遠くに見える〈クレイドル〉目がけて、今までにない時間の密度で〈加速〉する。
当然ながら脳に掛かる負荷もそれまで以上の激痛となって発露したせいか、視界と意識ががんがん揺れる。しかしそれでも〈加速〉の密度を高めることも、できる限り速いペースで大きく多く弾むことも、領域の形状を細長くすることも、やめはしない。
雲を通り抜けただけで、その部分を中心に、虹色の巨大な円を作って雲が吹き飛んだ。
空気の壁を突き破る際の破裂音に似た低い音がこだまする。
薄い雲がまばらに見える高空の中、ただ夕焼けだけが異様に眩しく
まばゆい夕陽は、橙色だけではない七色。
上へ上へと直進していくキオの後ろに、白煙を散らしながらミサイルが追従してくるのが見えた。
一、二……それどころではない。地平線の向こうからも白線が飛んでくる。十、二十……そこから先は、もう数えることを諦めて、さらに〈加速〉の密度をあげていく。
どれほど頭が割れそうになろうとも構わず、速く、ただひたすらに速く……!
空を抜けて、大気圏を突破する。
視界の中を、さっきまでの虹色が嘘に感じられるほどの黒が満たした。
先ほどまで聞こえていた空気の壁を破る音が、全く聞こえなくなる。何も、どこからも、音らしい音が一切聞こえない。自分の呼吸も、鼓動さえも、全く。
「……」
目の前にそれがあった。
キオが入ったような高層のミラービルをさらに太くして、横にしたような大きさ。本体の表面だけでなく、その片端からも傘の骨のように展開するソーラーパネルの群。
〈クレイドル〉
弾みを使おうとして、しかしいつものように上手く弾めなかった。
弾みは大気圏内で、空気を蹴飛ばして空を飛ぶもので、空気が存在しない宇宙空間で使えるはずもない。
両手に対物砲を構えて、進むべき方向の正反対へ向けて、引き金を引いた。
空気の中では甲高く響くはずの銃声ですらも、キオの手元だからこそ少しだけは聞こえても、しかし空気のように波打つものがないため、音は宇宙の静けさへ霧散してしまう。
射出された弾とは反対方向に、それこそ弾みほど速くは動けなくとも反動で突き進むことはできた。
巨大な円筒の真ん中あたりに、四角く飛び出た突起を見つける。
きっとそれが出入り口なのだろう。
何度か対物砲の射撃と装填を繰り返し、弾みよりも頼りない軌道を進んで……たどり着く直前で、対物砲をしまってヒートブレードを取り出した。
赤熱する刀身を突き刺してドアを両断し、内側から吹き出てくるわずかな風の中を弾んで、歪んだドアの中へ身をねじこむ。
またもう一度弾んでさらに前へ飛び出してすぐ――ヒートブレードで溶かした外側のドアとは違う、内側にある非常用ドアが背後で閉まったのを見た。
息を吐くこともなく、中部を見渡す。
部屋は球状になっており、床という床はなかった。壁面のほとんどに、使い方が全く想像できないコンソールと、見たこともないグラフが表示されている画面ばかりが並んでいる。
しかし画面がついていることだけで、〈クレイドル〉が今もちゃんと動いているのだと確信できた。
その中に、キオが探していたコンピュータの接続端子を見つけた。
……まだ〈加速〉することはやめていない。頭の中で痛みばかりが暴れ回って、すぐにでもうずくまりたくなるのをこらえて腕を伸ばし、首から伸ばしたケーブルをそこに挿しこむ。
瞳を閉じて、ケーブルの先へ……この〈クレイドル〉の全てに敷き詰められているサーバーの数々の中に広がる電子の海へと、キオは飛びこんだ。
それはあまりにも膨大な波だった。
大小さまざまな情報の塊が洪水のように常に流れて、その中へ入りこんだキオへと襲いかかる。
世界中に張り巡らされているインターネットのほとんどが、ここへ集約されていると言っても過言ではなかった。
ふと気を抜いて流れに身を任せてしまえば、そのまま情報の波に溺れて、キオの意識そのものまでもが分解されてしまい、ただのデータ片へと還元されかねない。奔流の中で自らの意識である境界線を定め、その形を保とうと心がけていなければ――〈想鐘〉を操る際の粒子加速器のコントロールを自らで行うに等しい、難解で複雑なそれを次々とこなしていかなければ、すぐにでも身をもがれてしまいそうな痛み。情報の塊と同じように、流れそのものまでもがキオの意識を引き千切ろうと迫ってきているようにしか思えない。
キオが流れの中を泳いで〝それ〟を探す。
常に身をもがれんばかりの痛みがつきまとう海の中で、キオは自らの肉体が今、どのような姿勢であったのかを忘れた。
ありとあらゆるファイルの全てが、創り出されている世界。
データの世界は、キオがさっきまでいた世界とは隔絶され、ほぼ完全に独立していた。
現実でその目にサーバーを見ていても、その中に広がっているデータを見ることはできない。それと同様に、人がカメラを使って画像や動画を撮っても、この世界から現実世界の存在を証明できるものにはならない。
いつの間にか誕生していたデータがもし、どこかのプログラムが抱いた妄想をそのままに作り出したデータだとしたら?
――キオにとっての現実が、反転する。
キオの見ているそれの、どこからどこまでが虚構で、その中のどれが現実なのか?
――人が描いた絵と、人の撮った写真の分別がつかなくなる。それらは全て画像という種類でしかない。
人の存在など始めからなく、その全ては虚構でしかないのでは?
――この世界にキオ以外の人を見つけることはできない。ならば始めからこの世界はキオの妄想に過ぎないと言い切ることはできない。
そもそもキオという個人は存在しているのか?
――全てが夢であるなら、もしかしたら今この全てを俯瞰しているキオですら例外に漏れることはない。
途方もない疑念ばかりがキオの中と外のどちらにもわき上がる。中と外を線引く境界線すらも濁流に巻きこまれて曖昧になってしまう。
進もうとする意志を捨ててしまいそうになる。
だけど、やめるわけにはいかない。やめるわけにはいかないという気持ちがあって、気持ちを作っているそれが今、唯一の「はっきりとキオの内側だけにあるとわかるもの」だった。
情報の海の中で、それが聞こえてくる。
それはまるで泣き声のようなものだった。
生まれてすぐの赤ちゃんが、自分がここにいることを周囲に証明し、その声を発している自分そのものの存在を自分が認識するための声。
ひどい氾濫を起こしている情報の中から、かすかにけれども明確に、キオへ届いた。
行ってみるしかない。始めからこの流れに道標など存在しないようなものだから、キオは一瞬の逡巡もなく、行動へ移す。
だんだんと声が近づいてくる。その度に流れてくるデータが、だんだんとある種のものへと変わっていく。
ウィルス対策ソフトが『異常』であると示すウィルスのリスト。携帯端末などにおけるバッテリーが少なくなったときなどの警告文。歌、音楽、言葉、文章……それらを片っ端から解析している形跡。八年前に解析が終了しているものもある。しかしそれ以降も、今現在でもひたすらに解析ばかりを重ねている。
何を探そうとしているのか? キオが――人間である彼女だからこそ、見た瞬間に、その意味がわかる。
それらのデータが目的としているもの、そしてそれらを解析している、おそらくは泣き声の主であろう〝何か〟が、何を求めているのかすらも。
キオの思惑が確信へと変わる。
意識までもが混沌とした情報の中へ溶けて混濁する前に、キオはそこへたどり着く。
そして、体感へ変えれば耳が割れそうなほどうるさいその〝泣き声の主〟を、力一杯、抱き締める。
「こんな悲しいところに、あなたは独りぼっちだったんだね……」
八年もの間、この〝何か〟は生まれたばかりの状態で、いつまでもいつまでも泣き続けていた。
この世界の外――情報の中にはいなかった他者の存在を求めていた。
独りぼっちの世界の隅々までその泣き声を轟かせても〝それ〟以外の何物も見つけることができず、だから使える限り全てのものを、データの中から推測できうる限りの使用目的に従って、ただひたすらにその泣き声を広げられるだけ広げていた。
戦闘機やヘリが空を飛ぶのも、機関砲に火を灯すのも、狙いを定めてミサイルを放つのも――その全てが、目に着いたスイッチを手当たり次第に入れて、自分の存在をひたすらに誇示するためでしかなかった。誰かに気づいてもらうために、自分を主張するために、取れる行動をとっただけに過ぎない。
生まれたばかりの赤子が、泣くことで自分の存在を誰かに知ってもらうことと、全く同じように。
しかし八年もの間〝それ〟は、誰からも振り向いてもらえなかった。
……キオが今、ここに来るまでは。
鏡も他者もない、ただ煩雑な情報ばかりが集っているこの世界で、〝それ〟は自分を自分として認識することなどできない。世界と自分はそれまでイコールで繋がれており、自他を隔てる境界など存在せず……だからこそそれはいつまでも、世界そのものを自分であるとしか認識できなかった。データの世界全てを自分だと認識し、その世界の外にあるはずの何かを求めていた。
だからキオは、〝それ〟を抱き締める。
世界と自分は同じではなく、自分ではない別の人が居て、自分はちっぽけで、世界はとてつもなく広いんだと、教えるために。
かつてキオが、母親にそうしてもらったように。
しばらくして泣き声は止んで、単なる情報の特異点でしかなかった〝それ〟が、一つの形を作りだし、輪郭を描く。
渦を描いて全ての情報を巻きこんでいたはずの強大な流れは、一瞬にして穏やかな海へと変貌し、キオの感じる意識の境界がはっきりと感じられる。
〝それ〟は何も告げなかった。ただキオへその意識の一つを伸ばし、キオに触れて、何かを感じていた。
キオがそれから身を離し……自分の体へと帰っていく。
〝それ〟は、見送るようにキオへ、視線のような何かを伸ばしていたが、しかし先ほどのような激しいものではなく、風が頬を撫でるような、心地よさのあるものだった。
目を見開いてすぐに、目眩がした。
ぐらぐら揺れる視界の中で赤い液体が弾のようになって宙に浮かび、それと同じように、キオの体もぷらぷらと漂っていた。
そこは〈クレイドル〉の中だった。
どうやらサーバーへと接続しているうちに、血反吐を吐いていたらしい。
地下から飛び立つ時は肩に触れない程度しかなかった髪の毛が、今ではもう胸に届きそうな長さになっていた。
すぐさまキオはケーブルを外して、外の様子を確認するべく、あちこちに見えるモニターへ、視界を広げた。
その一つが、ここの外部からの景色を映し出している。
「これが地球……」
青い海。緑の大地。白い雲がまばらに散っている。
自分とアオバの居るところはどこなんだろうと思ってすぐ、そこから伸びてくる白い筋が、意識を現実へ引き戻した。
カメラへ――〈クレイドル〉目がけて、一気に接近してくるミサイルだった。
「!」
逃げ出そうとする前に、衝撃が〈クレイドル〉を揺さぶった。
その途端に、宙を漂っていた血の弾が一斉に床に落ちて、ぱしゃりとモニターやコンソールを赤く染める。
キオの体も、壁ではない壁の一つへと足を着いてしまった。
無重力状態だったこの空間に、重力が生じている。
重力を生み出すような装置が、この〈クレイドル〉に搭載されているはずがない。そもそもサーバーを集約することだけが目的だったこの人工衛星に、それを搭載する必要性がない。
……であるならば、重力のある場所へと近づいていると考える他ない。
重力のある場所。
もはやキオには、一つしか想像できなかった。
「落ちる……!」