虹の彼方に、フェアリーテールの祝福を   作:在田

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 ハサミが開閉を繰り返し、その度にキオの明るい茶髪がぱらぱらと床に散らばっていく。

 ハサミを握っているのはアリスだった。

 キオは椅子に座り、散髪用のシートを首に巻きつけて、真正面にある鏡を覗きこむ。

 鏡の中の自分が、三年前に目覚めた時の――髪が短かった時の自分と重なる。

 そして、アオバに見せられた写真の中に居た、自分ではないかもしれない自分の髪型とも……。

 

「もう少し、長いままにして」

「ほう。長い方が良かったか? あまり長すぎると装置に絡まりかねないぞ」

「わたしは、長いとか短いとか……どっちでもいいかな」

 

 キオの言葉は一見して、矛盾していた。どっちでもいいと言っておきながら、どっちかであると受け取られる要望をする。

 

「なるほど。では君の髪は、君自身はこだわりを持っていなくとも、何かこだわらざるを得ない理由がある、ということか」

「そうかも。他の人に、良いって思ってもらえるのが一番だから」

「それは都合が良いからかね? それとも、それを見て喜んでもらえることそのものかね?」

 

 キオの脳裏をアオバの顔が過った。思わず髪をいじろうとして動いた手が、シートに当たってから元の位置に戻る。

 

「……どっちでもいい」

「嘘をつくと鼻が伸びるぞ」

 

 キオが見つめる鏡の中で、アリスがキオの頭を見下ろしながら、幸せそうに笑顔を浮かべた。

 

「髪は女の命とも言う。長く伸ばしていたら王子様がそれを頼りに塔を登ってくることもある。短く切っている私が言うのもお門違いだろうが、そう易々と他人に委ねるものではないぞ」

「わかってる」

 

 そこでキオは、にわかに浮かべていた笑みを消して、静かに話題を変える。

 

「ねぇ、お母さん」

「アリスと呼びたまえ。それ以外の呼び名は認めていないと、何度となく繰り返してきたはずだ」

 

 キオの耳元でハサミが大きく音を立てて髪を切り落とした。

 キオは一度視線を落として、床に散らばる自らの髪を眺め――しかし再度、鏡の中を見つめる。

 

「いえ、アリスは、あなたはわたしの、お母さんだから」

「少女よ。君は私によって生まれたと言いきれる確証はあるかね? 確かに君をこの世に生んだのはこの私だが、それは私の言っている嘘ではないと、君は言いきれるかね?」

「二度も生んでくれた……最初は人として、次は今のわたしとして。調べればわかるんでしょ。この目だって、お母さんとよく似ている」

「口元だって似ているさ。爪の生え方も私とそっくりだ。だがそれは確証ではない。そして調べればわかることを知っていても、君は調べることができない。違うかね?」

 

「それでもわたしは、お母さんがわたしを生んでくれたというその言葉を信じるし……それ以外は、いらない」

「随分と非科学的なことを言う」

 

 喋りながらも、アリスの手は動き続けている。ちょきちょきと音を立てるハサミが、キオの頭の周りを動き回って、頭がだんだん軽くなっていく。

 一度アリスを振り返ろうとして動いたキオの頭を、アリスは抑えて再び前を向かせた。

 

「お母さんは、わたしを思いやってくれた。それは思い入れがあるからではないの?」

「それが科学者としての義務だと言ったらどうだ? 君という精密機械の集合体もなかなかあるものではない。メンテナンスは必要だ」

「いいえ。思いやることは、義務なんかじゃではできない。思いやるような行動はできるかもしれないけど、思いやることそのものは、嘘なんかじゃできない」

 

「まるで、君が私の気持ちを知っているかのような発言だな」

「だって、わかるもの」

「……」

 

 そこで、アリスの手が一度だけ止まった。

 しかしそれを隠すように、少し速いペースでハサミが髪を切っていく。

 

「ねえ。お母さん。気持ちが外部にあるなら、人間は空っぽだ、って、言ってたよね」

「ああ」

 

 一年前のことだ。アオバと一緒に河へ向かおうとして、失敗して、キオはそこの記憶を綺麗さっぱり失ってしまった。その時にアリスが言ったこと。

 

「気持ちはちゃんと内側にある。人間は空っぽなんかじゃなくて、たくさんのことが詰まっている。わたしはそう信じている」

「ならば外部から気持ちの介在しない情報が内部に入ったとして、そこから気持ちを導出する媒体とは、一体何だ? それは人のどこにある?

 私は君の体の中身を余すところなく見通し、その部品の一つ一つに至るまで把握している。それでも、そんなものがあると言い切れるのか?」

 

 キオはそれを言うのを躊躇った。それこそ非科学的だとアリスに言われかねないことであり、確証などというものは一切ないことだった。

 

「目に見えないもの。そして目に見えないところ。

 わたしの思いは、誰かに伝わるわけじゃない。だからお母さんにも、見えないし、伝わらない……伝えたいと思っていても」

 

「先ほどまで私の気持ちを知ったように語っていたが、それとはどう違う?」

「伝わる時と、伝わらない時がある。伝えたいから伝わるわけじゃないし、伝えたくないから伝わらないわけじゃないけど、でもわかる時は、たまにある」

 

「意識。アイデンティティ。あるいは(プシュケ)。まるでイデア論だな。

 それは私たちの認知している世界には存在し得ないものだ。同時に、存在を否定することも肯定することもできないことを意味する。つまるところそれは、ただの妄言に過ぎないと言えることにもなる」

 

「それは……」

 

 そこでキオは言葉を切った。アリスの否定ありきで語られるその言葉から、諦念を抱いているようにしか思えなかった。

 

「この人生も現実も全部、絵空事だって言っているみたい」

 

「みたい、ではない。私が今夢を見ていないと証明できるものはない。

 私が赤の王の夢に迷いこんでいるのかもしれないが、赤の王が私の夢に迷いこんでいるのかもしれない。

 確固たるもの――この宇宙の存在という事象、海を満たしているのは水であるという常識、私が握るハサミという物体、この時間軸に対する認識、夢を見ている時と見ていない時のまどろみにある曖昧さ、鏡の向こうに見える炭素に隔てられた世界の有無、私の目の前にいる君という存在、この私自身の肉体の境界線、私が私であるという自我を保つための意識、それら全てを想像ではないと言い切ることはできず、全ては認識の内側という曖昧なものの上に蜃気楼の如く虚像ばかりを映し出している。君の言う、目に見えないものであるならばなおさらだ」

 

「それでも、そんな世界の中じゃ、信じられないものはなくなってしまう。だったら、あることを信じて、そこからもっと、いろんなものを信じていけばいい。

 ――髪は女の命なんでしょ?」

 

 そこでようやく、アリスの持っていたハサミの音が止んで、くしで髪を梳き始めた。

 自分を見下ろすアリスの表情を、キオは鏡越しに見つめる。

 物悲しさを兼ねた笑顔――キオ自身もそれを浮かべていたのに、しかし別の人が浮かべるそれが、辛い中を我慢していることを滲ませてしまい、ただ単に辛そうだと思うよりもさらに際だった辛苦を垣間見てしまう。

 

「非論理的だ……だが、悪い話ではない。

 私は信じることができないことを信じている。だが君は、信じることができることを信じている。

 その信じることというただ一点においては、君の方が上手なのだろうな」

 

 髪を梳き終えたアリスが散髪用シートを外して、キオが首元でチクチク刺さる髪を手で払う。

 そして立ち上がろうとしたキオの肩を掴んで、アリスは再度、椅子にキオの体を固定した。

 

「お母さん……?」

「すまないが、前を向いていてくれ」

 

 振り返ろうとしてすぐに、言われるがままキオは前を向いて、鏡に映る自分とアリスを見つめた。

 両手を肩に乗せ、そこから前にしな垂れ、キオに後ろから抱きつく姿勢。キオの首元にアリスの顎が乗る。

 

「随分と長らく、こうしたことがなかった」

 

 アリスの声には、いつにないほどゆったりとした柔らかさがあった。

 まるで眠るように、アリスはその瞼を閉じる。

 アリスの手がキオの頬をぺたりと触り、もう片方の手はお腹のあたりでキオが握り返した。

 

「温かい……ああ、温かいものなのだな。人とは」

 

 当たり前のことだと揶揄するのは簡単だったが、しかしそんな簡単なことですら、自分の母親は見失ってしまっていたのかと悲しくなると同時に、その当たり前のことに気づいて今更ながらに涙を流すような人を見て、キオは馬鹿にするつもりも哀れに思うつもり湧かない。

 ……アリスはキオを人だと言って、人間なら当然のようにあるそれを、キオから感じ取ってくれている。

 キオにはそれが嬉しいことだった。

 アリスは消え入りそうな声で囁く。

 

「そう思える私はどうやら、嘘ではない。いや、嘘ではないと信じていたい。とても懐かしい感覚だ」

「お母さん」

 

 今度こそキオの呼び名は、アリスに受け入れられた。

 

「何だね」

「ねえ、お母さん。わたしを呼んで」

 

 一瞬だけ、ぴくりとアリスの手が震えた。

 アリスは、今の今まで一度も、誰かに話しかける際にその名前で呼んだことがない。例えばアオバに対しては、少年と呼称してきた。その場に居ない第三者となる人間にのみ、その呼び方をしていたがしかし、アリスは一貫して代名詞で呼称することで、そのほとんどの人たちと隔たりを作ってきた。

 そしてキオにも今まで少女と呼んでいたその隔たりは、今はもうなくなっているはずだった。

 

「……キオ」

 

 アリスがキオの頬を撫でて、自分の頬も擦り寄せる。キオもそれを拒まず、アリスの手に自分の手を重ねた。

 アリスの言っていたとおり……こんなことをするのは今までで初めてであり、だからこそとてつもなく恥ずかしかった。

 

「キオ。ああ、キオ。そうだ。私の、愛しい愛しい愛娘(まなむすめ)よ」

「恥ずかしいよ」

 

 嫌がるわけではなく、それでも思っていることは口にした。

 

「こんな情けない親で、すまなかったな、キオ。今でも私は、お前を守ってやれるような力を持ち合わせていない」

「ううん……この体も、あの装備も、全部お母さんが作ったものだから。だから私は、もう充分」

 

 くすぐったそうにキオは身をよじるが、しかしアリスから離れようとはしなかった。

 ……どれほどの時間が経ったのかわからない。長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。

 だが、充分以上に長いと思えるほどの間、アリスは離れなかった。

 やがてアリスがその身を起こした時には、キオの頬にはアリスの温もりがしっかりと残ってしまうほどだった。

 

「さて、キオよ。旅支度を始めよう」

「……うん」

「必ず戻ってくるんだぞ、キオ」

 

 さっきとは打って変わって、短い言葉だけの会話。

 だけどそれだけでキオは満足だった。

 自らの決めたことで母親を悲しませてしまっても――そしてこれからもっと悲しませるかもしれなくても、しかしキオは取りやめるつもりは、なかった。

 

「うん」

 

 その返事だけは、いつになく強い語調だった。

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