アイドルじゃない佐藤心って、多分きっと、こんな人。
※当作品は、Pixivに投稿したものを改題したものです。
♥
月なんて嫌いだ。下腹に左手のひらを押し当てながら、わたしはそれを睨む。
雲一つない夜空へ上る煙に、三日月がうっすらと隠れる。揺蕩う紫煙を通しても眩しく主張するそれに、笑われている気さえした。
「……ノースウィーティ」
ベランダにたたずみ咥え煙草と、薄手のカーディガンに刺さる冷たい夜風に、ミスマッチで間抜けな決め台詞。眉根にしわを寄せ、普段よりずっと低い声で独り言ちてみる絵面のおかしさに、ちょっとだけ気がまぎれる。
火種の熱を唇にうっすら感じて、ピンクの携帯灰皿に吸殻を放り込み、ひと呼吸。水気を含んだ雨上がりの空気が嫌においしいくて、このままずっと黄昏ていたいなと思った。
「……へっくちっ!」
くしゃみと同時に身震いひとつ、つーっと鼻水が垂れてくる。失敗してへこんで、体調も良くないのにワンルームでひとり酷く酔っぱらって、陰鬱な気分に浸りたいのに鼻たれで。今日はとことん、カッコつかないな。
薬代なんて払ってらんないし、風邪をひく前に部屋に戻らねばと、手すりに前のめりに寄りかかっていた身体を起こす。ニコチンとアルコール漬けにされた脳みそがくらりと揺れて、気持ちがいい。
覚束ない足取りで部屋に戻ると、飲みさしの赤ワインの酸っぱい臭いに、煙草の残り香が混ざって鼻を衝く。埃をかぶった間接照明は、散らばった空き缶を怪しく照らしていた。つけっぱなしのテレビから鳴る芸人のがなり声が粘っこく耳に張り付いて、なんだか落ち着かない。
リモコン、どこだろ。
薄汚れた丸テーブルの上にはワインに焼酎にと、節操なく並んだ酒類とグラスだけ。フローリングには、仕立てかけのまま随分経つ衣装が無造作に放ってある。それをめくっても、何も出てこない。だったらベッドだろうと掛布団を引っぺがしてみたが、あるのはぐしゃぐしゃになったシーツだけだった。
「ああ、もう」
メンドいな。全部ぜんぶ、面倒くさい。
漏れるため息はカサカサしていて、喉が渇いていることを思い出した。このままベッドに倒れ込んでしまおうとも思ったけど、このまま眠ったところで、どうせ夜中に起き出してしまいそうだ。頭痛も酷くなってきているような気がして、とにかく水分が欲しかった。
頭痛を認識してしまうとまた、頭に響くテレビの音が気になりだす。先ほども聞いたがなり声に、今度は女の子の嬌声が交じった。ディスプレイにちらりと目をやると、人気お笑い芸人の男が番組を回している。それから画面が切り替わり、あまり見ないアイドルが三人映った。どの子もいかにも売り出し中といった雰囲気で――ひとりは見かけたことがあるような。確か、美城プロ辺りの子だったっけ。
少女たちの手前には、箱が置かれている。その中には……イグアナ? だったろうか。大きな爬虫類が窮屈そうに這いまわっている。透明が面は客席側にだけあり、彼女らに中身は見えていない。
要するに『箱の中身はなんだろな』ゲームだ。
三人で一斉にじゃんけんをすると、左手にちんまりと立っている、不思議な巻き毛の女の子のグーが一発で負けた。
『ヒッ!』
アイドルらしくない辛気臭く神妙な面持ちが、一瞬で泣き顔に代わる。
『それでは乃々ちゃん、行ってみま~しょう! ハコの! 中身は! なんだろな~!』
無駄にハジけたコールが無慈悲に響き渡る。少女はオロオロと他の二人を伺うが、
『観念するんだぞ』
と、犬歯を覗かせ愉快そうに言う子に両手を掴まれ、箱の穴へ問答無用で突っ込まれた。それからほんの一瞬も置かないうちに、右手が爬虫類をかすめる。
『ヒィ~~!』
渾身の悲鳴が響き渡り、スタジオの爆笑をかっさらう。
顔の青さと、頬を伝う汗が、彼女の必死さを際立たせる。華やかさとはかけ離れた少女は等身大のまま、いとも簡単に受け入れられた。
「……は」
何ともつかない息を漏らし、私はテレビから目を切った。
ボロっちい冷蔵庫の前で屈むと、胃のあたりがうねる様に重い。戸を開けてみると、入っていたのは割材の炭酸水だけ。今これを腹に入れると逆噴射してしまいそうだなんて逡巡したが、結局キャップをひねり、薄いレモン風味のそれをちびちびと含んだ。水道水で腹を壊したことがなければ、蛇口からガブ飲みしたんだけどな。実家の水道が、たまに恋しい。
『――ひうぅぅ……』
ゲームはまだ続いているようだ。珍妙な呻き声に思わず反応して再びそちらを見ると、彼女は目を思いっきりつむりながらも、両手でガッチリと爬虫類を握っていた。爬虫類は短い四肢を必死にバタつかせているが、拘束から逃れることはできなさそうだ。
『もう……む~りぃぃぃぃ……』
憔悴しきったような、魂の抜けていくような声に、またもや大きな笑いが起こる。
「アホくさ」
リアクションしてるだけでウケていいですね。それだけだと、どうせすぐ消えてくんだろうけど。でも、そうなってもいいんだろ。あなたはかわいいし、守ってあげたくなる雰囲気だし――何より、若いんだし。
テーブルの下からバイブレーションが鳴り、テレビの音と混ざった。緩慢な動作でスマートフォンを手に取り送り主だけを確認して、ベッドに頭から突っ伏す。LINEの履歴が、またひとつ溜まった。
「……ホント、む~りぃ」
枕に顔を押し付けながら、もごもごと独り言ちてみた。わたし自身にすら何を言っているかわからない程にふやけた言葉は、甘いムスクの香りに溶けて、溶けて――意識も徐々に、溶けていく。
リモコンを見つけたのは起き抜け、枕の下に隠れていた。日の出を拝みながらヤケクソに弄ったそれはきちんと作動して、テレビはあっけなく消えた。コンセントを抜けば早かったと気づいたのは、翌晩になってからだった。
☆
『佐藤さんってさ』
更衣室の向こうから聞こえる声に、ドアノブを握る手が固まった。
『見てて痛々しいんだよね』
『わかる~! 歳も歳なんだしさぁ、ちょっと考えて欲しい的な』
立ち去るべきだ。わかっていても動けなくて、額に汗がにじむ。やけに大きく鳴った喉の音が、向こうに聞こえてなきゃいいけど。
『それそれ。売り方もマズいし。事務所はモデルとかグラビアとか、そっち系の路線でやらせたいみたいなんだけど……』
『マジ? 佐藤さん、そういうのイヤがりそーだもんね』
嫌がった覚えなんか無い。
『確かに顔はいいんだけどぉ。ちっちゃい頃とかにチヤホヤされて、勘違いしちゃってそーでウケる』
『アイドルって感じではないよね。無駄にデカいし……だからこそモデルなんだろうけど』
『わかるわ~。あのタッパと歳であの衣装着てんのはありえねーっしょ』
『いやまあ、そこまでは言わないけど――』
どうか、この場から逃がしてください。
『――しゅがーはぁととか言ってぶりっ子してるのが、ホント無理』
くぐもった笑い声に、悪意が染みる。
わたしに懐いてくれていたはずの後輩アイドルがふたり。彼女たちの引きつった顔を見た先のことは、あまり覚えていない。
♥
元居た芸能事務所の先輩から久方ぶりの連絡があったのは、アルバイト先からの電話を八回無視した後のこと。ベッドにうつぶせのまま手探りでスマートフォンを取り、緩慢にコールサインをフリックした。
「うっすもしもーし。久しぶ――」
『はぁと! ヘルプ! 助けて!』
出鼻からこれだ。最後に顔を見た時と変わらず落ち着きがない様子に呆れつつも、ノスタルジーの欠片もない懐かしさに妙に安心してしまい、思わず笑ってしまう。
「唐突ぅ。どーした、センパイ」
『話すとちょっと長くなる! 良かったら今から会えない? ちょーど今、はぁとん家の近くにいるし! あ、まさか引っ越してないよね。だったら無駄足じゃん! ねえいつだったら――』
「おーいセンパイ、ストップストップ」
一旦スイッチが入ると止まらないのも相変わらず楽しい人で、酩酊明けのダウナーが少しだけ軽くなる。一緒のステージに立つと、彼女が適当にしゃべり倒し私が茶々を入れるMCが、まあまあウケていた。
「ファミレスでいいっすか? 軽く顔作ってくるんで、ちょっと待ってて。外で会いましょ」
用事って、なんだろうな。窓に反射した自分の目は死んでいて、口元だけはうすら笑み。気持ち悪い奴だなと思った。
指定のファミレスで二十分ほど待ってから登場した先輩は、求めていた懐かしさを大きく裏切ってきた。
「……スーツ」
ふりふりファンシーな服装からは程遠いカッチリしたスーツで、ビジネスバッグを片手に、黒髪は肩口あたりで小ざっぱりと切り揃えられていて、アイライナーには遠くからでも目立つラメが入っていなくて――とてもアイドルらしからぬ、私の知ってる先輩らしからぬ出で立ちだった。
「どーしたんすか、それ」
「そっかぁスーツで会ったことないよねぇ。どぉどぉ? 似合う? ――すみませんすみませぇん! わたし生とぉ、あと苺のパンナコッタくださーい」
先輩は着席するや否や、向こうのテーブルを片付けていた店員を、居酒屋がごとく呼びつけた。人懐っこくエキセントリックな先輩の中身は記憶そのままで、フォーマルな装いとのちぐはぐさが何となく嫌だった。
「似合ってねーっす」
「マジかぁ」
先輩は手を叩きながら、からからと笑った。
「はぁとはおぼこいままだねぇ。そのシュシュ、めっちゃカワイイ!」
面食らっている私の様子を意に介さぬ様に、嬉しそうにそんなことを言う。おぼこい――確か「かわいらしい」とか、そんな意味合いだった。先輩は関西の出身らしく、時折馴染みのない言葉を投げてくる。
「半年も経ってないんすから、そう変わんねーっすよ。褒められんのは嬉しいけど……んなことより、どうしたんすか、そのカッコ」
「あはは、アイドルやめちゃったぁ!」
ああ、やっぱり。
「でもってしばらく就活してたんだけどなんか上手くいかなくて、そしたら事務所の社長が拾ってくれてぇ、今アイドルの面倒見てんの。プロデューサー業ってやつになるのかな」
春の下りにしてはやけに冷房が効いている。ストール、持ってくればよかったな。
「うちはさ、専業のプロデューサーみたいなの、居なかったじゃん。だから面倒見が良くてギョーカイのことをちょっとは分かってる人が欲しかったんだって。ああそうだ、今日呼び出したのもそれ!」
一通り喋り終えたらしい先輩は、運ばれてきたビールを一気に飲み干してから、バッグの中身を漁りだした。それからカラーファイルを取り出すと、一枚のビラ紙をこちらに差し出す。
毒々しいほどにカラフルポップな背景に、ハートと星が散りばめられている。その上部に『Sweet☆Fresh☆Stars』とロゴがあり、これがアイドルのライブの、それも合同企画のフライヤーだと分かった。中央には数組の女性の写真が飾られているが、どれにも見覚えがない。名前くらいには聞き覚えがあるかもと思い、紙を手に取り参加者一覧を眺めると、
「――って、おーい」
名簿の一番下に、誰よりもよく見てきた名前があった。
「この、これ! 佐藤心って――」
そう、わたしの名前が。
「お願いしまぁす!!」
「いやいや、そんな元気に言われても!」
おおよそ受け入れがたい出来事の連続と、人にものを頼みながらバニラアイスを口に運ぶ先輩を前にして、わたしは困惑することしかできなかった。
「わたし、なんも聞いてないぞ!?」
ライブ出演も、アイドルを辞めていたことも。
「だってぇ、言ってないもん」
あっけらかんと言い放つ先輩に、眩暈すら覚える。当の先輩は、ビールのお代わりをオーダーしていた。
「待って、わたしも生」
「おっ、いいねぇ」
「いいねぇ、じゃないだろお! ちゃんと説明してくんないと……」
「そりゃそうだよねぇ」
先輩はやんややんやと嬉しそうに手を叩き、それからもう一枚、ビラを取り出した。ぱっと見は先ほどと同じものに見え、私は首を傾げる。
「ほら、ここ」
先輩が指さしたのは、参加者一覧の末尾。先ほどわたしの名前が載っていたはずが、こちらには知らないアイドルが表記されていた。
「どうかしたんすか、この子」
「他事務所の新人アイドルなんだけどね、なんかね、事務所が全焼したらしくって」
「全焼……」
「そ、全焼。この子自体に怪我は無いらしいんだけど、火事の後でちょっと事務所と揉めちゃったらしいのと、そもそも事務所が存続できるか怪しいらしくって。欠員が出たら普通は同じ事務所で代役立てるんだけど、事情が事情だしぃ。でもって主催のウチで代わりを探したんだけど、今週末急にパフォーマンス出来る子が見つからなくてさ。今フリーでやってるはぁとなら――」
「ストップ!」
あまりの事態に頭がついていかず話半ばに耳を傾けていたさ中、いよいよ聞き捨てならない単語が先輩の口からこぼれた。
「今週末? 急に!?」
「そうそう。明々後日なんだぁ、ライブ」
「お会計おねがいしまぁす☆」
「待って待ってぇ」
席を立とうとした私の手首を、先輩が掴む。ひんやりとした指先が気持ちよくて、必要以上に力強くて――私は今、どんな表情で彼女を見ているのだろうか。とにかく、さっさと帰りたかった。
せめてもの抵抗にと、これ見よがしに嘆息してから座りなおし、それからジョッキを半分ほど一気にあおった。治まりかけていた吐き気が、ぶり返してきた。
「……無理言ってるのは分かってるけど、でもねはぁと、助けて欲しいな。これでもわたし、この仕事楽しくって、一生懸命やってて……こんなことで失敗したくないんだ」
「んにしても、順序ってもんがあるでしょーが。連絡をよこす前にこんなもん作って……。もしかして、もう配っちゃったりした?」
「配ってないよぉ! とりあえず差し替えただけ」
「それにしたって、こんな無茶苦茶な話……」
「はぁとの言う通りだけど、こうでもしないと、はぁと、来てくれそうになかったし――事務所ともほら、嫌な別れ方しちゃったし、ウチが主催だと顔出しづらいかなぁって」
「それはまぁ、そうっすけど」
多少なりと言い返したいこともあったが、理屈は通っているだけに、渋い顔をするしかなかった。
「それにね、事務所から飛び出して、どうしてるかなって。フリーの地下アイドルも珍しくなくなってきたけど、仕事、そんなにないでしょ? ちゃんと自分で売りこめてる?」
「ぎくっ」
ふわっとした口調で図星を突かれ、少したじろぐ。アイドルはおろか、いよいよバイトすらサボりました。などと口が裂けても言えない。仕事もお金も、なんにもない。
「それにそれに! はぁとはさぁ、ほら、器用じゃん。昔からなんでもそつなくこなすし、アドリブも余裕だし。……いきなりステージに立っても大丈夫だって、そう思えるのがはぁとだけだったの。だから、お願い!」
この段になってようやく、先輩は頭を下げた。自分で染め直したのか、見慣れない黒髪のてっぺんは、ほかの黒と比べて少しだけ色合いが薄かった。
気に入らないことこそあれど、これは渡りに船だ。生活が少しは潤う。話を聞くにつけ、先輩主導の企画だろうから手を差し伸べたいし、借りも作れる。何より、わざわざ仕事を持ってきてくれたことには変わりない。
断る理由は、無いように思う。
「……練習なしは、さすがに無理。集中したいし、事務所のレッスン室、手配しといてくださいよ。他の子たちには、絶対バレないように」
バレないように、を強調してそう言うと、先輩は勢いよく顔を上げた。表情がパァっと晴れたことになんだかムカついて、わたしは大げさにジョッキをあおった。
その場での軽い打ち合わせを終え、レッスン室を抑えてもらっていると――急に予定が空くわけがなく、担当アイドルの利用時間をそっくりそのまま私に割り当てていた――先輩がこんなことを言い出した。
「そうだ、なんかモヤモヤするなあって思ってたんだぁ」
「なんすかぁ」
ピンクの箱から取り出した細身の煙草を咥えつつ、わたしは気だるげに聞き返す。
「あま~い煙草の臭いもそうだけど、自分のこと、はぁとって言わなくなったんだねぇ」
「あー、まあ」
紫煙が肺に溜まり、血管に流れ落ちる。クラっと一瞬、視界が揺れる。
「そうっすね」
わたしの生返事に、先輩はカラカラと笑った。。
先輩と別れて、足早に帰路に就く。それから、アルコール臭の残るワンルームに帰るやいなや、私はクローゼットへ直行した。
立て付けの悪い戸を強引に開くと、トルソーに掛けられた衣装がすぐに目に入る。ピンクを基調に、黄色をワンポイントに効かせたセパレートタイのスタイルのもので、レースたっぷりのスカートにはハートがふんだんにあしらってある。これを手作りと言うと、大抵は驚かれた。
わたしはそれを抱きしめ、鼻を押し当てる。ホコリ臭くて、ヤニ臭い。
――そういえば、衣装はどうしよっか――
別れ際にそう問われて、返事を待ってもらっている。猶予はそんなにないだろう。
『衣装、そっちで用意してください。昔使ってたやつ、取ってますよね』
少しひび割れた画面を叩く指が、何となく重かった。
☆
物心ついたその時にはもう、キラキラを追いかけていた。
それはプラスチックで出来たおもちゃのジュエリーだったり、煌びやかなドレスの着せ替え人形だったり、はたまたガラス細工のハートがあしらわれた靴だったり。
中でもわたしの心をつかんで離さなかったのは、テレビの向こう側。フリフリの衣装を身に纏い、歌って踊って愛としあわせを振りまく彼女たち。いつどんな時も笑顔で、でもたまに真剣で、泣いちゃったりもして、それでも最後にはやっぱり笑顔で。そういったものに、心の底から魅了された。
わたしの夢は、生まれたその瞬間から、アイドルだった。
♥
不運な環境から生み出された、悲しき承認欲求モンスター。ちょっとばかり顔面が整っていたがために地元じゃ負け知らずの、勘違いゾンビ。それから諦念と惰性を身に纏い、それでもなお輝かしい舞台に取り憑くステージオバケ。
そういったどうしようもないものが、地下には大量に住み着いている。飛び交う会話は大体、事務所の誰これの悪口か、もしくは気持ち悪いファンの悪口。気が重くて仕方ない。
澱溜まりのような控室の空気感に圧され、ステージ衣装のまま逃げるように屋外に出たわたしは、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、喫煙スペースを求めた。リハーサルをすっぽかしてしまうため先輩に一報を入れたが、返事はない。今頃せわしなく準備をしているところだろう、連絡を確認するのは自分のリハ番が来てからになりそうで、ほんの少し申し訳なく思った。
ライブハウスの裏手側、ビルとビルの間にある簡素な喫煙スペースにたどり着いたところで、肝心な煙草を置いてきたままだったことを思い出す。衣装を着たまま出てきてしまったこともあり、取りに戻るかしばし逡巡したが、面倒くささが勝った。ひとつ隣の通りに大きめの煙草屋を見たことを思い出したので、そちらへ向かうことにする。
空は嫌味かというほどカラッカラに晴れていて、雲一つない。ビル風に髪の毛が乱れ、頬と首がくすぐったい。ゴシックドレスのスカートがなびき、押さえつけながら歩かなきゃいけなかった。
ほんの数分で目的地に到着する。店内は暖色に彩られており、煙草屋版アンティークショップといった様相のこじゃれた古めかしさに、ワクワクしつつも若干気圧された。
入り口前で店内の様子をうかがっていると、
「あのぉ! すみません!」
少し鼻にかかった、印象的な声に呼び止められる。
振り返れば、女の子が小走りで駆け寄ってくるところだった。小学校高学年から中学生くらいだろうか、黄色いリボンと、これまた黄色のパーカーにあしらってあるウサギの耳が同時にぴょんぴょこと跳ねて、小動物然とした可愛らしさがある。わたしが立ち止まったことが嬉しかったのか、それとも安心したのか、表情がパァっと明るくなった。
「きゅ、急に、すみません! も、もしかして……アイドルの、方ですか?」
そのままちょこまかと走ってきた少女は、相当急いでいたのか、息も絶え絶えに聞いてくる。膝を抑える右手には見覚えのあるフライヤーを握りしめていて、大体のところに合点がいった。大方誰かのファンの子で、会場が見つからず彷徨っていたところにわたしを見つけたのだろう。衣装のまま出歩いていたことが、思いがけず役に立った。
「ぴんぽんぴんぽーん! ご名答だぞ☆」
自分でも驚くくらい、自然と声色が切り替わった。どこまで行っても<しゅがーはぁと>が染みついている自分が、未だにむず痒い。
「もしかして、はぁとのファンの子? やーん☆ こんなところまで応援あ・り・が・と♪」
「あああ~違います! 違うんです!」
真っ向から否定されてしまった。見たこともない子だし、そりゃそうだ――先輩がよほど上手いこと宣伝してくれていなければ、今日の固定ファンは、最悪ゼロ。そうでなくともしばらくサボっていたわけだし、極々アウェーな環境だろう。コンテンツは、忘れられた瞬間に終わるのだ。
少女はというと、わちゃわちゃと振り回していた手に握っていたフライヤーをこちらに突き出してきた。それから、ぐちゃぐちゃのしわになったそれの、地図のところを指差す。
「ナナ、迷ってしまいまして! えっと、それで、ステキな衣装を着てたから、関係者さんかなぁと思いまして……!」
たどたどしい喋りは要領を得なくて、本人もそれを理解しているのか、にわかに表情が曇る。ちょこまかとした身振り手振りを交えてなんとか要件を伝えようとする姿が、服装も相まって破壊的に愛くるしい。このあたふた劇をずっと見ていたいような気もしたけど、あまり意地悪するのもよくないかな――ほのかに沸き立つ愛情やら加虐心やらを振り切るのが、少し名残惜しかった。
「そこならこの先を建物沿いにぐるっと行って、ケーキ屋さんの奥の細い道から入れるぞ☆ よく見ると看板も出てるから、見落とさないようにな♪ でもでもぉ――」
ここまで聞き終えて、少女は再び、はじけるような笑顔を見せた。
「わあ! ありがとうございます!」
礼を言いながらフライヤーをポケットに突っ込み、身体に不釣り合いに大きなリュックを背負いなおすと、
「ナナ、この御恩は一生忘れません! それではまた後で!」
と言い終えるかどうかのうちに走り去ってしまった。
「――まだリハーサル中、っておーい……」
ビル風よりもずっと、せわしない後ろ姿。嵐にでもあった気分だった。
控室のすみっこ、ハイプ椅子に腰かけ、段取りを確認する。
前役がはけるタイミングですかさずステージへ。MCはナシ。曲は慣れたものを選んだ。いつどこで歌おうが、大丈夫。ダンスは練習時間が足りなさ過ぎたから簡単な振りだけ。スタンドマイクを中心に動いて、小さくまとまらないことだけ意識する。
急遽決まったステージ、どうせ全編がアドリブ芸だ。場が温まりきっていれば、思い切り派手に、流れに身を任せる。その方が、客はついてくる。そうじゃなきゃ――大抵はこっちだろうな。そこそこにしか盛り上がっていなけりゃ、無難にこなすだけ。必要以上に煽らない。今日は、あくまで代役であり穴埋めだ。求められているのは、雰囲気を壊さないこと。誰だか知らないけど、主役を立てること――
「――って感じでいいだろ☆ ……らめぇ?」
おどけてみるわたしに、先輩は大きなため息をついた。
「無理言って頼んでる側だから強くは言わないけどもぉ。リハをふけるにしても、せめて直接伝えてって欲しかったかなぁ」
立ったまま腕組をしてわたしをたしなめる先輩の口調は、明らかに普段よりとげとげしい。よくよく考えてみれば、緊急参戦のわたしにこそリハーサルが必要だった。それに、大きなトラブルを経ての本番だし、ことさら入念に準備したかったに違いない。
「ごめんなさい」
「分かればいいけどぉ。今更叱っても仕方ないし、ぶっつけ本番でも、はぁとなら心配ないだろうし」
綺麗な切れ長の目をさらに細めてため息一つ、先輩も椅子に座った。
「センパイの担当してる子、様子見なくていいの?」
「だいじょぶ。今日は企画運営の方に回ってるから、他の社員に任せてあるの」
「あ、そうなんだ」
だったらなおさら、こんなところで座ってる場合じゃないのではなかろうか。
ライブが開演してしばらく経つ。ステージの音は控室までばっちり届いていて、出番を待つ面々の面持ちはどことなく固い。わたしだけが緊張とは無縁のようで、これはこれで居心地が悪かった。
先輩も先輩で、そわそわと落ち着かない様子だ。
「……センパイ、いっこ質問」
「なぁに?」
少しでも、気を紛らわせてあげたかっただけだった。
「なんで、アイドルやめちゃったんすか」
先日のおちゃらけた様子を見たばかりで、こんな悲痛な表情をされるとは誰が思うだろう。眉根を寄せて、一瞬で目が潤み、それでいて口元だけが笑っていた。
「うふふ、なんでだろ」
「あー……なんか、ごめん」
「なんで謝んのぉ」
口調はあくまで柔らかく、明るい。
「はぁとこそ、うち、戻ってこない?」
したくもない喧嘩を売って、勝手にカウンターパンチを食らった気分だ。先輩のそわそわの理由は、きっとこれ。
「アイドル殴っちゃったんだぞ。戻れるわけないだろー」
「でもでもぉ。あの子らも悪かったって反省してるし、喧嘩両成敗だよ」
きっかけはどうあれ、今日のステージに急遽呼ばれたのも、もしかするとこの話を切り出すためかもしれない。復帰前のワンクッションとしての舞台を、わたしに与えてくれた。
「うーん……」
この上なく気遣ってくれているのであろうことは、いくら何でもわかる。感謝してもし足りないくらいだ。それでもなお、二つ返事は出来なかった。
「センパイ。わたしね、あれからよく考えたの。なんであんなに怒ったんだろうって」
自分の弱さを認めるのは、結構辛い。言葉を選ぶのに時間がかかったが、先輩は待っててくれた。
「辞めてすぐはそりゃ、悔しかったし見返してもやりたかった。……でも結局のとこ、図星だったんじゃないかって思うわけ。賞味期限切れの年齢も、もっと向いてる仕事があることも――」
このまま〈しゅがーはぁと〉じゃ居られないことも。
将来への漠然とした不安とか、売れてく周囲への嫉妬だとか、キラキラな理想と薄暗い現実のギャップだとか。そういうものに憑りつかれた余裕の無さを、あのふたりにぶつけてしまった。ただそれだけのことなのだ。
だからわたしは選んだ。それなりに仕事して、のらりくらりとやり過ごして。賞味期限をとっくに過ぎて、ホントのホントに腐って食べられなくなったら、その時また考えればいい。こうしていれば、傷つかない。苦しくない。
アイドルを続けようと思ったら、こうしているのが賢明なんだ。
「――ま、そんなとこっすね」
言葉にするのが億劫で、無理やり話を締めた。それに、これでもステージ前だ。湿っぽくもしたくないし、上手く笑えてればいいなと思った。
「はぁと――」
「佐藤さーん! そろそろ移動、お願いします!」
茶髪のおじさんスタッフに、先輩の言葉は遮られた。
「はーい! 今行きまーす♪」
わたしは必要以上に元気よく返事をして、パイプ椅子から立ち上がった。
ステージ横のPA席は、慌ただしい様子だった。わたしを呼びに来たスタッフ曰く、
「ちょっと時間押しちゃってるんで、巻きでお願いしますね」
とのこと。歌って踊るだけなので、巻きも何もないだろう。あまり気に留めないでおいた。
「段取り確認しとかなくて、へいき?」
「前の人がこっちにはけてきたら、わたしが出てく。歌う。終わったら向こうにはける」
「おっけー」
パフォーマンス前の先輩とのゆるっとしたやり取りが、なんだか懐かしい。
緊張は全くなかった。軽くステップの確認だけして、スタッフの邪魔にならないよう隅に寄る。ステージは先番のパフォーマンス中で、ポップと言うには若干電波が過ぎる曲が流れている。盛り上がりはまあ、そこそこ。そんなに気張らなくてもいいかもしれない。
念のためもう少し雰囲気を掴んでおこうと、ステージへ目を移した。そこにはメイド服を着たうさ耳がぴょんぴょこ跳ねていて――
「――あれ」
既視感の正体に、すぐ思い当たった。昼間に道案内した女の子だ。あの子もアイドルだったんだ。通りで可愛いわけだと、一人合点した。
もっと、よく見たいな。なんだか無性に、こう思った――この時にはもう、スタッフのことや、自分の出番なんか、とっくに忘れてしまっていた。
独特ながらよく通る声に乗る歌は、歌詞はよくわからないけど、元気と心地よさが耳に残る。華奢な身体を目いっぱい使ったダンスは、やはり小動物みたいで愛くるしい。飛んで、跳ねて、うずくまって。サビに乗って、一等大きく跳ねる。ステージを所狭しと動き回って、うさ耳が外れてしまいそうなくらい揺れて、薄暗い中でもはっきりわかるくらいに笑顔がはじけて、とにかくひたすら一生懸命で――ステージに立つ少女は、ちょっとドキドキしちゃうくらい、キラキラしていた。
「熱心に見てるねぇ。ウサミン、気になるの?」
先輩の声に、我に返る。唇の先が、少し乾いていた。
小動物系少女改め、ウサミン。
「まあ、ちょっと」
ちょっとどころの騒ぎではなかったが、どこか心に引っかかるモヤモヤが、返事を濁らせた。こうした胸の高鳴りに、久しく出会ってなかったせいもあるかもしれない。
「癖が強いけど、地下じゃなくてもやれるだろうになーって思って。だいぶ若いし、オーディションとか受けないんすかね」
そう言うわたしを、先輩はおかしそうに笑った。
「多分、無理だと思うなぁ。受かんないよ、きっと」
「へ?」
言葉に意地の悪さを感じて、少しだけ驚いた。こんな先輩、見たことがない。
「あの人、あんな見た目でだいぶトシ行ってるんだぁ。確か――」
先輩はわたしの耳に顔を近づけ、ひそひそとつぶやいた。
「にじゅっ……!?」
年上。まさかの年上。
「あれが!?」
思わず大声を上げてしまった。信じられないし、受け入れられない――だって、あんなにも輝いてる。
スタッフの視線を集めて、先輩が謝っている。わたしも謝らなきゃいけないけど、喉がきゅっと締まって、思うように声が出ない。
「も~! びっくりしたぁ。そんなに驚くとは思わなかったよ」
「ああ、うん……」
生返事しか出来ない――なんで彼女は、ウサミンは、こんなところで笑っていられるんだろう、全力でパフォーマンス出来るんだろう。頭が一杯いっぱいで、先輩どころじゃなかった。
気づいた時には曲が鳴りやんでいた。ステージでは、MCが駄々スベリしている。それでもなお、ウサミンの世界観を貫いている彼女は一生懸命で、楽しそうで――彼女を見る度に、よくわからない感情が積もっていく。
「――ああなりたくなかったんだぁ」
ふと、先輩がこぼす。控室での話の続きだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
「アイドルは楽しかったけどぉ、それ以外なーんもなかったの。あの人、歴はすっごい長いみたいなんだけど、年取って残ってるものがウサミン星って、笑っちゃうでしょ。……ああやって、どうしようもない人になりたくなかった」
先輩の口元が震え、歪む。
「だから、はぁともさ。事務所、戻ってきなよ」
ああ、そっか。これ、最初から話が食い違ってたんだ。
先輩はとっくにアイドルを引退してて、わたしはわたしで、この上なく無気力だ――だったら何で、先輩の声は震えているんだ? わたしはどうしてここに呼ばれた? 年上のアイドルに一々心を動かされるのは、何故?
「……はぁと? 大丈夫?」
呼びかけられて、我に返った。呼吸が荒くて、胸が痛い。
「出番だよ、準備しよ」
そうだ、出番。
落ち着こうと息を吸うが、うまくいかない。ホントにどうしちゃったんだ、らしくないぞ。
時間が押してる。巻きでお願いします。前の人がこちらにはける。すぐに私が入れ替わる――前の人が、こちらにはける。
ウサミンが、こちらへ向かってきていた。
小走りで舞台袖に降りた彼女は、すぐにわたしに気づいたようだ。
「あ! さっきの――ひゃあっ!?」
やべっ、と思った時にはもう後の祭り。近寄ってきた彼女の肩を、思わず掴んでしまっていた。
「ちょっと! はぁと!?」
ウサミンの悲鳴と、先輩の怒声に、スタッフがざわつく。それに出番への焦りが、積もりに積もったモヤモヤした感情と混ざって、いよいよパニックになりそうだった――こんな状態で歌えってか? そんなの無理だ、冗談じゃない!
多分わたしは、ウサミンに縋っている。このままだとわたしもきっと、先輩の言うような、どうしようもないものに成り果ててしまう。だからここで、答えを見つけなきゃならない。導いてくれなんて言わない。でも、あなたを通してしか、きっと見つからない。わたしからこの感情を引っ張り上げたのは、あなただから。
「あなたは――!」
時間がない。何を言えばいい。わたしは何に、モヤモヤしている?
上手くいかない自分は、ウサミンを通して何を見たんだろう。多分きっと、一言では表しきれない思いが溢れて、こうなった。今わたしが肩を引っ掴んでる彼女が、わたしをこうした。あなたは怯え方もやっぱり小動物みたいで、可愛らしくて。あなたはどうして、こんなにもわたしを引き付けるんだ。あなたは――
「あなたはどうして、アイドルなの?」
精一杯絞り出した言葉は、こんな不明瞭なものたっだ。
「ナナは! ウサミン星の! ウサミンです!!」
要領を得ない問いに相応しい、トンチンカンな返答。でもそれは、今のわたしにとって、この上ない答えだった。
ふっと息を吐き、彼女から手を放す。急にひらけた視界は、自然とステージを映し出す。
憑き物が、落ちた気がした。
☆
久しぶりのステージは、やけに眩しい。
相も変わらず、胸が引きつるように痛い。喉がカラカラで、足も震えていて、それがやけに心地よい。
(ナナは、ウサミン)
そう言い切れる彼女に嫉妬した。憧れに似た気持ちも、言い表せないあれもこれも、様々な感情が湧き出てきた。
敢えて一言で済ませるならば、羨ましかったんだと思う。
小さなころから一直線に夢を追って、周りに認められず自信を無くして、勝手に折れて、諦めたフリをして。
斜に構えていたのは、きっと自分を守っていたんだろう。そうでもしないと、生きていられないほど辛かった。何故かって、結局わたしは、アイドルを辞められなかったのだから。
テレビの向こうの誰かも、ちっちゃな身体で頑張る年上も、わたしが羨むのはみんな、真っすぐに真っ当に、ありのままの自分でアイドルしていた。
自分の愛したわたしで居たかった。家族に愛されたわたしで居たかった。どこに行っても可愛いと言われる、そんなわたしで居たかった。でも、きっとわたしは、一度折れてしまったわたしはもう、素顔の自分じゃアイドルを続けていけない。
それでも、
(ナナは、ウサミン)
この憧れを信念に変えることは、きっとできる。
スタンドマイクに手を添え、思いっきり、息を吸い込む。
「みんな~! お・ま・た・せ☆」
カッコつかなくてもいい。引かれたっていい。
「あれあれ? みんな、ノリ悪いぞー!」
上手くいかなくて、へこんだって。
「はじめましてさんが多いからかな? わたしは――」
周りが何を言っても、関係ない。
「わたしは、しゅがーはぁとだよ☆」
わたしの夢は、しゅがーはぁとは、砕けない。
♥
部屋の掃除は済ませた。気分転換にと、ベランダへ出る。煙草の箱は、ライターごと丸めてごみ袋の中だ。
ライブは一応の成功を収めた、ように思う。
わたしのパフォーマンスはというと、よく覚えていない。ステージを降りた瞬間、先輩とスタッフにしこたま怒られて、正直かなりへこんだ。ウサミンに謝りたかったが、終電がどうとかであの後すぐに帰ったようだ。
(ナナは、ウサミン星の、ウサミン)
今更あの問答がおかしくなって、思わず吹き出してしまう――ウサミン星って、どこにあるんだろ。ウサギだし、やっぱり月なのかな。
見上げた夜空は、今日も雲一つない快晴。月が太陽のように眩しい、とても静かな夜だった。
影があるから、しゅがーはぁとはより一層輝ける! みたいな、そんなことを考えながら書いたお話でした。
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