操作室の下――かつてアオバがキオの手を引っ張ったあの階段の横には、地上へと続くエレベータがあった。
自動車一つが余裕を持って乗っかることができるそれは、アオバが知っているようなエレベータとは違って、箱の形ではなく、それこそ荷台部分と、物が落ちないために設置された背の低い壁だけがあって、見上げればエレベータが貫通しているトンネルが見える。
斜めに伸びていくそれは、その先にある電動の開閉扉が外界のインターネット繋がっているかもしれないということで電源ケーブルそのものを切断して、使えないようにしていた。
ケンジに言われて、泥と油と汗にまみれながらもアオバはそれを繋ぎ終わって、斜め上の方へまっすぐ、そして異様に長く伸びていくトンネルを見上げていた。
その扉は閉まっており、トンネルがどこで終わって、どこから先が地上なのか、見分けがつかない。
途方もなく遠いのかもしれないし、もしかしたら意外と近いのかもしれない。あの時は結局、たどり着くことができなかったけれど。
「アオバ」
ふと、降りてきた少女の声に振り返ったアオバは、その姿を目に収めて、今まで以上の違和感と今まで以上の懐かしさが揃って去来したからか、思わず呆気にとられてしまった。
いつも着ていたような服ではない。
やはり去年に見た、紺色のフィッティング・スーツ。それには去年とは比べものにならないほど大量の部品がゴチャゴチャと搭載されていた。
さらに目を引いたのは、一年前にアリスから見せられた、あまりにも無骨で長大な銃器――
それがキオの腰に備えられた三つの輪に……それぞれ左右に一丁ずつ、計六丁もぶら下がっていた。
機械で作られた鎧。そうでなければ、膨大な電子機器の集合体として築きあげられた集合体とすら、錯覚してしまう。
実感ですらない。目に見える現実としてアオバの目の前に顕現してしまったという、疑いようも紛れようもない事実が、まだどこかアオバの中にあった現実を許容できない心を残酷に裏切り、引き裂くような痛み。
今までキオを人間だと思い続けてきたアオバが抱いた違和感。
そして、その中にあっても今までと変わらないキオの顔と、写真の向こうにある記憶の中にだけ居たキオを思わせる髪型が、その違和感と同じように主張してくる懐古なのだろう。
「その髪……」
「え、あ、ああいやこれは」
キオが慌てて何かを取り繕おうと髪をいじり、しかしそれをやめて、そっぽを向いて顔を少しばかり上気させた。
「わたしが戻してって言ったんじゃなくて、お母さ……アリスが」
「別に恥ずかしいことじゃない。そう呼んでも良いでしょ」
さらに訂正しようとしたキオに、アオバはそう呼びかける。
お母さん。その言葉をキオから聞くのは、もしかしたら初めてかもしれない。アオバの想像だが、キオはどこか胸が浮つくようなくすぐったさを感じているのかもしれない。あまり言い慣れていないその言葉で、滑舌がそこだけ悪くなっていた。
「それにしても」
アオバはキオの顔から下へ視線を下ろしていき、その無骨なフォルムを眺める。
「それが
「よく知ってるね。お母さんから聞いたの?」
「まあね」
「半分正解。もっとたくさんの部品がつかないと、〈想鐘〉として起動できないから」
「へえ」
今の時点でも恐ろしいほど部品があるのに、それよりさらにつけなければいけないのかと考えて、重そうで、歩くのも困難だろうな、と気の毒にも思った。
「重くないの? それ」
あえてアオバは、キオがそれの取り扱いをいつの間にか拾得していたことには触れないことにした。
「このスーツを着ている時は、体のリミッターを外しているから」
違和感だらけの言葉。何を言っているのかはわからなくもないけど、それを自分自身の体について語っているなんてことは初めてだ。
「持ってみる?」
キオの腰に着いている輪の一つが独りでに大きく伸びて、そこに着いていた銃器をキオは、片手で軽々と持ち上げて見せた。
……そういえばアリスも、屈んでいたとはいえ同じ銃を器用に扱っていたから、もしかしたら見た目とは裏腹に、今キオがやっているように片手で簡単に取り扱えるような、軽い素材でできているのかもしれない。
そんなわずかな期待を抱きながらアオバはそれを受け取り……「んごっ!」危うく受け取った手と上半身ごと、銃と一緒に地面に激突してしまう寸前でこらえた。
キオの笑い声を聞きながら両手に抱え持って、眺める。
とても片手で持とうだなんて思えない。腕力でも握力でも、やはり片手を離そうだなんて挑戦は、もし落としてしまった拍子に暴発でもしてしまったらしれないという不安もあって、できなかった。
「どうしたの? 回収班で山と荷物を運んできた武勇伝は何回も聞いたけど?」
「いや、それでも、これは……」
ぷるぷる震える片腕で、持ち運ぶためのハンドルを持つことになんとか成功する。
キオのように、引き金があるグリップを片手で握ることは諦めていた。
キオがそれをひょいと取り上げて、また広がっていた輪の側面に取りつけたら、やはりその輪が独りでに縮まる。
正確にはキオが自分の腕を扱うように、その輪の伸縮を操っているのだが、端から見ているアオバには、人を感知して勝手に電気が灯る照明のようなものにしか見えない。
機械まみれの腕。機械まみれの全身。その指先に至るまでスーツの上にくっついている機械の部品で覆われて、キオの素肌が見える場所など、それこそ顔以外に全くなかった。
そんな様子を見ているだけでアオバの中で違和感が渦巻くのに、それをさらに自然と扱っているキオ自身にも違和感を覚えてしまう
……もはや気にするだけ無駄だと思った。見ているものばかりだけおかしいと思えても、しかしキオはキオ以外の何者でもないのだから。
だからこそ、アオバはそれを確認しなければならないとも。
「本当に、行くんだね?」
「行く。行って、少し、お話ししてくるだけだから」
お話し。それこそ、もうキオにしかわからない概念からもたらされる言葉だった。
インターネットそれそのものへの介入。そして、キオが寂しいと言った〝何か〟との
それが、キオの望んだことだった。
「話せるかどうかも、わからないのに?」
「わからないなら、できる方を信じたい」
「そっか」
あっさりと出てきたその答えに、アオバはそれ以上の詮索も、そして引き留めようとすることも、やめた。
「じゃあもう、僕には止められないな」
「信じるって教えてくれたのはアオバだもんね」
「僕だって、その前に教えてもらったんだ」
「誰に?」
それも一年前のこと――ちょうど〈想鐘〉の名づけをアリスから聞かされた、その時のこと。思い返して、しかしアオバは瞬きと共に記憶の彼方へ追いやる。
「内緒。それよりも、よく僕なんかの話で、こんなことを踏み切ったね」
数刻の間だけ、その返答がこなかった。
キオは自分の機械の手を眺めて、その五指を開いては閉じてを繰り返し、閉じた後になって再び、アオバを見つめた。
「ねえ、アオバ」
その一声――それを耳に入れただけで、キオが何を言わんとしているのか、そして先ほどまでスパッと切れ味の良い返答をしていたキオの意志が若干揺らいでいることが、わかった気がした。
「わたし、本当は怖いの。
だって、始めて青空を見た時、広すぎて目が眩みそうだった。あんな広い世界を、わたし一人だけが行き来しても、そんな場所に辿りつける気がしない。どこに行けばいいのかもわからないのに」
自嘲気味にキオは笑い、目元に涙を滲ませる。
「わたし、馬鹿だよね。自信ないのに、行き当たりばったりで、いろんな人に迷惑かけて」
……一瞬だけ、アオバは返答に悩んだ。
今のキオに一言言えば、キオは今すぐにでもそのスーツを脱いで、腰に下げている武器なんかも全て取っ払い、今までと同じ暮らしを再開させてくれるのではないかと思ったのだ。
――「行かないでくれ」と。
「そんなことない」
しかしアオバの口から出た言葉は、それだった。
「確かに、このままの生活が続いても、それでいいかな、なんて思っちゃう時があるけど、それでも何かできることがあるなら、僕もきっとそうしていたと思う。だからきっと、それでいいんだよ」
行かないでと言えば、キオは留まってくれたかもしれない。
しかしそれは、一瞬でもキオが抱いた確かな意志を、心の弱みにつけこんでねじ曲げてしまうことになる。
ねじ曲げてしまったことをきっと、アオバは罪として考えるのだろう。その自らの罪を抱えて生きていけるほど強くなかった。
アオバは目頭が熱くなることも、胸の奥で肺が嗚咽することもこらえきれない。
「そう、かな。それでいいのかな」
例えキオが青空の果てへ消えてしまうのだとしても……。
「大丈夫。僕は信じる。それにあのアリスだって行かせてくれるんだ。アリスも信じているんだよ」
アオバは、キオの望むことを望むままに、やってほしかった。
それがアオバの、何よりの願いで――。
「だからきっと、大丈夫。キオならできる。だからキオ。終わったら、絶対に、戻ってきてくれ」
でも少しばかりの我が儘を、キオに課した。
キオが大きく首を縦に振ってくれた。それだけでアオバの思いは伝わり、そしてそれ以上に、しゃくりあげてくる声のせいで何も喋られなかった。
そんなみっともない姿を、もうこれ以上見せたくなかった。
突如としてアオバは階段を駆け上り、その背中にキオが呼びかける。
「わたし、絶対、絶対絶対! ……帰ってくるから」
キオの最後の言葉が尻すぼみになっていたからか、それともアオバが遠ざかっていたからなのか、アオバの足音がうるさかったからなのか、アオバの耳に届くことはなかった。
だが、わざわざ言葉を届けるまでもなく、伝わっていることはある。
だんだん小さくなっていくアオバの足音を聞きながらキオは、胸元に手を当てて、上から数多くの部品を降ろしてきたアリスを見やる。
「準備は、できたようだな」
「……はい」