アオバの知らない場所が広がっていた。
元々知らなかった街だけど、ぽっきり折れたビルとか、地面に転がって光らない信号機とか、ぐしゃぐしゃに潰れた自動車とか、ひび割れた道路とか、そういうのを間近に見るのは、初めてだった。
立坑の見張りが街を通る機械を記録して、機械が来ないタイミングで街に入って地上に残ったいろんな道具を集めて地下に持ち帰る人たちは、いつしか回収班と呼ばれていた。難しい仕事のようだから大人たちの仕事だった。
「時刻確認。十時十六分」
眩しい日差しのせいで暗く思える建物の中。ケンジの声に合わせて、みんなが腕時計を見やる。
ケンジが、あまり大きくないけどみんなに聞こえるような大きさの声を出す。
「十二時半にはできる限り集まること。休憩後に再開。最終は三時半。それまでには再びここに集合すること。食料は例え保存食でも、期限を確認してから持ってこい。カメラには気をつけ、二人一組での行動を慎め。非常事態が発生次第、個々の判断で必ず帰ってくること。危なそうなところへは決して踏み入るな。以上だ。散開!」
ヘルメットと腕時計と軍手、首から下げた懐中電灯。アオバにはちょっと大きめの、やっぱり軽いバッグの網ポケットには水の入った水筒。ポケットには地図。まるでどこぞの探検隊みたいな気分。
さっきまでキオと会えなくて少し寂しくなっていたアオバだけど、そんな暗い気持ちもどこへやら、すっかりウキウキしていた。
建物からみんなが一様に出て、言われたとおりの二人一組を守りながら、バラバラに色んな方向へ行ってしまう。
「俺たちはこっちだ」
お兄さんがアオバの肩を引っ張って、街だった瓦礫の中を歩み進んでいく。
通り過ぎた壁が、何ヶ所も同じように丸く抉れていて、地面のガラス片を踏む度にジャリジャリと音を立てた。ひび割れたコンクリートの隙間から、名前も知らない雑草が葉っぱを覗かせている。
ちょっと見上げればコンクリートの中から鉄筋を見せる、斜めっているのに倒れない絶妙の角度をしている建物が何棟もある。
確かにここは、アオバの知らない街だ。
だけどここで人が暮らして、仕事をして、生きていたんだと思うことはできたし、今はコンクリートの破片ばかりが散らかっているけど、五年前はこの道路に煙草の吸い殻とか落ち葉ぐらいしかなくて、その上をがんがん車が行き来していたんだということも、想像できた。
通り過ぎた電器屋の店頭には「最新モデル!」と書かれたポップがあって、その横には真っ黒な画面のパソコンが置いてあったし、その隣にはもうちょっと小さくなったような、タブレット端末も置いてあった。
それを使う誰かが、きっと昔はたくさん居たんだろう。アオバもちょっとだけ触ったこともある。このお兄さんだって使っていたこともあるんだろう。
でも今はそんなもの、ただの大きくて重いガラクタになっていた。むしろ触っちゃダメなものとして、色んな大人たちから耳にタコができるぐらい聞かされてきた。
とても便利かもしれないけど、それに触って、インターネットを通じて遠くから怖いものが飛んでくる、と。
アオバたちが入ったのは、アオバも名前だけは覚えていた雑貨屋だった。
出入り口で、犬が一匹、アオバたちを見つけて吠えている。大きめの柴犬……いや、柴犬っぽい雑種みたいだった。すっかりやせ細っているのに、尻尾を左右に振って、舌を見せながら呼吸して、リードを引きずりながらこっちに近づいてくる。
アオバの中に、嬉しい驚きの波がやってきた。
何かを引きずるように重かった足取りが、いつの間にか軽やかになる。
薄暗い地下に、長い間閉じこもっていたせいで、様々なものを忘れて、それこそ地上には動く機械以外は何もかもが消えてしまったんじゃないかという思いさえあったけど……。
こんなに寂しい街でも、昔は常々見ていたはずの犬が、確かに少し汚れて痩せていたとしても……生きていたということが、アオバにとっては地上に出て最初の感動だった。
こっちに体を揺らしながら近づいてくる犬に、アオバも近づいて行こうと思ったけど、お兄さんが肩を引っ張った。
「ダメだ。地下じゃ飼えない。下手に構うんじゃない」
「でも」
「どうせ犬の餌ならここに山とあるだろ。それをあげて、その間に帰るぞ」
見上げるアオバの視線が犬のように潤んでいたからかもしれない。お兄さんは手の平をおでこにあててため息を吐きながら、妥協してくれた。
お兄さんがリードをてきとうな棒に固定して、店の中に入る。
ティッシュとかトイレットペーパーとか、昔ならいつでもどこでも買えたものを見つけて、お店にあった値札のついたままのバッグに一生懸命詰め込んで背中に背負って、お腹にもう一つパンパンに膨らんだバッグをひっかけた。
小脇に、やっぱりバーコードが貼りついたままの餌皿と、全く手がつけられた様子のないドッグフードを挟むのは、忘れなかった。
お兄さんがリードをほどいている間に、アオバは餌皿を置いて、ドッグフードを流しこむ。
犬がすぐに、餌皿に口を突き入れて食べる。
首のあたりを何度か撫でて……アオバは立ち上がった。
「ここでもう少し愚図るかと思ったんだがな」
「飼えないんでしょ。ならしょうがないよ」
つっけんどんに言って、お兄さんと一緒に歩き始める。
……でも、何度か来た道を、犬を見たくて振り返ってしまう。
その度にお兄さんがアオバの頭に手を乗せて、それでアオバはハッと前を向いて、何歩か歩いてまた振り返って……それを、犬が見えなくなるまで繰り替えした。
来た道を戻る。
瓦礫になった街並みはさっき見たもとの全然変わっていなくて、そして妙に静かで、たまに通る風や、揺られてこすれ合う葉っぱの音ばかりが耳に残った。
そんな些細な音が耳に残ってしまうぐらいに、人がたくさん居たはずのこの場所は、物寂しい場所になってしまったんだという実感と共に、小さな音でもがんがん響いて嫌だったはずの地下が、ちょっとだけ恋しくなった。
さっきの場所に戻った時には汗だくで、水筒の水を煽って、お弁当としてお兄さんが持ってきていたおにぎりを頬張った。
それなりに人が居て、アオバたちと同じようにバッグが膨らんでいる人も居れば、行ったときのぺしゃんこのままだった人も居た。
こっちにあの店が。何々がどれくらい。あっちにあんな場所が。動物に食い荒らされていた……とか、たくさんの言葉が行き交って、お兄さんはまた別の人たちと一緒に、五人ぐらいのチームになって、荷物だけ残して行ってしまった。アオバもついていこうとしたけど「あとは大人の仕事さ。アオバはまだ小さいから、たくさんのものを一気に運べないだろ」と断られた。
他の人たちも戻ってきてはご飯だけ食べたりして、また行ってしまう。
……やがて、アオバは一人になった。
腕時計を見れば一時を過ぎていたけど、最後の三時半まではまだもう二時間以上ある。
風も通らない建物の中。アオバ以外の誰もいないのにたくさんの荷物だけが残っている広々とした空間。
物悲しい沈黙だけが聞こえていて、ふと、窓の外へ視線を移してしまう。
黒ゴマみたいに〈クレイドル〉がぼんやりと浮かんでいたけど、アオバに何かしてくれるわけじゃなかったし、アオバも、こんな知らない外で何か楽しいことをしようなんて気になれなかった。
……今頃、あの犬はどうしているんだろうかと気になる。気になったけど、だからと言って今からあっちに行って良いわけじゃない。ダメなものはダメなんだと口ずさんで、自分に言い聞かせる。
それに、期待していた探検隊だったけど、二時間ほどで楽しい気持ちはは終わってしまったし、何より途中から、怖い気持ちが大きくなっていた。
雑貨屋の中は階段こそ窓が近くにあったから見えたけれど、でも商品が並んでいるフロアは本当に真っ暗で、懐中電灯で照らせる範囲も限られていて……暗闇から何かが飛び出してくるんじゃないか、とか、見えない自分の真後ろには幽霊が居るんじゃないか、とか、光が当たっているから見えている場所でも、見えなくなったら途端に別のものに変わっているんじゃないか、とか……そんな怖さばかりがアオバを満たして、とてもじゃないけど、ワクワク楽しもうなんて気持ちにはなれなかった。
ポケットから紙切れを引っ張り出す。
キオに見せようと思っていた、花火の夜とは別の写真。
遠足の写真。どこかの海辺で、他のクラスメイトたちと楽しそうにアオバとキオがお弁当を食べている写真。
……思ってみれば、この回収班も遠足みたいなものだと思っていたけど、実際は全然違っていた。
確かに知らない場所でたくさんの人と一緒に来たけど、ちっとも楽しくなんてなかったし、こんなに美味しそうにお弁当を広げても、いなかった。
花火の夜ほどじゃないけど、この写真の瞬間も覚えている。
この写真のキオは今のキオよりもちょっと髪の毛が長い。いや、今のキオの髪の毛がすごく短いんだ。まるで女の子らしくない、アオバと同じぐらいしかない。
あの時のキオには髪の毛の先っぽをいじる癖があったけど、今の髪型じゃそんなこともできないなと思ってすぐに、もう全部覚えていないキオなら、その癖も忘れてしまったんじゃないかとも思った。思ってしまった。
あの時のキオは、もういなくなってしまったのかもしれない――そんなことを。
五年以上も前に撮られた写真と、髪の毛以外は全く同じ姿をしているのに、キオはアオバの知っているキオじゃない。それが、悲しくて寂しくて、とても辛いことだと、気づいてしまった。
本当ならアオバと同じように、キオも五年分成長した体になっているはずなのに。
この遠足のことも、花火をしたことも楽しいままで終わって、そのことを忘れないで居たはずなのに……!
だけど今の、何もかもを忘れてしまっているキオの方が現実で、本当のことなんだということも、アオバはわかっていた。
姿かたちこそ全く同じなのに、記憶の何もかもを忘れてしまったキオは、アオバの知っているキオとは別の……それこそ赤の他人だとも……そんな気が、思いが……いつまでも頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
アオバはあの頃から変わっていないつもりだった。変わりたくないと思っていたから、変わっているはずなんてないと、そう思っていた。
だけどこうして、五年が経ったから当然のように体が大人になろうとしていて、アオバは大人にしか行けなかった回収班に誘われて、でも中途半端にされて……。
変わってしまった、のかもしれない。
キオですら写真のままの体だけど、記憶はすっかりなくなって、変わってしまった。
昔に人が住んでいたんだろうこの街並みも全部静かになって、変わり果ててしまった。
あの街で犬だけが寂しそうに佇んでいた。
寂しく思ってしまう。あの犬だけは、アオバの気持ちそのものみたいに、世界から取り残されているかのようだった。
何もかも変わってしまう。
思い出は全部写真と記憶の中にしかなくて、何をどう大切にしていても、やがてはその全部が別のものへと移り変わってしまう。
なんだかそれが、アオバは嫌だった。
この写真の時みたいな楽しいことも、騒音に塗れているはずの地上の生活も……いつまでもいつまでも続いていくんだと、そう思っていたかった。
でも現実はそうじゃなくて……。
小さく鼻をすすって目元を拭い、見つめていた写真をポケットにしまいこむ。
静寂ばかりが満ちているこの部屋でずっと、アオバは大人たちの帰りを待つことにした。