あの無為な作戦会議を終えた、翌日午前の事である。駆逐艦不知火は、一室の扉を叩いた。この行為は既に数度目の経験だった。室内から張りのある返事がして、部屋に入ると、一人の男が執務机に座ったまま出迎えた。
肉付きが全体的に薄く、顎のほっそりした若者だ。身嗜みはしゃんとしていて、身の丈はすらりとしている。全体的に整っていると言えるであろう眉目に、作り笑いの見本の様な表情を浮かべて、不知火が近付く事を許した。
言われるまま、完璧な直立姿勢で執務机の前に立つ。部屋の片隅には、客人用に革のソファーが完備されてはいたが、この男──佐世保鎮守府担当補給官は、艦娘にそれを磨けと強要しても、絶対に着席を勧めはしなかった。
「ご苦労。駆逐艦の、ええと」
「不知火です。陽炎型駆逐艦、二番艦」
「不知火、良く来てくれた」
「……それで参謀閣下、どうされましたか。本日の作戦会議まで、幾ばくもありませんが」
「どうもこうもない、あの無能の畜生の件だ。全くあれは、参謀たる私が何度も意見したというに──」
艦娘の名を覚えないのと、挨拶代わりの不平不満も、同じく数度目だった。『参謀たる私』などという誇大妄想には、初め噴き出しそうになったものだ。今では適当に聞き流しせる様になった不知火は、横目に調度などを眺めやる。
絵画、花瓶、窓枠、絨毯──どれも高級品である事が、世俗に疎い艦娘にも分かった。ただし高級であっても、品があるとは言い難い。どれもこれも過剰に装飾されていて、色彩の激しさが目に痛いのだ。
一際目を引く、不知火の身長の倍はありそうな大棚には、数々の賞が陳列されている。士官学校の成績優秀者に与えられる賞状、射撃大会入賞の盾、果ては少年スポーツクラブのメダルまで、生涯で手にした誉れの全てを無理矢理詰め込んだその大棚は、男の過剰な優越意識を形で表していた。
この胸焼けする空間を初めて訪れた時には、一つ一つの賞の由来と、自分がどれだけ偉大な人物かという説得に、小一時間は耐えねばならなかった。曰く、人生のあらゆる過程で秀才の名を欲しいままにしてきたらしい。それに呼び起こされたのは、尊敬や感服などではなく「なるほど道理で」という気持ちのみだった。
どうやら経歴にも容姿にも恵まれた環境は、それ以外の全てを若者から欠落させたらしい。
不知火は無意識に数ミリ眉を寄せた。その眼光は戦艦をも凌駕せしめん──と専ら評判の駆逐艦である。それが研ぎ澄まされたので、自称参謀は言葉を詰まらせた。
「それで本題だが」
たっぷり十五分は独りで話した後、偉大なる参謀閣下はやや不自然に切り出した。
「あの無能は、いい加減僕たちの意見を認めるだろうか」
「そうせざるを得ないと考えます。何せ、聡明なる参謀閣下のご意見です。少し脳を働かせれば、正論である事が直ぐにでも分かります。化け猫の皮も剥がれる頃合。恐らく午後の会議では、総退却を鎮守府全体に命じるでしょう」
「もっともな見解だ。全く理解が鈍いのを説得するには骨が折れるよ」
参謀は言うと、切なそうに大きな溜息を吐いて、立派な椅子にもたれ掛かる。いかにも無能上司にあてがわれた苦労人めいていた。実際、そう思っているのだろう。
「だがね、万一にでも抗戦するなどと言い出しはしないか。血の気の多い連中は、考えが足りない割に声だけは大きいから、それに流されたりはしないか」
元々は自分で煽動した仲間に対し、何の臆面も無いが、多少の不安を混ぜた声で、少女の姿をした兵器に尋ねた。
「未だに論が分裂しているのは嘆かわしい事です。しかし、我々には崇高な『大義』があるのです。どれだけ声を大に曲論を並べ立てようとも、毅然とした正論の一言に敵う道理がありましょうか」
「一々が君の言う通りだ。主戦派の連中は、戦況が刻一刻と変化している実態を認めない。時の状況に即して、柔軟に案を練るのが参謀の役目というものだろう。にも関わらず連中の愚かしさときたら、臨機応変という言葉を知らん」
「それも今日までの懸念。どうか胸をお張り下さい。参謀閣下は、正しい見識をお持ちです」
不知火は殺し文句を口にした。参謀は何度か「正しい」と口の中で反芻し、十分に味わってから尊大に胸を反らせた。不安は過ぎ去り、根拠無き自信だけがぎらぎらと彼の目に満ちている。
下手に立つ桃色の髪の駆逐艦は口元を綻ばせた。これは大変珍しかったので、男は驚いた。祝福の笑みだろうか。鎮守府の頭脳を自称する若者は益々のぼせ上がったが、実情は異なる。
単に、嘲笑を抑えられなかったのだ。
負けたな、これは。
不知火は静かに再確認した。目前で増長する参謀の言動一つ一つが、声高に証明している。不知火は具体的な安心材料を何も示していない。ただ綺麗に言葉を飾って、肯定してみせただけである。彼を安心させるのは、現実的な対策ではなく、言動を全肯定してくれる他者なのだろう。
およそ指揮の一端を預かる役としては、最低の性格だ。海上自衛隊上層部には手を叩きたい。辺境の畜生提督の足を引っ張るのと、中央からの厄介払いと、戦争を長引かせる目的であれば、一転して最高の人材ではないか。
現在の戦況に対し、鎮守府内で真っ先に見切りを付けたのは、他の誰でもない、不知火である。おぼろげな予感では参謀が着任してから、確かな形となったのは、同人がヒステリックに反攻作戦を訴え出してから──早々に陽炎型の二番艦は積極的戦意を喪失していた。
不知火は勝利の確信を得た経験はまずなかったが、敗北の予感を嗅ぎつけるのは誰より早かった。今回の戦闘も例外ではない。惨敗までの道筋が、敵味方の一挙一動を違えず、瞼に浮かぶ様だった。
事前に「戦えば必ず負ける、撤退すべきだ」と強く主張しなかったのは、一度酷く傷付いてからの方が、皆耳を貸すだろうと考えたからだ。欲を言うと、一隻くらい轟沈してくれれば説得力も増したのだが、そう都合良く進まないものである。
さり気なく、陣形不利を誘導してみたり、低練度の駆逐艦を前面に押し出したりしてみたが、いずれも空振りに終わった。あの紅い軽空母が、味方の苦境を見るや援護に入るからである。艦載機と一緒に飛んでくるやいなや、怒号をもって陣形を再編し、低練度艦の出血を肩代わりし、戦線を支えつつ反撃を試みる──そのお陰で、物理的にも心理的にも、鎮守府は『再起不能』とまで至らなかった。全くご苦労様だ。
目論見が外されたので、不知火は別の手を講じる必要に迫られた。そして目を付けたのは、自分自身で煽った戦争の恐怖に捉えられた、兵站管理人であった。
男に撤退論を吹き込むのは実に簡単だった。轟沈手前の重傷を負った幼い艦娘たちが、悲鳴を挙げ大量の血痕を廊下に滴らせ、苦悶の表情で入渠ドッグに運ばれてゆく光景を、茫然自失と眺めていた彼に囁いたものだ。
「参謀閣下は悪くありません。悪いのは、出撃を許可した提督です。深海棲艦を打倒出来なかったのは、現場の指揮が悪かったからで、これもまた閣下に責任はありません。あなたは正しかったのです──」
参謀は不知火の言葉に飛び付いた。この男は肥大した理想ばかり見たいと欲し、厳しい現実を見ようとしなかった。とかく精神のバランス感覚を欠いており、この時も瀕死の幼子を前にしながら、必死に自己正当化の方便だけを探していた。そして、絶妙の頃合に吐きかけられた甘い毒の息を、肺腑の奥まで吸い込んだのだった。
調略が上手くいったのは良いのだが、参謀の変わり身の素早さは、またも不知火の計算を狂わせた。まさか大の男が、ここまで恥を知らないとは思わなかったのだ。
主戦派の艦娘たちにしてみれば(扇動されたとは言え)、昨日の今日で、主張を六時に回頭させてしまっては面目が立たない。であるから、参謀には少し躊躇ってもらい、その様子を主戦派の艦娘に見せ付けてやるつもりだった。それによって、心理的抵抗を抑えつつ、天秤を傾けようとしたのだが――実際、彼の転身は余りに軽々しかったので、逆に激しい反感を招いた。
結果、鎮守府内部は真っ二つに割れてしまい、早く撤退したいがために会議を長引かせる、という皮肉極まりない状況となってしまった。やり場の見付からない不快感が、駆逐艦の薄い胸を一杯に満たした。
それにしても不知火に理解不能なのは、対立する主戦派の連中である。龍驤を初め、作戦会議に出席を許される程度の経験を積むならば、ここに至っての反攻作戦は、玉砕にも等しいと内心では分かっているだろう。
だと言うのに『武人の心』とやらの面目に突き動かされ、むしろ玉砕こそ本望であるかの如く振る舞う連中には、薄ら寒さを感じざるを得ない。寝ても覚めても、華々しく、立派に死ぬ事だけを考えているらしい。
そんな自殺志願に付き合う趣味は無かった。
少なくとも、あの提督がそういう人種でない事は明らかだ。もし『武人の心』とやらに同調するならば、不知火が行動を起こす前に再出撃を命令していた筈であるし、会議が長引く訳もあるまい。
故に提督が強権を発動した時、不知火は確信した──あの猫は逃亡を選んだのだと。
一週間も腹を据えかねる優柔不断者が、最終的に玉砕を選ぶなど心理的に考えづらい。世間一般の感覚で考えれば、追撃防止に艦娘だけを残して、自分は逃げるという道を選ぶだろう。
そうなってくれれば後は楽だ。主戦派の、誰でも良いが、例えば龍驤などに告げ口すれば良い。そんな卑怯を彼女が許す訳がないので、敵前逃亡として捕らえるか、運が良ければ殺してくれるだろう。
そうなれば、以降命令に従う義務は消滅し、提督業を引き継いだ参謀の下、堂々と撤退すれば良い。暴走した主戦派連中が敵に突っ込むかもしれないが、不知火には預かり知らぬ事だ──
「間もなく、お時間ですね。参りましょう」
壁際に据え付けられた、無駄に巨大な振り子時計が、刻限を知らせるベルを鳴らした。頷いた男は、また無駄に幅広い椅子から徐ろに立ち上がる。如何にも荘重な仕草が、不知火の目には滑稽だった。
その仕草の半分でも、精神的な重みがあったのなら、一週間も気苦労する必要は無かったのだ。もちろん若者は露程も気が付いていないが、教えてやるのも馬鹿馬鹿しい。よしんば伝えた所で癇癪を起こすに決まっている。
なので不知火は黙って目を細めて、意気揚々と会議室へと歩く男の狭い背中に、三歩遅れて付いていった。
出来の悪いマリオネットを踊らせるのも、今日で最後だ。目論見が成れば、真っ先に捨ててやる。
戦争で命を落とすなど、絶対に嫌だ。どんな手段を使っても、必ず今日を生きて、生き延びて──そしてまた、戦争をしなくてはならないのに。
◆
ノア提督の決断が一方的に知らされた時、この日の会議室を満たしたのは賛成や反対の叫びではなく、ただただ当惑の色であった。主戦派も撤退派も関係無く視線を交わし合って、果たしてどう反応するべきか、答えを探し求めている。
「では皆々様、抜かりなく」
秘書官の加賀ではなく、何故か今日に限って参加している全身烏羽色のあきつ丸が、全てを無視して締めに入ろうとしている。
「ちょ、ちょっち待ちぃや」
関西弁らしく、龍驤が流れを差し止めた。頬に汗を一筋流す必死の形相で、身を乗り出している。
「それって、つまり、どういう話なんや? 何を言っとん?」
歴戦の兵とも思えぬ、呆けた質問であったが、着席している全員の心と一致していた。龍驤の対面に座る、普段の二割増で目を開く不知火も同じである。龍驤が言わなければ、不知火が同じ事を尋ねていただろう。
「意味も何も、お手元の書類に書いてあるお話の通りでありますが」
「ウチらは海の艦娘やで」
「疑い無いですな」
「そもそも何でアンタが仕切っとんねん」
「これでも一応の専門家でありまして。作戦顧問であります」
「艦娘にこんな分野の専門家も糞も……いやアンタは事情がちゃうんか、ああ、何や、分からん……」
混乱して言いたい事をまとめ切れず、龍驤はツインテールの付け根を乱暴に掻き毟る。
「だ、断固反対するっ! こんな作戦が認められる訳が無い。常識外れにも程がある、論外だ、論じるにも値しない!」
左方末席から、中央卓を強く叩く音と、解読不能と化す寸前の叫び声がした。あきつ丸は、参謀の剣幕に圧された様に、わざとらしい困り顔で「はあ」と返す。
「それはちょっとわたくしめに言われましても。自分は提督殿に言われた通りやっているだけでありますから、ご意見はそちらの方に……」
ゆとり役人めいた言い訳をして、あきつ丸は隣の机上に座るノア提督に目線をやった。表情こそ困り顔だが、濁った目には意地悪いさざめきがある。「面倒臭いので何としろ」と丸投げしているのがあからさまだ。
内心で腹心を罵りながらも、ノア提督はもちろん気が付かない振りをした。
「異な事を言う。論じる段階は既に終わったよ。論じて結論が出なかったから、やむを得
ず、強権を発動したんだ。昨日の諸君らは承知した筈だったが、まさか違うのか?」
調子こそ飄々としているが、有無を言わさぬ言葉であった。非人間の両眼が、沈黙する一同をじっくり見渡す。こうまで権限を振りかざされては何も返せない。参謀は、あっという間に猫以下の小動物と化して、助けを求める視線を左方上席に向けた。
不知火は舌打ちしたくなる。肝が小さいにも程がある。そう露骨に見られたのでは、周囲に関係を悟られるではないか。体面上は、作戦参謀に駆逐艦が追従している形でな
ければ、後でどんな不都合が待っているかも知れないと言うのに。
「……そもそも戦いとは、勝利の確信を持てない限り、戦端を開いてはならないものです。司令官は分かっておいでですか」
棘のある口調で、不知火は正論を述べた。この場の約半分に突き刺さる棘であったが、最も深く刺さるべき人物は、その存在に気が付きもしない。
「当然、用兵の初歩だからな」
「分かっていて、撤退案を破却するのですか」
「そうだよ」
「つまり、そういう訳だと?」
「うむ」
不知火は黙り込んだ。提督の対応は端的だが、だからこそ付け込む隙を見出せなかった。末席の男が、今まさに飼い主に捨
てられる子犬の目で、少女を見つめている。少女は無視する事に決めた。
そんな些事に構う余裕も無い程、胸中に生理的嫌悪が渦巻いていたのだ。不知火は不意に悟ってしまった。ノアという提督と自分とは、根本的に相容れない存在であると。
よりにもよって『勝利の確信』だと、この嘘吐きめ!
何もかも未知数の戦争で、これ以上に無責任な発言があるものか。そういう指揮官に限って、兵士にありもしない希望を語り、平気で死地に送り込むのだ。まだ『武人の心』とやらの方がマシだった。死んでこいと事前に宣告されるのと、勝てると嘘を教えられるのでは、 覚悟の質が断然違う。
見よ、艦娘たちの顔を。
今の提督の断言によって、絶望に支配されていた撤退派の瞳にさえ、仄かな希望の炎が宿ってしまった。もしや、という囁きは周囲を巻き込み、段々と大きくなっている。主戦派の連中に至っては、撃ちてし止まんと息巻いて、戦う意気に満ちている。玉砕の覚悟も、一瞬で忘れてしまった様だ。
『紅鬼』と恐れられた龍驤さえ──不知火をして一目置く、恐るべき軽空母さえ、今や得体の知れない猫に対しての目付きが熱を帯びている。ある小部分だけは、信頼していたと言っても良い龍驤の変化は、不知火の心理にとって全く想定外の大損害となった。
希望を騙る同僚たちの最中、不知火は、たった独りで血が滲む程強く拳を握った。他者の『希望』のために死地に赴かねばならぬと考えると、気が狂いそうだった。
耐えられない。
理屈で片付かない、おぞましい感情が、一瞬ごとに理性を削っている。黒い感情の渦巻きが、正に殺意の滴りとなる寸前──ノアに機先を制された。
「でも不利になったら、俺は直ぐ逃げるからね。地位も名誉も惜しいから、しょうがなくやるけれども。だから、せいぜい命張ってくれ」
希望の炎は呆気なく吹き飛ばされた。
龍驤の目付きが一気に冷めて、それ以上に会議室の空気が冷えた。
嫌悪感に発狂しそうになっていた不知火は、次に何を思って良いのか分からなくなってしまった。
◆
「いや何余計な事言ってくれたでありますか。夜なべして考えた作戦がパァであります」
「ほんとごめん」
あからさまに渋い顔の艦娘たちを会議室から追い出し、山積する問題処理のために秘書官たる加賀も退出した後、残った両者の第一声がそれであった。
バツが悪そうにしているノアに、あきつ丸は冷ややかな視線を投げ掛けた。徹夜のためか、白目は薄ら充血している。
「あのまま黙っていれば、穏やかに内憂は除かれておりました。仮にも一致団結で作戦に臨めていたのですぞ。この時点で躓いてどうするのでありますか」
「もう我慢出来なかった。ああいう上っ面の忠義みたいなもんを向けられると、全身アレルギー反応が出て、むず痒くて堪らなくなるんだよ。ああ、かいかいかい……」
四足動物は後脚を忙しなく動かして、首筋をぼりぼり掻いた。その必死さは、あながち誤魔化しとも見えない。
二足の方は、大きく嘆息した。額の辺りが鈍く痛む。
「全くうちの提督殿は、妙な所で、妙な突っ張りさえしなければ、いま少し好かれるものを。仕様の無い畜生でありますからに」
あきつ丸は演技っぽく眉間を摘んでみせたが、実は本気の落胆の隠れ蓑だった。この作戦の第一段階として、主たる目的は、鎮守府を心理的に糾合する事に間違いない。二人で打ち合わせたのもこの部分である。
だがその裏では、騒動にかこつけて、あれよあれよとノアを『英雄』として祭り上げてしまおう、という秘めたる魂胆があった。
危機に直面した鎮守府で、嫌われ者の新任提督が、艦娘と力を合わせて乗り越える──良い筋書きではないだろうか。あきつ丸が夜なべしたのは、そういうドラマチックな台本を作るためであった(作戦の本筋は早々に完成していた)。
あきつ丸という配下は、忠誠を独占したいと思う気持ちよりも、むしろ主人が無名に甘んじるのを無念に思う気質の方が強かったのだ。
しかし、いつもの、である。
あきつ丸が幾ら劇的な舞台を仕組み、苦労して集客しても、ノアは何もかも台無しにする下衆畜生を演じるのだ。何故だかこの猫は、人格的に評価されるのを極端に嫌っていた。
その過敏症は嫌悪というより、恐怖にも近く見える。海上自衛隊の鼻つまみ者は、何も形態差別のせいばかりではないのだった。
それでもあきつ丸がしつこく諦めないのは、健気さと言うより、性格の悪さだ。
「あのさぁ、言っとくけど半分くらいお前のせいだからね?」
部下の想いを知ってか知らずか、全身の痒みが治まらないらしい提督は、首筋を掻き毟りながら言った。
「これは心外。ご自分の失態を人のせいにしないで欲しいでありますな」
「嘘でも責任転嫁でもないぞ。でかい胸に手を当てて考えてみろ」
「脳の小ささは耄碌の早さに関係するのでありましょうか」
憎まれ口を叩きながら、すんなり言われた通りにするあきつ丸だった。それを見たノアは、苦そうに目を細めて、一層激しく身体を掻いた。
はてさて? 視線を斜め上に向けながら、問われた腹心は考える。思い出すのは、去る四年間の御恩と奉公、病める時と健やかなる時ばかり。にやけ面で真剣に考えても、思い当たる節は無い。
やはり主人の吹かしだろうと疑い始めた頃、その主人は苦々しく口を開いた。
「お前、通算何回自決しようとした? 特に最初の一年」
あきつ丸は、封印した記憶の蓋が一斉に開く音を聞いた。薄ら笑いは消え失せ、白磁の肌がほんのり紅で染まる。
「『どうせ提督殿に拾われた命』なんて言って、任務に出る度にボロボロになって、ちょっとでも失敗すると直ぐに自決しようとしてたよな」
「…………」
「その度に柄にもなく命の尊さとか語らなきゃならなかった俺の気持ちが分かる? もうホントあんな生活嫌なの。一人ですらこれなのに、これ以上増えるとかノイローゼになるわ」
「あ、あー、どうも夜なべのせいか耳の調子が」
揚陸艦は、色白なため紅潮が目立つ耳を隠す様に塞いで、遠回しな敗北宣言をした──もしも第三者が居合わせたならば、あきつ丸は顔色一つ変えず、上司をボケ猫呼ばわりしただろうし、周りも同意したに違いない。
ただ、今この場には二名しか居ないのだった。
もう少し俺に失望してくれれば良いのに、とノアは思う。
馴れ合いを嫌う半分は元々の捻くれであるが、もう半分は掛け値無しにあきつ丸のせいだ。今どき命をも惜しまぬ忠義忠節など持たれても、面倒臭いだけだし、側に居られると薄気味が悪かった。
一方的に向けられた信頼感情とは、他者に勝手な幻想を抱かせ、そして裏切られたと思い込まれれば強大な敵を生み出す、厄介この上ない劇薬だ。
その点、ノアはとことん『常識的』だった。
誰かに命を捧げるなど馬鹿げており、それが求められるとしたら、環境そのものが狂っているのだ──と、部下が自決しそうになる度に(柄にもなく)言い聞かせた。
さしものあきつ丸も理解したのだろう。今までの自分を恥じて、ある時から忠義者らしくするのをきっぱり止めた。
それからというもの、未熟な艦娘は、成熟を飛び越えて徐々に腐敗していった。あの健気な姿は何処へ失せたのか――絶えず卑しい笑みを浮かべ、あらゆる不誠実で瞳を濁らせ、口を開けば道徳そのものを嘲る、最低最悪の人格へと変貌した。
あきつ丸が腐れ落ちてからというもの、ノアはむしろ安息した。今までの不当な環境の反動と考えれば、実に『正常』な変化だと思ったからだった。
他者に全権を託すより、自分の意思で世界を憎んでいた方がよっぽど健常である。後は、その憎しみが正義感という正しい方向へ昇華してくれれば良いのだが──と案じていた矢先、事件は起こった。
何者かにより、ノアが襲撃されたのである。
当時は、提督という地位へ登り詰めるため危ない橋を何本も渡っていたが、そのうち一本を踏み外したらしかった。
幸い軽傷で済んだため、対策を話し合おうとあきつ丸を呼び付けると、何時も飛んで参上する腹心は現れなかった。さては恐れをなして遁走したかと勘ぐったが、特に怒る気にもならず、死ぬ事しか考えていなかった娘が成長したものだと逆に感心した。
しかし翌朝、あきつ丸は帰ってきた。
頭髪は焼け爛れ、頭蓋の一部と片目が吹き飛び、腕は肘からもぎれ、腹には大小の穴が空き、血みどろの足を引きずる──きらめく朝日によって容赦無く照らし出された、凄惨極まる姿は生涯忘れられないだろう。
出会いの時よりも酷い半死体の有様で「ちょっと散歩がてらに報復を」と、彼女は変わらず不気味に笑った。
「お前何も分かってないじゃんッ!」
猫は思わず絶叫した。
騙されていたのである。この女の忠義とやらは矛先を隠しただけで、本質が変わっていないどころか苛烈さを増していた。
もはや彼女に正義悪徳の区別無く、有るのは忠誠のみだった。では一連の変貌は、主人に言われた事に表面上それっぽく従っていただけだったのか?
否。表面だけの演技ならば、動物的嗅覚に富んだノアを騙す事など不可能である。実際に腐ったのだ、この女は! 主人の命令を実行するため、日頃の心配をかけないため、人格すらも歪めてみせたのだ。
全ては、自分の根底にある、酷く美しいものを覆い隠すために。
そこまでして貫く利他精神など狂気の産物でしかない。
もし今この場で死ねと言ったなら、あきつ丸は相も変わらず喜んで自決を果たすだろう。それが意味のある死だと信じて疑わないのだ。そうじゃない。本当に求めていたのは「何であんたのために死ななきゃならんのか」と言い返してくる主体性なのだ。
しかも、あきつ丸は心理分析の達人の癖に、この辺りについてだけは妙に鈍感、盲目的で、すっかり現状に満足している様だから始末に負えなかった。
今では「いのちをだいじに」と厳命してあるため、短気を起こすのが減少しただけで良しとしよう──猫は、諦めの境地にあった。身体どころか、心の支配権まで捧げた相手に何を言っても徒労である。
「お前だけで沢山だよ、そういうのは」
ため息と同じ風に、ノアは呟いた。
ともあれ拾った動物には最後まで責任を持たなければならない。手に余る部下だと常々感じるが、騙し騙される世界に身を置くノアにとって、断じて裏切らない懐刀は、打算抜きにしても頼れる存在である事もまた確かだった。
何という矛盾。自己嫌悪も相まって、ノアの馴れ合い嫌いには益々拍車がかかるばかりだった。
「……それで、作戦計画だが。別の手立てでいくしかないわな」
部下を虐めるうちに、自分にも蘇ってきた苦い思い出に無理矢理蓋をして、新任提督は本筋に戻った。
「然り」
聴力が急回復したらしい腹心は、白々しくも平素の調子で応じ「誰か様のせいで」と憎たらしく付け加えた。ノアは甘んじて聞き流す。このくらいの意趣返しは、むしろ当然の権利だろう。
「一日あれば代案を出すけど」
「遅い」
「だよな、食糧事情は待ってくれない。正規空母とかもな。俺が非常食になりかねん」
「状況は火急を要します。海の黒ずみが、今に陸を黒ずませるとも限らないのでありますからな」
「実際やれる事だ、その気になれば」
「あはは、困ったものですな。どうしましょうね、ホントホント」
「……で、何かあるんだろ」
「おや、おやおや? これはまた、心外な仰り様。このあきつ丸が、作戦立案を一筋しか用意していない無能とでも?」
「全く頼もしいと思うよ」
嫌に恩着せがましく会話を誘導するあきつ丸に、ノアは嫌味っぽく応じた。この切羽詰まった状況においても普段通りに振る舞うという点では、確かにそう思わないでもない。
「有りますとも、正に起死回生の妙案」
「まあ、俺が台無しにした訳だから、なるべく黙って聞こうか」
「では一任して下さいますね」
「駄目だ」
万を辞して提督は即答した。あきつ丸のニタニタとした笑顔が一瞬だけ作り物っぽくなる(実際作り物だが)。
「代案については全て任せよう。だが『一任』は出来ない。お前の行動について、責任はあくまで俺に帰属する。俺が提督で、お前が艦娘。その限りを超えて動く事は許さない」
「……随分、信用が無いのでありますな」
「無いよ」
「少しは、信じられていると思いましたが」
転じて悲壮な雰囲気を醸し出したあきつ丸を、ノアは乾いた目で見つめた。そのうちに艦娘の目の端が潤み始める。見事な程に哀れだ。しかし猫の対応は変わらない。
暫くすると、気落ちした女の顔は、みるみるうちに無邪気な笑みにすげ変わった。何時もの嫌らしい笑みとは、全く性質が異なっている。
これだよ──ノアは深く息を吐いた。
「諦めたか」
「諦めました」
「十年は早いぞ」
「そのようで」
「ほら言ってみろ」
「強襲揚陸艦あきつ丸が全行動の責任は、否応無く提督殿に帰属するものであります」
「うむ」
あきつ丸への行いへの信用など、とうの昔に放り捨てたが、行動原理の一貫性だけは確信している。
『死にたがり』なのだ。
これと決めた主人に命懸けで侍う──それこそ生の全うだと思っているらしい。
全く、分かり易く自害する真似はしなくなったと思ったら、今度はあの手この手で提督の重責を奪って、失敗の暁にはそれと共に心中しようとするのだから堪らない。
上官とは、自分の命令について責任を取る以外に存在価値は無いというのに。
「諦めついでに聞かせて頂くであります。提督殿は、参謀閣下を如何に処遇するつもりでありますか?」
ノアの片目が楕円に潰れた。急に、目の上にタンコブが張り出てきた気がしたのだった。
「働かせる。黙ってりゃ、そこそこな後方補給官なんだろ。連日、大淀が首を吊りそうな顔をしてるし」
「結局ほぼ独りで鎮守府の兵站を切り盛りしていますからなあ。艦娘に対する人権侵害の象徴みたいであります。首吊ったって死ねない所が特に」
「お前に言われたら泣くよきっと」
「彼女の下に付けるのですか」
「アホ、それが通じる相手かよ。形だけは上に付けてやらなきゃヒステリーだろ。逆に言や、形だけで済むんだから安い男だな」
「いよいよ大淀さんが縄をない始めますな」
「あいつには『ゴマすっとけば横須賀への栄転があるかも』とか言っときゃ良いんじゃない?」
「……それで何とか丸められそうなのが彼女のさもしい所でありますな」
些か上昇志向の激し過ぎる眼鏡の軽巡洋艦については、主従で感想が一致するところだった。
「しかし、心配ですなあ、はてはて」
肉体から精神から人権侵害で構成されている様な艦娘が、猫撫で声めいて憂いた。ぬらりと撫でられた猫のもう片方の目が、より細く潰れる。
つまりは『それ』だったか。
あきつ丸は、何か口に出して心配する暇に実力行使を取る艦娘である。それが敢えて前者を取るという事は、暗に行動を制限されているという事であった。
「心配するにしては物欲しげだな」
「とんでもない、自分程無欲な艦娘も居ませんよ……ほら、戦場で弾が前からばかり飛んでくるとは限らないでありましょう? 素直に見せてはくれない分だけ、危うし危うし。参謀閣下はそれに気が付いておられない。運が悪いと、あらウッカリ、なんて事が十分有り得ると危惧するばかりであります」
背後に立たせなくない女第一位(提督調べ)の艦娘は、指で鉄砲を作って「ばーん」と提督を撃った。
ノアの意識があきつ丸の左脇に誘われる。そこに隠し吊られた鉄塊の存在は、頭の隅にこびり付いて片時も忘れられない。付き合い初めて一年目、何度それが持ち主の脳天をぶち抜くのを止めた事か。
そして未だに、抑止しなければならない。今度は銃口の向き先が変わった──最も、当時よりは随分気が楽かも。
「いや、そうはならないね」
「ほう? では、提督殿は彼の命運は未だ尽きてはいないと思われている」
「そう思うね。奴は余程に幸運だ、きっと日頃の行いが良いんだろう」
「おほほ、然り然り」
「だが、まあ、一瞬だろうな──」
何を考えていたものやら分からない、人でなしの双眸が、ちろりと異様な光を零した
――瞬間、艦娘の首筋に酷く鋭利なものが滑り入り、通過した。
気道、神経、血管。人外の艦娘と言えど生存に必須なそれらが、ことごとく断裂した感覚を、あきつ丸は確かに味わった。髪を気にする風にして、さり気なく首筋を撫でる。くっ付いている。静かに呼吸を再開した。
次にはもう、提督は相変わらずぼんやりした猫顔を晒していた。強襲揚陸艦の顔は、まだ表情を戻す事が出来ていない。あきつ丸の首を切断したのは、殺意とか迫力とか言う既存の言葉では説明不可能な『なにか』だった。
偶にこういう事がある。こういう事があるから――この方から離れられないのだ。
「大抵ほんのちょっぴりの事で、一瞬。土壇場でくるりと命運ひっくり返るなんてのはな。こればっかりは自分じゃどうにもならん。奴だって同じだろ、とても平等」
「……提督殿と居りますと、ほんに勉強させられるであります。全く自分のものは、クルクル回り過ぎて、今がどの位置にあるのやら──重ねてお忘れなきよう」
忠実な配下は、ずいと顔を突き出し、甘く囁いた。
「たったの一声賜れば、このあきつ丸、即ち白を黒に裏返し、黒を白にも表返しましょう。わたくしはその為だけに所有されるものであります」
「すごい便利」
「ま、気を利かせて勝手にひっくり返っちゃう時が無きにしも非ずとも」
「あきつ丸」
「強襲揚陸艦あきつ丸が全行動の責任は、否応無く提督殿に帰属するものであります」
コイツ本当に分かっているんだろうか──恐らく分かっていないのだった。
何時の間にか妖笑を帰参させていた黒い腹心は、何時にも増してにやにやする。もはや隠す所も無くなったため、堂々としたものである。その顔は無邪気にすら見えて――いや、やはり見えなかった。
「さて、どうにも自分は信用が無いそうで? 仕事の一任は出来ないと仰せでありますからして? ではせめて『委任』して頂きましょうか」
髭を伝って、ノアに凄まじく不吉な予感が流れ込んできた──畜生め『後出し』案か。
作戦立案に臨み、幾通りもの道筋を想定するのは当然の嗜みである。この通り数に応じて、立案者の頭脳が評価されると言っても良いだろう。そして、あきつ丸は常に複数道筋を準備している。
その中で初めに選ばれるのは、もちろん最善策だ。しかし不運にも最善策がおじゃんになり、また次善策も台無しになって、いよいよ手段が選べなくなった時、あきつ丸は一番楽しそうに笑う。
作り物ではなく、恐らく本心から。
最悪の女だ。
「提督殿よ、これはあなたが招いた結果であります」
慈悲もなく、黒いのは言った。
「あなたは撤退も玉砕も選ばなかった。内憂を除き、団結を以て戦う事も選ばなかった。どうしましょう。残る手段は、このあきつ丸の『専門科目』ばかりになるのは当たり前でありますなあ。部下の行動について責任を取りたいのなら、まずは御自分の責任を取って頂きませんと」
言い回しはともかく、あきつ丸に正論を諭されるのは釈迦に説法されるより堪える猫である。何とも減らず口しか叩けそうにない。
「お前と違って、俺はまだ死にたくないんだけど」
「大丈夫、惜しむ地位も名誉も守ったまま死ねるでありますよ」
「命が一番惜しいんだよ」
「お供致しますから」
「それは止めろ」
「でしたら、後は万事このあきつ丸にお任せあれ」
「……不戦派にはどう対処する」
「なあに、昔取った杵柄。ただの『一発』あれば、嫌でも争いは始められるものでありますよ。由緒正しき陸の取り柄でもあります」
「楽しそうだね」
「は、そんなわけが無いでしょう。作り顔でありますよ。得意なもので」
「ロクでもなさそう」
「確かにロクなものじゃあございません」
不吉な部下は、素直に認めた。
「けれど、まあ、戦争なもので?」