ピットに戻る廊下の途中で待っていた女性。
その水色の髪には見覚えがある。
更識簪。俺が“黒雷”を預けて、千冬さんとの会話をピットで聞いていた幼馴染だ。
何故彼女がピットではなく廊下で待っていたのだろうか。
「簪? ピットで待ってるんじゃ――――」
「楯無君」
――――その声に、呼吸が止まった。簪じゃない。
いや、だって。そもそもこんな心の準備もしてない内に出会うような人じゃない。
俺が救いたかった人。何時か必ず本当の名前で笑える空に連れていくと誓った相手。
……そう、彼女は。
「かた――――わっぷ」
「ちょちょちょ、ストップストーップ!」
名前を呼ぼうとしたら物凄い勢いで距離を詰められて壁に押し付けられ、口を手で塞がれた。
「そうね、お姉さんが悪かったわ。いきなり登場して驚いちゃったわよね。でもその名前じゃ呼んじゃ駄目なの」
口を押さえられたまま、水色の髪の女性――更識刀奈は慌てたように早口でそう言った。
妹の簪とは逆に天真爛漫なのは相変わらずなようだ。急にやってくるのも変わらないらしい。
「むごむご」
「あ、ごめんなさい。苦しかったわよね」
確かに嬉しいが苦しかった。
手をどかしてもらって、漸く話せるようになる。
「それで、かた――――」
「だからストップ!」
再び発言を妨げられてしまった。名前を呼ぶ事のどこがいけないのか。
不満げに綺麗な赤い瞳を見つめていると、「しーっ」と人差し指を俺の口に当ててきた。
「お姉さんの名前は言っちゃ駄目。呼ぶなら『楯無』って呼んでね?」
「絶対やだ。楯無なんて名前俺だけで十分だし、俺が呼びたいのはそんな名前じゃない」
「素直に言う事聞いてくれないと、お姉さん困っちゃうなー?」
それは俺も望む所ではない。刀奈が困る姿はとても可愛いのだろうが、わざとするような事でもないだろう。嫌われたくないし。
ぐりぐりと口に押し付けられてくる刀奈の人差し指を手に取りながら、俺は暫し考える。
「……じゃあ、『更識先輩』で。とにかく『楯無』は絶対に呼ばない」
これが精一杯の妥協案だ。
とにかく『楯無』呼びだけは絶対にしない。
それをするぐらいなら速攻で目的を果たした方がましだ。
「そう。……いじっぱり」
いじっぱりはそっちの方だ。家の決まりだか何だか知らないが、自分の名前を捨てるなんて。
俺と過ごしていた少女は更識刀奈であって、更識楯無なんて人は知らない。
――――そして、刀奈もそうなのだろう。
「……別れてから、随分と壮絶な人生を送ってきたみたいね」
更識刀奈と過ごしていた雪月楯無は唯の少年であって、篠ノ之束に拾われた世界第三位の男性操縦者などではなかった。
お互いに至近距離で見つめ合って、お互いの今を確認する。
「聞いてたんだ。千冬さんとの会話」
「偶々よ。あなたの試合を見てて、ピットで話そうとしたら管制室に向かうあなたを見つけたから跡を付けてたの」
「面白そうだから?」
「勿論!」
人懐っこい笑みでそう告げられれば、思わず見惚れてしまう。
昔からそうだ。彼女の笑みは理屈とか抜きで、俺の事を魅了する。
「……大きくなったね」
「楯無君こそ。やっぱり男の子って凄いわ」
簪と同じような事を言っている。やっぱり姉妹なんだな。
さて、男の子とは言ってくれるが。刀奈も女の子なわけでして。
これだけの至近距離で壁を背に迫られていると、色々と柔らくてですね。
刀奈の女性的な感触にどぎまぎしているのを覚られぬように、俺は冷静に語り掛ける。
「で、話って? ピットに来ようとしてたって事は何か話があったんじゃないの?」
「あ、そうだった。お願いがあるんだけど……お姉さんのISの練習相手になってくれない?」
「いいよ」
即答すれば、刀奈は「即答!?」と驚いていた。
刀奈からの提案を俺が拒否するわけがない。寧ろ内容も聞かずに了承したっていい。
「更識先輩のレベルだともう練習相手が居ないんでしょ? 俺で良ければ幾らでも」
どうやら図星だったらしく、「ありがとう」と彼女は笑った。
大変だな、国家代表も。強くある事を強いられ続け、その為の努力も強いられる。
きっと俺にはそういう事は向いてない。そもそもISをそういう目で見ていない。
「あと、もう一つお願いがあるんだけど……あなた、簪ちゃんと同室でしょ?」
「そうだけど」
肯定すると、刀奈にしては珍しく煮えきらない態度だった。
暫くして決心が付いたのか、両手を胸の前に合わせて勢いのままに言ってくる。
「お願い! 簪ちゃんの事を報告してほしいの!」
「別にいいけど。……わざわざ俺から聞かなくても、自分で聞けばいいじゃん」
姉妹なんだから直接聞けばいい。
そう思ったのだが、簪が刀奈の事を話した時と、今の刀奈の困惑した表情が現実を教えてくれた。
「簪ちゃんから聞いてないの?」
「何にも。何かあったのは察してるけど、詳しい事は何も知らない」
「そう。……なら、教えてあげる。私と簪ちゃんの間に何があったか」
そうして話してくれた、更識に翻弄された姉妹の事情。
常に比較されて続けてきた、優秀な姉と無能な妹。それによって簪は刀奈へ苦手意識を持ってしまった事。
そして重なった刀奈の十七代目『楯無』への就任。
周囲の期待は刀奈へ募り続け、姉妹の関係は今では会話も出来ない程冷え込んでしまっている。
だからか。簪が“打鉄弐式”を一人で完成させる事に固執していたのは。
「とりあえず、簪を無能とか言った奴等を片っ端から吊し上げたいんだけど。簪の凄い所なんて幾らでもあるし」
俺の憤慨に、刀奈は両腕を組んで頷いた。
「そうそう。専用機を一人で組み上げようとするなんて、並大抵の覚悟じゃできないわ。私だって既に設計してあるデータを基に、色んな人の力を借りたのよ。それぐらい私の大切な簪ちゃんは凄いんだから。ずっと簪ちゃんを気に掛けてた私が言うんだから間違いないわ」
興奮気味に妹の事を話す刀奈の様子は、別れる前と変わらない。
そうして俺と刀奈の簪トークに熱が入り、簪のいい所を上げる大会が始まった。
暫くそうして話していたが、アリーナ全域に響き渡るアナウンスの声に現実に戻される。
『雪月君、試合開始の時間です。至急ピットに戻ってください』
「あ、そろそろ行かないと」
本当はあと五時間は刀奈と話していたかったのだが、時間が来てしまってはしょうがない。
アリーナの使用時間は限られていると千冬さんが言っていた。戻らないとまた出席簿を投げられる。
「あら、じゃあ私は今日でこれで。訓練の連絡はまた入れるから」
「うん。行ってきます」
急いでピットに戻る為に走り出す。走り出した直後に、相棒から連絡があった。
(マスター。ピットに戻っても私は居ません)
(何でだ、相棒)
走りながら聞く俺に、淡々と相棒は続ける。
(簪さんが部屋に戻ってしまったからです)
(それこそ何でだ……って、あ)
平坦な相棒の声が肯定する。
(織斑千冬との会話から、刀奈さんとの会話まで、全て簪さんに筒抜けです)
◇
「ただいま!」
一夏との試合も終わり、シャワーを浴びた俺は全速力で寮の自室へ戻った。
オルコットが何か話したそうにしてたけど、そんな事は完全に後回しで問題ない。
自室の扉を開け放てば、部屋は相変わらず暗かった。今日に至っては投影モニターの光もない。
唯、簪のベッドが膨らんでいた。布団を被って引き籠っているのが丸分かりある。
『お帰りなさいませ、マスター』
簪の布団から投影されたモニターから相棒の声が聞こえた。
“黒雷”は未だに簪が持っているらしい。
「……お帰り、なさい」
布団を被っている簪も言ってくれた。
しかし布団から出てきてくれない。
「か、簪さん? 俺と顔を見て話をしないか?」
「……嫌」
「ほ……ほら、今日は“打鉄”のデータも取れたんだから、チェックしてくれよ」
一夏との試合で第二回モンドグロッソ準決勝ごっこをしてたら千冬さんに怒られたが。
一夏がやりたそうな顔をしてたのがいけない。俺は悪くない。
「あのー……簪さん?」
「お姉ちゃんが、私の事あんな風に思ってたなんて……知らなかった」
ぼそりと聞こえたその言葉で、今簪がどんな顔をしているのか理解した。
「……簪。手を出してくれ」
返事は無く、唯右手だけが布団から出てくる。
細い、華奢な女の子の手。それを守りたいと思う姉が居た事を、妹は知った。
「そっちのベッドに座るからな」
告げて、簪のベッドに座る。そして彼女の右手に俺に右手を重ねると、控えめに握られた。
彼女の体温はとても高かった。
「……色々な事が一気に来たな」
「本当に……もう。お姉ちゃんも……楯無も、人の事好き勝手言い過ぎ」
「事実だし。簪は凄い。それに、二人きりなら言っていいんだよな?」
控えめに握られた右手が強く握られた。抗議代わりだろうか。
「“打鉄弐式”の開発は続けるんだろ?」
「……うん。お姉ちゃんが私の事どう思っていたのかと、それは別問題だから」
刀奈が優秀なのは変わらない。それは揺るぎない事実だ。
だからこそ、簪が刀奈に追いつきたいと思っているのも変わらない。
それはそれでいいと思う。その先にある何かが、きっと簪にとっていい財産になるから。
「俺も頑張らないとな。“打鉄”の稼働データ取りだったり、細かいデータの精査だったり、出来る事は幾らでもある」
「楯無はもう……十分に頑張ってると思う……。モンドグロッソに出場なんて……この学園の誰よりも凄い」
「別に、あれは俺の実力じゃない。束姉のコネだよ」
俺の実力が国家代表レベルなのかどうかは置いておいて、俺自体はそもそもモンドグロッソに出場する資格は持っていなかった。
国家代表になる事は、唯の実力を示す事だけじゃない。政府からの信頼とか、そういった事を含めての国家代表なんだ。
だから変わらず、この学園で一番凄いのは刀奈なんだと思う。
「……追いつこうぜ、簪が追い掛ける背中に」
「うん……私はお姉ちゃんに追いついて、その先にある道を進みたいから」
そんな事を聞けば、俺の方が我慢出来なくなる。
「……まぁ、だからさ。泣いてるんだったら胸貸すよ」
左手で布団を捲ると、予想通り目を赤く泣き腫らした簪が居た。
左手でしっかりと“黒雷”を握っていてくれて安心した。
俺と直接目が合って、気が緩んでしまったのだろうか。泣き腫らした瞳には再び涙が溜まり、布団から飛び出して俺に抱き着いてきた。
「知らなかった……知らなかったのっ……。お姉ちゃんが私の事大切にしてくれていたなんて、知らなかったなら……! 私はずっと、一人で抱え込んで、心を閉ざして……知ろうともしないで……馬鹿みたい……」
「あぁ。でも、そうやって一人で頑張ってた時間も無駄じゃない。簪は強いんだ。皆が皆、一人で頑張れるわけじゃないよ」
きっと、その強さは簪の支えになる。
そう伝わればいいと、背中を優しく叩いて宥める。
簪の優しい匂いを感じた。俺から抱きしめてやれないのが惜しい。
「私は……飛びたい。楯無みたいに、お姉ちゃんみたいに。自由に、高く遠くへ」
「必ず完成させよう。“打鉄弐式”を。簪の空を、簪が自由に飛べるように」
『微力ながら私もお手伝いします。簪さんの翼、最高の物にしましょう』
簪は涙を拭って、ゆっくりと頷いた。
繋がっている右手は力強く握られている。
きっと彼女はもう迷わない。弱い自分との別れを告げ、誰かの想いを糧に頑張っていく。
そんな簪が誰よりも誇らしく、彼女との約束を守りたい。
「そうだ……お姉ちゃんは、私がお姉ちゃんが言ってた事を聞いてたの、知らないんだよね?」
「きっとな」
「なら……お姉ちゃんには内緒にしてて。“打鉄弐式 ”が完成したら、私から話す」
「分かった。簪は“打鉄弐式”の開発を頑張ってる事だけ、刀奈には伝えておくよ」
こうして簪は姉の想いを知り、姉への劣等感からではなく、自らの翼を求めて“打鉄弐式”の開発を再出発した。
――――そして後日。
「私よ!」
「いいや、俺だね」
俺と刀奈はどっちが簪を誇らしく思ってるかで三日三晩争った。
楯無君、更識姉妹好き過ぎ問題。
他の女子相手には淡白なのに、姉妹相手だと女の子意識するのなんでなの?