七月七日、臨海学校二日目の早朝。
雪月楯無は、ふとした違和感からゆっくりと目を覚ました。
先ず感じたのは、唯落ち着く匂いだった。更識簪や更識刀奈からは感じられない、雪月楯無を鎮めるだけの匂い。
次に違和感から目が覚めたにしては危機感のない覚醒だと、朧げな意識で思い、違和感の正体を確認した後に納得した。
「……くぅ」
世界で一番愛らしい妹――雪月楯愛が、可愛らしい寝息を立てて腕の中で眠っていた。
昨日は確か、点呼の後に速攻で床に就いた筈だった。
元来楯無は睡眠障害がある。幼い頃に妹と共に天涯孤独になった故の心的負担からだが、今では一人や更識簪などの心許す相手との同室であるならば支障はなかった。
だが、今回は臨海学校という事で環境が違う。隣室には織斑姉弟、セキュリティもIS学園には程遠い。
何時誰が来てもおかしくない環境。それを警戒して眠りが浅くなるのを見越し、夜更かしする事もなく眠りに就いたのだった。
夜中に何度も起きるのを覚悟して、蓋を開ければ目覚ましより少し早い程度。
通常ならばありえない事であったが、懐に最愛の妹が居るのであれば納得だった。
「おはよう、楯愛」
腰まである、絹の様に艶やかな黒髪を撫でる。
彼女は手入れの大変さを兄に熱弁していた。自分に気持ちよく撫でて貰いたいからだ、と頻りにアピールする様を見て、兄は妹の努力を誉めながら願い通りに撫でていた。
ぴくり、と楯愛の頭が動いた。そしてその二秒後にはがばりと顔を上げて、兄と瓜二つの色の二つの赤で楯無を捉える。
「折角兄さんに撫でてもらってるのに寝ちゃってました! 一生の不覚です!」
「その一生の不覚何回目だよ。大丈夫、幾らでも撫でてやるから」
記憶にあるだけでも三十回以上ある一生の不覚を気にする事もなく、楯無は髪を撫で続ける。
楯無的にはまったくもってどうだっていいのだが、状況把握をする為に問わなければならない事は山程あった。
「今日はISの装備試験の日なのは知ってる。楯愛が“打鉄弐式”の武装テストで来る事も、刀奈から聞いてるよ。でも、来るの早くないか?」
「えへ、兄さんに会うのが待ちきれないので前乗りで来ちゃいました」
「一応訊いておく。何時からだ?」
「三時ですかね。旅館に着いたら兄さんの気配を頼りにお部屋を見つけました」
「織斑先生に許可は取ったか?」
「妹が兄さんと同じ布団に入るのに許可なんて必要なんですか?」
妹のあんまりな暴論に、兄は「それもそうだな」とあっさりと陥落した。
蕩けるような声で甘えてくる妹の為なら、“世界最強”の担任に頭を下げる事くらい何ともなかったのだった。
「夜遅くは危ないからな。今度からはちゃんと連絡して、俺の迎えを待つ事」
「はーい、えへへ。兄さん優しくて大好きです」
「妹に優しくない兄は世界に存在しない。俺も大好きだから」
世界で一番いかれた兄と妹は布団から出る。よく見れば楯愛はIS学園の制服を着ていた。
どうやら前回の学年別トーナメントの時といい、訪問時の際に色々と便利なので個人の物として渡されているようだ。そして早速悪用されていた。
楯無も制服に着替えて顔を洗って歯を磨き、兄妹揃って部屋を出た。目指すは食堂である。織斑千冬への報告をすっ飛ばし、普通に朝食を取ろうとしていた。
楯愛はIS学園の生徒ではない為朝食が用意されている筈もないのだが、千冬さんに頼めば出てくるだろ、と楯無は軽く考えていた。“世界最強”もシスコンに掛かれば食堂扱いだった。
「あっはは。引っかかったね、いっくん!」
「――――、」
そのまま食堂である宴会場までの道を進んでいる時、聞こえてきた声に楯無はふと足を止める。
楯無の視線の先――屋敷と屋敷を繋げる廊下に面する中庭。
童話から抜け出したようなエプロンドレスを纏い、世界全てを引っ掻き回す天災。
――――織斑一夏と会話をする、篠ノ之束の姿があった。
「兄さん……?」
「……いや、何でもないよ。行こう、楯愛」
妹の手を引いて、楯無は遠回りで別の通路で宴会場に向かう。
まるで逃げるようだと、楯愛は違和感を覚えた。
楯愛はそっと兄の様子を見る。下から仰ぎ見るように、妹は兄の表情を覗いた。
「……っ」
恐ろしい現実から逃げる子供の様な、見たくない現実から目を背ける大人の様な表情だった。
見た事のない諦観の表情だった。幼い頃から自分を守り続けてくれた、最愛の兄の知らない一面に、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと焦燥が生まれる。
知らず。繋いだ手を握る力が強くなってしまう。その異変を見逃す筈もなく、楯無は静かに視線を合わせた。
「どうした?」
「……今の女の人って、誰ですか?」
「篠ノ之束さんだよ。この間、篠ノ之の事を紹介しただろ? そのお姉さんだ」
「兄さんとは知り合いなんですか?」
「昔、ちょっとな。今は何の興味も抱かれてないよ。そういう間柄になったんだ」
楯無自身に言い聞かせるように言われて、楯愛は何も言えなくなってしまう。
きっと恋慕ではない。もっと近い間柄から生まれた感情が、どうしようもない諦めを生んでいた。
拾われたあの日も、ISの訓練に励んだあの日々も、別れを告げたあの瞬間も、全ては今の為の過去。
IS学園に入り、更識姉妹と再会し、二人の本当の笑顔を取り戻す。
それ以上は求めない。それだけを求める。そう決意して、楯無は不思議の国から去っていった。
「……、」
「束さん?」
「んーん。何でもないよー、いっくん! さーて、箒ちゃんはどこかなー?」
あの時も、今も。
――――その背中を見つめる兎には、彼は気付かないまま。
◇
旅館近くの切り立った崖に囲まれた、IS試験用のビーチに俺達学生は集まっていた。
生徒達と向かい合うように千冬さんが立っており、その後ろには他クラスの担任達が控えている。
楯愛も白衣を着てしれっとあっち側に立っている。山田先生が傍に居るので今の所は大丈夫だった。
「全員集まったか。おはよう諸君。昨日で遊び気分は置いてきたな」
『はい!』
「本日は一日掛けてISの装備試験を行う。諸君らも知っての通り、ISは使い方次第で簡単に人を殺せてしまう兵器にも成り得る。気を引き締めろよ、ガキ共」
『はい!』
何を言われても大きな声で返事して受け入れる辺り、一年生も調教されてきたなと思う。
朝食を終え、本格的に臨海学校二日目が始まった。
千冬さんが言った通り、今日はISの装備試験を一日中やるらしい。
専用機持ち――各国の代表候補生はテスト運用する装備が多くあるようだ。
武装だけではなく新たな特殊装備も含まれているらしく、組み合わせ次第では全く異なる運用方法を求められる事だろう。
そしてそれに応える技量を持ってこそ、代表候補生という地位を勝ち取ったのだろう。
普段馬鹿やってる友人達が各国の要人なのだと事実を、こういう時に認識する。
『だろう』とか『ようだ』とか、憶測が飛び回りまくっているのは、俺がそういった国家的な要素とは全く関係ないからだ。倉持技研にも“黒雷”の後ろ盾として一応所属しているだけだ。
「――――さて」
千冬さんがこっちに目線を向けやがったので気付かなかった事にした。
「本格的な装備試験を行う前に、雪月。ISのコア・ネットワークの説明をしてもらおうか。お前にはうってつけだろう?」
名指しされてしまったので逃げる事は出来なかった。
喋るコアが相棒である俺にとってうってつけである事は間違いないのだが、事情を知っている人間以外には分からないだろう。俺がIS博士みたいに扱われるから止めてほしかった。
まあ、千冬さんには楯愛の分の朝食を用意してもらった借りがある。ここは言う事を聞いておくか。
「ISのコアはお互い情報交換の為にネットワークを構築してデータ通信をしています。これはISは元々宇宙用スーツの目的で開発されたので、広大な宇宙空間に於いての互位置情報交換の為に設けられました。基本的には個人間秘匿通信や開放回線に使われます。その他にもコア同士が各自に情報の交換を行う事で互いに影響を与え、自己の進化の糧としています。つまりISは現在も進化の途中なので、全容は製作者の篠ノ之束博士にも分かりません」
「正解だ。流石によく知っている」
千冬さんの後ろで楯愛が興奮しているのを山田先生が必死に宥めていた。妹がすみません。
「ではこれより装備試験を開始する。事前に通達してある班ごとに分かれ、分担して迅速に行え。各専用機持ちは本国より送られてきたパッケージの試験だ。別の海岸に移動するぞ。……山田先生、こちらの指揮は頼みます」
「は、はい! それでは織斑先生の指示通り、先ずは班分けを行ってくださーい!」
教師陣の指示により、生徒達はぞろぞろと分かれ始めた。
「織斑先生、俺ってどっち組なんです?」
「お前には“黒雷”があるだろう。専用機組だ」
「いや、相棒に追加装備とかねえし……」
「お前に追加装備がなくとも、お前には役割がある。……博士の制御はお前にしか出来ん」
そう言われ楯愛の方を見ると、簪が迎えに行っていた。
俺に貸し出された“打鉄”を使うとは言え、簪も実質専用機持ちだ。一般生徒達とは別に、代表候補生達に混じって試験をするのだろう。
「更識からも頼まれているだろう。やる事がないのなら、更識の手伝いをしてやれ」
多分最初の『更識』は刀奈で、後ろは簪の事を指している。
「そんな大サービスでいいんですか。また後で面倒事押し付けるつもりじゃないでしょうね」
「今回はない……更識には、弟が迷惑を掛けたからな」
“白式”の開発に、“打鉄弐式”の開発スタッフが持っていかれた事を言っているのだろうか。
千冬さんも千冬さんで、色々と苦労をしているようだった。
「ほら、行くぞ」
「へいへい」
千冬さんに連れられ、俺達は別の海岸へ向かう。
海岸に集まった生徒は、俺に一夏、セシリア、鈴音、シャル、ラウラ、簪、そして篠ノ之。
簪に連れてこられた楯愛は簪の影に隠れながらも、皆に挨拶をしている。
「皆さん、お久しぶりです。今日は簪さんの“打鉄弐式”の武装テストに来ました」
「久しぶりだな、楯愛さん。元気だったか?」
「はい、兄さんに会えたので今朝元気になりました!」
「相変わらずね……」
一夏への返答に、鈴音が俺を見ながら呆れ顔でそう言った。
前回紹介した時には性別が違った奴と居なかった奴が居るので、そっちを紹介しないといけない。
「楯愛、こっちが実は女だったシャルロット」
「あはは、あの時は理由があって、男装をして帯の警護をしてたんだ」
「そうだったんですか。兄さんの身を守ってくださり、ありがとうございます」
IS学園からの取引のシナリオを吐き出したシャルの言葉を、楯愛はあっさり信じて頭を下げた。
シャルは申し訳なさそうに謙遜している。未だ男装期間の事は後ろめたくもあるのだろう。
「で、こっちがドイツの代表候補生のラウラ=ボーデヴィッヒだ」
「よろしく頼む」
「学年別トーナメントで兄さんと組んでいた人、ですよね? ……お身体は平気なんですか?」
「あぁ。お前の兄には助けられた。……いい妹だな、楯無」
どうやら“VTシステム”の暴走の際、楯愛は一部始終は把握していたようだ。
各国の来賓達がパニックになっていた中、刀奈が傍に居たとは言え冷静に事態を見ていたのは流石俺の妹と言うべきか。
多分俺がアリーナの中に居なかったら、興味すら抱いていなかったのは考えないようにしよう。
挨拶も終わったところで、この状況でもう一つの異変をセシリアが問う。
「織斑先生。この場に箒さんがいらっしゃるのは、どういった理由からでしょうか。彼女は代表候補生でもなく、専用機もない筈ですが」
「あぁ、それはだな――――」
「ちーちゃあああああああん!」
セシリアの質問に千冬さんが答えるより早く、崖の上から人影が突撃してくる。
千冬さんにアイアンクローで受け止められたその人影は、やはり今朝中庭で見た人物と同じだった。
「うーん相変わらず見事なアイアンクローだねえ!」
「挨拶をしろ、束……!」
「えー、面倒臭いな――――いたたたたたちーちゃん割れちゃう割れちゃう! するからヘルプミー!」
「とっととやれ」
「はろー! 私が天才の束さんだよー!」
この一瞬で場の空気を自らの物にした人物――束姉は、アイアンクローから解放されながらおどける様に兎のポーズをした。
元々束姉を知らない奴等は、そのテンションについていけずにぽかんとしている。今回はテンション高めだったからぽかんとするだけで済んだが、普段であれば相手にもされずに嫌な思いをしているところだ。
「やあ! 箒ちゃん、久しぶりだねえ!」
「……どうも」
束姉は篠ノ之に絡みに行くが、篠ノ之の反応は芳しくない。
普段の篠ノ之の様子から分かってはいたが、姉妹仲はあまり良好ではないのだろう。
「今日は箒ちゃんにプレゼントがあるからね! でもその前に、少し待っててくれる?」
「は……はい」
そう言うと束姉は踵を返し、俺達の方へ近付いてくる。
まあ、今度は一夏の番なのだろう。もう俺達はそのまま装備の試験に移ってしまっていい。
楯愛と簪に話し掛けようとした俺だが――――何故か俺の方に寄ってきた束姉に動きを止めてしまった。
「……やあ」
控えめに掛けられたそれが俺への言葉だという事に、気付くまで大分時間が掛かった。
「……元気だった?」
「……おかげさまで、何とか。……相棒もね」
「そっか。よかった。これからも、身体には気を付けてね」
そう言って、俺の両腕――ISスーツから見える傷跡にそっと触れ、優し気な表情を浮かべて束姉は離れて、一夏の方へ向かっていく。
もう関りがない筈の恩人の言葉の真意が分からず、簪に声を掛けられるまで俺はその場に立ち尽くした。
もうちょっと進む予定だった