地下へと戻ってきたのは、太陽が地平線に触り始めたころだった。
みんながみんな、大きな荷物をたくさん抱えている中、アオバは一人だけ、小さなバッグに軽いものだけを入れている。
申し訳なさなんかよりも、自分が未熟だと決めつけられていることが、惨めで悔しい気持ちもあるけど、そうやって嫌な気持ちになっている自分自身がちょっと嫌にもなっている自分がいた。
「お疲れさん」というお兄さんの言葉で、アオバは他の大人たちよりも少しだけ早く、回収班を離れていく。
向かう先なんて、決まっていた。
正午過ぎとアリスは言っていたのだから、どれほど遅れても大丈夫なはず。
遠い距離を往復してきたことも忘れきったような、疲れを見せない走りで地下空間や階段を走り抜けていった。
嫌な気持ちになっている自分に嫌気が差している自分……そんな、子供にはわけのわからないはずのことを、わけがわからなくならないぐらいにはわかってしまっている自分も、そうなっている何もかもを全部振り払って、逃げ出すように。
辿りついてすぐに、半開きだった操作室のドアを勢いよく開けて……飛び込んできたのはいつもどおり白衣姿のアリスと、キオだった。
ドックン、と心臓が大きく跳ね上がりそうになって、胸が痛いぐらいだった。
キオはこっちに背中を見せて、キオと向かうようにアリスが屈んでいる。ということはつまり、アリスはこっちを向いている。
でもキオは、いつも見ているキオじゃなくて……首に黒い輪っかを巻いて、その後ろから伸びる黒いヒモが床でとぐろを巻いている以外には、昨日会っていた時には必ずつけていたはずのヘッドフォンすらも外して……。
それこそ素っ裸。肌色の背中。首の後ろから足先まで、何も着ていなかった。
「えっ……」
アリスだけがこっちに向こうと動いて……視線が合う前にアオバはそこを飛び出して、また勢いよくバタンとドアを閉じた。
見えた。本当に一秒に満たない時間だったけれど、確かに見えた。見てしまった!
今までの疲れを一気に思い出したように、ぜぇぜぇ息使いが荒くなって、壁に背中をつけて、へにゃへにゃと足から力が抜けて地面にお尻をつけてしまう。
たった一瞬だけなのに、アオバの頭にはばっちりとキオの肌色が貼りついていた。首に巻きついている黒い輪。肌色に浮かび上がっている黒いヒモ……すぐに忘れたいことだったけど、でもその黒い線がさらにキオの肌色を強調して、アオバの頭に貼りついたまま、離れそうにもなかった。
しなやかなうなじ。ほっそりとした背中。小さなお尻。棒のように華奢な足……。
「ほう。まだ発情には早い年齢じゃないのか? 少年」
「うわあ!」
突然上から降りかかってきた声にアオバは驚いて叫んでしまった。
いつの間にドアを開けていたのか、アリスがニヤけた顔だけを隙間から見せて、アオバを見下ろしている。
驚いて顔を歪ませるアオバを見て、アリスはまた面白がっているのか、今度は鼻で笑うように短く息を吐いた。
「運が良かったな少年。キオは何が起こったのかを把握できなかったぞ」
「へ、へぇ。そうなんだ」
言葉だけは落ち着こうとしているけど、声が挙動不審に震えていて、動揺を全く隠せていない。
「キオに会いに来たのだろう? もうキオの着替えも終わった。入りたまえ」
どうやらアオバが思っていたよりも長い時間、壁に寄り掛かっていたみたいだ。
やっぱり震えながら壁によじ登るように立ち上がって、何度か深呼吸をして、それから操作室に入る。
「や、やあキオ」
片手を挙げて挨拶をする。わざとらしくて浮ついた声にアリスはくすくすと笑っていたけど、気にする余裕なんてなかった。
キオはいつもと同じように、服を着てヘッドフォンをつけていた。肩からタオルを垂らしていて、お風呂にでも入ったのかと思うほど髪が濡れていた。
「あ、アオバ」
わざとらしいところには気がつかなかったのか、いつもと同じようにキオも挨拶してくれる。アオバはちょっとホッとしたけど、でもそんなキオを見てまたすぐに、頭の裏で肌色の後姿を思い浮かべて、頭をぶんぶん横に振った。
そして改めてまたキオを見て……ちょっと、いつもと何かが違うような気がした。
髪が濡れているから、とかじゃない。もうちょっと違う何か。
濡れて重くなっているからだろうか……髪が少し長くなっているような気がした。
「どうしたの?」
「い、いやいやいや! 何でもないんだ」
キオがふと問いかけるだけでもびくりと体がすくんでしまって、その度に心臓がどきどき跳ねあがる。アリスの言葉を信用しているわけじゃないというか、むしろあれほど大きな音を立てたんだから気づかない方がおかしいけど、でもそんな様子はキオには全くなくて……。
アリスがドアの近くで、やっぱりくすくすと笑っている。
アリスを見ていた、というわけじゃないけど、キオがアオバを見て首を傾げている。
「どうしたの? なんか変だよ」
そう言いながら、キオはとある方向に手を動かした。
アオバが一生懸命言い逃れできる言葉を探している間に、その手はキオの髪の毛……その毛先に触れて、撫でるように、そして先っぽをねじるように、いじっていた。
その瞬間。アオバの頭に浮かんだのはキオの肌色のことなんかじゃなくなった。
――キオの、髪の先っぽをいじる癖。
アオバの記憶に居るキオも全く同じように、髪の毛をいじっていた。
そのことを思い出して、さっきまで氷みたいにかちこちだった体が、一気に溶けたようにほぐれていく。
氷が溶けて水になるように、目からも溢してしまいそうになっていた。
昼間にアオバが思っていたことは、ただの思い過ぎだったんだと、安心できた。
確かに全部忘れてしまったんだろうけど、それでもキオは、全部忘れたからって全くの他人になったわけじゃないんだと、ただ一つだけの癖なのに、そんなことを思ってしまう。
それだけでよかった。ほんの些細なことだけど、でも記憶を忘れる前と、全く変わっていない何かを、今のキオから見つけたかった。
だから、ポケットにある写真を見せて、いちいち確認なんてする必要なんてないんだと思えた。
何も、遠慮とかそういうのを考えないで、それこそ改まったけど、あの時と同じように、あの時の続きの時間を始めればいいんだ、と実感できた。
「ねえキオ。今日さ……」