静かになった操作室の中で、ヘッドフォンをつけられたキオが瞼を開ける。
「おはよう」
「……」
上にあるアリスの顔。キオも返そうとして、とあることを思い出した。
アオバに手を引かれて、階段を登っている記憶。
……首のケーブルを外したからなのか、気分が悪くなり始めたところまでは、覚えていた。
しかしそこから先を思い出せない。
でもキオが操作室のベッドにいるということは……。
「アオバは……」
扉は半開きになっていて、その隙間から外の暗闇が少しだけ見えていた。
「行ったよ。どうせ明日も、彼は来るのだろう」
淡々としたアリスに対して表情を曇らせていくキオ。
自分のことをちゃんと言い出せなかったことが悪い。ちゃんと説明できれば……説明できる勇気さえあれば、きっと今アオバが感じているだろう悲しさや驚きを、なくすことはできなくても、かなり和らげることができたはずだと、キオは自分を責める。
「アオバに、話したの? わたしのこと」
「ある程度はな。むしろ、君の口から話してやることの方が優しさというものだろうが……まあ、いいさ」
ケーブルを外したら少ししか動けないことは聞かされていたけど、実際に体験したのは初めてだった。
もしかしたら死んでいたのかもしれないけど、何せそこの記憶がすっぽりと抜け落ちていて、現実味はわかない。
起き上がろうとしてすぐに、アリスが肩に手を置いてきて首を横に振った。
「もう少し寝ていたまえ。どうせ今は夜なのだ。明日の朝までゆっくり寝転がっておくといい」
そう言われるとキオは従っているしかない。
アリスの言葉はやっぱり正しいことなのだから。
「……わたしは、いつになったら外に出られるの?」
ふと、その思いを漏らしてしまった。
訓練を始めてから思っていること。
訓練さえできれば、キオは一人でいろんなところに行ったり来たりができるようになる……アリスは確かにそう言っていたから、信じている。
でもそれがいつに実現されるのかは、全く聞かされていないことだった。
アリスはキオから視線を逸らして、シャツのポケットから取り出した煙草を唇に挟む。
「それは君次第さ」
「でも!」
キオが大きく声を張って、アリスの視線が再びキオへ向いた。
「もう、ブラックホールの安定はできている。だからもう、大丈夫なんじゃ……」
「割れた卵はかえらない。割れる前に戻ることもなければ、その中にあった雛が生きるわけでもない」
アリスはキオの言葉を遮って、煙草をぴょこぴょこ上下させながら言った。
「安定できていると判断するには時期尚早だ。いざ事が起こってからでは遅いのだ。
まだ君の意識が目覚めてからは二年弱……いや君の時間軸で言えば四年ほどこの世界を捉え、その意識を保っているのであろうが、それとて確固たる確証はない」
アリスの遠回しな言葉づかいを、キオはたくさん聞いてきた。だからアリスの言いたいことはすぐにキオの中で浮かび上がって、キオの返答も他の人より正確なものになる。
「わたしはまだ子供です……でも、わたしはそう簡単に、消えたりしません」
鋭くアリスを見つめる。睨みつける、と形容してもおかしくないが、しかし怒りや恨みといった感情はない。ただ純粋な主張としての視線。
アリスはため息のあとで、煙草に火をつけた。
「君は、自分が本当にここに居ると言いきることができるかね?」
アリスがそう問いかける時は、安易にその質問へ反発させない自信をアリスが抱いている時だ。
だからキオも、言い返そうと体を前に出したものの、はやる気持ちだけで「できる」と答えるわけにはいかなかった。
「人の記憶というものは、それまで暮らしてきた人生を都合よく記録しているものに過ぎず、そして同時に、それを思い返す手段なんてものは、その記憶にまつわるものを見るか聞くか、もしくはいつまでも忘れないように思い続けているぐらいしかない。
つまり人の記憶は、外部記憶装置である外の世界に委ねられているということさ。自らの肉体もまた、その外部記憶装置の一つでしかないだろう。
何もないところから気持ちがわくはずなどない。様々な事象、それも人は経験を積み重ねれば積み重ねるほどにその経験……ひいては記憶から気持ちを引用する。
例えば娘を見て愛おしいと思うのは当然のことだが、娘を見たり思い出したりしない限り、娘に対する愛おしいという気持ちは起こらないものだろう。
つまり周囲の世界や自分の肉体といった外部記憶装置に、思い入れという形で人の記憶が委ねられることはすなわち、記憶に起因する気持ちもそこに委ねられるのではないか。
人が様々な事象に対する気持ちで以て帰納的に、己を定義していることはわかるかね?
人は概ね、過去に自分が何をしてきたかを回想させて、そこから自分というものを定義しようとするものだろう。
しかし記憶はおろか、気持ちですらも外的なものでしかないのだとしたら、個人としての定義を見出す記憶はプロジェクターのごとく外部にある環境であり、ともすれば人間はただの真っ白なスクリーンでしかないのではないか?
つまり世界や環境から帰納的にしか自己を定義できないのなら、人間は本質的にはただの空虚な媒体に過ぎない。
人の定義を外部から帰納的にしか見られないのなら、内面を見る必要すらない。さらに人間が空虚な存在であるならば、人そのものはどこに存在しているのか?
今ここにあるのはただの肉塊でしかないのか?
この世界のどこに私の気持ちがあるのか?
いや、気持ちだけではない……そもそも私がこの世界に在るのかどうかすら、わからなくなってしまう」
ようやく煙草の一口目を吸ったアリスが、キオを見つめてくる。
何を返せばいいのかわからない……という次元ではない。そもそもアリスの言葉は、キオに何も言い返させないつもりで、ほとんど全てを否定するつもりで放たれていた。
「難しすぎたようだな」
それだけ言い残して、アリスは半開きだった扉を通り、操作室を出て行ってしまう。
扉の閉まる音が反響して、キオは布団へ潜りこんだ。
難しすぎたとアリスは言っていたけど、キオはアリスの言葉を大まかには理解しているつもりだった。
去年、アオバにいくつかの写真を見せられていたことを思い出す。写真には間違いなく自分が写っていたのに、そのことをさっぱり覚えていない。
アオバはその度に寂しそうな表情を見せたけど、無理矢理笑って誤魔化していた。
……覚えていない。それは気持ち悪いこと。キオの知らない自分がこの世界のどこかに居たこともそうだし、それをキオ自身が知らないのに他人だけが覚えているということもそうだし……何より、全く見た目が同じなのに、今のキオの体には機械が詰まっていて、同じだなんてちっとも思えないことが、とても気持ち悪かった。
でも、それを教えてくれたアオバには感謝していた。今のキオが、他の人とは違うことを思い知らされたのは確かにそうだけど、それはただ悪い意味だけでなく、それよりも大きな良い意味を、アオバは他の誰よりもキオに優しくしてくれたことで証明したと、キオは思っている。
だから、アオバの悲しそうな表情はもう見たくない。
暗くなった布団の中で、無自覚に髪の毛をいじりながら、キオはそれだけを思っていた。