立花響に救われた少女がヒーローを目指すお話   作:月夜 のかに

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シンフォギア要素全然ない話書いてすいません


EPISODE7 狂恋夢

 

「ごめんなさい! ゆるしてぇ! わたし、いい子にするからぁ! だからここから出してよお!」

 

――いつからだっただろうか。この夢を見なくなったのは。

 

そもそも何故今まで私は忘れていたのだろう。いや、()()()()()()()()いたのだろう。

真っ暗で、何も見えない押入れの中。埃の臭いも恐怖も、身体の痣の痛みも何もかもが、目を閉じれば今でもはっきり思い出せる。思い出せてしまう。

「怖い……イヤだ……」

怖いという感情だってそうだ。何故忘れていたんだろうか。なぜ平気な気がしていたんだろうか。

私は――強くなんかないのに。ヒーローなんかじゃ無いのに。

 

「ここからだしてぇ……だしてよぉ……」

 

「――お母さん」

 

 

[chapter: EPISODE7 狂恋夢]

 

 

(モヤ)が掛かったような意識が晴れていく。けたたましいアラームの音が部屋中に響き渡り、()()()()は目を覚ました。

何故か酷く頭が痛む。昨日最後に何をしていたのかの記憶が無い。目が覚めたというのにまだ夢の中に居るような感覚だった。

 

しかし、そんな事は次の瞬間には頭の中から吹き飛んでいた。アラームを止めてから、部屋の中に響いている音がアラームだけではない事に気づいたからだ。

インターホンを連打する音がリズムを刻んでいた。天音は一瞬聞き入りそうになってしまったが、扉の向こうの主はもうかなりイライラしているらしい。天音は慌てて寝巻きのまま扉へと駆け出した。

 

「ごめん詩織ッ! インターホン全然気付け無く……て、って凪咲ちゃんか」

「なんですか。私じゃ不満ですか」

 

凪咲はあからさまに不機嫌そうな態度を示した。

 

「だいたい、私がこうでもしないと天音さん学校来ないじゃないですか! 本来この役をするべきヒトはハナから諦めてるみたいですし!」

「ホントごめんってばー! 着替えてすぐ出るから!」

「そのセリフ一昨日聞いたばかりです。五分で支度してください」

 

はい、ヨーイドン。と凪咲が手を叩いた。天音は突然の無茶振りに困惑しながらも自室のクローゼットへと駆け込み、制服へと着替えるとリビングに置いてある菓子パンを口に突っ込み、凪咲の前へと戻る。

 

「案外やればテキパキ用意出来るんじゃないですか」

「今日の凪咲ちゃんなんか変だよぉ……」

「そうですか? 私はむしろ天音さんの方が変だと思いますけど」

 

天音はここで先程から感じていた違和感の正体に気づいた。

「それだ! 名前! やっと呼んでくれた!」

「なんですかそれ……。名前で呼んでくれって言ったの天音さんじゃないですか」

「そうだけどさぁ!」

 

それにしてもどういった風の吹き回しだろうか。いや、凪咲にどんな心境の変化があったにせよ、天音にはそれを伺い知る術は無いのだが。

凪咲との心の距離が縮まったと考えて良いのではないか。これまでのスキンシップも無駄では無かったという訳だ。

 

「ちょっ、近いです」

「良いではないか、良いではないか〜♪」

「前々から思ってましたけど、天音さんパーソナルスペース狭すぎるんですよ!」

 

――おや? おやおや?

 

それは天音が想定していた反応よりも心做しか柔らかい反応であった。寧ろ満更でもないような雰囲気すら感じさせる。

 

「凪咲ちゃんすき〜!」

「わわっ! 抱きつかないでください!」

 

凪咲は腰に抱きついた天音を引きずりながらも前進する。

すると突然背後から肩を叩かれ、バランスを崩した凪咲は前方へと崩れ落ちた。叩いた当の本人は後ろでゲラゲラと笑っている。

 

「あはははホントに仲いいなぁお二人さん。もう付き合っちゃいなよ」

 

そう言って二人を茶化しながら面白がっている声の主は歌恋であった。彼女は道端で倒れている天音達をぴょんぴょんと軽い足取りで追い越すと、振り返って屈託のない笑顔を向けている。

 

「ねぇ、私も交ぜてよ」

 

歌恋はそう言うと起き上がった天音にピタリと体を密着させた。普段あれだけスキンシップと言って他人にベタベタしている癖に、いざされる側に回るとあわあわと気が動転してしまう。

 

「かっ歌恋……? 恥ずかしいよ!」

「良いではないか、良いではないか。だっけ? アハハハ」

 

歌恋は茶化すように天音の口調を真似た。

 

「笑わないでよぉ!」

「いやぁ、だってさ。あんまりにも変なんだもん」

 

歌恋は笑い疲れたようで腹を抑えて悶えている。それ程? と天音は首を傾げた。他人の笑いのツボというものはよく分からない。

 

「そんなに変かなぁ……?」

「いや、変っていうより、同じ顔なのに全然違うなぁ……って」

「へ……?」

 

想像もつかなかった返答に天音は虚をつかれたといった様子で声を漏らす。この状況で聞くとは思ってもみなかった単語である。そもそも脈絡が無さすぎて会話として全く成立していないではないか。

 

「歌恋、私のドッペルゲンガーでも見たわけ?」

 

天音からすれば会った事も無いドッペルゲンガーと比べられて、何やら悄然とした態度を取られるなど心外というものである。

しかし、ひとたび歌恋の方へと視線を向けてみれば彼女はそういった意図で発言した訳でも無い様子だった。

 

「ドッペルゲンガー?」

 

歌恋もまた虚をつかれたような様子で天音に言葉を返した。如何にも「何故?」といった様子だ。「何故?」 と聞きたいのはコッチなのだが。

 

「いや、だって急に私と同じ顔の誰かと比べられたもんだからさ」

「アハハ、〝誰か〟って!」

「そうですよ。天音さんと比べる相手と言ったらドッペルゲンガーよりも先にあの子でしょう」

 

歌恋と凪咲のその言葉を耳にした瞬間、天音の身体に殴られたような怖気が走った。そして、今の今まで薄らと感じ続けていた()()()の正体が名前の呼び方などではなく、全く別のものであった事を理解した。

 

〝昨日〟までとは明らかに何かが変わっている。――変えられている。

 

そこまで気づいた時、天音はまるで足元が崩落していくような恐怖感を覚えた。

もう一つ気付いた事がある。

おかしな話ではあるが、〝何か〟を忘れている気がするのだ。それは大切な思い出で、今の天音を形作った宝物のような記憶。

まぶたの裏に焼き付いて、まるで昨日のように思い出せてしまう程の憧れであった筈なのである。

しかし今の天音の記憶の輪郭は、まるでノイズでも掛かったかのように朧げで、不鮮明だった。

今天音の中にあるのは、歌恋たちが今まさに口にしようとしているその名の主こそが、この違和感の中心であるという確信である。

 

「大丈夫ですか? やっぱり天音さん具合でも悪いんじゃ……顔色が真っ青ですよ?」

「ごめん凪咲ちゃん。大丈夫。大丈夫だから」

「天音さんがそういうなら構いませんが……」

「凪咲ちゃんたちは先に行ってて」

「でも……」

「私は大丈夫だから。ちょっと一人にさせて」

「わかりました。でも、本当に無理はしないでくださいね?」

「えへへ、分かってるって」

 

天音は半ば無理やりに捻り出した笑顔を凪咲たちに向けると、彼女たちを見送った。凪咲たちの姿が小さくなっていくのを見届けた時、天音は身体の力が一気に抜けてそのまま膝をつく。

 

――私の知らない()()がいる。日常が侵されている。

 

気が触れたのかと思ってしまうほど受け入れ難いその事実は、紛れもない現実として目の前に存在していたのだった。

 

天音が凪咲たちより少し遅れて教室に到着する。遅れたと言っても少しの差であり、普段のように遅刻をしてしまった訳ではない。教室は授業開始前のざわざわとした騒々しさに包まれていた。

 

「あ、調子は大丈夫? 天音ちゃん」

 

天音が教室に着いた事に気づいた歌恋が天音に声を掛ける。

 

「大丈夫だって。心配性だなぁ」

 

歌恋の言葉に笑いながら返す天音だったが、その視線は歌恋ではなく教室の空席へと向けられていた。その席が空席である事に気づいた瞬間、天音は教室中をぐるりと見渡す。

 

「誰かお探しですか?」

「うひゃあ!」

 

凪咲がひょっこりと天音の背後から話し掛けた。余りにも気配が無さすぎて天音の心臓が一瞬止まったかと思った程である。

 

「な、凪咲ちゃんかぁ。びっくりしたじゃん」

「いえ、天音さんが何やら誰かを探してる様だったので」

「詩織、来てないの? あの子が遅刻してる所なんて、私一度も見たこと無いんだけれど」

 

詩織は天音以外の人間にどう見られるかを極端に気にする子だ。

普段であれば詩織は人一倍早く登校して、今は空席になっている天音の斜め前の机で粛々と自主的に勉強しているのである。

普段、と言っても天音が詩織に起こしてもらって登校していた時にしか実際にその風景を見ていない為、憶測でしかないのだが詩織の性格を考えれば毎日そうしていたのだろう。

しかし、今日は教室の何処にも詩織の姿が見えない。先生に用事でもあったのだろうか? と思案する天音だったが、その考えは凪咲の次の言葉によって粉々に打ち砕かれた。

 

「詩織って――誰ですか?」

 

凪咲ははっきりとそう言った。天音は一瞬、自分の耳を疑った。凪咲が詩織を知らないはずがないのだから。

 

「凪咲ちゃん、また詩織と何かあったの? 冗談きついよー! らしくないなぁ」

 

天音は笑いながらそう返すが、凪咲の顔はどんどん歪に歪んでいく。明らかな困惑の表情であった。天音の言葉が理解できないといった様子である。とても天音には冗談を言っているようには見えなかった。

 

「あの、今朝も言っていた〝詩織〟って誰の事ですか? そんな子は知り合った記憶が……」

「そっ、そんな筈ないよ! 符坂詩織! 私の幼馴染の!」

 

天音は食い気味に凪咲に詰め寄るが、当の凪咲はというと相変わらずの表情である。

 

「やめなって天音ちゃん。どうした訳? 凪咲ちゃんが困ってるじゃん」

「歌恋! 凪咲ちゃんが詩織のこと完全に忘れちゃったみたいなんだよ」

その言葉を聞いた歌恋の表情は凪咲と同じものであった。

「えっと、天音ちゃん? 誰の事忘れてるって?」

「だから詩織だよ。符坂詩織」

「符坂詩織……? 誰、その子。そんな子うちの学年に居たっけ?」

 

歌恋も凪咲と全く同じようにそう答えた。その様子から、この二人が天音を騙すために口裏を合わせている訳では無いと天音にははっきりと分かる。

皆の記憶の中から詩織が居なくなっている。今、この場で符坂詩織の事を知っている人間は天音だけという事である。

つまり、〝符坂詩織という少女の存在〟を証明する事が出来ないという事であり、天音は〝符坂詩織〟というイマジナリーフレンドを現実と混同しているという可能性を孕んでいた。いや、寧ろそうであると証明しているに等しい状況であると言えよう。

 

「ほら……いつも成績は上位で、その席でいつも勉強してた……」

 

天音は震えた声で詩織の席だった空席を指さしながら呟く。

 

「天音さん、ホントに今日はどうしたんですか? 符坂詩織なんて子、このクラスには居ませんよ」

「あはは……そうだよね。変、だよね……私少し頭冷やしてくるッ」

 

天音はいたたまれない気持ちになって教室を飛び出した。

 

「天音さんッ!」

 

凪咲が天音の肩に手を掛けた時、振り返った天音の目から涙が零れ落ちた。

 

「天音さん……」

「ごめん、凪咲ちゃん。一人にさせて」

 

天音は凪咲の片手を振り払う。凪咲は天音に何と言葉を掛ければいいのか分からなかった。

 

学校を飛び出した天音は、ただただ宛もなく街を彷徨(さまよ)っていた。否、行く宛はあったのだ。詩織の家である。符坂家を訪ねれば何か分かるかも知れない。天音はそう考えていた。

しかし、その考えは実行されずに終わる。何故なら天音は詩織の家が分からなかったのである。親友であり、幼馴染である彼女の家がわからない。おかしな話だ。

前述と明らかに矛盾しているが、そもそも天音は詩織の家を知っている。何なら彼女の家で遊んだことだって一度や二度ではないのだ。なのに今は詩織の家の場所はおろか、どんな家だったかすら思い出せない。

――本当に符坂詩織は実在していたのか?

そんな問が頭を()ぎる。それ程までに天音は自身の記憶を信じられなくなっていた。

宛も無く彷徨っていたはずの天音だったが、気づけば吸い寄せられるようにある場所へ向かっていた。天音がその事に気づいたのは、そのある場所にたどり着いた時である。

 

「ここ……」

 

たどり着いたのは小さな公園。

二〇五〇年のこのご時世、公園で子供が遊ぶなんて事はめっきり目にしなくなった。そもそも天音が幼かった頃でさえ、この公園はとっくに廃れて遊具の塗装は剥がれ切っていたのだから。

眼前の遊ぶ子供が居なくなった公園は、雑草が生い茂るただの空き地へと姿を変えていた。ぽつぽつと浮島のように点在している遊具たちが哀愁を漂わせている。

他人が見ればただの荒地だが、天音からすれば此処は詩織との思い出が詰まった公園だった。此処は天音と詩織を繋いだ場所なのだ。

 

 

「神代さん?」

 

――それは七年前、天音がこちらに越して来て間もない頃。山型遊具の上で座り込んでいた天音に、少女が話し掛けた。

彼女の名前は符坂詩織。クラスに馴染めなかった天音に初めて出来た友達であった。

 

「詩織ちゃん……どうしたの?」

「いや、神代さんが一人でこんな所に居たから気になって」

「私ね、ここ好きなんだ。静かで、ここだけ別の時間が流れてるみたいで」

「……ねぇ、私も一緒にいていい?」

「うん。詩織ちゃんは優しいね」

 

詩織は天音の隣に座ると、天音の肩に寄りかかった。

 

「神代さんがここに座っているのを見た時ね、最初は独りで泣いてるんじゃないかって思った」

「どうして?」

「だって神代さん、その……クラスで嫌がらせされてるでしょ……? なのにみんなの前では顔色ひとつ変えないでいるから」

「だからこうして一人で泣いてるのかもって?」

「……うん」

 

思い返せば詩織との出会いもこうしてクラスで独りにしていた天音に、詩織が声を掛けてくれたからであった。クラスメイトから嫌がらせを受けて孤立していた天音に、詩織は「大丈夫?」と話し掛けてくれたのだ。

普段クラスの人気者の詩織はクラスの除け者の天音の事など相手にする事は無かったが、ある日の放課後、彼女は独りで机に座っていた天音に声を掛けた。

一人で居ることも、除け者にされる事も慣れていた天音だったが、初めて投げ掛けられたその優しい言葉に救われたような気がした。二人きりの時だけ天音に見せる詩織の顔は、普段のそれとは全く違っていて彩やかなものであった。

 

その日から、放課後は二人が一緒に居られる特別な時間へと変わっていったのだ。

 

「私もここ、好きかも」

 

詩織が呟く。

 

「何だかさ、こうしていると放課後の教室みたいだね。私と詩織ちゃんの二人だけの場所」

「私なんかが居てもいい訳?」

 

「詩織ちゃん()()()いいんだよ」

 

 

「――詩織」

 

天音は誰もいない公園でぽつりと呟いた。

こんな場所に詩織が居るはずも無いのに何を期待していたのだろうか。そもそも、小学校を卒業してからはこの公園に来ることはめっきり無くなってしまったというのに。

天音はコンクリートで出来た山の上に登る。子供の頃は巨大な隠れ家の様に感じていたその山型遊具は、今になってみればこんなにも低かったのかと思えてしまう。あの頃から頭一つ分高くなった視線で望む景色はあの頃とは全く違うように見えた。

 

「天音さん?」

 

背後から天音を呼ぶ声がした。

 

「詩織?」

 

天音が振り返った視線の先に居たのは凪咲であった。凪咲は不服そうな顔を浮かべている。いかにもムスーッという擬音が似合いそうな顔だ。

 

「今日で二回目ですよ。勘弁してください別の女の子と勘違いするのは」

「何それ嫉妬?」

「嫉妬じゃないですー!」

「で、凪咲ちゃんはどうしてここにいる訳?」

 

天音は強めの口調で凪咲に問い詰める。

 

「それは……天音さんが心配で」

「それでずっと尾けてたと」

「……ごめんなさい」

「別に謝らないでもいいよ……私こそ急に学校飛び出してごめん。学校戻らないとね」

 

天音が踵を返した時、何故か凪咲は立ち止まったまま天音の袖をきゅっと掴んだ。天音はその事に驚いてしまって凪咲の方へ振り返る。

 

「……な凪咲ちゃん?」

 

「天音さん。学校、サボっちゃいましょうか」

 

 

 

凪咲の提案を受け入れた天音が、凪咲に連れられてやって来たのは音無と書かれた表札の前。要するに凪咲の家である。

 

「なんで凪咲ちゃんの家?」

 

「天音さん、今日は体調が優れないようでしたので。一日くらいゆっくりしていってもバチは当たりません」

 

天音は凪咲にされるがまま家の中へと連れ込まれる。一人暮らしをするには広いマンションの一室。天音は凪咲に促されると、用意された椅子に腰掛けた。

 

「コーヒー駄目なんでしたよね。お茶でいいですか?」

 

――そこまでは覚えている。

 

「ねぇ、なんでこんな事になってるわけ?」

 

お茶を飲んで一息ついた後、特にすることも無かった天音達はそのまま流れに流される形で凪咲の部屋に移動した。そこまではいい。

 

ところが今、気がつけば天音は凪咲によってベッドへと押し倒されていた。

 

あまりに急な出来事に天音の思考回路は完全に機能を停止している。

 

「天音さんが悪いんです」

 

凪咲は両腕で天音の手首を押さえつけると、そう言って天音の首筋へと顔を寄せる。

 

「凪咲ちゃん! やっぱりおかしいよ」

「おかしいのは天音さんです!」

 

凪咲は叫んだ。

 

「詩織、詩織って。今日天音さんはその詩織って人のことばっかり。誰なんですか詩織って」

「……私の大切な人」

「――私じゃ、駄目ですか」

 

天音の手首を握る凪咲の手に、ぎゅっと力が入るのを天音は感じた。

 

「凪咲ちゃん?」

「私じゃあ……駄目ですか……?」

「それってどういう……」

「私が全部忘れさせてあげます。何もかも」

 

天音の視界が徐々に歪んでいき、凪咲の言葉が幾度も反響する。まるで催眠術にでもかかったかのような感覚に陥る。何も思考が出来ない。

忘れるとはどういう事なのか。

 

「天音さんはもう何も考えなくていいんです」

 

凪咲の唇が天音の唇に触れる。天音の頭は真っ白だった。もう思考を巡らせる余裕など全く残っていない。仄かに口内が甘く、何故かそれが心地よかった。凪咲の舌から天音の唇へと、一筋の蜘蛛の糸のような唾液がトロりと滴る。

 

「なぎさ……ちゃんッ」

 

「ほら、()()するのは止めて全部忘れちゃいましょう?」

「何言って……んッ」

 

凪咲の指先が天音の下腹部をスルスルと撫でるように下りながら下着へと潜り込む。秘部へと触れた指先を動かす度に、くちゅくちゅと粘度のある液体が立てる音が聞こえる。

そして擦れた指先から身体に伝わっていく快楽に天音は堪らず声を漏らした。

引き抜かれた指先からは天音の艶やかな体液が重力に引かれて糸を垂らしている。

 

「身体の方はもうこんなになっちゃって。案外満更でも無いんじゃないんですか」

「凪咲ちゃッ……やっぱりこんなのやめッん……!」

 

凪咲は再び天音の唇を奪った。ちゅ、ちゅぷ、ちゅ……と音を立てて、唇を重ね合わせる。

 

「んちゅ……ん……ちゅ……」

「んっ……んふぅ……」

 

凪咲の舌が天音の口内を這うように潜り込み、天音は応えるように舌を絡めた。互いの唾液が混じり合う。互いが溶け合って、混じり合うような感覚。もはや何を拒んでいたのかすら思い出せなくなってしまった。

 

「凪咲ちゃ……」

「……何もかも受け入れて、私と気持ちよくなりましょうよ」

 

凪咲の姿をした『それ』は、恍惚な表情で朦朧とする天音に語りかける。

 

(ワタシ)なら天音を痛みからも、悲しみからも、恐怖からだって救ってあげられる。幸せにしてあげられるんです。だから――風音(ワタシ)を受け入れて」

 

 

音無凪咲は目の前の状況に困惑していた。

一見すると普段と何一つ変わらない始業前の教室。しかし、今凪咲の目の前で神代()()()()()振舞っている人物は、凪咲の知る神代天音では無かった。天音の名を語り、天音のように振舞ってこそいるが、一度彼女と対峙した凪咲は彼女が神代天音ではない事を知っている。

「どうしたの? ()()()()()

風音と名乗ったその少女は天音の口調を真似て、凪咲へと語りかけた。

 

「やめてくださいッ」

 

凪咲は耐えきれず声を荒らげる。

 

「その顔で……その声で……! 私の名前を呼ばないでくださいッ!」

 

 

――それは昨日、メロディア・ロア・フエンテによる研究施設襲撃事件へと話は遡る。

凪咲が目にしたのは血の泉に伏す神代天音と、高笑いを上げる白髪の少女の姿であった。

絶望的な光景をただ眺める事しか出来ない凪咲だったが、メロディアが天音へとトドメの一閃を振り下ろした瞬間、天音の様子に異変が起こった。

メロディアの剣はブリューナクのアームドギアによって弾かれ、まるで人が変わったかのように冷たい目を天音は少女へと向けていたのだ。それはまるで人を殺す事をも厭わないような残忍な瞳であった。彼女からは凪咲が今まで見てきた神代天音の優しさなどというものは全く感じられなかったのである。

 

「あなたは……()ですか」

「私はカザネ。――神代風音」

 

凪咲の眼前の少女はそう名乗る。彼女は神代天音とは全く違う異質の空気を漂わせていた。

 

「アームドギアが出せたくらいで調子に乗らないでッ!」

 

体勢を立て直したメロディアが再び剣を振り下ろす。しかし一閃を風音は槍の穂でいなし、その穂先はメロディアの首筋を捉えていた。

 

「そんなッ、有り得ないッ! さっきまでと全然」

「天音を傷つける奴は誰であろうと容赦しない」

 

黄金色に透き通った、しかし光の宿っていない瞳をメロディアへと向けながら、風音は槍を振り翳した。

 

「ここで死ぬ訳にはいかないのよッ!」

 

メロディアはクレイブソリシュの羽織を脱ぎ捨て、風音の視界を遮った。

 

「これで勝ったと思わない事ねッ! 今回は少し油断しただけなんだから!」

 

少女はそう言い残すとテレポートジェムを叩き割り、姿を消した。

 

 

「神代さんの身体を好き勝手しないでください」

 

「ワタシも神代さんだよ? ()()()()。それに今はワタシが〝神代天音〟なんだから、ワタシの身体をワタシが好きなようにしちゃいけない道理なんて無いはずじゃあないかな?」

 

風音は凪咲を嘲笑うように言葉を返す。

 

「天音ちゃん。腕の怪我大丈夫?」

 

歌恋が風音に声を掛けた。

 

「大丈夫、だいじょーぶ。ワタシはこの通りピンシャンしてるよ」

「……あれ? 天音ちゃんカラコン入れたんだ」

「そうそう。やっぱり変だよね……ワタシなんかが」

「ううん、可愛いと思う! 天音ちゃんオシャレとか全然興味ないと思ってたから意外で」

「じゃあ今度一緒にモールでも行こっか」

「じゃあ今度の休みにでも!」

 

〝神代天音〟として歌恋をあしらった風音は凪咲の方を向くと、小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。

 

「今ワタシは〝神代天音〟なんだよ。違うと思っているのはあなただけ。誰もキミの言葉なんて信じない」

「何が目的ですか。神代さんはどうなったんです」

「天音なら私の中で眠ってるよ。それと、目的を持って生きている人間の方が少数じゃないかな?」

「なんでアナタがここに居るのかの理由くらいある筈でしょう」

 

風音は大きく溜息をつく。

 

「そもそもそれをワタシに聞くこと自体がナンセンスなんだ。この現状は全部、天音を含めたキミたちの選択の結果なんだから」

「どういう事ですか……」

「ワタシが裏からどれだけあの子の事を守っても、いつかは限界がくる。現にあの子は()()()()()()()()()。キミ達が天音を壊したんだよ。音無凪咲」

 

「私がまた……いえ、ずっと神代さんを追い詰めていたというのですか……?」

「あの子自身は本心からキミの力になりたいと思っていたみたいだよ。でも、その為にあの子は色々な感情に蓋をしていた事に誰も気づかない」

 

 風音はそう言い残して凪咲の元を去った。

 

 

「どうかしたわけ?」

 

時刻は昼過ぎ。符坂詩織は目の前で項垂れている凪咲に話し掛けた。

 

「ふぇ、何ですか」

「何ですかって、今日ずっとその調子じゃない。天音と何かあった?」

「そう見えますか?」

「そりゃもう。最近はいつも天音にべったりくっ付いてたじゃん」

 

数秒間の謎の沈黙。凪咲の顔が完全にフリーズしていた。そして徐々にその顔に恥じらいの色が浮かぶ。凪咲の顔は真っ赤に茹で上がっていた。

 

「えっ……なっ、ち、違いますー! あれは神代さんが私に寄ってくるからで、わっ私は別に」

 

凪咲は慌てて言い訳を並べる。しかし詩織はそんな凪咲にジトっとした目線を向けていた。

 

「天音ってさ、人懐っこいように見えて案外自分からは人に寄って行かないんだよね」

「なっ……それじゃまるで私が神代さんに擦り寄ってるみたいじゃないですか!」

「だいぶ前からそうだよ。自覚無かったの?」

 

どうやら凪咲はどうしても自分が天音へと寄って行っている側だという事を認めたくない様子だった。

しかし、詩織からすると今更その辺りを取り繕ってもどうしようもないといった印象である。誰がどう見ても既に手遅れだ。

 

「私の事はどうでもいいですからッ! それよりもです符坂さん」

 

無理くりに話を逸らされた。

 

「神代さんに何か違和感というか、変わったって思う事ありませんか?」

 

その言葉に詩織は一瞬心臓が止まったような感覚だった。額を脂汗が流れているのを感じる。

悟られた? いや、そんなはずは無い。

詩織は自分の心境を察されまいとする。生まれてこの方、ずっとこうしてきたのだ。慣れたものである。

 

「いや、特に何も感じないけど。何年の付き合いだと思ってんの」

 

そうだ。何も無い。何も無かった事にすればいい。そうすれば天音は少なくともまだ〝私の天音〟であり続けてくれるのだから。

たとえ天音が自分以外の人間と一瞬に下校するようになっても、歌恋と二人きりでショッピングに出かけたって、天音は()()()()()()()()()のだから。

天音にとって自分は特別であるという絶対的な自信が彼女にはあったのである。

 

「そうですか……。すいません変な質問をしてしまって」

「何なに? ワタシの話してた?」

 

二人の間にひょっこりと風音が割り入る。

 

「なっ、してません! 断じて()()()の話なんてしてませんから」

 

凪咲は釘を刺すように強めの口調でそう言い放ち、風音を睨みつける。

詩織はというとそれを不可思議そうな目で見つめていた。つまりは、――それどういう感情? という目である。

やはり喧嘩でもしたのだろうか。

 

「ねえ天音」

「それよりもさ!」

 

風音は詩織の言葉を遮る。

 

「ちょっと二人きりで話したいことがあるんだけど」

 

風音が詩織の手を引く。

 

「ちょっと、天音?」

「符坂さん」

 

凪咲が詩織の手を掴んだ。

 

「ちょっと、何のつもり?」

「それはこっちの台詞です」

「フフ、凪咲ちゃん嫉妬でもしちゃった?」

「嫉妬じゃないです」

 

少し不快そうに真剣なトーンでそう答える凪咲に対して、相も変わらず風音は茶化すような態度を取り続ける。

 

「そうピリピリしないでよ。ワタシの邪魔さえしなければワタシは今まで通りの天音(わたし)で居てあげるんだからさ」

 

 

もう生徒の中でも知らない生徒も多くなってきているが、リディアン音楽院の校舎は二代目である。廃校となっていた校舎を買い取ったものであるが、旧リディアンと比べて広大な敷地を有する新校舎は教室として利用されていない場所も少なくない。

詩織はそんな今はもう使用されていない棟の踊り場に居た。

 

「で、こんな所に呼び出してまで話したいことって何?」

「詩織さ、私に隠し事してたでしょ」

 

風音は真剣な眼差しを詩織に向けてそう言った。

 

「え……そ、そんな事」

「あるよね」

 

それは疑問を口にしたのでは無い。はっきりとした確信を持った言葉であった。

 

「あ……あまね……私は」

 

――繕わなければ。何か。このままでは何もかも壊れてしまう。すべて失ってしまう。

友情も、信頼も、積み上げてきた何もかもが。今までと、これからが壊れてしまう。

しかし、言葉が出てこない。それは詩織にとって初めての経験であった。どうすればいいのか全く分からなかったのだ。

 

「ねぇ、私が虐められている時どんな気持ちだった? 可哀想? それとも何もしてあげられない事への罪悪感?」

 

彼女は俯く詩織へと顔を近づけてこう続けた。

 

「今安心したでしょ」

 

心臓を掴まれているような感覚だった。

 

「違うよね。むしろ逆だったんじゃないかな?」

 

何か――なんでもいい。何か繕う為の言葉は無いものなのか。心臓の鼓動が段々早まっていく。呼吸も上手く出来なくなっていた。

 

「いつから……」

 

「んー、初めから……7年前からかな? 」

「初めから……?」

 

つまり天音は最初から知っていたのだ。知った上で、友達になろうと言った詩織の手を握り返してくれたのだ。

死ぬまで赦される事など無いと思っていた罪を知って尚、彼女は詩織の友である事を望んでくれたのである。

 

その事に気づいた時、詩織は絶望した。

目の前が真っ暗になるような感覚である。それは先程までの今までの関係が壊れてしまう恐怖では無い。そもそもそんなモノはとっくに壊れてしまっていたのだ。

今の詩織を襲っていたのはそんな天音を裏切っていた自分への嫌悪と、罪悪感である。

 

「ごめん……なさい……私、天音にずっと嘘ついてた……ッ!」

 

嗚咽で言葉を詰まらせながら、詩織はただ浮かんだ言葉をたどたどしく口にする。

 

「私ッ!――天音が好きッ! 好きなの! 世界の誰よりも!」

 

口にしてしまった。ずっと胸に押しとどめていようと決めていたその言葉を。

しかしもう隠し事などしていても意味が無い。その思いが背中を押していた。

 

「知ってた」

 

彼女は一言そう言った。

 

「――ありがとう。私を好きになってくれて」

「天音……ッ! 私……わたしッ……」

 

思いが通じた。七年間押し留めていた思いが報われたのだ。

 

「でも――」

 

刹那、身体に軽い衝撃を受ける。宙を舞う感覚。詩織の視界には天井が映った。

詩織には何が起こったのか分からなかった。天井がどんどん遠ざかり、目の前にいた天音は手を伸ばしてもどんどん遠ざかっていく。

 

「――ワタシは大嫌いなんだよね」

 

符坂詩織が最後に見た光景。それは今まで見た事の無いような、冷たい彼女の視線であった。

 

 

to be continued

 

 

 




次回!天音と詩織の間の関係に一先ずの決着!
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