虹の彼方に、フェアリーテールの祝福を   作:在田

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「生命維持……」

 

 操作室。キオの背中を見てからぱったりと入らなくなっていたのに、今はここに呼びつけられている。

 いつもの薄暗い地下空間と、心地よい明るさに囲まれた青空とは違って、この部屋はいつも電灯で真っ白く明るいけれど、どこか冷たくて寒々しい。

 

「そうだ。生命維持……あるいは電源供給と言っても過言ではないだろう」

 

 入ってすぐの壁際で立ちすくむアオバに言い返したのは、奥で椅子に足を組んで座り、そして腕も組んでアオバを見据えるアリスだった。

 いつになく険しい視線に、足が震える。

 だというのにアリスの語調はいつもと全く変わらない。そこがアオバにとっては不思議でもあったし、怖くもあった。

 

 アリスが、ベッドに横たわるキオへ視線を落とす。

 首から下に布団がかけられていて、まるで眠っているように、その胸が呼吸で上下していた。

 

「彼女の首の後ろに繋がっていたものは、君が想像を巡らしているのであろう犬の首輪と手綱などではない。彼女の心肺、腕や足の動きなどそのほぼ全ての活動に必要なエネルギーを動力として供給しているケーブルであり、チョーカーはそれを外れないようにするための固定具だ。その意味では、首輪だけは正しいのかもしれないな」

 

 発せられた言葉には、視線を跳ね退けてでも聞かなければならないことがたくさんあった。

 

「動力って……なんだよそれ」

 

 小さく吐いたその言葉に、アリスからの返答はなかった。

 だから溢れてくる思いをせき止めることができなかった。

 

「まるで機械みたいに!」

「いや」

 

 アリスが短く、だけど強めに言葉を突きつけてくる。その一声だけで、継げようとしていた言葉が容易く途切れてしまう。

 アリスが、アオバの代わりに言葉を続ける。今のような強さのない、さっきまでのいつもの、抑揚のない、まるで教科書を読みあげるような語調。

 

「まるで、ではなく、まさしく、と言って良い。

 ――彼女は機械だ。間違いなくね」

 

 アオバは何も返せなかった。

 アリスが言っている意味を、わかりたくなかったし、わかる気もしなかった。

 だって、アオバの見ていたキオは、あんなに記憶のキオとそっくりで、その表情もそうだ。髪が伸びたこともそうだし、背が伸びたこともそうだ。髪をいじる癖だって、あの時に一瞬だけ見た彼女の肌色の全身だって……間違いなく人間そのものの、いや人間でなければできないはずのことばかりだったはずだ。

 そんな言葉をいきなり被せられても、全然飲みこめないに決まっている。

 

 だけどアリスは声の文章を続ける。

 

「少年、君は、彼女が日頃行っているコトの中身を、聞かされたことがあるかね?」

 

 日頃行っているコト。確認するまでもなく、キオが誰にも会えないという時間のこと。

 シャワーを浴びた後のキオとは会うけど、キオからその中身を話されたことなんてない。だから、アオバは話したがらないことなんだろうと思っていた。だから聞かないようにしていた。

 しかしアリスはゆっくり立ち上がって、水色のシャツの襟を整えて、白衣のポケットに両手を入れながら、アオバに背中を見せた。

 

「……着いてきたまえ。彼女が行っていることを教えてあげよう」

 

 振り返ったアリスは、口元だけを皮肉気に笑った。

 

「良かったな少年。彼女の秘密を、知ることができるぞ」

 

 その放たれた〝彼女〟という言葉が、いつもアリスが言っている言葉とは別のニュアンスを持っていることにアオバは恥ずかしさを感じたけど、今はそれよりもムッと膨れあがった怒りの方が大きかった。

 でも、笑顔や言葉とはまた別に、アリスの視線はまだ鋭くアオバを貫いていて、とてもそれを口に出そうとも、そして表情に見せることもできなかった。

 

 

 操作室の隣に、その部屋はあった。

 操作室と地下空間を繋ぐドアとは違う、重厚な金属製のドアを開いて、入る。

 大きさにすれば操作室と同じぐらいか、それよりも少し狭い程度の空間。アオバが家族と普段暮らしている家がだいたい十畳の空間で、それよりはちょっと広い、というぐらいだった。

 壁には、アオバ自身ほどの大きさもある機械が取りつけられていた。全部同じ形をしているけど、何の機械なのか全くわからないから、触ろうとも思えなかった。

 壁に一着、ハンガーでかけられた服があった……いや、服と呼べるのかどうかはわからない。

 ウェットスーツと同じような、全身を覆うタイプの、複合繊維で作られた紺色のスーツ。

 アリスはそれを手に取って、背中部分を見せてくる。

 

「これが、毎回彼女が装着しているフィッティング・スーツだ」

 

 スーツの表面には、至るところに電極や細いケーブルが張り巡らされていたけど、そのケーブル類は、背中にある銀色の部品――とりわけ、中央にぽっこりとせり出している球体に繋がっている。

 スーツそのものも、また違うケーブルを壁の中へ伸ばしている。

 

「先ほど、彼女が機械だと言ったが、しかし彼女は完全な機械という意味ではない。概ねサイボーグという呼び方が正確だろう。そしてこの部屋は、彼女にサイボーグとしての限界性能を引き出してもらうために作られている」

 

 サイボーグ……フィクションの中にあった言葉が、アリスという理屈っぽい女性の口から出てくるだけで妙な現実味を帯びてアオバに入りこんでくる。

 

「なんで、そんなことを……」

 

 ふと口を突いて出てしまった言葉に、アリスは短く返した。

 

「赤の女王に囁かれたのさ。そうするべきだとね」

 

 赤の女王? ……アオバの知らない言葉。おそらくアリスも知らない前提でそう言っているんだろうし、そしてわからせるつもりもないようだったから、アオバは深く質問しなかった。

 

「そしてこのフィッティング・スーツを用いて、彼女がケーブルへ接続されずに行動できるための動力を作り出す訓練を行っている。今でこそ彼女は体内にある小型の電源装置を用いて、ケーブルを外した後に数分程度しか動くことができない。

 だが、ゆくゆくはこのフィッティング・スーツに他の周辺機器を搭載して、彼女がケーブルなぞに依存せず生活できるよう、訓練を進めている」

 

 ケーブルに接続されず……この言葉に、アオバは安堵した。

 アリスみたいな人でも、そういうことを考えてあげることができるんだと思ってしまう。

 そして、そうであるなら今まで会えなかったのもしょうがないと思い直すこともできる。大人たちだって、あの巨大空間をも満足に行き来できないキオを気の毒に思っていたんだと。

 

「ところで、少年」

 

 アリスがスーツをハンガーにかけた。

 

「君は、スーツの背面にあるこの球体に、何が入っているかわかるか? いや、より正確に言うならば、彼女が着ることで、何が入ると思うね?」

 

 答えようという気にはならなかった。

 どうせアオバの知らない、難しい科学用品の名前が出てくるんだろ、という予測が簡単に立ったからだ。

 だからアオバは答えなかったし、アリスも答えないアオバを見てすぐに答えを告げた。

 

「ブラックホールだ」

 

 それは聞いたことがある……そう思ってすぐに、その単語が差しているモノを思い出して、あまりにも大きな規模に目を剥いた。

 驚くアオバを余所に、アリスは言葉を再開させる。

 

「正確にはマイクロブラックホールだろう。

 フィッティング・スーツあるいは彼女自身へ供給する電力は、それに荷電させて取り出している。さらにはそのマイクロブラックホールによる重力流を、今は壁に埋まっている、彼女と有線で繋がっている装置を使って操作させることで空間を歪ませ、そこから次元に穴を開けてワームホールを作り、その向こうから時間そのものを召還して、彼女は我々とは違う時間軸を作り出している」

 

 そこで言葉を区切って、アリスは一度だけアオバを見た。

 長い言葉、わかりにくい単語……アオバが何を思っているのか、顔を見ればすぐにわかることだろう。

 

「……わからないようだな。

 たとえば我々が秒針を眺めてカウントを取ることにしよう。一、二、三、とな。

 だがもし、我々が一と二を数える間に、我々には観測できないもう一秒が存在するとしたら……そして彼女だけがそれを観測することができるのだとしたら。

 我々と彼女は同じタイミングで一を数え、我々が知らない間に彼女だけが二をカウントし、そして我々が二をカウントすると同時に、彼女だけが三をカウントできる。

 これを我々が認識できないほどに極小の時間単位で彼女が繰り返していけば、いずれ我々が十をカウントするときに、彼女だけは百をカウントしきることができる。

 ……理論上では、な。

 だが考えてもみろ。ワームホールは次元の歪みであると同時に、その向こう側へと繋がるトンネルだということを。

 それを維持するためにも、ブラックホールの力を使わなければならない。

 ならばいっそのこと、向こうからわざわざ取り出すなどという面倒なことをするまでもなく、我々と同時に一をカウントした彼女がその向こう側へと飛んで二をカウントし、そして戻ってきてから三を数えることをすればいい。

 ……さて少年。私がなぜ、そんな話を言っているのか? そう疑問に思うだろう。

 この二つの理論には、結果的な差はない。我々が二を数えるのと同じタイミングで彼女が三を数える。それだけだ。

 残念ながら、私と今この操作室にある設備では、この二つの違いを説明しきること、そして今彼女が行っていることがどちらなのかを特定することはできない。

 だがもし後者なのだとしたら、そして、向こう側に渡ってそれをカウントしている間に、装置が異常をきたしてワームホールの維持ができなかったとしたら――」

 

 アリスが歩み寄ってくる。

 大きな身長が、そして今なお小さなアオバを見下ろす彼女が、話を続ける。

 その言葉は、先ほどのサイボーグの話なんかよりも遥かに、アオバへ衝撃を与えた。

 

「――彼女は跡形もなく、この世界から消えてしまうことになる」

 

 その衝撃に飲みこまれてしまう前に、アオバは大声で拒むしか……認めないように、何か別の答えを求めるしかなかった。

 

「消えるって、どこに!?」

 

 でもアリスの語調は変わらず、機械のように冷徹な返事が返ってくるばかりだ。

 

「わからない。ワームホールの先に何があるのか、我々に観測する手段はない。またどこか別の空間なのか、それとも住んでいる宇宙すら違うのか、さらには次元までも違うのか、全くわからないのだ。

 だがもし、それが運良く『我々が今住んでいる世界のどこか』だったとしても、彼女が助かる可能性はほぼ皆無に等しい。

 つまりそれは、『我々が今住んでいる世界』を一度出てワームホールを潜り、そしてまたこの世界へ戻ってくる、という意味になる。空間転移(テレポーテーション)……そう呼べる現象だろう。

 しかし、空間転移などできるはずもない。

 入ったとして、出る先となる座標の固定がほぼ不可能だ。光にも等しく、時にはそれ以上となる速度で繰り返される宇宙の膨張。銀河系の回転、太陽系の回転、そして地球の自転と公転……それら全てを計測しきった上で、そのタイミングに出現先となる座標を完全に特定し、その上一瞬でもタイミングがずれてしまえば、空間転移をすることができても宇宙空間に放り出されてしまう。

 地球の自転は時速一七〇〇キロ、そして公転は十万キロ、秒速なら〇・五キロと二十八キロだ。一秒ずれるだけで、地中深くに突入してそのまま地圧に潰される可能性だってあるということになる。

 そもそも座標の特定方法もわからない上に、それらの計算など、地球上の全てのコンピュータを全て並列に使って、できるかどうかといったところだ」

 

 喋り疲れたのか、一つ息を吐いたアリスは部屋の隅にあった大きな箱を開ける。

 そして中身をアオバに見せた。

 

「話を戻そう。彼女の訓練の話だ」

 

 それは黒い鉄塊だった。

 長大な円筒、複雑ながらもアナログな装置。側面に取りつけられたレバーによるボルトアクションを、アリスが弾を込めないままで手際よく行って見せた。

 対物砲(アンチマテリアルライフル)。アオバはそれを知らなくても、その圧倒的な大きさと重さは、それだけで圧倒された。

 

「……これを、キオが?」

「現在はまだ不可能だが、ゆくゆくは使用する可能性があるかもしれない、というだけのことさ。なるべく、これの使い方など教えたくはないのだがね」

 

 それを仕舞ったアリスは部屋を出ていく。アオバも後ろを着いていき、操作室に戻る。

 結局アリスが何を話していたのか、アオバでは大まかなイメージでしか掴めないし、そのあまりにも現実離れしているくせに現実味がある話の、どこからどこまでを信用すればいいのか、さっぱりわからなかった。

 

 アリスがキオの横たわるベッドの隣に、部屋へ入る前と同じように座る。

 キオの耳元……そこにあるヘッドフォンに伸びるアリスの手を、アオバは見ていた。

 ヘッドフォンが外される。

 遠目に見ながら、どうしてか、アリスとキオの近くに陣取ることができなくて、壁際というほど遠くはないけど、でもちょっとだけ距離を置いたところにある椅子へ座った。

 

「こちらに来たまえ。そこまで離れることもないだろう」

「……」

 

 もうこれ以上、アリスの話を聞きたくなかった。

 アリスの語っている話はどれを信じればいいのかわからない。でもそのほとんどに嘘偽りがないだろうことはわかってしまう。

 キオのことは確かに知りたい。アリスが機械――それもサイボーグだなんて言った根拠を問い質したい気持ちは、あった。

 でも問い質せば問い質すほどに、見たくない現実と最悪の形で向き合わなければならないような……いや、向き合わせられるような気がして、一刻も早く逃げ出したかった。

 

 渋々、アオバはキオの近くまで……アリスがその髪の毛を掻き分けて指差す、キオの耳元を見る。

 そこには、耳の穴なんて呼ばれるものはなかった。

 代わりにプラスチックの欠片みたいなものがそこに埋めこまれているのを見つける。

 冷たい気持ち悪さが喉を通り過ぎて、腹の底に重く落ちる。人の体にそんなものがあるなんて思いもしなかったし、何より、それがよりによってキオの中にあるという現実そのものが、アオバの胸を締めつける。

 

「見てみろ。彼女は五年前の事故で鼓膜が破けた。中の耳小骨すら変形しているほどだ。だから聴覚を補うため、この中継装置を聴覚神経に直接繋げて、このヘッドフォンの形をした集音装置で音を聞いている。このヘッドフォンそのものが彼女にとっては鼓膜代わりなのだ。だから今の彼女には、何も聞こえない」

 

 ヘッドフォンをベッドに置きながらアリスは耳から手を離し、機械が髪に隠れて見えなくなって、アオバはそんなことで少しだけ安堵している自分に嫌気が差した。

 六年前の爆発に巻き込まれたキオが、大丈夫だったわけがない。

 アオバの知らないところで、知らないうちにキオは、今教えてもらった耳以外にもきっと、全身の至る所を機械にされているのだろう。

 しかもそれがなくなったら今度は、キオは今までできた生活を送ることすらできなくなる。

 途方もない虚無感が圧し掛かる。

 

「本来ならばこの程度に……人間としての生活が送れる程度に補うだけで良かったのだが……しかしこうして機械の体を得ているからこそ、彼女は機械でなければできないはずの芸当をこなすことができている。常軌を逸した超高速の時間に生きている彼女は、我々とは違う時間軸に生きていることになる」

「どういうことですか」

 

 聞かずにいられなかった。

 アリスの言っていたことはもっともだとアオバも思った。機械に頼るのは、最低限必要な部分だけでいい、と。

 でもそれ以上の……ブラックホールだとかワームホールだとか、そういうスケールが大きすぎてわからないものなんかを、持ち入れる必要なんてなかったはずなんだ、と。

 

「少年。君の目には、彼女がいくつに見えるね?」

「え」

 

 突然の質問に、アオバはまたも声を漏らしてしまった。

『目覚めた年齢が十歳。それから二年弱の時間が経った。ならば十一歳もしくは十二歳だ』と――そういう風に、目覚めた時間からの計算で答えてしまう。

 でもアリスの質問は「いくつに見えるか?」であって「計算しろ」ではない。

 そしてキオは、あのスーツを着ている間だけ、普通の人間より多くの時間が数えられるとアリスは言っていた。

 

 それは即ち――。

 

「彼女は、我々の時間概念ではあと一週間もしないうちに、十四歳になるだろう」

 

 震える手を拳にして、必死に握り締めた。

 アリスに対する気持ちがごちゃ混ぜになっていて、どんなことを言い返せばいいのか……そもそも、アオバ自身がアリスに対して抱いている感情が、感謝なのか憤慨なのかの区別もつけられていない。

 ただとにかく……とんでもなく大きく煩雑な思いだと……たったそれだけが、洪水のように暴れ回っていた。

 噛み締めた歯の付け根から鉄の味が滲む。

 アリスから逃げるように、ベッドで横たわるキオを見つめた。

 静かに寝息を立てているけど、そもそもそのキオを危うく殺しかけていたのはアオバだ。

 でもそんなことを、信じたくなどなかった。

 

 今もキオの首に括りつけられているそのチョーカーを外したら死んでしまうなんて……それは普通の人間では――人体では考えられないこと。

 それを、こんなにも人間らしい姿形をしているキオが抱えていることだなんて、思えるはずもなかった。

 ヘッドフォンが鼓膜の代わりだなんてことも、信じられなかった。

 

「ねぇ、キオ」

 

 アオバは語りかける。ヘッドフォンが外されている少女に。

 アリスの言っていることなんて全く信用できない。だからキオが今ここで目を覚ませば、アリスの言っていることなんかを信用せずに済む。

 そう思った。

 

「キオ」

 

 その名前を繰り返し言う。

 ……でも、キオはピクリとも反応しなかった。

 耐えきれず伸ばしかけた手は、でもキオには触れない。

 触ってしまったらそれこそ、アリスの言ったことを信じたことになってしまうし……何より、あんなにもぐったりして脈さえ感じられないキオを思い返してしまい、もしかしたら、またやってしまうんじゃないかと怖くなって、できなかった。

 大きい声なんて出せなかった。出そうという元気も根気もなかった。

 

 何かの拍子でキオが目を開けてくれれば……。

 たったそれだけのことで良かったのに、でもアオバが抱いた願いは、腕を伸ばせば届く距離にいるキオへ、全くと言っていいほど届かない。

 

 アオバの知らないところで何が起こっていたのか。

 それを知ることはできた。だからといってその全部が嬉しいことばかりじゃないぐらい、わかっているつもりだった。

 

 ……でも目の前にあるこの現実だけは、とても辛い。

 何よりそんな大事なことを本人が知らないはずもなかったのに……それでも何も知らないアオバの言うことを聞いてくれたキオに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 胸を絞めつけられるような痛みばかりが、当事者でもないアオバを苦しめる。

 涙がこぼれ落ちる前に、キオへ背中を向けて、扉へ向けて歩き始めてしまう。

 そんなアオバの背中に、アリスが声をかける。

 

「少年。一つ言っておくことがある。海へ向かおうなどという、妄想は抱かないことだ」

 

 ノブに手をかけたアオバの動きが、そこで止まった。

 

「どうして、それを知っているんですか?」

「昨日、彼女から聞いたのだよ。少年が映画を見せてくれたとね。だが、こんなにも早く行動へ移されるとは思っていなかったよ。

 概ね、海は遠すぎるために川という折衷案を出したというところだろうが、近くにあったとしても海へ向かうなど愚の骨頂だ。戦艦か潜水艦がミサイルを飛ばしてくるだけだろう」

 

「そんなこと、やってみないと」

「信じたいのなら信じればいい。夢は誰にでも開かれているのだからね」

 

 アオバを遮って、アリスは強く言葉を放った。

 

「だがもしミサイルが飛んできて、君には対処できるのかね? 今この話を聞いただけで、この部屋を出ようとするような君に」

 

 言葉の後半で、アオバの両手に力が籠もる。握った拳が真っ白になるほどに、その思いがつのる。

 

「でも……それでも……!」

 

 このまま思っていることを怒鳴り散らすことだってできた。

 だけど、どれほどがなり立ててもキオが起きないとわかってしまったら負けだとも、アオバは思っていた。

 キオが起きてしまってはいけない。だから大声は出せない。

 

「キオは、ここから出られないんですよ」

 

 だからアオバは、すぐにでも溢れんばかりの思いを、震える声で細々と吐き出す。

 でもアオバの思っていることは、アリスの冷たい言葉で一蹴される。

 

「私はこれでも、君の倍以上はこの人生という夢物語を生きているのだ。せめて私の半分に至ってからものを言いたまえ」

 

 アリスがアオバからキオへと視線を落として、額に手の平を置く。

 目を細めて、アリスは少しだけ落ち着いた、柔らかな声で言った。

 

「君たちはチルチルとミチルではない。そう都合良く、事は転がらんさ」

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