扉をノックして、向こうから出てくれるのを待つ。
二年前の二の徹は踏まないようにするということは当然ながら、キオが階段を降りるのをわざわざ待つよりも、こうする方が最適だと気づいたのはつい半年ほど前のことで、アオバは今まで階段下で待っていた自分が馬鹿みたいだと自嘲する。
扉を開けたのはキオだった。扉を開けるため前屈みになっているからか、すっかり長くなった髪が、ふわりと大きく揺れる。
「訓練、お疲れ様」
「そっちこそ。見張りお疲れ」
キオの首に引っかけるようにかかっているタオルは白いままだけど、アオバのズボンとベルトに挟まれたタオルはすっかり汚れて黄色くなっている。
やはり、キオの身長は伸びた。ほとんど真っ直ぐアオバと向き合えるぐらいには高くなっており、少しだけアオバは、他の大人たちよりも低めである自分の身長が恥ずかしくなる。
キオと一緒に操作室へ入る。
見る限りアリスの姿はなかった。もしかしたら先に部屋を出ているのかもしれない。
ふと、キオが壁に貼りつけられたカレンダーを見ていた。今日の日付に赤い丸がされている。
それをアオバ自身の口から出すのは気が引けたというより、少し恥ずかしかった。
キオが椅子に座りながら語りかけてくる。
「それと、お誕生日おめでとう。今日で十八歳……だったっけ?」
「ん。ああ、ありがとう。そう、今日で十八」
わざとらしくかぶりを振って、アオバは答える。期待していないふりができていたかどうかは自分では確かめられないが、顔が少し熱くなっているのを感じていた。
「ありがとうキオ。覚えていてくれたんだ」
カレンダーの印を見て見ぬふりして、カレンダーに背を向けるようにして床に座りこむ。
気がつけば……それこそいつの間にかアオバもすっかり、子供っぽいところはすっかり薄くなって、体つきも顔つきも、大人っぽくなっていた。
横目でアオバは、鞄に手を入れたキオを見つめる。
……キオも長い髪が、幼さではなく似合っているように見えた。頬にあった赤みはかなり薄れたけどまだ残っている。ハーフだからなのか背丈もすらりと伸びて、腕と足も指も、子供のような丸っこさはなくて、かといって丸みが完全になくなったというわけではない。
キオがこっちを向く寸前に、そっぽを向いて目が合わないようにする。
昔から知っているキオだからそういうことは思わないと信じていた節はあったのだろうけど、どうやらそんなことはなくて、むしろさらに強く思うようになっていた。
悪いわけではないけど、アオバは変なところで気恥ずかしさを感じてしまう自分自身を恨めしく思う。
キオが椅子から腰を浮かす直前に、ガチャリとノブが開かれる音がした。
思わず操作室の扉へ視線を向けたが、そっちの扉は開いていない。ちょうどそれに合わせて、キオが取り出したものを慌てて鞄に入れる音が聞こえるけど、アオバは聞かなかったことにする。
次に顔を向けたのは操作室の扉とは反対――訓練室の扉だった。
見慣れた白衣と青いシャツが、ちょうどアオバに背を向けて、訓練室の鍵を閉めている。
今日はその下に細いデニムを履いて、足先にはスリッパがつっかけられていた。
……去年よりアオバの苦手意識が強くなって、なるべく顔を合わせてこなかった。
「おや少年。来ていたのか」
「ええ。来ていましたとも」
そっぽを向きながら、アオバはなるべく冷たくならないよう返事する。
「いつもご苦労なことだ。君のウサギぶりは特筆するべきものだな」
アオバの苦手意識は知ってか知らずか、アリスはその口調も偏った形容も、全く変わらない。強いて言えば皺が少しばかり増えたぐらいだが、いちいち指摘する必要も理由もない。それに、そのことを指摘するならアオバの母親だって、最近になって白髪が隠せなくなってきたり腰を痛めたりしている。
……隠すことが多くなったなとアオバは思う。
そんなことはどこ吹く風で、アリスはキオの後ろまで歩み寄ってからその肩に両手を置いた。
「どうだ少年。すっかり美人になっただろう?」
不意を突いた言葉に驚いて、ビクリとアオバの肩が強ばり、キオが顔や唇を震わせた。
アリスが言っているのは間違いなくキオのことで、そんなことをつい今し方、アオバも思っていた。
「……」
何か答えを返そうと口を開いたが、しかし熱くなったアオバの頭から、そのための言葉は全然出てこない。
思わずまじまじとそちらを向いていたからか、アリスの下でキオが顔を真っ赤にしながらもじもじと肩を揺らしている。
アリスの言うとおり、キオはとても可愛い……それはアオバも賛同できる。だからといってそのまま口に出来るほど、アオバの肝は据わっていなかった。
何か上手くフォローできる言葉を探そうとするが、一向に空回りするばかり。
素知らぬふりでアリスはカレンダーに目を向けて、少し笑みを浮かべながら、ああ、と小さく声を出した。
「さて少女よ。先ほどのデータをまとめてみたが……」
機転が利くのかどうかは知らないが、アリスは話題をそらしてキオに話しかけ、アオバにとってはちょうど良い塩梅で、話題の蚊帳の外へ出された。
その間に気づかれないよう深呼吸したアオバは、性懲りもせず、ばれないように顔を前に向けたまま、キオへ目だけを向ける。
可愛いと、思った。
それ自体は本当であり、すっかりアオバは一人の女性としてキオを見ている……それは否定できないことだし、むしろそうでない自分を想像できないだろう。
だが今も、キオの首にそれが巻きついている。首の後ろからケーブルが伸びていることも紛れもない事実だ。きっとこうしている今も、ケーブルを通じてキオは動力を受けて、動いているのだろう。
一年前からそのことを知っていても、しかし未だに信じられないことだった。
機械なら成長なんてしない。機械ならあんな風に笑わない。機械なら可愛いと言われてもじもじと恥ずかしがることなんてしない。機械なら……。機械なら……!
そんな思いばかりがいくつも募っていくが、キオが機械ではないことを証明することなんて、直接確かめたわけでもないアオバができるわけもないし、同時に、キオが機械であることの証明にはならなくても、一年前のことだけは未だに、アオバの記憶にしっかりと刻まれている。
結局そのどちらを信じればいいのか、アオバにはわからなかった。
考えている途中でアオバはため息を吐いて、答えを見つけることをやめる。
どちらかが明確になることは確かに、今抱いている疑念は解消できるという意味ではすっきりするのだろうけれど、しかしその答えによって、アオバはどんな思いを抱いて、どんな行動を起こしてしまうのか……それこそアオバ自身でも想像できないことだった。
なら答えなど知りたくはない。このもやもやとした暗澹は拭えなくとも、今そこにキオが居ることは変わらない。
すっかり肩を落として床を見つめる。しかし一組のスリッパが目の前に並んで、見上げた。
アリスが、火のついていない煙草を口に咥えながらアオバを見下ろしていた。
アリスがいつも浮かべている表情。感情という感情は読み取れず、ただぼーっとしているだけとも哲学的な命題に悩んでいるとも思える、力の入っていない表情。何を思っているかすらもわからない不気味さが滲む。
気がつけば、キオは操作室からいなくなっていた。
「キオは?」
「訓練室だ。部屋にある端末で、訓練の成果というものを計算しているところだろう」
「それ、アリスさんが伝えてあげるべきことじゃ?」
「敬称は不要だ。アリスと呼びたまえ」
アリスはポケットからライターを取り出して、煙草に火をつける。
そして白い息を吐いて煙草を指で挟み口から離して、アリスは唐突に述べる。
「こんな言葉がある――『人間は極めて複雑な機械である。人体は自ら
アオバは一度だけアリスを見上げて、しかしすぐに視線を逸らした。
……またもアリスは、アオバの考えていることをなぞるような言葉を告げた。読心術かとすら思えてしまう。
そんな思いを押し殺しながら、アオバはなるべく話題がすぐ終わるような言葉を選ぶ。
「珍しいですね。童話のこと以外を喋るなんて」
「私だって童話だけしか頭にないわけではない。夢見がちな少女であることは否定せんがね」
自分に対する皮肉なのだろうか? 微笑を浮かべるアリスに対して、結局アオバは何も反応できない。
不意に顔から笑みを消したアリスが、手近な椅子に腰掛ける。
「話題を変えるが、少年よ」
「……なんですか」
いつもと同じく平坦な口調だが、真っ直ぐ見つめてくる視線に、アオバは姿勢を変えた。
「前々から集めてはいたんだがね。ようやく、キオの行動範囲をある程度まで広げられる量のケーブルが集まった」
「どうりで最近の荷物が重いと思ったら……それで、ある程度、っていうのはどこまでです?」
アオバが言っているのは回収班の話だ。午前は運ぶ物を見つける作業で、午後は荷物を運ぶ作業。当然ながらこの地下に持ち帰る荷物をアオバだって背負うし、その重みだって常々実感している。
気怠そうな反応を装いこそしたが、内心で喜んでいる自分を抑え込むのに必死だった。
今の今までキオの行動範囲は決して広がらなかったことに加えて、おそらくキオ自身が一番辛い思いを抱えているだろうことも表に見せないからか、それをいつも見てきたアオバも収まりきらない思いがあったのは嘘ではなかったし、少しでも広がればキオも笑顔を見せてくれるのではないかと思うことは、間違いではないはずだ。
それを察したのか無視しているのか、とにかくアリスは表情を変えないままに話を進める。
「立坑での見張り、明日にでも二人で行ってくるといい」
「それは……」
機械的で事務的なアリスの言葉遣いでも、それを聞いたアオバの中ではただならぬ感情の波が巻き起こっていた。できることなら……もし目の前にアリスがいなければ、アオバは嬉しさの余りに叫んでしまったかもしれない。
現に、口の端がつり上がっていくのを隠しきれなかった。
豹変したアオバの表情を見たからなのか、アリスもにわかに頬を緩めて言葉を続ける。
「ケンジと当番の者へは私から言っておこう。私からの誕生日プレゼントだ」
「!」
はやる気持ちが、アオバに言葉にならない声を溢れさせた。
アリスがくすくす笑って、思わず自分の恥ずかしい姿を見せてしまったことに気づいて、そっぽを向く。
しかしこれに限っては開き直ってもいいと思っているし、アリスもそれを咎めないだろう。
「……はい。ありがとうございます」
醜態を晒してしまった恥ずかしさに堪えながら、アオバは遅れて返事をした。