「ふーっ……」
一日の疲れを吐き出すような、深い溜息が自然と漏れた。
千冬さんとの内緒の事情聴取が終えた俺は、少し遅れたが大浴場にやってきていた。
身体を洗ってから湯船に浸かれば、丁度良い温度のお湯がじんわりと俺の身体を温める。
思えば、こうして湯船に浸かるのも何か月ぶりだろうか。IS学園に入学してからは部屋のシャワーだけだったし。
まぁ、部屋のシャワーからいきなり大浴場というのも些か行き過ぎな気もするが。
来るのが遅れたからか、やはり一夏は既に上がってしまっていた。これだけ広いのなら、寧ろ複数人で入る方が丁度よかっただろう。
『マスター。溜息を吐いていますが、何か悩みでもあるのですか?』
「いや、これは何と言うか、世俗からの解放を表現してる感じだ。人間は大きな湯船に浸かるとこうなってしまうんだよ」
『成程。私も肉体があれば、実感出来るでしょうか』
「お前に肉体があったら、俺は女の子と一緒に風呂入る事になるんだが」
『何か問題が?』
「いや、お前がいいならいいんだけど」
相棒との会話の中で、思い出したのは夢の中の少女だった。
背中まである水色の髪と、髪と同じ色の瞳。黒いワンピースを纏い、水面に佇み、俺を空に誘った少女。
何となくあの少女が俺の夢の中だけの存在じゃない気がして、その理由を考えながらぼーっとしていると、大浴場の扉がノックされる。
「帯ー……居る?」
大きな声でこちらの所在を問うてくる声。湯気によってシルエットさえ朧気だが、声の主はシャルだろう。
声の響きが何となく似ている。更に言えば、俺の事を『帯』と呼ぶのはシャルしか居ない。
「居るぞ。何か用か」
こちらも大きな声で所在を返すと、シャルは「そ、そっか!」と上擦った声で返してくる。
何か緊急の用でもあるのだろうか。千冬さんが伝え忘れた事があって俺を捜しているとか。それならそれでゆっくりと湯に浸かった後に行ってやろう。
そう思ってシャルの反応を待っていたのだが、それきり言葉はない。何やら脱衣所の方でもぞもぞと何かをしているようだった。
“黒雷”は俺の首元に居るし、脱衣所には大したものは置いてない。“ゴーレム”のコアも以前束姉がお遊びで作った、番号を間違えると電流が流れる箱に仕舞って俺の荷物の中に隠してある。
何よりこちらには相棒が監視の目を光らせてくれているのだ。妙な動きをすれば直ぐに知らせてくれる。
その相棒が何も言わないのであれば安心だろう、と気を抜いていると、突如大浴場のドアが開かれた。
「お、オジャマシマース……」
現れたのは当然と言うか何と言うか、緊張のし過ぎでイントネーションが意味不明な事になっているシャルだった。
そのあんまりな光景に、俺は一瞬頭が真っ白になって――――直ぐに心の声が出た。
「痴女か?」
シャルはまるでこれから自分も風呂に入るかのように、何も着ていなかった。
いや、何も着ていないという表現は語弊があった。一応タオルで前は隠している。前は。
ターンでもされたら色々と丸見えになってしまうその格好が、シャルが近付いて来る度に湯気の霧の中から鮮明に浮かび上がってくる。
「は、入るねっ! 大丈夫、身体は部屋のシャワーでちゃんと洗ったから!」
俺が言いたいのはそういう事ではなかった。そもそも、身体を洗ったのなら風呂に入り直す必要はないだろう。
遂に近敵してしまったシャルが、その白く長い足を伸ばして浴槽に侵入してきた。
そして態々俺の右隣に腰を下ろしてきた。距離は近い。身体はがちがちに強ばっているくせに、触れた肩は柔らかかった。
「……あ、ご、ごめん! タオルはマナー違反だよね!」
「今のお前のマナー違反がそれだけに収まるか……?」
どう止めていいかも分からず、自分でも「違う、そうじゃない」と言いたくなるような事を言ってしまう。
上手い言葉が見つからないばかりに、シャルはタオルを取ってしまった。痴女の誕生である。
だが、シャルもシャルで恥ずかしくないわけではないようだ。逆上せてしまったように顔まで真っ赤になっている。
「あ、あんまり見ないで……帯のえっち」
自分からやってきたくせにあんまりな言い草だった。
「……左にしてくれ。そっちなら見えないから、幾分かはましだろ」
「う、うん……移動するね」
視界の隅からシャルの金髪が揺れ、左側のお湯が揺れる。
ちゃぷ、と音を立てて作り出された波紋が肌にぶつかる。シャルはそれを押しつぶすように寄りかかってきた。
距離が近い。それも不自然に。
「……それで、何か用か」
「ちょっと……二人きりで話したい事があったから」
この異常事態にも慣れてしまった頃、にわかに問えば神妙な声色で返ってくる。
二人きりなら寮の自室でも問題なかった筈だが、確かに簪や一夏の急な来客も否定出来ない。
何よりここには監視カメラも盗聴器も絶対に設置されていない。されてたら大問題である。
本当に二人きりで居たいなら、この強硬手段もまぁ……いや理解は出来るが納得は出来ない。
「まぁ、今日は色々あったからな。話したい事ぐらいあるか」
「うん、あるんだ……帯にだけはちゃんと聞いてほしい事が」
シャルは塞がれた俺の視界を越え、身を乗り出して俺の視界に飛び込んできた。
気を張った瞳が俺を捉える。俺の事を知りたいと言ったこいつは、今日までの日常の中で本当にやりたい事を見つけられたのだろうか。
「さっき、私達は事情聴取を受けてたよね。その時私は、轡木さんから取り調べを受けたんだ」
「轡木って、学園長の旦那の用務員だろ?」
「うん。けれど、本来の姿はIS学園の実質的な運営者。その人からの取り調べは、今回の件とは違う内容だった」
「お前の正体について……か?」
俺の問いに、シャルは頷いた。
「正確には、私の危険性について。IS学園にとって私はデュノア社のスパイのまま。帯や一夏、男性操縦者のデータと、その乗機である“黒雷”や“白式”の機体データを盗みに来た存在なのは変わらない」
「本来であれば速攻で排除すべき存在だ。それが一ヶ月も見逃されていたのに、どうしてまたこのタイミングで?」
「……誰かが監視をして、私がスパイ行為を働いていないって事を示してたからでしょ?」
「……こっちにだって学園に恩を売る必要があった。タイミングが合っただけだ」
「それでも、私がこれまで学園生活を送れていたのは帯のおかげだよ」
だから、ありがとう。そう言って俺の肩に頭を預けたシャル。
畏まり過ぎたその言葉に、何だか違和感を覚える。
「これからお前はどうなる」
「どうなるか、気になってくれるんだ」
揶揄うような、嬉しがるような声音。
「見てろって言ったのはお前だろ」
「そうだね……安心して。私はどこにも行かないから。私はIS学園から取引を持ち掛けられたんだ。スパイ行為の即刻停止、そして私の在学中のIS学園の暗部への参加。それを条件に、今回のデュノア社の容疑を不問にし、私の身柄を保障する……って」
「それをお前は受け入れたのか」
シャルは頷いて、俺の事をちらりと見上げた。
その体温が上がったのは、きっとのぼせたからじゃない。
「それをさっき父に報告してた。父は『好きにしろ』ってさ。好きにするも何も、IS学園にスパイがばれている以上、選択肢なんてないんだけどね」
「お前がIS学園に入れたのは、デュノア社だけじゃなくフランス政府も一枚噛んでるんだろ。国際問題を回避出来るなら、お前一人の人身御供は安いもんか」
相変わらずの大人の汚さに嫌な気持ちにはなるが、それが完全にシャルの不利益になるかは別問題だ。
きっとこういう時のシャルは強かだ。何故かそんな予感があった。
「勿論、このままIS学園の生徒ではいられるよ。それも条件の一つ。……本当は、デュノア社だって身柄の保障だってどうでもいいんだ」
つい今しがたまで人に寄りかかっていたのに、ばしゃり! と勢いよくシャルは立ち上がる。
無論、お湯で隠れていた部分も色々と露になる。左側にいてくれて本当によかった。大体、こんな状況でこんな事話してるなんて場違いが過ぎる。
そんな俺の思考に一石を投じるような――――聞いた事のない、シャルの声。
「私が……帯の――好きな人の傍に居たいだけなんだ」
声が震えていた。けれど決意の籠った声だった。
それを無碍にする事はきっと、告白された俺自身にも許されない事だ。
言ってしまって緊張の糸が切れたのか、文字通り糸が切れた人形の様にシャルはふにゃりとへたり込んだ。
「それがお前のやりたい事……か」
なるべく見ないように支えると、気恥ずかしそうに頷かれる。
「ボーデヴィッヒさんが“VTシステム”に呑まれた時……帯、怒ってたよね」
「……あぁ」
「決勝は一夏は一夏の、ボーデヴィッヒさんはボーデヴィッヒさんの譲れないものをぶつけ合う一戦だった。私達はその手伝いをしていただけだったけれど……この一ヶ月、私は一夏の、帯はボーデヴィッヒさんの譲れないものを傍で感じていたと思う」
確かに、それは事実だった。
見えてきたのは最近の事だ。強さへの渇望。飽くなき弱さの否定。それら全てが千冬さんへの憧れからで、自らを救ってくれた相手に認めてもらいたいという願いから。
それを俺は、ラウラの転入早々から刃を交えて感じ取っていた。
「だから、帯は怒ったんだよね。“VTシステム”がボーデヴィッヒさんの譲れないものを踏み躙ったから」
その通りだ。俺はあの瞬間、確かに怒っていたのだろう。
救われるべきだと思った。あの小さな背中で必死に世界最強を目指す黒い兎は、あんな所で立ち止まっているべきではないと。
「お母さんが死んでからずっと、状況に流されるだけの私だった。誰かの為に何かをしよう、なんて考える余裕もなかった」
それは仕方のない事だ。肉親を亡くして、他者の為に何かをしようと平然と思える方がどうかしている。
守るのは自分の心でいい。その手段に状況を流される事を選んだとしても、誰が責められるだろう。
だが、それでは何も残せない。それを知ったシャルは、自分で何かを残す道を掴み取った。
「けれど、他人の譲れないものの為に怒れる帯を見て、私の心が熱くなっちゃったんだ。ずっと火照って止まらない。この人と一緒に居たいって、思って……好きに、なっちゃった」
「……そうか」
選んだのはシャルで、掴んだのもシャルだ。その選択の価値は、尊いものだ。
シャルの気持ちを受け取って、俺はゆっくりと頷いた。
そんな俺を見て、シャルは意外そうに目を丸くした。
「……笑わないんだね」
「人に気持ちを伝えるのは、勇気が要る事だろ。笑ったりなんかしない……お前がやりたい事を笑ったりするやつは、俺が潰す」
「物騒だよ……」
可笑しそうに笑って、シャルは身体の力を抜いた。
まるで懐いたペットの様だと、場違いな事を思う。楯愛も甘える時はこんな感じだった。
暫くそうしていたのだが、急に電源が入ったようにシャルははっとした。忙しい奴だ。
「あ、べ、別にね! 付き合ってほしいとかじゃないんだ! 帯は忙しいだろうし、それ以上に、その……簪や楯無さんが、居るよね?」
「いや……確かに、居るけど。色々と積み重なり過ぎて、そう簡単な話でもないしな……」
と言うか、色々と必死過ぎて考える余裕がなかった。
簪はとても魅力的な女の子だし、向けられている感情が特別である事も分かっている。俺だって特別な感情を向けているつもりだ。
だが、それは刀奈にだって同じ事。その感情の意味だって、俺自身はっきりしていない。
変わっていないのだ、子供の頃から。俺は未だに、たった一種類の『好き』しか持ってない。それを育む期間を、俺はISに費やしてきたから。
「だからね、帯が嫌じゃなかったら……その、傍に居させて?」
その願いは誰に否定されようが、シャル自身が叶えてしまうのだろう。
態々訊くまでもないのに、律義と言うかあざといと言うか。
「……お前が居たいなら、そうすればいい。唯、どうなっても知らないぞ」
「うん……帯ならそう言ってくれると思ってた。やりたい事を見つけた私を、帯は否定しないって」
する筈がない。俺はきっと今初めて、シャルル=デュノアではなく、シャルロット=デュノアと出会ったのだ。
俺の傍に居たいと言った少女を、俺は無碍にする事は出来ない。
「私の協力が必要だったら、何でも言って。傍に居るから」
はにかみながら告げるシャルロット=デュノアへ、雪月楯無は頷きを返せたように思う。
◇
翌日。
IS委員会から派遣されていた『らしい』男性操縦者のボディガード、シャルル=デュノアは籍を消し。
フランスの代表候補生――シャルロット=デュノアが、IS学園へ入学した。
この話に出てきた衣類がタオル一枚なのに驚きを禁じ得ない。