アオバたちが住んでいる地下空間は本来、大雨の時に川が氾濫しないように、川の水を溜めておくために作られた、非常に大きな地下用水路であり貯水槽だった。
だから昔でも、雨が降らない時はこの用水路は空になっていた。そして今は川から水を運び入れるための水門を全て開かないように壊して、みんなが暮らしている。
……つまりこの用水路に最初から着いている出口のすぐ近くを、川が流れていることになる。
全部で五つある立坑の見張りをすること。もしくはこの立坑そのものの地図を見ること……そのどちらかでもすれば、それはすぐにわかることだった。
「……本当に、取っていいのかな」
「大丈夫大丈夫。バレないって。すぐに戻ってくるんだから」
今のアオバには、キオを海に連れていくなんてことはできない。
今いるこの地下空間から海へは、地下生活ですっかり見なくなった自動車か電車でも使わない限りは辿りつけないほど、遠くにある。
でも、海ではなくても、そこに繋がる水の流れなら――川なら、この用水路のすぐ近くにあるのだから、見せることぐらい簡単だ。
……そう、アオバは昨日に思いついた。
外して良いのか悪いのか、まだはっきりしていないような、戸惑いに満ちた表情を浮かべながらも、黒い首輪に指をかけるキオを見て、アオバは言葉をこぼす。
「それに、その首輪。なんだか飼い犬みたいで、窮屈そうなんだもん」
「飼い犬?」
キオがそこで首を傾けた。確かに、地下で暮らしていればすっかり忘れてしまう単語だった。
「なんていうかな……自由じゃない、って感じ?」
自分で言いながら、伝わるかどうかわからない言葉を選んでしまったのを後悔する。
「自由、じゃ、ない……」
咀嚼するように反復するキオ。意味がわからないから繰り返しているのか、意味がわかるから反芻しているのか、アオバにはよくわからないけど、キオは噛み締めるように反復していた。
「外すと、自由なの?」
そう聞かれると、アオバには答えづらかった。アオバはそう思っていたけど、不思議そうにキオが尋ねてくるということは、今までが不自由だと、そこまで思っていなかったのかもしれない、とも思えてしまう。
返事は、戸惑い混じりになる。
「そう、なのかなぁ。たぶんそうだと思う」
「そうなんだ」
ぼそりと呟いて、キオは首輪の後ろに手をかけた。
すぐにそれはキオの首から外れて、アオバの「どこか物陰に隠そう」という言葉に従って、キオは階段のすぐ脇で、先っぽの上にバッグを置いてきた。
すぐにバレちゃうのではないかと一瞬だけ悩んだけど、でもすぐに帰ってくればいいだけの話だと思い直した。
「そういえば、その耳のは外さないの?」
自分の耳をとんとんとつついた。
「これ?」
キオもヘッドフォンに指をかけて、答える。
「そう。それって、音楽を聴くためのものでしょ? いっつもつけてて、変だなぁって思ってたから」
「変……」
キオが小さく、アオバの言葉を繰り返したけど、でもそれはアオバの耳には届かないほど、小さな声だった。
「いいの。これ着けてると、聞こえるから」
音楽を聴いているのか? でもアオバの話はしっかり聞いているみたいだから……これもアオバは少し考えようとしたけど、でもそんなことよりも、さっさと階段を登ることの方が先だと思って、考えるのをやめた。
「行こう!」
キオの手を掴んで、アオバは階段を登る。
階段を登りきった先にあるのが操作室だけど、その操作室へ続く螺旋階段の脇には、もう一つ登り階段がある。
操作室までの階段を上り下りするのはキオもアオバも、いつもやっていることだから難しくない。
操作室は基本的にアリスしかいないし、そのアリスも操作室に引きこもったままだから、螺旋階段の横を通り抜けることは簡単だった。
……問題は、その先にある階段。
地上の、用水路が流れ着く先にある一際大きな川へ繋がる、とても長い階段。
この長い階段を登ることが、立坑の地上へ繋がる階段よりも面倒くさかった。
でも、立坑の階段を登るためには立坑に辿りつかなきゃいけない。
トロッコを乗り継いだとしても、一応キオは首輪を外してはいけないんだし、そのルールをどの大人が知っているのかなんてことはわからなかったから、なるべく人目につかない経路を辿って地上に行く方が良い。
何より、これから行く川は用水路が水を流し出すための川というだけあって、かなり幅のある広い川だから、どうせならそこに連れて行きたい。
階段を登るにつれて、その川へと近づいている実感が、だんだんと積み上がってきた。
「もう少しだよ」
「うん」
もうどれぐらい階段を登ったのかは覚えていない。でも、アオバ自身も気づかない間に、何度もその言葉を言っていた。
もう少し登れば、キオにあの水辺を紹介してあげられる。
もう少し歩けば、キオにあんな横顔をさせずに済む。
もう少しもう少しがずっと、アオバの頭で繰り返されていた。
「もう少しだよ」
「うん」
繋がれたままの、アオバとキオの手。汗でぐっしょり濡れて滑りそうになるけど、でもその度にアオバが掴み直して、キオも返してくれた。
階段を登る足に疲れが溜まってきたけど、キオの手を引くことをやめない。
「もう少しだよ」
「うん」
外の世界は明るい。
登りきる頃には夕焼け空で暗くなっているかもしれないけど、でも地下とは違う、広々とした空を見せてあげることができるはず。
川の流れは気持ち良い。川で遊んだ帰りに、まだ肌の表面を水が流れているかのようなさらさらとした感覚が残ることが好きで、きっとキオも面白がってくれるに違いない。
だから、キオについている首輪を外してでもやるべきことなんだ。
むしろ人に首輪をつけている方がおかしいんだ。それこそ飼い犬みたいな扱いかもしれない。アリスがそんなことをする人だとは思えなかったけど、キオが昼間にアリスと何をしているのかもわからない……というか、キオが話してくれない。
わからないことが怖くて、だからわかることが、わかりやすいことの方がアオバには正しいことに見えるし思える。
そんな確信があった。
「もう少しだよ」
何度目なのか、数え切れないほど繰り返したその言葉。
でも同じ答えは、帰ってこない。
……気がついたらキオを引っ張る手がひどく疲れていたけど、それにしても、引っ張るキオの手が……その体が、さっきよりも遥かに重い。
「キオ?」
そこでようやく、キオを振り返る。
もう一度キオの手を掴もうとした瞬間に……キオの手は力なく、するりとアオバの手を離れた。
そのままキオの体は、よろけるように階段の壁にもたれかかって、ずるずると体勢を崩していく。
「キオ!」
思わず叫んでいた。
ぺたりと座りこんだキオの背中まで腕を回して、階段を転げ落ちるなんて事態は避けることができた。
でも、まるで首の据わっていない赤ちゃんのように、キオはぐにゃりと首を後ろに倒す。
「どうした? どうしたのキオ!」
数秒にも満たない間に、川へたどり着いた後への期待と興奮はなくなってしまい、動揺と狼狽ばかりが埋め尽くす。
「ねぇ、キオ!」
何度か肩を揺するけど、キオの表情から、さっきまであったはずの生気がすっかりと抜け落ちて、身体のどこにも力が入っていなかった。
キオが喋ろうとしたのか唇が少しだけ動いたけど、それでも声はおろか、呼吸すらもまともに聞こえない。
何が起こったのか、さっぱりわからなかった。
あまりにもか細い呼吸をしていた。小さすぎてまともに空気を吸いこめているのかもわからない。口先に指を近づけないと、呼吸をしているなんて気づけない。
急いで、アオバはキオの手首に指をあてた。手首の皺。静脈がうっすらと見えるそこに。
そこには心臓のリズムに合わせて流れる血液が、それを通す血管が、脈に揺られているはずだった。
でも、キオの手首にはそれがない。
「どういう、ことなんだ……?」
脈がないということは、心臓が動いていないということになる。なってしまう。
心臓が動いていない……それが意味しているのは、あまりにもわかりきっていることだ。
背筋が凍るような冷たい気持ちが、背中を貫いた。
「おい! キオ、起きてくれ!!」
何をすればいいのか、アオバにはわからなかった。
ただ単に、背後を付き纏う冷徹な暗闇から逃げたくて、キオの肩を揺らしていた。
「キオ!!」
でもキオは起きてくれない。何度呼び掛けても、それこそ人形のように、何の反応も返してくれない。
溢れる涙を拭おうともせずにアオバは、ひたすら叫びかけることしかできなかった。
「クソっ」
キオの腕を引っ張って、自分の肩にかける。
できることなら何でもする。あとで怒られることなんて、考えていられる余裕はなかった。
見下ろす先は、さっきまで登ってきた階段。
長い長い階段を、今から降りれば、きっとなんとかなるかもしれない。
アオバ自身には何もできないけど、大人たちならまだ、何か知っているかもしれない。
キオを背負い上げようとしたその時だった。
階段の下を光がチラつく。
遅れて、何人もの野太い叫び声が聞こえてくる。
……大人たちの声だと思い出したころには、その大人たちはもう、アオバの眼前まで来ていた。
「急げ! 少女を運べ!」
ケンジの怒号と共に、駆け寄ってきた大人たちがひょいと動かなくなったキオの体を持ち上げる。
そしてケンジがアオバの前へ来たと同時に……。
ケンジの振り上げた拳が、アオバの頬に叩きつけられた。