楯愛をIS学園の敷地ぎりぎりまで送って、モノレールが動き出すまで見届けた後、自室に戻った。
一夏達はまだアリーナに居るだろう。あのやり取りで一夏が復活したので、夕食ぎりぎりまで訓練をしているに違いない。
さっさと着替えて簪を迎えに行こう。部屋で待ってると言っていた。
自室のドアを開けて中に入る。上着を脱ぎながらベッドに進み、脱いだ上着をベッドに投げ捨てようとした時。
「……すぅ」
俺のベッドにすやすやと眠る元ベッド主を発見した。
眼鏡を掛けたまま眠ってしまっている辺り、ちゃんと寝ようとしたわけではないのだろう。
俺を待っていて眠ってしまったのだろうか。
(……待つって、俺の部屋で待つって意味だったんだな)
(元々は簪さんの部屋でしたから、問題はありません。鍵を渡したのはマスターの筈です)
(そりゃそうだけどな?)
ベッドにぶん投げるわけにもいかなくなったので、椅子の背もたれに上着を掛けて前のめりになるように座る。
“打鉄弐式”の開発で疲れているのは知っている。機体面が一段落して、次は武装面の開発が始まる。眠らせてあげられるのなら、眠らせてあげるべきだろう。
食堂が閉まってしまう時間にはまだまだ余裕がある。何ならシャルが帰ってきてからでも間に合うだろう。
俺は俺で、“黒雷”のデータの確認でもしよう。“黒雷”でちゃんと飛ぶのはIS学園に来てから初めてだから、確認しておいて無駄はない。
「相棒、機体データを表示してくれ」
『了解しました。データを表示します』
待機形態である黒いチョーカーからモニターが空中に投影される。
そこに表示される機体データを一つ一つ確認していく。やはり、“打鉄”とは機動性を中心に性能が段違いだ。
“打鉄”には今までもう十分頑張ってもらった。これからは学園に返還するまで一緒に空を感じてもらいたい。
『ところで、マスター』
「どうした、相棒」
『データを確認しながら三秒に一度簪さんを見るのは如何なものかと』
相棒が何を言ってるのかさっぱり分からなかった。そんな事はしていない。
唯勝手に目が簪の方を見てしまうだけだ。俺の意思は全く関係ない。
『簪さんもマスターの睡眠中にじっと見ている事があったので止めはしませんが、盗み見るのは感心しません』
「堂々と見るのはいいのか……」
『簪さんが眺めていた以上、マスターが眺めていても問題ないかと』
どうやら相棒の中ではやった事はやられてもいい理論が成立しているらしい。
そんなわけで投影されているモニターを閉じて、簪の方を見た。
規則正しい寝息と共に上下する胸。どうやら俺とは違って、眠りが浅くなったりはしていないようだ。
俺もシャルがスパイではなくなった事から、しっかりとした睡眠が取れるようになればいいのだが。
「……そういや、眼鏡掛けたままだな」
さっき簪の様子を確認した時、眼鏡を掛けたままなのを思い出した。
彼女の眼鏡は厳密には眼鏡ではなく、携帯用ディスプレイだ。
つまり精密機械なので、使わない場合は安置が基本である。寝返りでもうったりしたらぱきりと逝くのもあり得る。
……仕方ないよな。
椅子から立ち上がって、俺は簪に近寄る。屈んで顔を寄せれば、彼女の存在を強く感じた。
まじまじと見る簪の顔。睫毛は長く、目鼻も整っている。水色の髪はさらさらとしているし、揺れる度に仄かに香る簪の匂いが心臓に悪い。
「ん……」
彼女の口から小さく息が漏れた。嫌でもその柔らかそうな唇に意識が持ってかれる。
何かに流されそうになるのを堪え、そっと彼女の眼鏡を取る。
それを丁寧に畳んで、目覚まし時計が置いてあるベッド脇の小さな物置に置けば終了。
後はさっさと簪の傍から離れるだけだったのだが……。
「……ぁ…………」
何故かシャツを掴まれていた。寝惚けているのだろうか。それにどこか寝苦しそうな表情になっていた。
折角気持ち良く寝ていたのに、無理に剥がしては可哀そうだ。
力を抜くと、ぐい、と引き寄せられた。当然ベッドに引き摺り込まれ、俺も横にならざるを得なくなった。
「…………すぅ」
再び簪は落ち着いた様子で熟睡していた。
だが、こっちはそうもいかない。何しろ目の前に無防備な簪が眠っているのだ。
大変試されている。この試練に、俺はどう立ち向かえばいい。
(やはり脱出するべきか!)
(駄目です、マスター。もう簪さんがマスターの胸元に抱き着きました。逃げ場はありません)
相棒の冷静な状況解説が更なる絶望の淵に立たされている事を知らせた。
もう背中にまで手を回されているので、脱出するには簪を起こさねばならない。
詰んでいた。これは簪が目を覚ましたらジエンドである。
(……相棒、簪が目を覚ましたら状況説明を頼む)
もう寝よう。寝てしまおう。急に眠気が襲ってきた。
そういえば、千冬さんに話があったから今日も早起きしたんだった。そりゃ眠くなって当然か。
加えて、傍には簪が居る。彼女の匂いは俺の鼓動を高鳴らせると同時に落ち着かせる。
――――とりあえず、謝るのは簪が起きてからでいいだろう。地獄へのタイムリミットがあるのなら、今は天国を享受したい。
そう思った俺は、この環境から誘われる睡魔に抗う事もせずに眠りへ落ちていった。
◇
更識簪はゆっくりと目を覚ます。そして声にならない声を上げようとし、済んでの所で止めた。
眼前には雪月楯無の寝顔が広がっていた。心の底から落ち着いている様子で、安らかに寝息を立てていた。
冷静になって状況を確認すれば、自らの恰好に気が付いた。
楯無の背中に手を回し、彼の胸元に抱き着くように眠っていたらしい。そういえば、夢が途中で心地の良いものに切り替わっていったような。
鼻孔を刺激する楯無の匂いに溺れそうな自分に気付いて、慌てて離れようとする簪だが、それを止める声があった。
『待ってください、簪さん』
「“黒雷”……?」
楯無の首に付けられている黒いチョーカーから声がした。言うまでもなく、楯無の専用機である“黒雷”のISコアである。
普段から楯無と簪の会話を聞いたりやり取りを見ていたりしながら、二人は唯のむっつりだと認識している“黒雷”だが、どうやら今回は様子が違っていた。
『よろしければ、そのままでマスターを眠らせてあげていただけないでしょうか』
「どういう……事……?」
“黒雷”の声は平坦で、当然表情もない。しかし、そうでありながら“黒雷”の言葉は簪へ普段とは違う印象を与える。
『ここ数日――――厳密にはシャルロットさんが転入してきてからのマスターの睡眠の質は最低です。このままでは健康状態に支障をきたします』
そういえば、と簪は気付く。
昨日も刀奈と話している時に寝てしまったと言っていた。
シャルロット=デュノアのスパイ容疑。ラウラ=ボーデヴィッヒの包村帯への執着。
普段は何気なさそうに自分と話す幼馴染は、知らず知らずの内に疲労を溜めていたのかもしれない。
『今のマスターの眠りは深く、簪さんと同室だった時の様に安定しています。恐らく簪さんの存在が強く影響しているかと。分かり易く言えば、安心しているのでしょう』
「安心……そうだね。私も……楯無と一緒なら安心する」
簪は静かに楯無の背中に回していた手を解き、そっと楯無の頭を抱きかかえた。
小さく息を漏らし、またすやすやと眠り続ける楯無へ微笑み、そっと髪を撫でた。
「……楯無は私のヒーローだけど。ヒーローも……疲れるし、休みたい時だってあるよね」
――――だから、お休み。私があなたの安らぎになれるのなら、こんなに嬉しい事はないから。
思えばこのIS学園に入ってからずっと傍で助けてくれていた幼馴染へ、更識簪は心の中で告げる。
言うからには聞いてほしい。だから、声に出すのはもう少し後で。
「でも……楯無、また眠りが浅くなっちゃったんだ」
『また、とは?』
“黒雷”からの言葉に、簪は意外そうな声を出した。
「あれ、楯無から聞いてないの?」
簪の言葉を、“黒雷”は肯定する。
『マスターの幼少期の話を聞いてもよろしいでしょうか。マスターからは簪さんと刀奈さんの事しか聞いてきませんでしたので』
楯無は決して自分の事は“黒雷”には話さなかった。
否、話せなかったのだ。楯無にとっての幼少期は、更識刀奈の事でいっぱいいっぱいで、自分の事など殆ど憶えていなかったのだから。
「……楯無、起きないかな」
『問題ありません。マスターが覚醒状態に近付けば、私が知らせます』
簪は「そっか」と相槌を打って、過去を想う。
出会いはあまり良くないものだった。傷だらけで、今にも消えてなくなりそうな少年がそこに居た。
「楯無とは……小学校が一緒だったの。でも、初めは唯のクラスメイトでさえなかった。誰と居ても笑わない男の子。それが楯無だったから」
『気を張り詰めているのは、私と出会った時も同じでした。マスターは純粋に人を頼る事を知らない人ですから。基本的に、マスターは取引でしか相手に何かを求めません』
「ある日、私とお姉ちゃんは更識家が支援してるとある施設に呼ばれたの。歳が近い子供達が居るから、仲良くしてあげてほしいって」
それが姉妹の『更識』としての初めての仕事であった。
そうして彼女達は出会う。兄一人へ世界を閉ざして己を守った妹と、その妹を壊さないように己をすり減らしていた兄に。
「子供達って言っても……きっとあの二人の為だけに呼ばれたんだと思う。施設に居た他の子供達は、皆仲良しだったから。……周りに馴染めなかったのは、雪月兄妹だけだった」
今ではこうして抱きしめられて眠っているが、当時は熟睡する事すら出来ていないような精神状態だった。
一人か妹が傍に居ないと碌に眠る事が出来ず、眠れても数時間ごとに目が覚める。
楯愛はともかく、楯無は順調に壊れていった。
「私もお姉ちゃんも、最初は受け入れてくれなかった。……でも、大人の人が付き添わなくなったある日ね。訪問中に私が熱を出したの」
簪自身も人付き合いが得意ではない。好意的ではない雪月兄妹との関わり合いでのストレスから体調を崩すのは無理もない話だった。
「熱っぽい私に気付いたのは、お姉ちゃんじゃなくて楯無だったの」
『簪さんの様子観察において、刀奈さんを上回ったのですか?』
“黒雷”が平坦ながらも驚愕の色を出す。
簪は“黒雷”の声に、「うん」と嬉しそうに微笑んだ。
簪の看病には楯無と楯愛も参加した。更識家の遣いが来る時間帯まで、二人は刀奈と共に眠る簪の傍に居た。
「お姉ちゃんも驚いてた。後から聞いてみたら、『反応が鈍かった。何で他の奴等は気付いてないんだ』って怒ってたけど」
『それがきっかけで仲良くなったのですか?』
「うん。そんなに急に仲良くなったわけじゃないけど……それでも、私とお姉ちゃんには心を開いてくれたんだと思う。私も……楯無の優しさを知れて…………何でもない」
顔を赤くして楯無を強く抱きしめる簪。
だが、どれだけ強く抱きしめられても楯無は起きる素振りさえ見せない。
「施設の人に聞いたんだけど……それから、楯無は眠れるようになったんだって。相変わらず他の子供達とだとあまり眠れないみたいだったけど、一人か楯愛ちゃんとならよく眠れてたって」
『確かに、私が出会ってからのマスターは睡眠面での不安定さはありませんでした。殆ど一人暮らしでしたので、条件としては整っています』
「学校でも、楯無は話してくれるようになったよ。楯愛ちゃんも入学してきて、お別れするまでずっと一緒だった」
そうして雪月兄妹と更識姉妹は仲を深めていき、雪月楯無は更識刀奈の運命を変える為に去っていった。
簪と刀奈も更識家の宿命に踊らされ、楯愛もIS関連のニュースや書籍を執念深く負うようになった。
『マスターは、あの日のマスター達を取り戻そうとしています。だから、信じてあげてください』
「……うん。私は、何時でも楯無を信じてるから」
再会して変わってしまっていた彼が、一体何を失くしていくのかは分からない。
だが、簪は楯無に誓ったのだ。失っていくものは全て、拾い上げると。
『聞くまでもありませんが。簪さんは、マスターの事をどう思っていますか?』
「え? え……えっと、その。きっと……そういう意味だよね?」
今更“黒雷”が普遍的な意味での楯無への気持ちを問うとは思えない。
ならば、きっと。問うた意味はもっと深い意味での事。
戸惑いは無い。すっと、息を吐いて。落ち着いた表情で事実を確認するように、雪月楯無の相棒へ簪は告げた。
「……好きだよ。熱を出したあの日、私を見ていてくれてたんだって気付いた日から、きっと私は楯無の事が好き」
少年の微かな優しさに触れて。少年との日々を過ごしていく内に、少女は彼に惹かれていった。
再会して、どうしようもない自分に対して手を差し伸べて。そのヒーローの様な姿が、幼い感情を明確に色付けた。
『そうですか。でしたら、私は簪さんに協力しましょう。昔のマスターを教えていただいたお礼です』
「あ、ありがとう……。で、でも、楯無には内緒だからね?」
『無論、マスターには内緒にします。ご安心ください』
“黒雷”の言葉に頼もしさを感じながら、簪は楯無の髪を撫でる。
もうそろそろ食堂に向かわなければ閉まってしまう時間だ。直に彼を起こさなければならない。
だから、もう少しだけ。いつも気を張っている少年を癒すように、簪は彼を想い続けた。
メインヒロインがヒロインし過ぎて真ヒロインの立ち位置どうしよう感が半端ない。