杜野凛世とプロデューサーの、ある約束を巡るお話。
※この作品は、以前Pixivに投稿したものと同内容です。
好きなものが、増えました。
肌を刺すように凍れる風が去ったことにふと気づきますと、空気が浮かれだすとでも言いましょうか、俄然と視界が華やぎます。鋭く曇る吐息の白さに馳せる想いこそあれど、朝焼けのにわかに急ぐ様や、土と緑の入り混じる力強くも朗らかな香りが、心を浮き立たせてやまないのです。
アイドル杜野凛世がW.I.N.G.に優勝したのも、丁度その頃のことでした。
ステージ上でのこと、その夜のことは、敢えて書き残すことは致しません。あれはきっと、凛世とプロデューサーさまとの間にのみ、通じ合うものなのですから。
――貴方さまは今、何を想っておいででしょうか。
『そうだ、凛世。欲しいものはないか?』
大願成就からの幾日かは慌ただしく移ろい、ようやくひと心地ついた朝のことでした。突然の問いに、凛世はただ、首を傾げたと記憶しています。
『ああ、いや。W.I.N.G.のお祝いをと思ってな。あれからバタバタしちゃってタイミングが無かったからさ、今更だけど』
照れもせず、莞爾とそうおっしゃるプロデューサーさまが愛おしく、愛おしく。
『いえ……そんな。そのお気持ちだけで、凛世は……』
『いいや、そんなわけにはいかない――』
大きな両手で大事そうに包んでいた湯呑を置き、テーブル越しにこちらへずいと身を寄せるプロデューサーさま。物腰柔らかでどのような相手も尊重する貴方さまも、時折こうして我を押し通そうとします。そしてそれは、大抵がご自身のためではないことを、凛世は存じ上げております。貴方さまにとって、人を喜ばせるのは、人に寄り添うということは、きっと当然のことなのでしょう。
曰く、『――沢山のものを凛世に貰ったから、お返しがしたいんだ』とこのことでございますが、凛世もまた、抱えきれないほど素敵なものを戴いております。有無相通ずる、は過ぎた言葉やもしれませんが、少なくとも凛世は、プロデューサーさまに大きく身を寄せさせて戴いております――とは言え、そのお気持ちに、お言葉に、舞い上がる私も確かに居るのです。
断る理由は、無いように思いました。
『――それでは、少々……お時間を、戴けないでしょうか。凛世は……すぐには何も、浮かんでこないのです』
せっかくのお心遣いでございます。思い付きには委ねたくありませんでした。
凛世の返答に、貴方さまは『約束だ』と、満足げにうなづきます。ヒサカキの希望溢れる香りに、胸がいっぱいでございました。
約束はまだ、果たせておりません。
その日もプロデューサーさまは、お忙しい様子でした。
朝方に――朝は、一番乗りの凛世の、大切な時間です。朝方にちょっと顔をお出しになったかと思えば、挨拶もそこそこに飛び出して行ってしまいました。はづきさんに聞くところによると、アイドルのお仲間が増えるそうで、迎え入れる準備に忙殺されているそうです。その上、兼ねてより事務所に所属している面々にも着々と仕事が舞い込んでいるようで、少しやつれてしまった貴方さまを、凛世は大層、心配しております。
それに――それに、W.I.N.G.優勝直後のように、貴方さまが凛世に付きっきりでいてくれることは、今後一切ないのでしょう。凛世は、我儘な凛世は、それが堪らなく寂しいのです。
観桜をばと、お頼み申しあげたいのです。
智代子さんからお借りした漫画に、桜の樹の下で結ばれる男女のシーンがありまして、それをふと、思い出しました。満開の一本桜が大写しになった、ひとつの台詞もない見開きの頁を開いたまま、しばしほうけていたらしく、智代子さんからは『凛世ちゃんって、ベタなの好きだよね!』などと可笑しそうに笑われてしまい、幼い凛世を、少しばかり恥ずかしく思いました。凛世にとって新鮮で驚くべき物事も、智代子さんにとっては在り来たりなものなのでしょう。
――結ばれれば、などとは考えてはおりません。ただ、お慕いする殿方と眺めるそれは、きっと、狂おしい程に美しいものなのでしょう。せわしなく飛び回る貴方さまの背中を呼び止めることもできぬまま、日々羨望が膨らむばかりで、身勝手なことだと分かっていても尚、ほんの少しだけ、凛世は苦しいのです。
窓の外、雨垂れのしんしんと鳴く音と、濡れたアスファルトの鮮烈な香りが印象的な朝でした。薄い水たまりに浮く若い桜花は、道行くサラリーマンに踏まれ、飛沫に紛れ消えてしまいます。
約束はまだ、果たせておりません。
気分転換をばと、下校路を遠回りすることにしました。
プロデューサーさまや同僚の皆様方と同様に私も、アイドルに学業にと、多忙を極めておりました。ひとりの時間は、本当に本当に、久方ぶりのことです。唐突のいとまということもないのですが、ここ一年ほどはずっと、どなたかが隣にいてくださいました。それがいざこうして独りになってみると、存外にやりたいことのひとつも思い浮かばないもののようです。思案の末が散策であれば、上等でございましょう。
しばし気の向くままに足を遊ばせておりました。この頃の日差しは柔らかで優しく、行く道々で満開となった桜は、春風に撫でられ、はらりと舞い落ちます。
駅前通りの桜並木も行き終わろうかという頃、浅紅色に覆われた景色が開けていくのと同時に、違和感を覚えます。立ち止まってよくよく見てみますと、その正体はどうやら、終いの二本の木に、葉がついているためでした。
「……ああ」
無常に、ございます。
きっとその二本だけ、より陽に照らされていたのでしょう。少し背の高い枝々から覗く薄い緑が、初夏到来の予感を告げています。
貴方さまと立ち並んでの観桜は、いよいよ、果たされそうにありません。
しばし、佇んでおりました。人や車の声に食べ物や自然の混々とした香りを、早芽の桜が包む瞬間の景色を、凛世は無性に覚えていたかったのです。
――凛世はそれを、美しいと思いました。
去年の今頃は、気にも留めなかったものです。見頃を狩るものだとも、それが短いからこその雅だとも教わってきたものですから、知らぬ間に意識から追いやっていたのでしょう。
淡く儚いピンクと、生命逞しく成熟へ向かう青が入り乱れる様は、幼い凛世がアイドルを通して変わっていく様と、どこか重なります。言葉では言い表せないほど幸せな日々を、過ごしてきました。どれもが新鮮で、厳しく、楽しく――宝物のようなこれまでと、重なるのです。
アイドルにならなければ、あの日スカウトされなければ、この桜に憂いを覚えることはなかったでしょう。そしてまた、美しく尊いなどとも思わなかったのです。
好きなものが、増えました。
貴方さまの、おかげです。
約束を取り決めたあの日から、もう幾日も過ぎております。きっとプロデューサーさまも、忘れておられるでしょう。それもまた、凛世たちのために働いてくださっているが故のこと。これで、よいのです。
陽が落ちようという頃、おなかが小さく鳴りました。
ふと、以前舞の稽古後にも同じような音が鳴り、『わぁ! 凛世さんは、おなかの音もやまとなでしこ、なんですね!』などと感心なさっていた果穂さんを思い出し、思わず口元が緩んでしまいます。
それから偶然にも、こちらは丁度、駅前です。樹里さんの眩しい笑みが、鮮明に思い浮かびました。
「……ふふっ」
凛世は、沢山のものを戴いてきました。晴れぬ心模様もこうして、素敵な思い出が拭ってくださいます。それもこれも、プロデューサーさまの繋いでくださった縁があってのもの。これからも、凛世の季節はこうして移ろいゆくのでしょう。
美味しいものは、ころっけです。
車外で慌ただしく電話を掛けていたプロデューサーさまは、運転席の戸を開けるなり、
「すまない、凛世」
と、大層気落ちした様子でした。
お仕事帰りの事です。本日は事務所より遠方にて、二件のロケをこなしました。元々別日だった撮影ですが、それぞれのロケ地が近かったこともあり、なかなか休みの取れない凛世のスケジュールを鑑みたプロデューサーさまが、先方に交渉して、一日に纏まるよう日時調整をしてくださいました。
日中から既に、精彩を欠いていた節が見られました。その上この災厄。精魂果てたといったように、プロデューサーさまは力なく、座席へ腰かけます。
「夜の田舎道だから、時間がかかるらしい。JAFが駆けつけてくれるのは、二時間ほど後になるそうだ。……本当に、すまない。タイトな日程で疲れているだろうに、こんなことになってしまって」
「いえ……お車の不調でございます、プロデューサーさまのせいではございません。それに、貴方さまと――」
――貴方さまと一緒なれば。言いかけた言葉を、寸でのところで飲み込みました。いつも背筋が伸びているため、高い背がさらに大きく見える、凛世の頼れるプロデューサーさま。そんな貴方さまがうなだれているお姿を見るのは、初めてのことでございます。それだけ、弱っておられるのでしょう。それを、凛世ばかりが浮かれているなど、到底許されることではございません。幸いプロデューサーさまのお耳には引っかからなかったようで、聞き返されることもございませんでした。
無言で遠くを見つめるプロデューサーさま――貴方さまは今、何を想っておいででしょうか。
煙草を吸わない貴方さまのスーツから、燻したような甘い香りが漂ってきます。くぼんだ眼とは対照的に瞼は腫れぼったく、吐息にはコーヒーの香りに、少し酸っぱいものが混じります。
「プロデューサーさま……最近は、あまり寝ておられないのでしょう。凛世が起きておりますので……じゃふさまが来られるまで、お休みになられますよう……」
「いや、大丈夫だ。凛世を預からせて頂いてる身だし、俺だけ寝てなんかいられないよ」
気遣ってくれてありがとうなと笑う貴方さまの声は、やはり弱弱しいものでした。
ハザードランプの点滅が、暗闇に潜む木々に照り返します。カッチ、カッチと、無機質な音だけが存在感を主張します。
――眠れないのであれば、せめて気休めを。
お話は、聞くのも喋るのも、頭を使ってしまうでしょう。音楽は、とも思いましたが、職業柄よくお聴きになるようですし、車内にあるものからともなると、良いものを選べそうにありません。ならば……ならば、色香を――
「なあ、凛世」
心が読まれた、などということは無いでしょう。
「……はい。何で……ございましょう」
「約束、なかなか果たせなくてごめんな」
胸のあたりが、大きく跳ねました。プロデューサーさまは――貴方さまという人は!
「俺が忙しそうにしてるから、言い出しづらかったよな。今日も半日一緒だったのに、余裕が無くて……本当に、すまん」
「いえ……いえ」
胸がいっぱいで、苦しくて、言葉に詰まってしまいます。言いたいことは、山ほどあります。謝らないでくださいませ。勝手に諦めていたのは、悪いのは、凛世にございます。凛世は――凛世は、この上なく幸せでございます。
「……お散歩に、出ましょう」
口をついたのは、そのような言葉でした。咄嗟の事ながら、よい案に思います。
「散歩?」
「はい……移動中などに、座りっぱなしになるのは、健康の敵だと……そう、夏葉さんが申しておりました。それに……眠れぬのであれば、少しでも、気分転換になればと……」
「ああ、なるほど。気遣ってくれるのは嬉しいが、こんな暗い中を歩かせるのは、ちょっとな。それに、凛世こそ寝なきゃいけないだろう」
「いえ、凛世は……凛世が、プロデューサーさまと、お散歩をしたいのです。……お約束を、果たしていただきたく……」
少し、強引でしたでしょうか。あたふたとねだる様が可笑しかったようで、プロデューサーさまは肩を揺らして笑いました。貴方さまの笑う姿を見るのも、久しぶりのことでございます。
「それじゃあ、ちょっとだけ出ようか。懐中電灯が車に積んであったはずだ」
とても楽しそうに、少年のようないたずらっぽさすらうかがえる表情は、初めて見るものでした。
夜空を行く雲は、至極緩やかでございます。頬を撫でる風は河川の水気を含み、ほんの少しだけ冷たいものでした。プロデューサーさまと二人きりの暗夜行路を照らすのは、懐中電灯と月明りだけです。
伸びをして、深く息を吸い込んで、大きな背を捻って。時折そうした所作を挟みながら往くプロデューサーさまの半歩後ろを、凛世はついていきます。車を出てしばらく、会話はほとんどございません。それが、どことなく心地よく思われました。プロデューサーさまもそう思われていれば、嬉しいものです。
そんな様子でしばらく、淡々と歩いておりますと、
「あっ」
プロデューサーさまがふと立ち止まり、声を上げます。
「凛世。あれ、見えるか?」
そう言うとプロデューサーさまは、懐中電灯で遠くを照らしました。微かにではございますが、何か建物と、その横に――
「……あれは」
プロデューサーさまと、顔を見合わせます――度を過ぎた興奮が、貴方さまに伝わっておりませんように。
「あそこまで行ってみようか」
凛世がコクリとうなづくと、心得たといった表情で、プロデューサーさまは再び歩き始めます。その足取りは心なしか、先ほどよりも幾分軽いようでした。
数分もせぬうちに、目的地へ到着いたしました。そこには小さなお社と、その傍らに、立派な一本桜が佇んでおりました。少し開花が遅かったのでしょう、葉を付けながらもまだ花の残るそれは、今まで見てきたどの桜より、大きく、大きく。根元に立ち見上げると、天を突くほどに大きく。
「なんだか、吸い込まれちゃいそうだな」
「はい……桜には、不思議な力が宿ると申します」
「そうか。じゃあ、これだけ大きいとなると、それは凄い力のある樹なんだろう」
「きっと……その通りで、ございましょう」
そう。不思議な力が、あるのです――その力を以てして、男女は結ばれるものなのだと、そう聞き及んでおります。
鼓動が耳を突きます。頬と首の辺りが、ひどく熱いのです。速足だったからではございません。そんなことは、分かり切っております。でも、何かを考えずにはいられないのです。幼稚な妄想を、今すぐにでもかき消さねば――ああ、凛世は、桜にあてられてしまいました。凛世はきっとこのまま、溶けてなくなってしまうのでしょう。
「……葉桜だな」
ふいにプロデューサーさまが呟き、凛世は我に返りました。
何気なく漏れ出た言葉だったのでしょう。その後しばらくプロデューサーさまは何も続けず、凛世が隣で首をかしげているのに気づいてから、慌てて付け足しました。
「ああ、すまん。……昔からよく変わってるって言われるんだけど、葉桜が好きでさ」
溶けてしまいました。
凛世もでございます――ただそれだけの言葉が、詰まって出てきません。喉の鳴る音が心音と混ざり、血管がきゅっと熱くなります。物語の快活な少女たちのように、あられもなく飛び跳ねてしまえれば、どれだけ楽なことでしょう。
今はただ、胸にやった手を固く握り、貴方さまのお声に耳を傾けることしか出来そうにございません。
「花だけの桜ももちろん好きなんだけど、なんて言うかな、ピンクと緑のコントラストがとにかく綺麗で。小さいころに『早く花が散らないかなあ』なんて母に言って、笑われたこともあるみたいだ」
そこまで言い終えると、貴方さまは、屈託なく笑いました。本当によく笑われるお方で、凛世はいつも、この笑みに安寧を戴きます。
思い起こせばこれまで、貴方さまの背を追っているようでした。凛世の人生に、かつてない衝撃を与えた貴方さま。底抜けに優しく包容力のある貴方さまをお慕いする気持ちはきっと、憧憬に近いものだったのでしょう。
そんな貴方さまと、共有できる好きなもの。大それたことではないのです。探せばきっと、他にも沢山散らばっていることでしょう。それでも今、確実に一歩、凛世は貴方さまに近づく事ができました。
「……ふふっ」
「やっぱり、凛世も可笑しいか。綺麗だと思うんだけどなあ」
凛世が笑ったことを勘違いなさったようで、プロデューサーさまは肩をすくめます。
「いえ……凛世もで、ございます」
好きになったのは、つい最近のことではございますが。
貴方さまのお陰で、好きなものが、増えました。
寮へ帰り着く頃には、空は瑠璃色がかっておりました。雀の声がとみに大きく鳴り、吸い込む空気はどれもひんやりと美味しゅうございます。普段ならば起きる時間か、やもすればまだ眠っております。
『寮に着くまで、寝ててくれ』
プロデューサーさまは凛世を気遣ってくださいましたが、あの高揚を引きずったまま、どうして眠れましょうか。返事こそ致しましたが、結局そのまま一夜を明かしました。徹夜明けというのはさぞ気怠いものだろうと想像しておりましたが、その実全くの逆で、痺れを孕むほどに感覚が研ぎ澄まされるようです。
プロデューサーさまは、事務所で仮眠を取られるそうです。寝坊せぬようにとはづきさんにモーニングコールを頼んだそうですが、少し心配です。
起こしに行くのも、良いかもしれません。
椅子に腰かけ窓の外を眺めつつ、昨日から今までの余韻を、ぼんやりと反芻します。思い返してみれば、今日の凛世は少々、はしたなかったやも知れません。この気持ちを、ちゃんと抑えることは出来ていたのでしょうか。
凛世は、貴方さまをお慕いしております。いずれはと、強く願ってもおります。しかし今は、このままでよいのです。色とりどりの素敵なものに囲まれながら、一歩一歩と貴方さまに近づいていくようなこの日々を、今は大事にしとうございます。時間はまだまだ、あるのですから。
地平線が、明るくなってまいりました。新たな一日が始まります、それはきっと、輝きに満ちた。
彼は誰の 朝焼けを浴む 青桜
煌びやかな朝日に照らされると、瞼が急に重たくなって参りました。貴方さまをお迎えにあがる前に、ほんの少しだけ、眠ることと致しましょう。
今年の青桜も、大変美しゅうございました。また来年が楽しみです。
シャニマスSS、もっと流行れ!
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