いい夢でも見てたのかしら」

 

 符坂詩織は目を覚ますと、長い白髪を自分の胸元にまで垂らし、小悪魔のような笑みを向けながらこちらを覗き込むメロディア・ロア・フエンテの姿があった。どうやらテレポート先の隠家で眠ってしまったようである。

 外部への情報の一切を遮断する錬金術であるディー・シュピネの結界が張り巡らされた薄暗いこの部屋は、ヴィーデとして詩織が計画を企てる根城としていた場所である。

 

「私だって人間だからね」

 

「寝顔だけ見ると年相応の女の子にしか見えないの、まるで詐欺ね」

 

「じゃあ、普段メロディアには私がどう見える?」

 

怪物(バケモノ)

 

 詩織のその問いに、メロディアは間髪入れず、半ば食い気味に答える。先程までのふざけたような笑みはそこには無く、真剣な表情を浮かべ淡々とした口調で言葉を続けた。

 

「私と同じようなナリをして、その実中身は人間からは程遠い。まるで造作も無い事のように、軽々しく『世界を滅ぼす』なんて言う化け物が、ニンゲンな訳ないでしょう?」

 

「そうかもね。でも、それはメロディアも同じことでしょ?」

 

 詩織はメロディアの胸の中心に指を当てて、そう言葉を返す。胸の手術痕、聖遺物クレイブソリシュの欠片を人為的に人体へと埋め込んだ傷跡である。

 

「私はそもそも、人間扱いなんてされた事は無いわ。所詮モルモットだもの。ルイスと、ウェル様だけが、私をモルモットから人間にしてくれたの」

 

「私は入れてくれないんだ」

 

「人のことを道具としか見ていないのに、よく言うわね」

 

 メロディアは鼻で笑って詩織の冗談をばっさりと切り捨てる。

 

「でも、あの時は中々面白いものが見れたわ」

 

 メロディアはくすくすと笑いながら、先程までの会話を終わらせると、別の話を切り出した。

 

「アナタ、恋してるでしょ。あのブリューナクの子に」

 

 詩織の顔が凍りつく。青ざめた詩織の顔を見て、彼女の口角は更に上がる。にぃっとした悪い笑みである。

 

「違う」

 

「違わないわよ。あの時のヴィーデの顔、アレは傑作だったんだもの。あのヴィーデがまるで恋する乙女みたいな顔をするなんてね」

 

 メロディアは笑い混じりに詩織の仕草、表情を語ってみせる。

 

「ヴィーデの気持ち、分かるわ! 好きな人の為なら世界のひとつ滅ぼす事だって(いと)わない!」

 

 メロディアはうっとりとした表情で頬に手を当て、詩織の周りをクルクルとステップを踏んでいる。勝手に共感されても困るというものである。おおよそ、彼女の頭の中では想い人である「ウェル様」への思慕の念に浸っているのだろう。

 そんな姿がどこか歌恋と重なって、詩織はすぐに目を瞑りそのイメージを払拭する。

 独り妄想に溺れるメロディアは最後、詩織にこう語った。

 

「――でもね。あの時初めて、アナタが人間に見えたわ」

 

 

 S.O.N.G.本部の一角に音無凪咲は暗く曇った表情を浮かべていた。正面に配置されたモニタリング用のディスプレイに映し出されているのは、トレーニングルームの監視カメラによって撮影された映像である。

 そこには仮想敵として襲いかかる、ホログラム映像によって再現されたノイズをひたすらに切り裂く天音の姿があった。

 

「まだやってんのかアイツ」

 

 凪咲の背から雪音クリス司令補佐がひょっこり顔を出し、モニターを覗き込む。

 

「雪音補佐……ええ、もう二時間半、と言った所でしょうか」

 

(いささ)か度が過ぎるな」

 

 モニターの中で槍を振るう彼女は、修練というよりも憂さ晴らしを行っていると言った方がしっくりときた。荒れ狂う感情に身を任せアームドギアをノイズへ向ける彼女の姿を見ていると、凪咲はノイズへと復讐する為にギアを纏っていた頃の自分の姿と重ねてしまう。

 

「とは言っても、アタシにはどうする事も出来ないからな」

 

 クリスは口惜しそうに呟く。

 

「私だって……あの子に何を言ってあげればいいのか……」

 

 ()()()にはどうする事も出来ない、と言うのは言葉の裏を返せば、凪咲には彼女にしてやれる事がある、とも解釈する事も出来る。

 事実、今の状態の天音へと言葉を届けられるのは、凪咲を除いて誰も居ないだろう。しかし、凪咲には彼女に掛けてやれる言葉が何一つ見つかりはしなかった。

 神代天音が受け止めなくてはいけなかった現実は、余りにも残酷で、知り合って間もない凪咲自身ですら受け入れ難いものであったというのに、それをさも知った様な口で慰める事など出来るはずが無かった。

 

 ――一昨々日(さきおととい)、神代天音が独断専行を行ったあの日、凪咲は周囲のノイズを広範囲爆撃技で軒並み殲滅すると、近隣に残るノイズをS.O.N.G.S.の特殊部隊に任せて彼女の後を追った。

 

「この辺り、任せてもいいですかッ」

 

「ハッ、うちの娘くらいの子供に心配される程、俺達()()じゃあ無いですからッ!」

 

「いい事教えてやる。ノイズが如何(いか)に人類の天敵でも、当たらなければ人は死なねえんだッ!」

 

 隊員は豪快に言い放つと、対位相差障壁の技術が施された特殊弾が装填された自動小銃を構え、惜しげも無くばら蒔いてみせた。火薬が炸裂し、シンフォギアの生み出すアームドギアに比べて激しく、空気を震わせるような銃撃音と硝煙の香りがその場を満たす。

 周囲の残っていたノイズを瞬く間に制圧し、凪咲の進むべき道を切り開いてみせた。

 

「行きな、嬢ちゃん」

 

「ありがとうございますッ!」

 

 あの時、天音は空を駆けた。その姿が凪咲には鳥のように見えた。いつかのS.O.N.G.本部の資料室で目にした、エクスドライブというシンフォギアの決戦機能によく似た光の翼。彼女が残した光の翼の残滓を頼りに彼女を追う。

 オペレーターの友里あおいから受けた話を聞くに、天音は聖遺物を所持した敵と対面しており、事態は急を要すると思われた。何より凪咲の足を急がせたのは、胸の中にザワザワとした胸騒ぎを感じていたからである。

 

 数分前、天音が目覚める前に風音と交わした会話を凪咲は思い返す。

 

「――凪咲です。……了解、すぐ向かいます」

 

 周辺一帯にノイズ警報が鳴り、凪咲が現場へ向おうとした時、凪咲の腕を風音が掴んでいた。

 

「こんな時に何なんですかッ!」

 

「ワタシも出る」

 

「そうですか。それは助かります。でもわざわざ引き止めること――」

 

 凪咲は焦りと苛立ちの感情を含んだ感謝の言葉を述べながら、風音の方へと振り向く。

 

「話があります。音無凪咲さん」

 

 今までに比べて丁寧な口調。少なくとも凪咲の知る神代天音が、同年代に絶対に使うはずも無い丁寧語であった。とてつもない違和感を感じながら彼女へと目を向けると、神代風音は真剣な表情で凪咲の目を見据えていた。

 

「天音はもうじき目を覚まします。もしこれから、天音が傷付いたり、悲しんだりした時には、アナタがあの子の支えになって欲しい。あの子の姉として、妹が信じたアナタを、ワタシも信じたい。凪咲さん、あの子をお願いします」

 

 

「あの子の支えになって欲しい、か……」

 

 モニターを前にして凪咲は溜息をつく。どうやらとてつもなく重たい重荷を科せられてしまったらしい。結局あの後、凪咲の悪い胸騒ぎは的中してしまった。凪咲が彼女の元にたどり着いた時には全てが終わった後であった。

 目の前の天音の絶望した顔が、声が、目と耳に焼き付いて離れない。詩織の名前をひたすらに繰り返しながら、天音は泣いていた。

 

 符坂詩織こそが「ヴィーデ」なる人物であり、喇叭を所有していた。

 

 本部に戻って天音が語ったのは信じ難い事実であった。実際、天音はそれを目の当たりにしながら、「何かの間違いです。詩織がそんな事するはずないッ! あの子は普通の女の子で、私の友達ですッ!」と、聴取を行っていたクリスに食ってかかってみせた。

 きっと彼女は誰かに騙されているのだ、と主張する天音であったが、その後の符坂邸の立ち入り調査の結果が彼女の主張を完全に否定する。

 錬金術、そして聖遺物の研究の痕跡が発見されたからだ。そして、そこにはそれらの他に白骨化した遺体が発見された。個人の特定は限りなく不可能であったが、遺留品からこの家の主、符坂詩織の両親であろう事が推測された。

 何人もの人々の命を奪ってきたこの事件の主犯格と(もく)される人物が、自分の親友であった。その現実に天音は押し潰されてしまった。

 

 そして、音無凪咲は以降一度も彼女と会話を交わすことなく今に至る。

 

「……帰るのか?」

 

 訓練室のモニターに背を向けた凪咲へと、クリスが声を掛ける。

 

「いえ、これが正しい事なのか、私にはもう分かりませんが。……向き合ってきます。あの子の『友達』として」

 

 

 訓練室の仮想敵の投影が強制終了し、天音が振るった槍が虚空を割いた。天音はすぐさまシステムを停止させた人物の方を見据え、苛立ちの籠った声で語り掛ける。

 

「……どういうつもり。凪咲ちゃん」

 

「もうやめましょうよ、こんなこと」

 

 凪咲はこんな天音を見たことがない。いつだって天音は笑ってみせていた。風音の言っていた通り、その笑顔が無理をして周囲に振り撒いていたものだとしても、そんな顔は彼女には似合わない。

 彼女が笑っていて欲しいなんて、それは凪咲自身の独りよがりな願望に過ぎない。しかし、凪咲は彼女の笑顔に救われ、彼女の笑顔に惹かれたのだ。

 

「神代さん。喧嘩(ケンカ)しましょう。私が勝ったら、明日一日私とデートしてください」

 

「へッ?!」

 

 虚を突かれた天音は凪咲の言葉に動揺の色を示す。しかし、それも一瞬のことである。

 

「受ける理由が無いけど……いいよ。じゃあ、私が勝ったら余計なお節介掛けないで」

 

 天音は槍を凪咲の鼻先へと構えて答えた。

 

「怪我しても……知らないからねッ!」

 

 天音は槍を頭上で回転させると、凪咲へと振り(かざ)す。口金に結ばれたマフラーが穂先の軌道の後を追い、金属がぶつかり合う音が響く。

 穂先を追っていたマフラーが重力に捕らわれ、ゆっくりと地面に触れた。

 凪咲はショットガン形態のアームドギアを両手で構え、彼女の槍を受け止めている。

 

「ッ……槍、触った経験が?」

 

「無いよ。キリカさんの見様見真似」

 

 言われてみれば、確かにこれは槍術と言うよりも薙刀術の方が近しい。そもそも彼女の持つアームドギア自体、槍と言いながら形状は矛先が刀状になっており、薙刀という方が正しい形状をしている。

 凪咲は軽くため息をつく。本当に、つくづく彼女は凪咲の想像を遥かに超えるスピードで成長している。これでつい数ヶ月前まで、ただの女の子だったというのが信じられない程。

 

「なんで私の邪魔するのッ! 放っておいてよッ!」

 

 天音は畳み掛けるように槍を続けて二発、三発と打ち付ける。凪咲はその衝撃に思わず膝をつく。

 

「私はッ! 強くならないといけないんだッ! もっとノイズを倒してッ……もっと……もっとッ!」

 

「……そうして強くなって、神代さんはどうしたいんですか」

 

 凪咲の問いに、天音はぴたりと腕を止めた。

 

「どうって……。そんなの……敵を倒すんだよ。だって、私達はその為に戦ってるんだから」

 

「神代さんのなりたかった正義の味方は、そんなものなんですか?」

 

「私が……なりたかった……」

 

「そうです。ただひたすらに敵を倒す。ノイズを倒す。それが神代さんのなりたかった正義の味方なんですか?」

 

「……分からない。分からないよッ! 私が一番守りたかったはずのものが、私の正義じゃあ守れなかったッ! 詩織が敵なら、私は何の味方になればいいのッ! 分からない。分からないよおッ!」

 

 天音は槍を大きく振りかぶる。今までに比べて大振りの構えに生じた隙を狙って、凪咲はアームドギアの形状を拳銃へと変える。

 

「私にも分かりません」

 

「ッ! なら!」

 

「……でも、今はそれでいいじゃないですか。神代さんが悩むなら、私も一緒に悩みます。私も一緒に背負います。だって私は、神代さんの友達なんですから」

 

「凪咲ちゃん……」

 

 槍を持つ天音の腕から少しずつ力が抜けていく。

 

「自称貴女のお姉さんから、あんなに真剣に頼まれちゃいましたし」

 

「お姉さんって……まさか風音がッ?!」

 

「やっと似合わない(しか)めっ面をやめましたね」

 

 凪咲は軽く笑ってみせて、引き金に掛かっていた指を引いた。発砲音。弾丸は天音の横顔をすり抜け、円弧の様な軌道を描きながら地面を穿く。

【影縫い】

銃弾は凪咲と天音、重なった二人の影を綺麗に射抜いていた。

 

「あッ……身体がッ……これ、初めて会った時にされた……金縛りっ……?」

 

「あなたと私の影を銃弾で縫い止めました。もうこれで、槍を振れませんね」

 

「でもさッ……それは凪咲ちゃんも同じでしょ……!」

 

 天音は自信ありげに笑う。術が解けた時、凪咲が狙いを定め直すよりも早く、凪咲を倒すという確信から来るものである。

 

「私の方が早い。今回ばっかりは私の勝ちだよ」

 

「いえ、私の勝ちです」

 

 凪咲は視線を上に向けた。天音もそれに釣られ、目を動かす。

【涙雨】

 まるで雨のように無数の銃弾が降り注いだ。涙雨は、本来対人の技ではない。故に致命的ダメージは望めない。しかし、その威力の低さもこの場ではむしろプラスに働く。

 数多の銃弾がギアにダメージを与えていく。ギアによる物理ダメージへのプロテクトがあるとはいえ、弾丸が当たった柔肌には痛みが走る。目の前の天音も、同じように苦しげな表情を浮かべていた。

 

「痛ッ……自分ごと……撃つなんてッ!」

 

「さぁ、チキンレースと行きましょう。神代さんが根を上げるまで、私は止める気はありませんけどッ!」

 

「めちゃくちゃだッ!」

 

「私の銃弾はもう誰も傷付けない。あなたがそう信じてくれたから、今私は銃を握れるんです。だから私は、今日ここでそれを証明しますッ! そして、今度は私が貴女を信じるんですッ!」

 

 絶え間なく肌へと降り注ぐ銃弾の痛みに意識を刈り取られそうになりながらも、凪咲は正面の彼女を見つめる。お互いに、とうに限界であった。

 

「ハハ……やっぱり、凪咲ちゃんは優しいな……。凪咲ちゃんが友達で……よかった」

 

 天音はそう呟くと、意識を失ってしまったのだろう。彼女は完全に沈黙した。

 涙雨の弾丸が影縫いの弾丸を跳ね飛ばし、二人は金縛りから解かれて倒れ込む。最早体勢を維持する力すら残っていなかったようである。

 

「痛い……。でも、今回は間違えなかった……のでしょうか」

 

 ゆっくりと目を閉じる。意識がゆっくりと朧気になっていく。

 そんな中で風音の言葉がふと浮かんだ。ずっと天音の事だけを想い、心配していた彼女はきっと、天音の中でずっと天音を見ていたのだろう。その姿は、何だか凪咲自身がなりたかった理想の姉のようにも思えた。

 沙波が生きていればこんな気持ちになったのだろうか。

 ――私は、あの子の支えに、なれたでしょうか。

 

「私、あなたの誇れるお姉ちゃんでいられたかな。沙波……」

 

 数年間出していなかった、丁寧語の外れた素の口調。凪咲は妹に問いかけるように、うわ言を呟くと、その意識を闇の中へと溶かしていった。

 

 

 翌日、天音は往来の中心に一人立っていた。お洒落という物には無頓着な天音にしては珍しく、流行り物で揃っている真っ当な可愛らしいコーデに身を包んでいる。

 詩織に、せめてまともな服を着て欲しい。と言われてマネキン買いしたものの、特に出かける事も無く、出かけるとしても殆どの場合、部屋着のパーカーを着てそのまま外出する天音にとっては持て余していた余所行きの洋服である。

 時折、時計をちらちらと確認し、待ち合わせの時間の確認をする。

 

「あっちから誘った癖に……」

 

 凪咲とは十一時にこの駅前で集合という約束であった。しかしながら、あと三分そこらで約束の刻限になろうとしている。

 凪咲から聞いているのは集合場所と時刻だけであり、今日、何をするのかについては全く聞いていない。

 彼女がデートしましょう、などと言うから変に意識をしてしまう。それこそ、普段はしないお洒落に気を遣う程にはである。

 

「ふぅ……間に合いました……って、神代さん、待たせちゃいましたか……?」

 

「ううん、私も今来た所だよ、凪咲ちゃん」

 

 音無凪咲が息を軽く切らしながら天音に駆け寄る。

 

「神代さんのことだろうから、ある程度の遅刻はするだろうと踏んでいましたが、意外です……」

 

「むぅ……失礼な……たまには遅刻しないんですッ!」

 

 天音は頬を膨らませて遺憾の意を示すが、普段の行いが普段の行いなのであまり強く言い返せない。

 ふと、凪咲が黙っているのに気付き、天音は凪咲の顔に目を()る。凪咲は興味深そうに視線を下から上へ、上から下へと動かしていた。

 

「……可愛い」

 

「へっ」

 

「えッ……あっ……ごめんなさいッ! 私、なんで……」

 

「ありがとっ!」

 

 無意識に口にしてしまったらしい言葉に恥ずかしそうな表情を浮かべる凪咲へ、天音は屈託のない笑顔でそう言うと、凪咲へと飛び付くようなハグをしてみせる。凪咲はというと赤くしていた表情をさらに赤くした。

 

「なッ……! 止めてくださいこんな所で! 恥ずかしいですッ!」

 

「えへへ……凪咲ちゃんがデートなんて言うから、なんだかキンチョーしちゃってさ」

 

「デートっていうのは言葉の綾でしてっ! ただ私は神代さんと出掛けたいだけなんですよッ!」

 

「でも、リードしてくれるんでしょ?」

 

 ふふ、と天音はらしくない上目遣いで下手から凪咲に笑いかけて見せる。

 

「行きますよ! そんなに時間無いんですからッ!」

 

 凪咲はふいっとそっぽを向くと、天音の指先を軽くつまみ、手を引いた。

 拗ねたような口調で天音の手を引く凪咲を見つめていると一瞬、風でなびいた髪からちらりと覗いた彼女の耳が、真っ赤に紅潮しているように見えた。

 

 凪咲に手を引かれ、人混みを掻き分けていく。なんだかドラマのワンシーンのようである。そんな妄想に軽く浸りながらも、天音は凪咲が向かっている場所の見当が、おおよそ付いてきていた。

 

「神代さん、少しペース上げます」

 

 そう言って凪咲は天音の手を確りと掴むと、歩く速度を上げる。

 なんだか凪咲が、さながらヒロインの手を引く王子様のように見えてきてしまう。これではまるで歌恋の妄想癖と同じではないか。と、天音は首を振った。ヒーロー願望はあっても、お姫様願望は無い、と今までは思っていたのだが、思いの外こういうシチュエーションにときめく程の乙女さは残っていたようである。その相手が女の子でさえなければ、こんな複雑な気持ちにならないで済んだというのに。

 しかし凪咲が相手だと、このドキドキも案外悪くないと思えた。

 どうも風音が見せていた変な夢が影響しているのかもしれない。あの時は凪咲のフリをして風音が好き放題していた。このドキドキだって、あれの仕業に違いない。

 

「凪咲ちゃんの顔であんな事して……恨むぞ風音……」

 

「私の顔がどうかしましたか?」

 

「何でもないからッ!」

 

「そうですか……。それと、着きましたよ」

 

「映画館……でも凪咲ちゃん、何見る気なの?」

 

「それはですね……」

 

 凪咲はガサガサと鞄の中へ(おもむ)ろに手を突っ込むと、二枚のチケットを取り出した。予めチケットを買っていたようだが、断ったらどうするつもりだったのだろう。

 天音はそんな事を考えながらチケットに書かれている公演名に目を通す。

 

「……これ劇場版うたずきんじゃん。もしかして、私に合わせて?」

 

 これは完全に天音好みのセレクトである。

 凪咲が、落ち込んでいた天音の気分をリフレッシュさせようとしている事は、天音も薄々分かっていた。しかし、そうだとしても、その為に凪咲が興味が無い映画を見せるのは中々に気が引ける。

 否、そもそも布教と称して丸二日間凪咲をアニメ漬けにした天音に、そんな事を言う資格が無いことは重々理解しているが、こればかりは凪咲に気を遣わせすぎて悪いと思う感情が先行してしまう。

 実際、天音の家でアニメを視聴している間、凪咲は表情一つ変えずに画面を見つめているだけであった。

 

「……あっ、いや、それは確かにそうなんですが、私も見たいと思ってたんですよ?」

 

「でも凪咲ちゃん、この間うたずきん見てた時、あんまり反応良くなかった気がしたんだけど」

 

「いや、あれは見入ってしまったと言いますか……。あと、どうだった?と、グイグイ来る神代さんに少し気圧されていたと言いますか……」

 

 天音は「はは……」と軽く笑う。それはつまり、天音が余りにも強く押しすぎた結果、凪咲が萎縮してしまっていたのだ。

 余りの自分のコミニケーション能力の低さに天音は頭を抱える。イマジナリー歌恋が「そんなんだから友達少ないんだよ」と天音を嘲笑っていた。

 

「そ、そうなんだ……。私てっきり凪咲ちゃんが私に気を遣って無理してるのかと思っちゃったよ」

 

「そんな事ありませんよッ! 今日だって、来る前にうたずきんの最新話を見てから来たんですからッ!」

 

 そう熱弁する彼女は、うたずきんが幼女向けアニメだという事実は知っているのだろうか。知っているとは思いたいが、知らないのだとすると、この屈託のない瞳でそう語る彼女には悪い事をしたなぁ、と天音は思う。冷静に考えると、ひどい沼に彼女を落としてしまった。

 

「あっ、そろそろ呼び出しですし、今のうちにポップコーンでも買っていきましょう!」

 

 凪咲は天音の手を引いた。

 

「まぁでも、例え興味が無い映画だったとしても、神代さんと一緒に見られるなら私はそれで構わないんですけどね」

 

 凪咲は小声で呟いた。

 天音は凪咲の方をちらりと見るが、当の凪咲は何事も無かったかのように天音の方へと振り向いて、ポップコーンのフレーバーをどうするかと天音へと尋ねている。

 聞き違いだろうか。恐らく聞き違いだろう。

 

「私はキャラメルがいいな」

 

 天音は先程の言葉を心の隅に追いやり、凪咲の後を追った。

 

 

 ガタンゴトンと音を立てながら、その振動につり革が揺れている。窓から覗く景色はすっかり夕暮れである。真っ赤な陽の光が差し込み、列車の車内は赤く照らされていた。

 天音と凪咲は、丸一日遊び尽くした、その帰路の最中であった。

 

「今日、どうでしたか? 楽しかったですか?」

 

 ちょこんと縮こまって長椅子の端へ座っている天音へ、正面でつり革を持つ凪咲が話しかけた。

 

「……楽しかったよ? 二人で映画見たり、色々な所見て回ったり、珈琲屋さんなんて私初めて入ったし。コーヒーって、私あんまり得意じゃないけど、フラペチーノは結構美味しかったな」

 

「また、こうして出掛けましょうね」

 

 凪咲はにこりと微笑む。思えば、少し前までは彼女とこうして出掛けるなんて想像も出来なかった。そう考えると、名前を呼び合えば友達、と言って彼女と友達になったあの頃よりも、二人の関係は何歩か前進していると天音は思える。

 

「いつか、今度は……詩織も入れて、三人でこうして出掛けたいな」

 

 ぽつりと口から零れてしまった言葉。

 天音はハッとした表情で、凪咲の方へと視線を向ける。しかし、凪咲は先程と変わらない表情で天音へ笑みを向けて、その言葉に答えた。

 

「……そうですね。私もそう思います」

 

 彼女の言葉に嘘は無い。同時に、その願いは叶わないかもしれないという現実も、天音は理解していた。

 しかし、凪咲は天音へ優しい嘘をつく。いつか三人でこうして出掛ける事ができると『信じている』という嘘を凪咲自身に言い聞かせるように。

 

「凪咲ちゃんは、やっぱり優しいね」

 

「そうでしょうか? 私には分かりません」

 

「優しいんだよ。凪咲ちゃんのそういう所、私は大好きだよ」

 

「――ッ!」

 

 凪咲は顔を背ける。表情を隠す凪咲だが、鈍感な天音でも、今凪咲がどんな顔をしているかくらいの想像はつく。彼女が恥ずかしがる顔はとても可愛いのだ。

 

「……狡いです」

 

 凪咲は小さく呟いた。

 

「凪咲ちゃん、何か言った?」

 

「……いえ! 大好き、だなんて誰かに言われたのは久しぶりだったので」

 

『まもなく――』

 

 次の停車駅のアナウンスが流れる。

 

「神代さんッ! 私、今日は宿舎じゃなくて自宅に帰るので、ここで失礼しますねッ」

 

 思いついたかのように彼女はそう言うと、扉へと向かった。

 

「ちょっ、待ってよ」

 

 天音もそれに釣られるように椅子から立ち上がり、彼女を追う。駅へと到着した列車の扉が開き、列車を降りた凪咲の肩へと天音は手を伸ばし、肩を掴まれた凪咲はその足を止めた。

 

「凪咲ちゃん、急にどうして」

 

「こんな顔、今あなたに見られたくない」

 

 天音は凪咲の肩から手を離した。何か彼女に言ってしまったのだろうか、と天音は考えるも、特に思い当たる言葉は思いつかない。

 

「私、なにか凪咲ちゃんに言っちゃった? だとしたら」

 

「そういうのじゃないんです! ただ神代さんが大好きだなんて言うからびっくりしちゃっただけで。嬉しいですッ、嬉しいですよ?」

 

 ただ、死んだ妹を思い出してしまった。という言葉を凪咲は噛み殺し、呑み込む。これを口にしてしまったら、今日してきた全てが振り出しに戻ってしまう気がしたからである。

 凪咲はくるりと天音の方へと振り返ると、いつもと変わらぬ笑みを天音へと向けた。

 

「神代さんが、いつもの神代さんに戻ってくれて良かったです。やっぱり、あなたは笑っている方が素敵ですから」

 

「すてッ……!」

 

 最後、凪咲は揶揄(からか)う様に笑う。天音が初めて見る彼女の顔である。

 

「それに、私だって、大好きですよ? 天音さんの事」

 

「――今、私の名前」

 

 扉が閉まり、天音と凪咲を引き剥がす。

 天音の問いかけを物理的な境界が遮り、天音の言葉は彼女へと届き切る事は無い。天音の頭の中で、凪咲の言葉の残響が繰り返し反響する。

 気づけば、天音はぼうっと窓の景色を眺めていた。

 

「……狡いのは凪咲ちゃんの方じゃん」

 

 天音の中の不安や悩みを易々と吹き飛ばしてみせた彼女の言葉。返答すら許さず、去り際にとんでもない置き土産を残して行ったものである。

 次に会った時、普段通りに振る舞うことが出来るだろうか。

 恐らく凪咲は何事も無かったかのように接して来るのだろう。今日だけでも散々そんな目に遭わされてきたのだ。それこそ、天音だけが変に意識してしまっているようで、気が落ち着かない一日だった。

 故に、時折見せる先程のような一面が天音の心を掻き乱す。天音は深く息を吸い込み、平静を保つ。ちらりと視線を移し、路線図へと目線を向けた。

 

「凪咲ちゃんの家ってリディアンから結構離れてるんだ」

 

 天音は、路線図上に記された凪咲が先程降車した駅を見て呟いた。リディアンから歩いて通える圏内に住んでいる天音からすると億劫な話である。実際には、凪咲は本部の宿舎に住み込みのような生活をしているらしいが、そちらも天音からすればある程度遠いと思える距離だった。

 そんな考え事をしていると、天音はふと、ある事に気がついた。

 

「そういえば、この辺りだっけ」

 

 天音があちらの町へ引っ越す前、つまり、まだ家族がバラバラになる以前に住んでいた町の事を思い出す。

 もう遥か昔の話になるので、記憶も朧気であった。それこそ、少し前までは以前の事などすっかり思い出す事も忘れてしまっていたのだから当然である。

 かつて蓋をしていた過去の記憶。昔の天音からすれば悪い思い出ばかりが残る土地だった。だからこそ、父も気を使って、かつての事を口に出す事は無かった。全てを忘れたように振る舞い、何事も無かったかのように笑顔を作る幼い天音へ、母も、姉の存在も口にすること無く七年間、天音を育てて来たのである。

 列車が駅に到着し、本来天音の降車する予定では無かったその駅のホームへ、天音は足を踏み入れた。

 駅の改札でICカードを通し、どこか懐かしい気もする、しかし知らない町を歩き、進んで行く。行く宛があった訳で無い。しかし、天音はこの土地に、自分がかつて失ってしまった、天音自身を構成する何かがある様な気がした。そんな荒唐無稽な直感が、天音の足を動かしていた。

 好意的な解釈をするなら、所謂(いわゆる)自分探しの旅とも言えるそれは、天音にとってある意味原点に立ち返るものであった。七年以上前の、視点だって今よりずっと低かった幼少期の景色を、朧気な記憶から引き出していく。

 もう夕日も殆ど暮れかかり、空が薄暗くなってきた夏の薄暮。天音はようやくその足を止めた。

 

「ここ、かな……」

 

 古びたアパルトメントが立ち並ぶ住宅街。公園や、近くに建てられた寂れたコインランドリーにも漠然とだが見覚えがある。

 二〇五〇年現在、都市開発も進んで駅周辺には大きな建物もちらほら増えていたが、それでも街には何処かかつての面影が残っているものである。

 何かを期待していた訳では無い。自分の過去と踏ん切りを付けようと足を踏み入れたその土地へ、天音は心の中でさよならを告げる。それは、踵を返し、駅の方へと向かおうとしていた瞬間の出来事であった。

 

「――もしかして」

 

 目の前の人物と視線が交差する。一瞬、心臓が止まるような感覚から、直ぐに鼓動が早まっていく感覚へと切り替る。それは、はっきりと感覚に伝わってくる程の激しい動悸であった。例え記憶が朧気であっても、視線の先に立つ人物が誰なのか、天音には直感的に理解出来てしまう。

 

「風音、なの?」

 

 目の前の人物は天音の顔を見て、亡くした姉の名を呼んだ。七年前と変わらない視線を、彼女は天音へと向けていた。

 

「――久しぶり。お母さん」

 

 神代(かえで)。天音がお母さんと呼ぶ彼女こそ、神代天音の実の母であった。背丈は天音とそれ程変わらず、白い血色の無い肌と、目の下には濃い隈を作っている。そのような血色の悪さに目を取られがちだが、よく見れば天音と年の離れた姉妹に見紛ってしまうかも知れないほどに若々しい婦人である。天音と同じ、その色素の薄い、金髪とも銀髪とも言えない薄いベージュの髪の毛は、短めのミディアムヘアの天音とは違ってすらりと腰あたりまで伸びている。しかし、やはり遺伝なのか天音と同じように癖のついた髪の毛先はピンと跳ね上がり、犬の耳のような弧を描いていた。

 

「風音ッ……! 会いたかったッ!」

 

 母は天音へと駆け寄り、愛しそうに天音を抱きしめる。しかし、彼女が呼ぶのは天音の名では無い。天音が口にした久しぶり、という言葉も、離れていた七年を指す訳では無かった。()()()()()最後に母と向き合ったのは、いつだっただろうか。そんな事を考えながら、天音は瞳を閉じる。

 母は優しく天音の頭を撫でた。天音自身、それが嫌だった訳ではない。天音の事を見ていないとはいえ、それは本物の母の愛情である事は確かだったのだから。かつての幼い天音であれば、風音としてそれを享受する事に甘んじていただろう。

 かつて天音がそうしたのは、風音である事を否定してしまえば、その後に待っているのは錯乱した母からの拒絶と、真っ暗な闇だけだと言うことを知っていたからである。

 文字通り『自分を殺してでも』、天音は母の愛を裏切らない事を選んだのだ。

 

「風音? どうしたの? さぁ、お家に帰りましょう?」

 

 母は黙り込む天音の顔を(かかが)うと、天音の手を引く。

 

「――私は、風音じゃない」

 

 緊張で体をこわばらせながらも、天音は現実を母へと突きつける。それは、かつて最後に天音として母へと向けた言葉と同じもの。もちろん、母がこの言葉を受け止めるなどという期待はしていない。

 

「私は、天音だよ。風音は、もう……いないんだよ」

 

 絞り出すような弱々しい声であった。トラウマからくる反射的な身の震えを必死で抑えながら、天音は己の過去と正面から向かい合っていた。

 

「そう……」

 

 少しの沈黙の後、母は口を開いた。ヒステリーを起こす訳でも、天音の言葉を否定する訳でもなく、それはとても落ち着いた声色であった。

 

「……そうよね。風音は、あの子は……死んでしまったんだものね」

 

 それは完全に予想外の返答だった。天音はそれに驚き、俯いていた顔を上げて、天音の手をそっと離した母の背を見つめる。

 

「えっ、お母、さん……?」

 

 天音の手を引いていた母の足はいつの間にか止まっていて、残った慣性が天音の足を一歩前へと進める。アスファルトを擦る靴裏の音が、やけに耳に残るほどの静けさであった。

 

「こんな私を、まだお母さんと呼んでくれるのね。天音は」

 

 母は――泣いていた。天音は気付けば、母へと抱き着いていた。

 名前を呼ばれたのは、いつぶりだろうか。少なくとも、母が居なくなった風音に執着するようになってからは、名前を呼ばれた事など無かったのではなかろうか。

 

「当たり前だよッ……だって、私のお母さんなんだもん」

 

「でも、私にそんな資格ないわ。今だって、あなたの顔を見た瞬間、風音が帰ってきたんだと錯覚しちゃったんだもの。分かってる筈なのに。私は、今までもそうやって、あなたに悲しい顔をさせてきたんでしょう……?」

 

「悲しい……顔なんて、して、ないよ?」

 

「もう隠さないでもいいの。私は、こんな事にも気付けなかったのね」

 

 母は優しく天音の頬に手を添える。

 

「風音を喪って、私の傍にいてくれた人達の事さえ見えなくなっていたんだもの。本当に何もかも無くなってしまってから気付いても、後悔しても、遅すぎるよね」

 

「――遅くないッ!」

 

 天音は母の手を両手で握る。天音の声に、俯いて天音から視線を逸らしていた母は顔を上げた。

 

「天音……」

 

「私は、またこうしてお母さんと話が出来るなんて思いもしなかったよ? 元の形にはならないかもしれないけど、それでも私とお母さんは、今でも家族な事に変わりは無いでしょ? だから、何もかも無くしたなんて言わないでよ。天音(わたし)は、ここに居るよ」

 

「――ええ。ごめんね……天音。ありがとう」

 

 母の片手を握りしめていた天音の手に、彼女はそっと手を添えると、天音へと笑い掛けた。彼女の視線は、はっきりと天音を捉えている。その事が、天音には堪らなく嬉しかった。

 

 

……To be continued

 

次回は同じく第9話、「誰がために」後編になります。

 

[chapter:用語集その五]

 

 

神代楓 かみしろかえで

 

 旧姓 波多野楓(はたのかえで)。

容姿は一見すると、娘である天音と年の離れた姉妹と見紛う程に若々しい婦人。七年前から目の下には隈がはっきりと出来ており、血色は良くない。天音と同じく、色素の薄い金とも銀とも言えないベージュ色の髪を腰まで伸ばしている。髪の毛の癖は天音と同じで、犬の耳のように髪の先端は弧を描いて跳ねている。

かつて、風音はもう死んだと、天音から告げられ、ヒステリーを起こす。都合の悪い現実から逃避し、度々天音にネグレクトを行っていた。その事が原因で家庭は崩壊。

夫から離婚を切り出され、親権も奪われた彼女は独り、アパートに残り暮らしていた。

 

 

ディーシュピネの結界

 

 アウフヴァッヘン諸々全ての情報を遮断する錬金術による結界。

 

 

劇場版うたずきん

 

 数年前から初夏に放映されるようになった、「怪傑☆うたずきん!」の劇場アニメーション作品。今では夏の風物詩の一つとなっている。劇場では入場者にうたずきんのステッキが配布され、終盤はそれを光らせてうたずきんを応援するのが「お約束」である。

 尚、今回二〇五〇年に公開された本作は「劇場版怪傑☆うたずきん! ミラーランドと奇跡のメロディ」。鏡の国に迷い込んだ、うたずきん達が奮闘する作品である。

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